2021年4月

目次

春眠や愁ひのかげをただよはせ Feedback

南上加代子  

(しゆんみんやうれひのかげをただよはすせ)

これは、第三者の写生のようです。普段は明るく振る舞い、周囲に気遣って愁いのかけらも見せない人なのではないだろうか。作者とは近しい関係のひとその生活ぶりや性格などもよく知っていて、作者にだけしか話さないような心の葛藤なども聞いているのではないだろうか。他者の目には、一見安らかに春眠しているようであっても、その表情にかすかに漂う愁いを作者は見逃さなかったのである。春眠している人への作者の優しい思いやりが伝わてくる。写生句でありながら作者の少主観がにじみ出る秀句である。「写生とは、主観を掌の内側に包み隠して見えている手の甲を詠むこと」とおっしゃた青畝師のことばを証するような作品だと思う。

合評
  • コロナ禍の今を詠んでいるかのようである。眠っている人が誰であるかはわからないが、眠っていても何か愁いを感じさせるような雰囲気があるのだろう。あるいは、作者の思いがその人に投影されているのかもしれない。 (せいじ)
  • 春眠は春の心地よい眠りですが、愁いの影が見えるとなると気持ち良く眠れていないようです。作者には愁いが見えたのかも知れません。 (素秀)
  • 春の心地よさに身を任せて眠っている老人をイメージしました。心には何となく疲れがありそうな。 (豊実)

人形はスイス生れや冬ごもり Feedback

南上加代子  

(にんぎようはスイスうまれやふゆごもり)

アニメのハイジで知られるスイスは、アルプスの美しい自然が魅力的な国、国土の標高が高い位置にあることから日中と朝夕の寒暖差が大きいといわれる。夏にハイキングや登山をしたり冬にスキーをしたり、一年を通して楽しめる観光国でもある。せいじ解にあるように作者はそのスイス生れの人形と対峙しながら楽しかったスイス旅行の思い出に浸っているのである。季語の「冬ごもり」には、早く暖かくなってまた楽しい旅に行きたい…という願望も込められている。

合評
  • 自分は寒さを避けて外出もせず家にこもっているが、この人形はスイスから遙々やってきたのだなあ。 (豊実)
  • 冬の寒い一日、家に籠りスイス製の人形をながめて無聊を慰めているのであろう。スイス旅行で記念に買った人形ならそのときの思い出に浸っているのかもしれない。ハワイ生れとかではなく「スイス生れ」であるところが「冬ごもり」とよくマッチしている。 (せいじ)

あかぎれや互に伴侶失ひて Feedback

南上加代子  

(あかぎれやたがひにはんりようしなひて)

季語の「あかぎれ」が登場人物の日常生活を代弁してるので、厨での水洗いや洗濯などであかぎれになりやすい主婦同士であることを連想させている。季語が「ああぎれ」でなければ、互いに伴侶に先立たれた男女であることも考えられるからである。なので季語の「あかぎれ」は動かないのである。お互いに励まし支えあって生活している親友であろう。

合評
  • お互い夫には先立たれもの同士、あかぎれが出来てしまっているのも同じだと。でも前向きに生きていこうとする明るさも感じられます。 (素秀)
  • 冬になると水仕事でいつもできるあかぎれであるが、夫を失くしてしまうと、この同じあかぎれがとても痛く寂しく感じられるよねと、お互いを慰めあっているように思われる。 (せいじ)
  • 女手一つで農作業や水仕事をする苦労はあるが、夫を失った女性どうし助け合って生きている。 (豊実)

太刀魚は銀の棒なり箱詰す Feedback

南上加代子  

(たちうおはぎんのぼうなりはこづめす)

箱詰す…と進行形になっているので、漁港の魚糴場か卸売市場での写生だと思う。太刀魚は鮮度を保つために水揚げしたらすぐに〆で発泡スチロールの箱に入れて氷詰にされるのであるが、太刀魚は長くて収まらない。そこで棒のようにのべて並べて尻尾のあたりで折り返して箱に収めるのを見たことがある。整然と並べて収めてあるのを見て棒のようだと感じたのは作者の少主観である。表現は、あくまで写生であるが「銀の棒」という措辞が的確なので句がいきいきしている。

合評
  • 箱詰めの太刀魚は冷凍物かもわかりません。整然と並ぶさまが銀の棒のようだと。 (素秀)
  • 朝糶であろうか、競り落とした太刀魚を箱詰めしている。太刀魚はまだ息をしているのかもしれないが動きを止めて秋の日に銀鱗をきらめかせている。「棒なり」と断定された太刀魚に哀愁を感じるのは感傷的過ぎるだろうか。 (せいじ)
  • 「銀の棒」という描写が単純明快で迫力があります。中七を「なり」で切ったのもうまいと思いました。箱が宝箱のようです。 (豊実)

登高やペンケパンケを指さして Feedback

南上加代子  

(とうこうやペンケパンケをゆびさして)

私も「ペンケパンケ」ははじめて知りました。検索で調べて納得です。「登高」はいうまでもなく、「重陽」の日の習慣をいう。重陽は陰暦 9 月 9 日にあたる。 菊の節句とも呼ばれ、かつては宴を設け作に菊の花を浮かせて飲んだりもしたそうだ。中国では「登高」といって、この日、丘などの高いところへ連れ立って登り、菊花の酒を飲めば災いが消えるという習慣があり、それが日本に伝わったのが「高きに登る」だとある。

