2021年10月

目次

馬鈴薯の花にサイロの遥かなる Feedback

南上加代子  

(ばれいしよのはなにサイロのはるかなる)

北海道の馬鈴薯は全国シェアの 8 割を占めるそうでサイロがあるということは酪農地なので揚句は北海道の景と見るのが自然でしょうね。「遥かなる」の措辞によって起伏野をなす広大な馬鈴薯畑の更に向こうに牧場のサイロが見えるというのである。ヨーロッパあたりでもこのような景色が見られそうだが、くどくどと説明せずに大景を詠むというよいお手本かと思う。

合評
  • 馬鈴薯の花が夏の季語。馬鈴薯の花と遥かに見えるサイロを詠んだだけで、北海道の夏の農場、おそらく起伏野であろう、がイメージできる。ここまでするのには遥かな歳月がかかったことであろう。 (せいじ)
  • ジャガイモの花の咲く初夏の頃。遥かかなたにサイロが見えるとありますので広い畑が目に浮かびます。これはもう北海道しかないでしょう。 (素秀)
  • 場所は北海道で、サイロは牛の飼料の貯蔵蔵かと思います。白い花が咲いた広大な馬鈴薯畑の風景で、さらに遠くには放牧の牛も見えていそうです。 (豊実)

夏の炉は立ち消えしまま熊を彫る Feedback

南上加代子  

(なつのろはたちきえしままくまをほる)

素秀解にあるように蝦夷地の原住民アイヌの人たちの生活を訪ねて写生されたのではないかと思う。初夏とは云え極寒の地ではまだまだ朝夕の冷えが残っており夏炉が焚かれている。作業場を訪ねた作者はふと寒さを覚えて炉に目を移したところ立ち消え状態になっていたのである。家主は集中して黙々と作業を続けておられてそのことに気がついていないのである。気骨たくましく寡黙な家主の表情や風体も見えてくるようである。

合評
  • 北海道の羆の木彫りかと思います。夏でも少し肌寒ければ炉に火も入るのではないでしょうか。朝に入れた炉の火も昼を過ぎたころには消えてしまっているようです。 (素秀)
  • 夏炉が夏の季語。夏炉のある山の宿坊のようなところであろうか。もう火をくべる必要もないほどの気候になったのか、それとも単に面倒くさいだけなのか、火が消えてしまったままにして、熊彫りに熱中している。人が来てもちらっと見るだけの、初老の無口な職人肌の主人をイメージした。 (せいじ)
  • 炉の火が消えてしまったのも気づかずに、山小屋の主が木彫りの熊作りに没頭している。客に気づいた主はまた火をおこし、その火を囲みながら客と語り合う。 (豊実)
  • 加代子句集残り少なくなりました。12月上旬で終わります。

貝風鈴南の海を恋ひて鳴る Feedback

南上加代子  

(かひふうりんみなみのうみをこひてなる)

誰かにもらった旅土産であることも考えられるが、作者自身が南国の旅土産として買ってきた風鈴だと思いたい。風鈴自体が母国の海を恋しいと鳴っていると擬人的に詠まれているが、その音色を聞きながら作者自身が楽しかった南国の旅を懐かしんでいるように想像できるからである。亡くなられたご主人と一緒の旅であったかも知れない。

合評
  • 貝の風鈴の音色に海を思う作者です。旅の土産の風鈴かも知れません。 (素秀)
  • 貝風鈴が夏の季語。沖縄などの南の島の貝殻で作られた風鈴を部屋に飾り、その涼しげな美しい音色を楽しんでいる。貝風鈴になぞらえて、作者本人の故郷への思いを表しているようにも感じる。 (せいじ)
  • 綺麗な貝殻が触れ合って軽やかで涼しげな音色をだす風鈴。その綺麗な貝殻は遠い南の海からやってきた。作者はその海へ憧れている。 (豊実)

開会の五分前なり扇閉ず Feedback

南上加代子  

(へいかいのごふんまへなりあふぎとず)

音楽コンサートかはたまた演劇かはともかく、かなり格調の高いイベントであろうことが伝わってきます。「開会五分前になりました。・・・」と注意をうながすようなアナウンスが流れて、それまでは雑談などでざわついていた場内が俄に静かになる瞬間を捉えた作品だと思う。素秀解にあるような緊張感も感じますね。些細な一点景をとらえているだけなのにいろいろ連想が広がる秀句と思う。

