2022年5月

目次

春水の平らか心平らかに Feedback 合評を投稿

高野素十  

(しゆんすいのたいらかこころたいらかに)

復刊「芹」以降の作品には、気遣いなく心象を読まれたものが多くなりました。「春水」という季語の本質から考えると自宅の庭の蹲の水とかではなくやはり外に出て春水と対峙している様子かと思う。復活の春への期待感、使命感はみなぎりつつも野心的なものは何もなく平常心なのである。倉田紘文氏の著書に興味深い一文があるので紹介しておきましょう。

徹底した客観写生、そして病中での悟覚、その深い境地を抜けた素十は、病後はその句の中に心情の表れが見えてきた。これまで抑えに抑え、絞りに絞ってきた純客観への気分が、予後の身の「懐旧」という柔らかなオブラートで包み込まれたのである。これは晩年の素十俳句の大きな傾向である。

《俳句と云っても、写生と云っても要するところ、その根本はその人の心によるものである。心の至らない句、又はその心持ちのでておらぬ句は良い句とは申し難いのである》

これが晩年の素十の俳句感である。

合評

しめてある二枚の障子新しき Feedback

高野素十  

(しめてあるにまいのしやうじあたらしき)

張替えられた新しい障子に気づいた発見の句なので、作者が毎日起き伏ししている部屋ではないように思うが、例によって一切説明されていないので連想するしかない。障子の張替えは時期は5年くらいだと言われているので、新しく張り替えられた障子を発見したときにその向こうになにかあらたな未知の展開が待っているかのように感じたのではないだろうか。障子は冬の季語であるが温かい冬の日差しがさしこんでいるような雰囲気もあるので、この作品からも作者自身の復活への意欲の表れを感じる。

合評

夏襟となりて面目一新す Feedback

高野素十  

(なつえりとなりてめんもくいつしんす)

自画像でしょうね。普段着として着物を着るという習慣がほとんどなくなった昨今では実感が薄い季語になりましたが、病後の作者は着物での生活が増えたのでしょう。大病後の高齢の身体には、春といえども冷えが大敵と養生しつつの生活であったが、衣替えして「よし、またがんばろう! 」と自分自身を鼓舞しているような気分だと思う。「面目」は世間の人に合わせる顔の意なので、リハビリ段階を一歩越えてまた活動をはじめたいという気分かもしれない。

合評

雪国の雪美しと女住む Feedback

高野素十  

(ゆきぐにのゆきうつくしとをんなすむ)

「芹」復刊後、昭和47年には神奈川県相模原市に移り住んでいる。小説仕立ての作品であるが多分北国に住む弟子の女性がお見舞いにやってきて色々話を交わす中で生まれ句ではないかと思う。色白の秋田美人を連想します。

合評

寒の空日々の日のありどころ Feedback

高野素十  

(かんのそらにちにちのひのありどころ)

闘病とリハビリとの生活に入ってはじめて迎えた冬です。お酒が好きで豪快な生き方の素十だったようですがリハビリ中はとても優等生で日に日に回復してく自身の体調を実感していたのでしょう。明日のことは心配せず復活を信じて日々を過ごしている様子が感じられます。

合評

月明の一人にして世に處せん Feedback

高野素十  

(げつめいのいちにんにしてよにしよせん)

素十の病状は順調に回復し翌46年には「芹」復刊の義が起こった。緑風子は「弟子のためにやるというなれば絶対に反対」と書き送ったが復刊第1号で素十は次のように言っている。

(緑風子から見れば) この芹の復刊は或いは短い命を更に短くする様な多忙さと心労さとの加重になると考えられるのであろう。しかし凡俗の身の私には時として物を云ってみたくなったり何かを書いてみたくなったり、又弟子達の云うことを聞いてみたくなったりすることがあるのである・・・今度悪くなれば流石の緑風子君も手の付けようがないのであろうが、これも宿命と思ってかんにんして貰いたい・・・