昔、青畝師から、「登山」と「登高」は全く異なる季語であるから、詠むことに気をつけるようにと教わったことがある。「ペンケパンケ」はアイヌ語で、北海道の自然の地名には意外と多くの例が存在していますが、道民にも道外の人にも有名なのは、阿寒国立公園から望む「パンケトー・ペンケトー」でしょう 。アイヌの人たちの信仰にまつわる謂れもあるのでしょうね。展望のよい丘にきてガイドの指差す方を望みながら説明を聞いているのである。

合評
  • ペンケパンケ、これは初耳な言葉です。調べましたらアイヌ語で上下、場所としては上の湖下の湖となるようです。原生林の中で人が立ち入るところではないとのこと。これから登高するのでしょうか。はるか向こうの山並みを指さしているようにも思えます。 (素秀)
  • 北海道でハイキングをされたようですね。ペンケパンケはアイヌで上下の意味らしいので、景色の良い丘で眺めを楽しんでいるのでしょう。 (豊実)
  • 重陽の日に阿寒国立公園のペンケ湖とパンケ湖が見える高台に登ったのであろう。原生林に囲まれた湖水の神秘的な景色におのずから祈るような気持ちになったのではないだろうか。「指さして」が具体的であり、作者が実際にその場に立っていることを示している。 (せいじ)

まづ噛みて蝦夷のもろこしうまかりし Feedback

南上加代子  

(まづかみてえぞのもろこしうまかりし)

十数年前、仕事仲間と北海道にゴルフ旅行した時、予約してあったタクシー運転手がとても味の良いという評判の直売場で停めてくれた。価格も地元相場の半値でした。ダンボール箱一杯分に玉蜀黍とジャガイモ(男爵)を詰めて自宅へ送ってもらい美味しくいただきました。みなさんの合評どおり、北海道産の美味しさは聞いて知っていて、期待してがぶりついた最初の一口にそれを実感し納得したのである。

合評
  • 北海道産のトウモロコシが不味いはずは無いと食べてみたらやはり思った通りの美味しさだった。もろこしうまかりし、の韻を踏んでの強調。 (素秀)
  • スイートコーンの都道府県別収穫量は北海道が全国一位でシェアは 40%以上、甘さも格別らしい。そのような北海道のトウモロコシのうまさが一噛みしただけでわかった。単刀直入な「うまかりし」に素直な感動がよく表れされていると思う。 (せいじ) -うまいものにかぶりつきたい衝動を「まづ噛みて」と言ったのがうまいと思います。 (豊実)

ぜいたくな料紙をつかふ夏書かな Feedback

南上加代子  

(ぜいたくなりようしをつかふげがきかな)

加代子さんは書をされるので夏書の句が多いと青畝師の序文にもある。料紙については合評で触れられているように上質の和紙で写経、夏書などにも使われるという。平安文化華やかな日本で発展を続け現在につながる「かな書」必須の用紙である。作者も費用を支払って夏書のイベントに参加したのだと思う。普段は使ったことのない色彩ゆたかな優美な料紙であったことに驚いているのである。ただ私自身は体験がなくインターネットや人のお話を聞いて得る情報しかないので鑑賞は難しい。

合評
  • 納められた写経を見て、どれもこれも立派な料紙を使っているなぁと。自分のものが見劣りしないかとの心配もあるのかも知れません。 (素秀)
  • ぜいたくな料紙とは手漉きの和紙だと思いました。写経に気合いが入る感じがします。 (豊実)
  • 夏書とは安居の間に経文を書き写すこととのことだが、その写経用紙がぜいたくな紙であったと気付いたところが面白い。 (せいじ)

病人の倦む目となりぬ水中花 Feedback

南上加代子  

(びようにんのうむめとなりぬすいちゆうか)

水中花をまったく説明していないのに季語が動かないこの句から、「季語の本質」を活かして句を詠むことを学びたい。花の命には限度があるが水中花は造花であるからいつまでも咲き続ける。孤独な身辺を慰めてくれることもあるし、ときにため息のようなあぶくを吐いたりとかして鬱な気分を共有してくれているような親近感もある。上手に取り合わせると面白い句になる。揚句は、素秀解がもっともふさわしいと私も思う。長患いの闘病にやや疲れた気分を水中花に向かって訴えているような眼差しを感じる。<-mi

合評
  • 最初は慰められた水中花も長い闘病生活に次第に飽きがきたのでしょう。倦む目は水中花を見る目かと思います。 (素秀)
  • 病人はどうしてもうんざりとした目になるものである。そんなとき飾ってある水中花が目に留まった。とても涼しげで気持ちがよい。水中花によって倦んだ気分も吹っ飛んだのであろう。 (せいじ)
  • 病人が動くことができず退屈している。一方、水中花も動かないが、美しく風情がある。慌てずにゆっくりと回復してほしい。 (豊実)

借物の喪服をまとふ寒さかな Feedback

南上加代子  

(かりもののもふくをまとふさむさかな)

季語として「寒さ」を引用したことで、体感的なものに加えて心象的な思いも込められているところが巧みである。あらかじめ分っている葬儀ならば近くであれ遠方であれ自前の喪服を準備できたと思う。しかるに故郷の親族の危篤の知らせを受けて急ぎ帰省したが、やがて亡くなられたので引き続き葬儀になったというような状況ではないだろうか。親戚から借りたのか貸し衣装なのかはともかく、着慣れた自分のものでないので微妙な寸法の違いもあって落ち着かず寒々しく感じたのである。そして前述したように、「寒さ」には急逝された人を悼む哀しい気持ちも託されているのである。