合評
  • 開会とだけあるので何の開会式だとしても緊張感は伝わります。扇子をパタパタさせる雰囲気では無いのでしょう。 (素秀)
  • クラシックコンサートの開演5分前を想像しました。扇を閉じて、静かな緊張感が高まっています。 (豊実)
  • 扇が夏の季語。開演ではなく開会であるから、観劇のような娯楽的なものではなく、来賓式辞のようなものがある立派な開会式ではないであろうか。開会前は暑くてみんな扇子を使っていたが、開会 5 分前になってアナウンスでもあったのか、会場一斉に扇子を片付けたのであろう。偉い人が登壇するのでもあったのだろう。 (せいじ)

折帳の折目々々も夏書かな Feedback

南上加代子  

(をりてふのをりめをりめもげがきかな)

お経の本は最初から折りたたんで携帯する前提で作られています。私も詳しくは知らないがネットで調べた限りでは、経本のように折りたたまれた写経折本というのもあるようだが、普通は巻紙に書いたものをお寺に収めるときに折りたたみ、奉書紙で作ったカバーに納経料とともに入れておさめるという。正式な折り方というのはないそうで、お坊さんの折りたたみ方として写真付きで紹介されていたのを見ると賞状筒に入るくらいにまるめて、それをペタッと潰すという。

最初から折目がついてあれば、わざわざその上に字は書かないと思うので、揚句の場合はあとからついた折目だと思われる。経験のない私には状況がいまいち想像し難いのであるが、折目のついた夏書を改めて広げて眺めているのかなと思う。

合評
  • 折帳とは蛇腹に追った経本のようなものです。広げれば折り目の文字も読めるとは思いますがそんなに詰めて書いたのでしょうか。折り目の数だけ修行があるのだなあ、と読んだら良いのかとも思います。 (素秀)
  • 折帳の折目に跨がってびっしりと経文が書かれている。修行するにも昔は紙が貴重だったのかなあと思いました。 (豊実)
  • 夏書が夏の季語。手作りであろうか、和紙を折って綴じた折帳に夏書をしたためた。折り目折り目には字は書かれていないが、それらの余白を含めて折帳全体が夏書であるということだろうか。 (せいじ)

楽器鳴りだせば闘鶏はじまりぬ Feedback

南上加代子  

(がつきなりだせばとうけいはじまりぬ)

他の作品に影響されて句を鑑賞してはいけなうと思うが前句とあわせ考えると東南アジアでの吟行句と思う。お祭りやギャンブルとし儀式のような演出をするために始まりの合図のような感じで笛太鼓を流すのではないかと思う。最近はエスカレートして鶏の脚に鋭い刃を付けたりという違法な行為が問題になっている。どちらにしても互いに傷つけあって勝負をつけるという残酷なもの。取り囲んでいる群衆たちも興奮して昂ぶっているのだろうという緊張感を感じる。何でも句にしようという俳人の好奇心はわかるが、動物愛護主義の私にはとても見ていられない光景である。

合評
  • 日本でも高知県で闘鶏が行われているようですが、楽器鳴りだせば……とありどこかアジアの国かと思いました。中国で見た時は賭け事としての闘鶏で、鶏以上に人間が闘志むき出しでした。きっと銅鑼のような楽器で始まりが高らかに告げられたのではないでしょうか。観客の期待や緊張も伝わってきます。 (むべ)
  • 海外での事なのかなとも思います。タイやフィリッピンなど闘鶏の盛んな国は多いようです。ムエタイの試合の前の儀式を思い浮かべました。 (素秀)
  • 闘鶏が春の季語。見たことはないが、ある種のお祭りであると思うので、闘鶏を開始する合図に何かの楽器が鳴るのではないだろうか。軍鶏をけしかけるための楽器でもあるのかもしれない。真意は分からないが、闘鶏などしなくてもいいのに遂に楽器が鳴りだしてしまったといった趣きが感じられる。 (せいじ)
  • 少し離れた場所で闘鶏の音だけを聞いているではと思いました。闘いをけしかける楽器の音、鶏のけたたましい叫び声。女性として直接見るのはちょっと恐い気がしたのでは。 (豊実)

機嫌よくわれを乗せたる象涼し Feedback

南上加代子  

(きげんよくわれをのせたるぞうすずし)

インターネットの画像でもよく見かけるので、次の闘鶏の句と併せ鑑賞すると、むべ解のとおり東南アジア吟旅での句でしょう。平均気温 25 度以上の熱帯ちほうなので体感的に涼しさを感じることはなさそうで、もてなしとしての感覚的な涼しさを詠んだのである。熱い地域なのに「涼し」の季語を斡旋したことでそれらのことが連想できるのである。「機嫌よく」の措辞は、観光客を乗せるために特別大人しく調教されたベテランの像と作者の心が通い合っている様子を連想させている。馬や象の瞳には、じっと覗き込んでいると呑み込まれていくような優しさがある。