素十俳句研究も残すところ20数句。倉田高分子の著書には、「徹底した客観写生、そして病中での悟覚、その深い境地を抜けた素十は、病後はその句の中に心情の表れが見えてきた。これまで抑えに抑え、絞りに絞って来た純客観への気分が、予後の身の『懐旧』という柔らかなオブラートで包み込まれたのである。これは晩年の素十俳句の大きな傾向である」と記されている。

合評

藺帽子の主の曰く万事了 Feedback

高野素十  

(いぼうしのあるじのいはくばんじれう)

昭和45年5月、素十は山科の自宅で突然脳血栓を発病し京都日赤病院、7月からは門下田中緑風子の南知多病院でリハビリに入る。揚句は、俳誌「芹」45年8月号に発表されたもので発病数日後の作と見える。素十は藺帽子を愛用していたので自分自身を写生したのでは…とも思われるが定かではない。

「芹」は9月号をもって休刊、同号に「秋語」と題してつぎの一文がある。

虚子先生の何百分の一・・・それが虚子先生から私に伝わった全部であると思うのであるが・・・その全部を諸君に私意を交えずに、全部を伝え終わった感じである。私に残っているものは何もない。そう考えると私の心は満足であり、愉快である。

倉田紘文氏はその著書に「自分を自分で客観できる徹底した死生観、『私意を交えずに』虚子の教えを伝え終わったという清々しい満足感、これが77歳の高野素十であった」と感想を記している。

合評

下り簗一奔流のたのもしき Feedback

高野素十  

(くだりやないちほんりうのたのもしき)

当然ながら上り簗と下り簗は根本的に違うので同一視しないように注意が必要。下り梁は、秋に産卵を終えて川を下る魚を獲る仕掛けのことです。石などを積み川幅を狭めて流れを導いたところに、簀の子状の台を設置する。そこに掛かった「落鮎」「落鰻」「落鮒」などを捕獲する。吹き渡る秋風や、爽やかな川音が聞こえてくる季語ですね。「たのもしき」の素地は奔流の勢いを表現したものですが、簀の上で跳ねている魚の姿も連想させています。

合評

まつすぐに一を引くなる夏書かな Feedback

高野素十  

(まつすぐにいちをひくなるげがきかな)

少し意見が分かれましたね。夏書の習慣には詳しくないので自身はないのですが事前の練習場面を詠んだとすると季感が弱くなります。「まつすぐに一の字を書く」ではないので、経文の書き始めの一画を詠んだとするうつぎ解があたっているように思います。先祖供養のおごそかな気分が伝わってきます。

合評

雲と月ありていよいよ明るさよ Feedback

高野素十  

(くもとつきありていよいよあかるさよ)

月明かりを反射して輝いている薄衣のような秋の雲を連想しますね。一朶の雲もない無垢な秋空の月もいいですが、「雲あるゆえにさらに明るく感じる」という感覚は繊細です。

合評

中秋の大玉串を奉る Feedback

高野素十  

(ちゆうしうのおおたまぐしをたてまつる)

中秋とくれば確かに名月となりそうですが、揚句の場合は単に季を意味する季語であって月は出ていない昼間の儀式かと思います。中秋の名月といえば9月中旬ですが季感としての中秋は10月ごろまでをいいますので、時節柄うつぎ解にあるように収穫感謝の儀式でしょう。豊作を感謝して大きな玉串を神官が代表して奉納している様子と思います。そのあと続いて関係者が小ぶりな玉串を奉納します。大玉串は大豊作である喜びと感謝の大きさをイメージします。

合評

秋晴のみち遠かりし然れども Feedback

高野素十  

(あきばれのみちとおかりししかれそも)

長い道のりであるけれども爽やかな秋晴れの道をゆくのは気持ちがよいう…というのが直訳であろう。けれども皆さんの鑑賞にあるように人生の来し方をふりかえりつつまだまだ課題満載のこれからの長い道のりも頑張って進むしかないというなにか決意のようなものを感じますね。素十晩年の作品にはそうした含みのある句が増えてきた気がします。万年青年たらんと励んできた私もいよいよ老境という現実との戦いの中で共感を得る句が多い。

合評

四五人の僧の仰げる春の空 Feedback

高野素十  

(しごにんのそうのあふげるはるのそら)