合評
  • 貸し衣裳の喪服だけにいっそう寒さもつのるのでしょう。 (素秀)
  • 急なことで、喪服がなかった。借り物だけに体に馴染まず寒さが余計に感じられたのだろう。 (豊実)
  • 冬の葬儀である。外も寒いが喪失感に心も寒い。たまたま喪服が手許になかったのであろう、急きょ人から借りて葬儀に参列した。「借物」「まとふ」に、取る物も取り敢えず葬儀に駆け付けた感じがよく出ている。 (せいじ)

エレベーターなきアパートに花疲 Feedback

南上加代子  

(エレベーターなきアパートにはなづかれ)

お花見は気分も高揚し、ついついはしゃぎ過ぎてオーバワークになるので、帰路につくころにはどうしても疲れ果てて足が重くなる…という感じが季語の「花疲」の本意である。この句の詠まれたのは昭和48年、当時のアパートという表現でいえば木造の二階建か三階建であろう。ようやく我が家にたどり着いたのにまた階段をのぼらなくてはならないという気だるさを花疲の季語が代弁している。「エレベーターなき」は、説明のための言葉ではなくて、せいじ解にあるように「エレベーターがあったらなあ…」という願望を表現したものと鑑賞したい。

合評
  • 花見で疲れて帰ってきた、アパートの階段を上るのも今日は少し辛い。花見というハレから日常に帰る憂いも大いにありそうです。 (素秀)
  • 花見で疲れて、アパートの階段を上がる足が重い。エレベーターがあったらいいのになあ。 (豊実)
  • エレベーターのないアパートというのはおそらく四階建て。作者はその三階か四階に住んでいるのであろう。今日は花にも人にも陽気にも疲れてしまった。やっとのことで家の下までたどり着いたがさらに階段を上らなければならない。疲れがまたどっと出る。エレベーターがあったらなあとつくづく思う。「エレベーターなき」にリアリティーを感じる。 (せいじ)
  • 桜の花を見て帰宅したが、エレベーターのないアパートなので階段を上がるしかない。花見をしながら思った以上に歩いていたであろう、足は重くてだるくて、やっとのことで階段を上がる。「まさに花疲だな」という作者の心情がよく伝わってきます。 (なおこ)

法粥の湯気満つ庫裡や臘八会 Feedback

南上加代子  

(ほうじゅくのゆげみつくりやろうはちえ)

季語の臘八会は、お釈迦様のお悟りにならい、12月1日より8日まで毎年蠟八摂心会(ろうはつせっしんえ)を修行する。京都あたりの各お寺では観光行事として僧侶・参禅者と共に坐禅堂にて終日坐禅に親しみます。法粥は、「禅寺で朝食とするかゆ」とのことであるが、臘八会においては、成道会献粥諷経という行事があるようである。お釈迦様が菩提樹下にて悟りを開かれるまで八日間坐り続け、八日の朝『明けの明星』をご覧になられて悟りを開かれました。その後、お釈迦様がスジャータから乳粥を頂いたのが、成道会献粥諷経の起源とされています。禅宗では、乳粥は出せないので、代わりに小豆粥をお釈迦様にお供えして、その後修行僧も頂くという習慣があるようです。

揚句の場合、8日の最終日、おそらく観光客らにも振る舞われるのではないだろうかと思う。庫裡は、寺院における伽藍の一つで「食事を調える建物」という意味もあるので、この句の場合は、広い伽藍ではなく小さな寺院の厨房と考えて良い。「湯気が満つ」と表現されたことで、いよいよ法会の最終日という緊張感や活気も漲っている様子が伝わってくる。実際に体験していないと共感するのは難しい句かもしれない。

合評
  • 法粥は朝に食べる寺の粥、臘八会で人も多く庫裡も大忙しのようです。臘八会に食べる法粥は特別なものであるとも聞きます。 (素秀)
  • 私は臘八会を見たことはありませんが、お粥の湯気が漂う空気の中で食に感謝をし、悟りの境地を感じる雰囲気がうかがえます。 (豊実)
  • 四十数年前のことになるが西宮の海清寺という禅宗寺院で新入社員研修を受けたことを思い出す。作者は 12 月 8 日の法会に参加したのであろう。食事も法会の一環なのだと思うが、揃って朝粥を食べた。冬の寒い朝だから、湯気の出る暖かいお粥が格別ありがたく感じられたのではなかろうか。 (せいじ)

借りたるはバーのマッチや落葉焚く Feedback

南上加代子  

(かりたるはバーのマッチやおちばたく)

いくつか選択肢のある中からバーのマッチを選んで借りたのではなく、何気に貸してくれたマッチをふと見るとそれはバーの名前が記されたものであったという驚きを詠んだもの思われる。そして貸してくれた相手がとてもバーなどには縁のないと思われる人柄の人であったとするとその意外性が面白い。

