2022年4月

目次

混血の国のペルーの秋日かな Feedback 合評を投稿

高野素十  

(こんけつのくにのペルーのあきひかな)

むべ解、あひる解の的確な鑑賞に教えられました。現地で色んな人と出会いつくづく混血の国であることを実感したのだと思う。この句の場合の「秋日」は、(混血の)肌にやきつくような残暑の日差しという雰囲気を醸している。

合評

月の王みまかりしより国亡ぶ Feedback 合評を投稿

高野素十  

(つきのおうみまかりしよりくにほろぶ)

倉田紘文氏の資料によれば、昭和38年3月末から5月中旬にかけての50日間、素十は南米へのたびに出ている。ロスアンゼルス、ニューヨーク、リオデジャネイロを経てブラジルへ。その帰路、ペルー、リマ市を訪れ、クスコ、マチュピチュ等のインカ帝国遺跡を見学したとある。「ペルー行」と前書きがあるこの句、おそらくマチュピチュ遺跡の月の神殿を詠んだ作品かと思われる。海外吟は、季語の斡旋が難しいといわれる。5月といえば日本の四季では夏であるが南半球の旅ゆえ秋の風情としてとらえてある。月の神殿を訪ねて往時の繁栄ぶりとやがて滅亡となるまでの歴史に思いを馳せて詠まれた作品だと思う。

合評

日々の是好日や秋茄子 Feedback

高野素十  

(にちにちのこれかうじつやあきなすび)

「日々是好日」は禅の言葉であるが、読み方は「にちにちこれこうじつ」が正しいとされる。この作品も禅の言葉と秋茄子を取り合わせることで「秋晴の好天」を連想させているところが憎い。さらにこの時期の秋茄子に来し方の一日一日を顧みてよしと納得しているのである。この句の場合の秋茄子は食しているのではなくて秋日に照らされてつややかに成っている畑のそれを見ての作かと思う。

合評

花びらを流るゝ雨や花菖蒲 Feedback

高野素十  

(はなびらをながるうあめやはなしやうぶ)

花菖蒲の大きな花びらの上を雨滴が筋をなして流れている。花びらの大きさも雨の降り具合も手に取るように目に見えて分る。うつぎ解にあるように花びらの大きな菖蒲の特徴がみごとに描かれてある。客観写生の真髄を教えられた感じの句である。

合評

落柿舎の二つの床几春の風 Feedback

高野素十  

(らくししやのふたつのしやうぎはるのかぜ)

落柿舎は何度も訪ねているが床几はお目にかかったことはない。この句が詠まれた当時はあったのかもしれないが私は、素十のフィクションのように感じた。いわずもがな二つの床几に座して対話しているのは芭蕉と庵主の去来だとすると「春の風」の季語があたたかい。芭蕉翁の長旅の疲れを癒やして寛いでもらいたいという庵主のもてなしの心が春の風なのである。

合評

水広き故のあやめの返り花 Feedback

高野素十  

(みずひろきゆゑのあやめのかへりばな)

季語としての返り花は、11月頃の小春日和に桜、梅、梨、躑躅などの草木が本来の季節とは異なって咲かせた花のことをいうのであるが、あやめが返り咲くというのは聞いたことがない。ただ、素十や細見綾子などに多くの作例がある。調べてみると「寒咲あやめ」といって晩秋から冬にかけて花を咲かせるあやめがあるらしい。おそらくこれを「寒あやめ」と詠まずに「あやめの返り花」として詠んだのではないかと思う。広い池なので冬に咲くものを植えた一屯がったのだと思う。花の少ないこの時期に咲くあやめはまた独特の風情があると思う。

合評

盃を重ねていよゝ花夕べ Feedback

高野素十  

(さかづきをかさねていよよはなゆふべ)

夜桜の宴を楽しもうという企画で、まだ全員集まっていない薄暮のころから呑みはじめていた。そうこうしているうちに日も落ちてさてこれから本格的な宴が始まろうとしているよということではないだろうか。「いよよ」の措辞は、「日が落ちていよいよ夕桜になったよ」という意味もあるが、「いよいよこれからが宴本番」の意も感じられる。

合評

冬の日のしばらく照らす我身かな Feedback

高野素十  

(ふゆのひのしばらくてらすわがみかな)

日向ぼこりというような冬日和ではなくてどちらかというと一面に冬雲が覆っている曇天ではないだろうか。屋外のベンチか何かに座して考え事をしていたのであるがふと気づくといつの間にか冬雲の切れ目から覗いた日差しが自分を抱擁するかのように照らしたのである。冬日の照らすしばらくの間、鬱な気分が和らいだということではないだろうか。