たしかに複数の僧とう設定であることを考えると高僧ではなくてうつぎ解にあるような若い修行僧の雰囲気がありますね。「にさんにん」「さんよにん」「ろくしちにん」だといずれも字余りになってしまうので「しごにん」の措辞を選択したのだとすると作者の推敲の苦労がみえるようですね。一日の修行が終わってようやく寒さも緩み始めてほっと一息ついている夕刻の空の感じがありますね。

合評

あすしらぬみむろのやまの春を待つ Feedback

高野素十  

(あすしらぬみむろのやまのはるをまつ)

うつぎ解にあるように「本歌どり」といって典拠のしっかりした古歌(本歌)の一部を取って新たな歌を詠み、本歌を連想させて歌にふくらみをもたせるという技法があります。むべ解にある能因法師の歌が有名です。うつぎ解にあるように神が降臨してまつられている山。紅葉の名所である神奈備山(=今の奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町)や、「三輪山(みわやま)」であろうことを暗示させています。「あすしらぬ」の意はさまざまであるが、明日のことは神のみぞ知る…その神に委ねるしかないといような境地であろう。

合評

大いなる春といふもの来るべし Feedback

高野素十  

(おおいなるはるといふものきたるべし)

この作品も季語が動くか否かという視点で観察することでよき学びにつながると思う。夏、秋、冬と置き換えてみてもそれなりに意味はあり鑑賞できなくもない。なので「大いなる春」をどう解釈するかが課題となる。キリスト教的に解釈すれば「生命の復活の春」には特別の意味がありまさに「大いなる春」であるが、素十さんはクリスチャンではない。それを抜きに考えたとしてもむべ解やあひる解にあるように北国の人たちにとっての春は希望に満ちた大いなる春なのだと思う。春夏秋冬のあとまた新しい春がやってくるのは摂理であって紛れるということはない…という確信の「べし」である。

合評

第一義浮葉即ち平らかに Feedback

高野素十  

(だいいちぎうきはすなはちたいらかに)

「第一義」というような硬い言葉を句に詠み込まれたところに驚きを感じます。蓮浄土と言われるように浮葉と立葉が犇めく間から合掌のように蕾をあげ、やがて大輪の花となって開くその様はまさに浄土も斯くやという風情があります。どちらかというと動的な立葉と花に比べて浮葉は目立つことのないあくまで静的な存在であるが、静的な存在があるゆえに動的なものがより躍動して見えるのだと思う。しずかな蓮池の景に対峙しながら主役を支えている脇役の存在こそが最も大切であるということを教えられたのであろう。

合評

短日の海あることのやゝ淋し Feedback

高野素十  

(たんじつのうみあることのやゝさびし)

この句よくわかります。須磨近くに住むようになりよく海を見に行くようになった。おおかたは俳句を詠むためであるが、仕事や苦手な人間関係などの現実から逃避して無為な境地で静かな内海の風景を眺めていると不思議なように癒やされるのである。作者もまた同様であったのではないかと思う。青々として波を畳んでいた海は、日没に近づくと夕日を跳ねてまず金色に変わる。そして完全に日が沈んでしまうとやがてその輝きを失うのである。「寂しさよ」ではなく「やや寂し」としているのは、癒やされたという充実感もありつつそれが終わってしまったという寂しさであろう。

合評

帰去来はわが心にも夏の蝶 Feedback

高野素十  

(ききよらいはわがこころにもなつのてふ)

「帰去来はわが心にもあり」の「あり」が省略されているのだと思います。取り合わせの季語「夏の蝶」が動くのか動かないのかの判別がこの句の鑑賞どころになるかと思います。難しいですね。みなさんの合評を拝見しながら、作者は、盆帰省してふるさとの地にあって自由奔放に舞う蝶を見ているのではないかと連想してみました。いまは仕事に追われる毎日であるが、いずれは故郷に帰って余生を過ごしたいものだ…というような感興かと想像してみた。

合評

一といふ字人といふ字や筆始め Feedback

高野素十  

(いちといふじひとといふじやふではじめ)