合評
  • 思いを寄せている男性と落葉焚をしていたところ、男性が持っていたマッチがバーのマッチだったという場面を想像しました。 (豊実)
  • 落葉焚きが鎮守社などの行事とすれば、お宮とバーという聖俗の組合せが面白いし、家の庭の落葉焚きで夫からマッチを借りたとすればこれもまた面白い。作者はバーのマッチを貸してくれた人の顔をまじまじと見たのではあるまいか。そのような臨場感が伝わってくる。 (せいじ)
  • 落葉焚きの火を何でつけても良いだろうに、わざわざバーのマッチを借りたと言っています。借りたマッチがバーのマッチだったことに何かがありそうで、これは読者の想像にまかせるしかないのでしょうか。 (素秀)

あひにゆくこの髪恥づる野分かな Feedback

南上加代子  

(あひにゆくこのかみはづるのわきかな)

野分の中を無理してでも会いに行くということは、よほど会いたい相手、つまりは恋する人という感じがありますね。せっかくセットした髪も乱れてしまう。それぞれの合評にもあるように女性らしい心情がにじみ出ています。

合評
  • 乱れた髪を野分のせいにしていますが、今の髪型が気に入っていなかったようにも思えます。野分を幸いに言い訳のようです。 (素秀)
  • デートする前に強風で乱れた髪を気にしている。女性らしい一句だと思います。 (豊実)
  • 野分にもかかわらず会いに行く相手とは誰であろうか。風に乱れた髪が恥ずかしい。この髪を思うと本当にうらめしい野分であることよ。 (せいじ)

鈴虫の一壺を贈る見舞かな Feedback

南上加代子  

(すずむしのいつこをおくるみまひかな)

季語の「鈴虫」は初秋の季語になる。入院見舞いに虫かごなどの差し入れは多分ご法度なので、自宅への残暑見舞いというあたりの気分かと思う。広島の波出石品女さんのご主人が趣味で鈴虫の繁殖をされていて、私が帰省した折に「かつらぎ庵」へお届けするようにと託されたことがある。もちろん私が青畝先生のお宅を訪ねるための機会をとの配慮である。加代子さんと品女さんは大親友でおそらく加代子さんも品女を訪ねた折に託されたのではと思う。

虫の音をお見舞いに贈るというのはいかにも風流で俳人ならでは発想と思う。貰った方もまた送り主の優しい心遣いが嬉しく虫の音を聞きながら癒やされるのであろう。

合評
  • 何の見舞いかなと考えてしまいました。病気とかでも無さそうですしまだ暑さの残る地方への納涼の虫の音かなとも思えます。 (素秀)
  • 昔は鈴虫を壺や甕に入れて鳴き声が共鳴するのを楽しんだとのことであるが、私には経験がない。何とも風流な贈り物である。 (せいじ)
  • 私自身、子供のころ鈴虫をたくさん飼っていて、近所のおばあさんに鈴虫をガラス瓶に入れて差し上げたことを思い出しました。 (豊実)

眼帯の濡れてをりたる端居かな Feedback

南上加代子  

(がんたいのぬれてをりたるはしゐかな)

季語の「端居」がどのように働くのかと考えると難しい句ですね。暑いからといって汗で眼帯が濡れることはないような気がする。なにが原因で眼帯をかけているのかはわからないが、多分、涙が止まらないというような症状かと思う。うっとおしいけれども我慢して耐えるしかない。気分転換を図ってその辛さを紛らわすための端居ではないだろうか。

合評
  • 室内の暑さを避けて縁先で涼んでいるのだが、知らぬ間に眼帯が汗で濡れていることに気が付いたのであろう。眼帯の濡れによって夏の暑さを表現しているのだと思う。端居の涼しげな雰囲気と眼帯をつけているうっとうしさとの対比が面白い。 (せいじ)
  • 眼帯はものもらいか何かでしょうか。涼んではいるのですが汗で濡れてくるほどまだ暑いのか、日中の汗がまだ乾いていないのかと思われます。 (素秀)
  • 端居にはくつろいだ納涼のイメージがあるのに、なぜ眼帯が濡れているのだろう?喜びの涙か、それとも悲しい涙か?いずれにしても、端居で心を落ち着けようとしているのだろう。 (豊実)

汗の子の手習ひの墨とばしけり Feedback

南上加代子  

(あせのこのてならひのすみとばしけり)

わかりやすい句であるだけに、しっかりと季語の本質を捉えることを怠ってはいけない。やんちゃな子が手習いの最中にふざけて墨を飛ばしたのではなく、 素秀解の通り、書き上げた半紙を先生のところへ持っていこうとしたときに汗の手が触れたという状況ではないかと思う。それを叱責するのではなくて、がっかりしている生徒に、「大丈夫よ…」と優しく声をかける先生というあたたかみのある点景と読み取りたい。

合評
  • 真夏の習い事、子供らは汗も墨も散らしながら真剣にやっているようです。 (素秀)
  • はじめは汗の子を腕白坊主と想像したが、季節が夏であることを考えると、腕白坊主に限る必要はないのかもしれない。墨を飛ばすのは子どもの常であるが、特に夏は集中力が続かないのでよく起こるのであろう。暑い夏の習字教室の一風景が活写されている。 (せいじ)
  • 「草じらみつけてきし子や書を習ふ」と同じような場面。やんちゃ坊主が筆の墨を飛ばして座敷を汚してしまったようだ。 (豊実)

春の夜や門限きめず一人住む Feedback

南上加代子  

(はるのよやもんげんきめずひとりすむ)