合評

何となく月の空ある庵かな Feedback

高野素十  

(なんとなくつきのそらあるいほりかな)

わざわざ構えてお月見をするでもなく、さりとて急ぐような用事もなくただ庵にあって何となく無為で孤独な時間を楽しんでいるのである。ふと気がつけば空には秋の月が上がっている。作者の感興としては秋思というのではなくて秋意の感じかと思う。

合評

枯蓮の茎の集まりゐるところ Feedback

高野素十  

(かれはすのくきのあつまりゐるところ)

枯れた蓮の茎が移動して集まるこということはないので粗密があって、その蜜な部分を見てあたかも集まっているような感興を覚えたのである。うつぎ解にあるようにまるで浄土のような花の状態に対してまるで修羅場のあとのような枯蓮のすがたは、現し世の栄枯盛衰を映しているようである。枯蓮の情景はよく擬人化されて詠まれることが多い。

合評

秋桑にとぶものは山烏かな Feedback

高野素十  

(あきくはにとぶものはやまがらすかな)

なんでもない写生句ですが確かな措辞の斡旋によって生活が見えてきます。桑畑があるということは養蚕、山烏が出てくるので山村の村だということがわかります。夏の忙しい時期が過ぎ、桑畑もやや疎になってきている感じです。桑の実は烏の大好物ですが、桑は4月から5月に開花し、その後に実をつけるので秋桑にはもう実はついていません。この烏はうつぎ解にあるようにかわかわとなきながら山の塒へとんでいるのでしょう。そこまで計算づくで素十さんがこの句を詠んだとは思えないのですが、嘘のない写生に徹していれば自ずと的確な結果になるのだということを学びたいですね。

合評

月明の手のひら萩の一枝のせ Feedback

高野素十  

(げつめいのてのひらはぎのひとえのせ)

月と団子がお月見の取り合せとしては一般的ですが、俳句や和歌の世界では「月と芒」「月と萩」が代表格です。したがって説明はありませんがお月見の宴での一興とみるのが正解と思います。萩の一枝をちぎって手のひらに載せたともとれますが、風狂人の所作としては、豊実解の「枝を下から持ち上げるように…」とみるほうが風情があると思います。

合評

稲光きくきくきくと長かりし Feedback

高野素十  

(いなびかりきくきくきくとながかりし)

いくら素十さんでもこんなにぴったりな擬態語を発明できるはずはないと思って広辞苑を調べました。

きくきく:物の節目などが折れ曲がっているさま

でも、 「きくきくきく」なのでことばとしての引用ではなく擬態語として使っています。知識に凭れるとよい俳句は詠めない…と口酸っぱく教えられたけど、このように発展的に引用するのは OKですね。句意は皆さんの合評で言い尽くされていると思います。

合評

枯枝のひつかかりゐる枯木かな Feedback

高野素十  

(かれえだのひつかかりゐるかれきかな)

みなさんの鑑賞を拝見して、素秀解が的確かと感じました。俳句で言うところの「枯木」は紛れもなく「裸木」のことであるが「枯枝」と言われるとどちらともとれるので紛らわしいが、「ひつかかる」と言われると風折れした細枝であろうかと私も思う。冬の烈風で枯木立どうしが相打ちあいそれによって折れた細枝が引っかかっている状況と思う。写生された時点では風も収まっていて静かな状況であるだけに荒々しい烈風禍との対比も想像される。

合評

かたまりて通る霧あり霧の中 Feedback

高野素十  

(かたまりてとをるきりありきりのなか)

霧は空気中の水蒸気が水滴となって空中に浮遊する現象ですが、季節によって春のそれは霞といい、秋を霧と区別します。実際は季節を問わず発生し梅雨の時期に出るのは「梅雨霧」、夏は発生するのは「夏霧」、秋のそれは「秋霧」ですが、通常「霧」といえば「秋霧」と指すのが俳句の約束です。

薄雲などが浮遊していると水蒸気を多く含むのでその部分は濃い霧になります。したがって揚句の霧は、高度のある山地の霧であろうことが想像できるのである。句の鑑賞についてはみなさんの合評で言い尽くされており補足の余地はありません。

合評

たらたらと星流れたる網戸かな Feedback

高野素十  

(たらたらとほしながれたるあみどかな)

網戸の外も漆黒の闇、また網戸の内側の部屋も無灯でくらいという設定でなければ、揚句の感じは再現できないと思う。流れ星の光跡が網戸の目をよぎるときややコマ送りのような現象が生じて、あたかも光の雫が流れ落ちたような錯覚があったのであろう。流れ星にも遅速があるそうで揚句のそれはやや低速の感じがします。幾筋か連続して流れた感じもありますね。一番早いのは「しし座流星群」で秒速71キロメートルだそうです。