素秀解、うつぎ解を読んで、「なるほど」と思いました。作者自身ともとれますが、せいじ解にあるような子どもたちの筆始めを写生したのかもしれないですね。教えられたとおりにとめ、はね、はらいに特に注意しながら真剣な表情で取り組んでいる子どもたちの姿も見えてきます。

合評

みちのくの短き夏の日の盛り Feedback

高野素十  

(みちのくのみじかきなつのひのさかり)

みなさんが触れておられるように「北国の夏は短い」という常識がこの句の背景にあることは間違いないと思います。ようするに地域の人達にとっては夏の暑さを託つというよりは、貴重な夏の期間を慈しみながら生活しておられるのではないだろうか。そのような夏の日盛りの中にあって「あっという間に夏は過ぎ去ってまた厳しい寒さの季節がやってくるんだろうな」という感慨が隠されているようにも感じます。

合評

書初めのうゐのおくやまけふこえて Feedback

高野素十  

(かきぞめのうゐのおくやまけふこえて)

みなさんの合評を拝見していていろんな感じ方があるのだなと感心しきりです。素十俳句の場合は小難しい意図や理屈が隠されていることはまずないと思うので、単純にひらがなで書初めをしたという意に私もとりました。例え方は適切ではないかもしれないですが、「書初めのあいうえおかきくけこ」というような感覚の作品だと思います。一般的に書初めといえば漢字だけとか漢字混じりでも短い言葉が多いと思うのですが、すべて平仮名で…というあたりはいかにも俳人らしい感覚ではないでしょうか。

合評

我去れば沛然と喜雨到るべし Feedback

高野素十  

(われさればはいぜんときういたるべし)

「べし」は、古語ですがとても短くて意味深いので、文字数に制約のある俳句ではとても便利な言葉です。うつぎ解にあるように「強い推量」の意で「きっと…に違いない」という意味になります。旱魃のぐちなどを話しあっていたところにちょうど暗雲が近づいてきたというようなシチュエイションが想像できます。「我去れば」のことばの意図を解読するのが難しいですが、雨が降りだすまでその場にとどまっていることが出来ない事情があったということでしょう。俳句らしくない「沛然」ということばも勉強になりますね。覚えておいて使いましょう。

合評

円涼し長方形も亦涼し Feedback

高野素十  

(ゑんすずしちやうはうけいもまたすずし)

円と長方形が一体何者なのかを説明していないところがにくいですね。そのために鑑賞する人の体験によって様々な連想が広がります。わたしなら多分「窓涼し」というふうに説明せずにはいられなかったでしょう。テーブルなのか庭の飛び石なのか、はたまた窓なのかはわからないですがこのような幾何学的な形態に涼しさを覚えるというのは科学者である素十さんならではの感性なんでしょうね。

合評

春雨や少し太りし筧水 Feedback

高野素十  

(はるさめやすこしふとりしかけひみづ)

「少し太りし」の措辞が平常時でもわずかに水が流れていることを暗示していてうまいです。更にこのことばは大雨ではなくそぼ降る程度の春雨であることをも想像させてくれます。春闌ともなれば清水の量も増えるのだと思いますが、冬の期間息も絶え絶えにやせ細ったものが春雨で息を吹き返した…という感じなので復活の春、つまり早春の雨のような気がします。

合評

身辺にものの少き大暑かな Feedback

高野素十  

(しんぺんにもののすくなきたいしよかな)

もし、みのる選ならこの句採れるかしら…と思ってしまいました。理屈でもなく説明でもなく「なんでもない身辺描写と季語との取り合わせの妙」を学ばされます。確かに冷房で暑さを凌ぐ現代の生活習慣では詠めない句ですね。みなさんの合評通り、あつくるしさを感じさせるものが周囲に何もないという広い空間を連想させているのがうまいです。

合評

月の空南に南十字星 Feedback

高野素十  

(つきのそらみなみにみなみじふじせい)

揚句もブラジル旅行の句と思う。南十字星は、オーストラリアのシドニーでは、高度65°に見え、ハワイでは10°程の高さに見えるという。沖縄の那覇でも水平線すれすれに見えるらしい。ブラジルは広いのでなんとも言えないが、ほぼシドニーと同程度のアングルで見えるのだと思う。