春は、「春宵一刻直千金」と言われるように、春の夕から春の夜までの間の風情を詠むことが多い。日中の苦熱から開放され涼しさを中心とする「夏の宵」にくらべて、なにか色っぽい趣きがある。夜になってもなおつづくその気分を「春の夜」と詠んだ。さらに時刻が更けると「夜半の春」となる。それぞれに固有の趣が有るのでそれをくみとることが大事である。

両親と一緒に暮らしていた学生時代には厳しい門限があったのであろう。また、社会人となってからも会社の寮などで同様のルールがあったかもしれない。しかし今はひとり暮らしの住まいを得て気楽な生活を楽しんでいるのである。反面、少しさびしい孤独感も漂わせていて、「もうちょっと遅くなってもいいかな…」とお友達との春の夜を惜しんでいる様子を連想してみた。

合評
  • お子さんが進学か就職かで一人暮らしを始めることになったのでは。これからは門限の無い自由な暮らしが始まる、春の夜からもそう思えます。 (素秀)
  • 郷里を出て一人暮らしになった学生時代を思い出す。一人暮らしだから門限を決める必要もない。そのような生活が始まった春の夜、門限がなくても早く家に帰って一人の自由を満喫している。「門限きめず」がすべてを物語っている。ただ、そのような生活もしばらく経つと寂しさを感じるようになるのだが。 (せいじ)
  • 一人暮らしを始めたので、夜遅くなっても親からとやかく言われることもない。春の夜のほどよい暖かさの風情を味わっている。 (豊実)

鳥どうし虫どうし寄る涅槃かな Feedback

南上加代子  

(とりどうしむしどうしよるねはんかな)

涅槃図を前にしてどのように詠むかというのはとても良い訓練になる。かなり多くの作品が詠み尽くされているのでどうしても類想になりがちであるが、そうした条件下でなお心を無にして如何に新しい発見を見出すかということが試されるからである。釈迦本人と取りつき嘆いている人々や奇人らを写生する句が多いが、揚句では無表情な小動物たちが寄りあつまって居る様子に着眼したのである。感情表現を持たないこれらの小さい霊は、弱肉強食の世界に生をいとなむが、いまは互いに寄り添うことで釈迦入滅の悲しみを共有しているのだと作者は感じたのである。

合評
  • お釈迦様の入滅を悲しむ人や動物たち、鳥も虫もこの時ばかりは争いもせず寄り添っている。涅槃絵図を写生して仏法の教えを現わしているようです。 (素秀)
  • 涅槃と言えば中山寺の涅槃絵を思い出す。お釈迦さまを慕って鳥も虫もその死を嘆き悲しんでいる。絵に描かれているままにその姿を写生したのであろう。「どうし」の繰り返しにリズム感がある。 (せいじ)

書を習ふお喋り叱り日脚のぶ Feedback

南上加代子  

(しょをならふおしやべりしかりひあしのぶ)

また書道教室の句が出てきたので、加代子さん自身が子どもたちのための教室を営んでおられたのかもしれない。放課後からはじまり、夕食の時間までには終わって家へ帰らせなければならないのであるが、日が永くなって少し気分が緩んでいる気分が伝わってくる。叱り方も頭ごなしの一喝ではなくて、「これこれ…」という具合にやさしい長閑な感じである。前にも書いたように、「日脚のぶ」というような感覚的な季語は、得てして「…だから日脚のぶ」という説明句になりがちであるが、具体的な情景を写生して取り合わせることで活きてくるのである。

合評
  • 冬至を過ぎると、一日一日と日が伸びる。叱られる子供も一日一日と成長していく。 (豊実)
  • 春が近くなり日の暮れるのが遅くなってきたので、習字を習っている子どもたちは外で遊びたくてうずうずしている。習字に集中できずお喋りを始めた子どもたちが先生に叱られてしゅんとなっている様子までも見えるようである。 (せいじ)
  • 先の習字の句に続いているのかと。子供たちのお喋りを叱るのは作者のようで、やはり教えていたのかなと思われます。 (素秀)

角ごとにさくら草おく画廊かな Feedback

南上加代子  

(かどごとにさくらさうおくがろうかな)

桜草という名前は、「我国は草もさくらを咲きにけり」と小林一茶の俳句にあるように、花の形がサクラ(桜)の花に似ているところから由来する。 最近は園芸種が増えて、プリムラと言われたほうがピンとくるが、プランターなどに群生させると風情がある。この句、情景はよくわかるがなぜさくら草なのかと考えると難しい。薔薇でもいいのではないかと穿ってみたりするけれど、よく考えると画廊の主役は絵画であってコーナーの空間を飾る鉢物は脇役でなくてはならない。薔薇とかのような豪華な花ではいけないのだと思う。素秀解を読んで納得させられたが、ごちそうなどを味見するときに品代わりの度に水を呑んで味覚をリセットするように、そうした主催者の意図も感じられる。

合評
  • 結構広い画廊なのかもわかりません。展示の趣向が変わる所に鉢植えで気分を変えるのかも。春の気分も満点です。 (素秀)
  • 角ごとにさくら草をおいている画廊とは、主催者のおもてなしの心が伝わってきます。ゆっくりと鑑賞することができます。 (なおこ)
  • 回廊式に絵の展示をしているのだろうか。曲がる角ごとにさくら草の鉢を配するという画廊運営者の春らしさの演出が心憎いばかりである。平仮名と漢字のバランスがよく目に心地よい。 (せいじ)
  • 画廊なので室内ですね。鉢植えのさくら草が壁の絵画の傍らに置かれ、柔らかな雰囲気で絵画を鑑賞しています。 (豊実)