合評

三人の斜めの顔や祭笛 Feedback

高野素十  

(さんにんのななめのかほやまつりぶえ)

これはやられましたね。横笛とは説明してないのに一読確信できます。音色や笛の吹き方の所作は揃っているのだけれど、微妙に異なる三人の面輪に興味が惹かれたのではないかと思う。

合評

湖の上の一炊煙や明易し Feedback

高野素十  

(うみのへのいちすいえんやあけやすし)

「湖の上の」の措辞をどうとらえるかがポイントでその結果として作者の立ち位置も関係してきます。ここは作者は陸、炊煙は湖に見える島だと見るのが無理のないところかと思います。幾筋も立ち上がっているのではなく一と筋ということで大勢の人が生活する島ではなく孤島に近い雰囲気ですね。夏の朝早く旅宿で目覚めた作者がみた窓景色の感じがあり、そんな早い時間から炊煙が立っているのを見て島人の生活ぶりに思いを馳せたのである。

合評

耕牛の一歩一歩の見守られ Feedback

高野素十  

(かうぎうのいつぽいつぽのみまもられ)

第三者が離れて見ているのでは句柄としては面白くない。うしろから大事がないように注意しながら見守っているのである。平坦な道ではなく荒れてぬかるんだ土に脚を取られたりするので一歩一歩を確認しながら進んでいる様子だと思う。同労者に対する優しい思いやりの気持ちも伝わってくる。

合評

日輪の上を流るる冬の水 Feedback

高野素十  

(にちりんのうへをながるるふゆのみず)

春の水でもいいのではと思うひともいるかもしれないですね。そうです、皆さんの解にあるように水量の少ない薄っぺらくてゆるやかな流れを説明する代わりに「冬の川」を選んだのです。冬はまた太陽も薄雲の暈をかぶっていたりして弱々しいです。まあるい太陽が鏡のように映っているというよりは貫けて水底に届いていて揺らいでいる。そしてその上を水が流れているという感じかなと思いました。

合評

尼さまの月の盃のせたる手 Feedback

高野素十  

(あまさまのつきのさかづきのせたるて)

「月の盃」は月見酒の盃の意ですが、なみなみとつかがれた盃に満月を写し込んでおつき様も一緒にぐっといただくというような興趣を楽しみます。 仏道を説き一滴のお酒も飲まないというような厳格な尼さまではなく俗の世界から身を引いて静かに仏門に生活しているそのような尼様を連想します。

うつぎ解にある祇王寺の高岡智照尼はまさに主人公としてぴったりですね。彼女は親に騙されて花街に売られましたが、新橋で美貌の人気芸妓になりました。芸妓時代に、情夫への義理立てに小指をつめたことで有名になりました。高浜虚子とも交友があったと聞くので、ひょとすると虚子に同行して祇王寺を訪ねたということも考えられます。

合評

端居して戒壇院に女あり Feedback

高野素十  

(はしゐしてかいだんいんにをんなあり)

Wikipedia によると、戒壇院(かいだんいん)は、福岡県太宰府市にある臨済宗の寺院。 奈良時代において、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設置された施設で、「筑紫戒壇院(ちくしかいだんいん)」とも称される、とある。また、奈良東大寺にも戒壇院があり、僧に戒を授ける建物と説明されている。

あらためて揚句を鑑賞してみると、太宰府市にあるそれかなと思いつく。僧尼になる前の一人の女性が、正式な修行を受ける前に端居して待機しているのであろう。端居という季語からは寛いだ雰囲気もあるがこれから戒律を受けようとするのにそのようなことはないと思うが、その端居姿にまだ俗気の抜けきらない「女」を感じたのではないかと思う。

合評

定まりし一つの心日脚のぶ Feedback

高野素十  

(さだまりしひとつのこころひあしのぶ)

素十俳句に関しては絶賛組と批判組との対比が極端である。水原秋桜子をはじめ、山口誓子など虚子門の高弟らはみな虚子の唱える客観写生、花鳥諷詠に飽き足らず自らの道を模索している。素十俳句を揶揄するのもまた彼らであった。そうした雑音には一切反論せず自らの信を貫き通した素十ではあるがそれなりの葛藤はあったであろう。俳誌「芹」創刊の挨拶にその決意が込められている。倉田紘文氏の著書からそれを引用して紹介します。

「之はどこからも、束縛を受けない、全く私一個の俳句雑誌」といい、「私は虚子先生から写生俳句を教えられ」た。「ただ一筋に写生するといふ教えを受け」「その通りに実行し、勉強して」来た。…