わざわざ「南に」としている意味を少し考えてみた。ブラジルの月は西や南から出る…ということはないと思うので、「月の空」で一度東の空を指し、やおら「南に」ということで天空の立体感を狙った句ではないかと思う。馴染みのない日本人にはよほどの星座通でないと自力で見つけるのは難しいと思うのでガイドの人に「あれが南十字星ですよ」と教えられたのではないだろうか。

合評

夏雲の下ミナス州ゴヤス州 Feedback

高野素十  

(なつぐものしたミナスしうゴヤスしう)

夏雲の下にミナス州が見えている、やがてそれはゴヤス州にさしかかったよ…ということだろうと思うのでやはり機窓から見下ろした景だと思う。 どのような種類の夏雲なのかにもよるが雲の切れ目から下界が見えているのだとするとまだ高度の低い状況ではないかとないと思うので、厚い積乱雲ではなくて秋雲に近い「涼しさ」を感じさせるような状況かもしれない。

ただ「ミナス州ゴヤス州」と畳み掛けているので、離陸直後の高度の低い状況ではなさそうで、実際に見えているのは夏雲であって下界の景は明確には見えていないのではないかとも思う。機長の案内アナウンスで飛行機が通過している場所がわかったのではないだろうか…と分析してみた。どちらにしても小さな日本の領土に比べてブラジルの国土の広さを感じさせる句である。

合評

黒人の子の黒人や秋の風 Feedback

高野素十  

(こくじんのこのこくじんやあきのかぜ)

この作品については倉田紘文氏の鑑賞文を引用しておきましょう。

「黒人の子の黒人」とは一見至極当たり前の内容に思える。しかし、「黒人の子の黒人や」と言われてみると、この「や」の一字の内にある詠嘆の深さというものを覗かずにはいられなくなる。同じ血筋でも白人のそれとでは悲しみの重さが異なる。ここではその悲しみを「宿命」と置き換えてもよかろう。人は誰もが何らかの宿命を背負って生きている。だが、生まれながらにして黒人の子であるというその悲しみは、とりわけ深くて重い。蕭条と吹きゆく秋風が殊さら肌に冷え冷えと感じられて、いよいよ愁いはつのるばかりである。

この素十の心の疼きは、何も黒人に対する同情でもなければ憐れみでもない。同情を超え憐れみを超えたところの、即ち「生」の根源に触れたその暗い嘆きなのである。人間が人間として他の一切を思いやる心の世界である。

素十はこうも書いている。「自然の姿、自然の変化、それ等に目をとめる写生というのはいい句をもたらすというだけではなく、人間を陶冶する」と。ここにきて、素十の写生の目的がわかるような気がする。

ちょと長い引用ですが深いですね。

合評

黒き髪黒き眼もちて夏木かげ Feedback

高野素十  

(くろきかみくろきめもちてなつきかげ)

「ブラジル」と前書きがあります。南半球の国ブラジルの夏は11~4月で基本的には蒸し暑いそうだが、素十さんが訪ねた4月は快適な頃ではないかと思う。日本でも高齢者の方が緑陰に集って将棋をしたり談笑を楽しんだりしている様子をよく見かけるが、それと似た風景ではないだろうか。うつぎ解にあるように移民初期の苦労を耐えしのいで頑張られた老人たちの姿も重なる。

合評

インカの子虹へ向かつて石を打つ Feedback

高野素十  

(インカのこにじへむかつていしをうつ)

石投げをしていたらたまたま虹が出てあたかも虹に向かって石を投げている…というのではなくて、何か信仰的ないわれがあるのかもしれないですね。 虹には希望につながる諸説も多いので、虹へ向かって石を投げると夢や希望が叶うというようなことではないかと思う。

合評

稲妻にインカの民は灯さず Feedback

高野素十  

(いなづまにインカのたみはひともさず)

稲妻は雷神の怒りで、灯りを消して怒りがおさまるまで祈って待つ…というような風習があるのでしょうね。雷光がひかりだすと突然みなが灯りを消しだしたのを見て不思議に思ったが、ガイドの説明を聞いて納得したのであろう。

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