病人にバレンタインの薔薇挿され Feedback

南上加代子  

(びようにんにバレンタインのばらさされ)

完全な気重なりの句ですね(^o^)

でも冷静に鑑賞すればバレンタインが主季語であることは分かります。ちょっと難しいですかね。以前にも書いたことがあるかもしれませんが、加代子さんの大親友が波出石品女さんです。品女さんは結婚されて広島の人になられましたが、それまでは兵庫県立病院のナースでした。ということでこの句は品女さんとの関わりの中から生まれた作品だと思われます。

入院患者から薔薇をプレゼントされたナースかもしくはドクターではないだろうか。ただ、ナースの場合は患者との個人的な関わりの節度について厳しく教育されているので、素秀解のとおり私も女性の入院患者と主治医の男性ドクターとの所作のように連想してみました。白衣の襟に挿された薔薇は目立ちますね。ドクターも勲章より嬉しかったことでしょう。もちろん絶対正解はありませんから、連想は自由に広げていいのです。

合評
  • あまりに客観写生なので、作者が当事者ではないように感じました。照れくさすぎて、他人事のように詠まれたのでしょうか?バレンタインに薔薇の花を贈るということなので、赤い薔薇だと思いました。季語はバレンタインですが、薔薇は五月の季語ですね?考えれば考えるほど分からない句ですが、句会であれば私も頂くだろうと思いました。まるで映画のワンシーンのようです。 (なおこ)
  • バレンタインは女性からはチョコレート、男性からは薔薇の花を送るのではないでしょうか、日本ではチョコの方が目立っていますが。お見舞いも兼ねた薔薇の花のプレゼントなのでしょう。 (素秀)
  • 場面を想像するのが難しいが、バレンタインデーはもともと愛する人に贈り物をする日だから、女性から男性へという日本の習慣とは関係なく、女性である作者が夫からプレゼントされたときのことを詠んだのではないかと考えた。夫はその時たまたま軽い病気でもしていたので、外に買いに行くのではなく庭にある薔薇を摘んできて、花瓶に挿すとかではなく、妻の髪に挿したのであろう。「挿され」に無理やりされた感があり、そこにまた喜びを感じている。 (せいじ)
  • 自分が患っていても人を愛する心を忘れないことは大切。早く元気になりますように! (豊実)

総立ちの鴨おどろきししぶきかな Feedback

南上加代子  

(そうだちのかもおどろきししぶきかな)

「総立ち」は原句のままであるが、「総翔ち」の意と理解して良いと思う。鴨はお尻が大きく重いので一般的な水鳥のように瞬時に水から飛び立つことはできない。助走するようにしぶきを立てて水面を駈けながら低く飛び立つのが鴨の特徴である。なので、一陣の鴨が一斉に飛び立つときには何事が起こったのかと思うほど激しく水しぶきがあがる。そうした鴨の特徴をしっかり捉えているので季語が動かないのである。総立ちの…鴨の代わりに、鶴、鷺、鳰などと入れ替えてみても実感として連想できないことを確認できる。季語が動かないように写生することの大切さを学び取りたい。

合評
  • 予期せぬ人に驚いた水面の鴨が羽音としぶきをあげ一斉に飛び立ったのを詠まれたのでしょう。鴨も驚いての行動でしょうが不意を突かれた作者の驚きも想像できます。 (うつぎ)
  • 浅瀬に立っていた多くの鴨が驚いてしぶきをあげたのでしょう。水面から飛び立つ時にしぶきが立つのは当たり前ですが、浅瀬でもしぶきが立つということはかなり驚いたのでしょう。 (豊実)
  • 驚いて総立ちししぶきを上げるという鴨の一連の動きを、「おどろきししぶき」と、原因としての驚きと結果としてのしぶきを繋げることによって、どちらが先ともいえない一瞬の出来事として表現しているのではないかと思った。不意を衝かれた作者の驚きも含意されているのかもしれない。 (せいじ)
  • 今日から昭和47年の作品です。

弁当を少し残せし風邪心地 Feedback

南上加代子  

(べんとうをすこしのこせしかぜここち)

「風邪心地」と結んでいるのでやはり一人称の自画像と見るべきであろう。コロナではなくとも風邪の症状などがあると味覚も怪しくなり食欲も減退する。いつもなら美味しくいただけるお弁当なのに風邪気味の今日は食べきれずに残してしまったのである。「残しし」とするところを「残せし」としている点についてせいじ解の疑問は当然である。ただこれに関しては、俳句や短歌の世界では、ごく常套的な用法として多くの例があり、私も又あまり気にせずに使っている。ここに書くと長くなるので、この件に触れた記事のリンクを貼っておきます。

合評
  • 子供の弁当が残っていて風邪だろうかと心配しているのかも。 (素秀)
  • 弁当を少し残してしまったことよ、何故だろう、風邪気味だからかなと、弁当を残さざるを得なくなった瞬間を自問自答していて面白い。質問:「残す」はサ変ではなく四段活用なので、文法的には「残しし」または「残せる」が正しいのではないかと愚考しますが、「残せし」といういい方もあるのでしょうか? (せいじ)