「俳句が季題といふものを尊重するものであるならば、俳句は自然の写生以外にない」「季題に制約された人事」もまた「自然の一部である」「俳句の指導者が大自然の心を忘れ、写生をおろそかにするとなれば、直ちに」「それらの俳句が安易平俗に堕する」と述べ、「俳句の道は ただ これ 写生。これ ただ写生」と説いた。

「芹」の創刊についてはさまざまの中傷や妨害があったらしい。素十はそのことを愉快とも苦々しいこととも眺めていたという。

揚句がこのタイミングで詠まれたものがどうかはわからないが、「定まりし一つのこころ」とはこのことではないだろうか。季語の「日脚のぶ」は、こころを決めるまでの葛藤の期間を暗示していると私は思う。

合評

七草のはじめの芹ぞめでたけれ Feedback

高野素十  

(ななくさのはじめのせりぞめでたけれ)

七草粥に箸をつけたらたまたま芹であったことにめでたさを感じたのである。みなさんの合評にある通り、芹から始まる七草の詩は有名で誰彼となく口ずさむ。「はじめの芹」は、その詩の冒頭にでてくる芹であるという意と真っ先に箸にかかったのが芹であったという両方の偶然に遭遇したことに対する縁起がよいというように感じためでたさかと思う。

合評

短夜の寺の浴みの二人づつ Feedback

高野素十  

(みじかよのてらのゆあみのふたりづつ)

短夜の季語は、「夏の短い夜」の意になるので「明易」と同等のと思う。したがってこの湯浴みは早朝だと思う。夜の修行を終えて慌ただしく二人づつ汗を流し、またすぐ次の修行が始まるというような慌ただしい雰囲気もあるように思う。ゆったりと湯船に浸るというよりは行水に近いような感じかと思う。

合評

本山の苗代寒に鐘をつく Feedback

高野素十  

(ほんざんのなはしろかんにかねをつく)

うつぎ解を読んでなるほどと思いました。昨今の稲作は機械化や分業化が進んですっかり様子が変わりましたが、この句の詠まれた頃にはまだ家々で苗代を準備したのでしょう。苗代時の寒さの中でも作業にいそしむお百姓さんたちへの労いの気持ちも込めて撞かれている鐘でしょう。地域と密接な関係を保っているお寺であろうことも伝わってきます。

合評

割れて二つ二つに水の月 Feedback

高野素十  

(わけられてふたつふたつにみずのつき)

この句は難解ですね。「分けられて」なら、人為的になりますが「割れて」なので偶発的な物理現象であることを暗示しているのかなと思います。 水の月は、水面に写った月だとすると「二つ二つ」なので合計四つの水の月ということになりますます混沌としますね。せいじ解の二つと二つの間に切れが存在するという解釈が正解な気がしています。つまり「割れて二つ」になり、その「二つに水の月」が写っているよ…

あひる解にある水汲場の情景と見るのも面白いと思いました。いちど組み上げた元水を小さい二つの桶に分けて入れたということですね。空らの桶には月は映っていないのですが、それぞれに水が分け入れられたことでそれぞれに月が映っているよ…というところですかね。

難しい…降参です。素十さんには失礼ながらみのる選なら没です(^o^)

合評

夫唱婦随婦唱夫随や冬籠 Feedback

高野素十  

(ふしやうふずいふしやうふずいやふゆごもり)

長い冬ごもりの生活が続くとついストレスがたまり些細なことでも喧嘩になりがちであるが、この夫婦は互いを尊敬しあって仲良く暮らしている。奥さんの方は亭主関白を受け入れるかのように振る舞い、夫のほうはまた、妻の意見を尊重しつつ和を保って暮らしているのである。熟年夫婦の感じでしょうか。

合評

大梅雨の茫茫と沼らしきもの Feedback

高野素十  

(おおつゆのばうばうとぬまらしきもの)

うつぎ解にあるように梅雨の大雨が降り続きて視界が烟てよく見えないのである。かろうじて沼らしい水面が見えるのであるが溢れるほどに水量が増えているらしく沼と陸地とのけじめも定かでないほどに危険なを覚えているようだ。災害にならなければいいが…という祈りも感じられる。

合評

片栗の一つの花の花盛り Feedback

高野素十  

(かたくりのひとつのはなのはなざかり)

みなさんの合評にあるように片栗は、一茎一花が特徴、うつぎ解にあるように、ひつだけぽつんと咲いているというのは想像しにくいので、一つの花(一茎一花)が群れ咲いて群落をなしているよ…というふうに受け止めるのが正解かと思う。一つだけで花盛りと形容するのは無理があると思う。

合評

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