草じらみつけてきし子や書を習ふ Feedback

南上加代子  

(くさじらみつけてきしこやしよをならふ)

南上加代子句集紹介のページ紹介しているように加代子さんの書は師範級の腕前である。自宅で書道教室を開いておられたかどうかはわからないが、そうした場所での x 聖句である。現在は、受験のための学習塾中心の社会になってしまったが、この句の詠まれた時代は、子どもたちの意思とは無関係に親が書やソロバン塾に通わせた。私にも経験があるが、まだまだ遊びたい気持ちを渋々切り替えて塾に通ったものである。この句に描かれている子供の姿が昔の自分と重なってなつかしい。

合評
  • 野に遊ぶ子達も書を習うときは神妙に正座をして取り組んでいる、まことに宜しいことだと。作者が我が子に教えているのかとも思えます。 (素秀)
  • 今まで山か野原で遊んでいた腕白坊主が神妙に習字をしているところが可愛らしい。 (せいじ)
  • さっきまで草むらではしゃいで遊んでいた子が、今、静かに座って書を学んでいる。健やかに成長する子の様子が感じられます。 (豊実)

綺羅の灯の湾をふちどる良夜かな Feedback

南上加代子  

(きらのひのわんをふちどるりようやかな)

湾をふちどるということは、大阪湾のような大景かもしくは入江になっているところでしょう。どちらにしても俯瞰で見えるようなアングルだと思うので作者の位置は、ホテルなどの高階かもしくは山上のような感じがする。真正面に満月を仰ぎ、灯に縁取られた湾は俯瞰の視野に展けてある風景を連想する。「綺羅の灯」といっているので、か細い町明かりではなく、湾沿いにつらなるコンビナートの煌々とした光源のようにも想像できる。細々とした詳細を一切のべずに絵画的に表現した省略の巧みさを見習いたい。

合評
  • 港湾を囲う街の灯と満月、絵画のようです。 (素秀)
  • 作者は湾を見下ろす小高い丘の上にいるのだろうか、それとも湾内の船の上にいるのだろうか。よく晴れわたった夜、湾に面した家々の灯りがきらきらと瞬いている。一方、上空の仲秋の名月は瞬きもせず皓皓と遍く世界を照らしている。家々の灯りが瞬いて名月に応答しているかのようである。 (せいじ)

釣堀の人ら無口に居ならびぬ Feedback

南上加代子  

(つりぼりのひとらむくちにいならびぬ)

釣堀は一年中営業しているが、季節感から俳句では夏の季語として詠まれている。

騒ぐとひとの気配を感じて魚が寄り付かなくなるので静かに竿をのべるのが釣人のマナーである。普通の釣針は魚が暴れても外れにくいように針先に返しがついているが、釣堀用のそれは魚の口を傷めないように返しのないものを使う。釣堀の多くは釣り上げた魚は最後にリリースと言って再放流するからである。従って針にかかったとしてもよほど上手な竿さばきをして取り込まなければ逃げられてしまう。斯くしてヘラブナ釣は釣の真髄と呼ばれるゆえんである。最もここに通う人たちは釣果よりも日常の雑念から開放されて孤独な時間を愉しむという感覚ではないかと思う。

養殖の魚を生簀にいれて釣らす海釣公園や、観光地にある鱒や山女などを放流したそれは、女性や子供でも簡単に釣れるが、本物の釣師たちが通う鮒専門の釣堀は、魚との騙しあいで高度なテクニックを必要とする。そういう事情があるので、必然的にこの句のような情景になるのである。そのような事情を詳しく知らない作者は、もっと賑やかな場所なのかと想像して来たのにあまりに異なる状況に驚きと戸惑いを覚えているのである。

合評
  • 静かに釣り堀に並ぶ人達が滑稽に見えたのかも知れません。隣で釣れたからと言って喜び合うわけでもなく淡々と釣り糸を見つめる人たち、何が面白いのだろうと思ったのではないでしょうか。 (素秀)
  • 釣り堀は釣り好きの人だけの為ではない様な気がします。都会の中で、のんびりと浮世を忘れて、物思いにふける、その様な情景でもあるのでしょう。 (もとこ)
  • 加代子さんご自身は釣りはしないのだと思います。釣りをしない女性からすると、黙ってじっとしている釣り人たちには近寄りがたいのだろうと思いました。 (豊実)
  • 太公望が並んで座っているが互いに話すこともない。釣りそのものを楽しんでいるのであろう。夏の強い日差しの中、釣堀に静かな時が流れている。蝉の声も聞こえてきそうだ。これらの釣人の中に世に出る人がいるかもしれない。 (せいじ)

春愁や丸めたる反古裂きし反古 Feedback

南上加代子  

(しゆんしゆうやまるめたるほごさきしほご)

加代子さんは書を嗜まれるので、依頼されたかもしくは締切期限の迫っている課題に対しておられたのだと思う。うつぎ解にあるとおりどうにも気乗りがせず、納得した成果品が生まれないので次々と机辺に反古が乱帙するのである。春愁の直接原因は説明せず、具体的な行動を写生することでその気分を表現しているところが非凡である。得てして「なになに(原因)だから春愁(結果)だ」という構成の句になりがちであるが、たいていは陳腐な説明句に終りがちである。こうしたテクニックは知識で身につくものではなく、たゆまぬ写生訓練によって成しうるものであることを学びたい。

合評
  • のどかな春だからこそ、掴みどころのない愁いが際立つのでしょうか。丸める、裂くという言葉がいらただしい気分を現している様です。 (もとこ)
  • 書いても書いてもうまくいかない。気乗りがしていないのだ。丸めたり、裂いたり春愁の鬱屈した気分がよく出ている。でもこの切れのいい俳句には感服します。 (うつぎ)
  • 反古を約束事を無かった事にすると考えて、丸めたり引き裂いたりされたなら中々憂鬱な事があったとも取れます。 (素秀)
  • いつもなら書き損じた紙を丸めたり裂いたりはしないのだが、春の何となく気がふさいで物憂い思いがそうさせたのだと作者は主張しているのではないだろうか。はっきりとした理由がないところに秋思との違いがあるのだと思う。 (せいじ)
  • 書き損ないの内容や程度によって、紙を丸めたり、破ったりする。春愁の心情が表れている。 (豊実)

フラスコに大きくうつる薔薇の棘 Feedback

南上加代子  

(フラスコにおおきくうつるばらのとげ)

「うつる」という表現を使っているので、フラスコと並んで花瓶に活けられた薔薇が鏡映りしてその棘が大きく見えたというシチュエーションかもと連想してみたがやはり無理があると気づいた。やはり、せいじ解、素秀解のとおりフラスコを花瓶代わりにしている情景と見るほうが自然である。フラスコは底の部分が球体になったものと末広に広がったものとがあるが、どちらも水を入れるとレンズ効果で中のものが拡大されて見える。なんでもない情景であるが幼子のような好奇心で観察しなければ見逃してしまう句だと思う。無機質な機材の並ぶ科学実験室の窓辺にフラスコを花瓶代わりにして活けてある薔薇は一服の清涼感を醸しており、油絵の素材になりそうな点景でもある。

合評
  • フラスコに薔薇の花が活けてある。フラスコは口が狭いから一輪挿しではないだろうか。ガラス製だから陶器製の花瓶だったら隠れて見えない茎の部分が透けて見える。特に水面下にある棘たちが拡大されてよく見える。まるで科学実験をしているようだ。目の付け所が面白い。 (せいじ)
  • フラスコを花瓶代わりにしていたのかと。ガラスのフラスコの肩のあたりに薔薇の茎と棘が映っている。丸いフラスコなら実際より大きく広がって映るだろうと思います。 (素秀)

ふぶくさますさまじからん大桜 Feedback

南上加代子  

(ふぶくさますさまじからんおおざくら)

うち仰ぐほどの満開の大桜なのでしょう。今は万朶に花を咲かせてあたりを払うほど泰然とした姿を見せているのである。やがてピークを過ぎ花吹雪となったときはさぞ凄まじい情景あろうことよと連想している。できるならそのような状況のときにもういちど見てみたいものだという願望も隠されている。合評にもあるように、俳句の鑑賞は、音律というか詩としての響き、漢字やひらがななの文字の選択によって随分と印象が変わる。わざわざ読みにくい難しい漢字をあてることが高尚だと勘違いする人もあるが、上手に仮名をあてることも上級者のテクニックである。

合評
  • かなの一字一字が花びらに、大桜の漢字が幹や枝に見えてくる。これだけの桜大樹、花吹雪はさぞ美しいだろう同時に恐ろしいとまで感じることだろう。それだけ咲き満ちていることよ。と鑑賞しました。 (うつぎ) -
  • ひらがなが良いです。並びが花びらの舞のように見えます。 (素秀)
  • 桜大樹の花吹雪の凄まじいばかりの美しさを婉曲に表現している。平仮名の一文字一文字が一片の花びらのようだ。 (せいじ)
  • 強風に吹かれた大桜。大桜だけに散りざまに迫力がある。一方で、ひらがな表記で桜のやさしさが感じられます。 (豊実)

横丁をふいにをけら火とび出しぬ Feedback

南上加代子  

(よこちようをふいにをけらびとびだしぬ)

白朮詣(をけらまゐり)という季語がある。元日、京都祇園の八坂神社で行われる神事で、社前に焚く篝火から吉兆縄に火を移し、その白朮火を家に持ち帰って雑煮を煮る火種にするという慣習である。参詣帰りの人々が火縄が消えないようにぐるぐると回しながら行き交う中に京の町は新年を迎えるという風情。作者は初詣を兼ねて元日の古都を吟行していたのであろう。

電車や車で持ち帰るのは難しいと思うので、おそらく縁起を大事にする地元の玄人筋のような気がする。火縄が消えないうちに帰宅しなければならないので、大通りの人出を避けて近道を迂回したために横丁から飛びだすというような状況になったのではないだろうか。大通りの人波をのんびりと歩いていた作者は、突然飛び出してきて急ぎ足で去っていく白朮火の様子に驚いたのである。

合評
  • 神様から頂いた火縄の火を持った人が横町にふと現れた。加代子さんもをけら詣りの途中なんでしょうか? (豊実)
  • 火種を持って急ぐ人。人出、喧噪も含めた一瞬の描写です。 (素秀)
  • 八坂神社でもらったおけら火を回しながら歩いている人が横丁から不意に飛び出してきてぶつかりそうになった。おけら火が先に見えたのであろう。正月の祇園四条界隈の賑わいを感じるが、ぶつかりそうになったのは自分のせいではないかのような言い草が面白い。 (せいじ)

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