合評
  • 気温も湿度も高い東南アジアの観光地で、インド象の背中に乗って思いがけず覚えた涼しさ。機嫌よく……とありますので、穏やかでおとなしい、目元も涼しげな象だったかもしれません。 (むべ)
  • 動物園か遊園地で象に乗ったのでしょう。象の背中の高みに吹く風の涼しさに気分の良さを表しているようです。 (素秀)
  • 涼しが夏の季語。動物園の象であろう。象は慣れたもので人を怖がらない。怖がっている人でも機嫌よく乗せてくれる。私にも経験があるが、象の上はかなり高くて涼しいものである。「涼し」には、初めて象に乗るスリル感も含意されていると思った。 (せいじ)
  • 何かのイベントで恐る恐る象に乗せてもらった。その高さにヒヤッとする感動が、涼しさをも感じさせたのでしょう。 (豊実)

入り乱れながらそよげる牡丹かな Feedback

南上加代子  

(いりみだれながらそよげるぼたんかな)

満開に咲き揃った牡丹園の様子であろう。「入り乱れながら」がその様子を連想させている。「そよぐ」という措辞が牡丹には似合わないようにも感じたのだけれど大輪の牡丹ゆえに少し風でも身じろぐ感じにはなるけれどコスモスのような大仰な揺れではないので「そよげる」になったのかもと納得した。ときには互いに頭をぶつけ合うようにも揺れるのである。咫尺に眺めた景ではなくてやや距離をおいて広々とした牡丹園の全景を写生したのではないだろうか。

合評
  • 牡丹の花を大きくて重いので少しの風でも動いている。並んで咲いているようです。 (素秀)
  • 牡丹が夏の季語。赤や白やピンクなどのさまざまな牡丹の株が入り混じって植えられている牡丹園ではなかろうか。大輪の花や葉が風に吹かれて触れあい音を立てる。まるでお互いに何かの話をしているかのようだ。芳香も匂ってくる。 (せいじ)
  • 入り乱れているということは、かなりたくさんの牡丹が密に咲いているのでしょう。そこに風が吹いてきて牡丹どうしが少しこすれ合い、かすかな音が聞こえます。 (豊実)

花吹雪孤独の我をつつみけり Feedback

南上加代子  

(はなふぶきこどくのわれをつつみけり)

花見シーズンの楽しみ方にはいろいろあると思うが、揚句は団体で賑やかにがやがやと愛でている桜ではなく一人で静かに花下に佇んでいる一詩人の姿を連想する。「我」なので当然自画像。数々の花の思い出の中には家族共に愛でた幸せなときもあったと思う。そうした回想の中にあって今は孤独なった自分を肯定しているのだけれど、その自分を優しく包見込むような花吹雪のなかで素秀解にある通り癒やしを感じているのである。客観写生に包み隠された作者の主観を感じる。拳を握ったときに見えている手の甲が客観、包み隠された内側が主観、つまり客観と主観とは表裏一体…と教えてくださった青畝師の言葉を思いだす。

合評
  • 花吹雪に癒されているのか、逆に孤独感が増しているのかどちらにも取れそうです。ここはあえて孤独と書いていますし、花吹雪に癒されたと思いたいです。 (素秀)
  • 花吹雪が春の季語。孤独という抽象的な言葉が花吹雪という具体的なものによって現実味を帯びてくる。しかし、花吹雪に包まれて自分はもはや孤独ではない。ふと何か暖かいものに包み込まれているように感じたのだと思う。 (せいじ)
  • 桜が満開を過ぎ花吹雪の頃、連れ合いを無くした吾を包んだ。満開も綺麗だ良い物だ。良い物だ。 (宏虎)
  • 夫と死別して孤独の感傷に浸っている。花の命は短いので美しくもあり悲しくもあります。 (豊実)

つなぐ手を解きて拾ひぬ桜貝 Feedback

南上加代子  

(つなぐてをときてひらひぬさくらがひ)

桜貝は、春の貝拾いの季語の派生版として俳句ではよく使われる。恋にまつわる句もあるが普通に探してザクザクと見つかるものではないので見つけると縁起物ものとして重宝される。普通の小貝を一度漂白して着色し土産物として売られているものあるらしい。手をつないいでいたのを子供同士あるいは親子と見るかはたまた夫婦と見るかいろいろ情景が変わってくるが恋人同士と見るとロマンチックな句となる。小さい桜貝を見つけた瞬間の動作をとらえているところがうまいと思う。

合評
  • 親子かカップルかとなるとパッと浮かんだのは親子の方です。子供の方が桜貝を見つけた時に、手を振り解いて拾いそうです。 (素秀)
  • 桜貝が春の季語であるから、桜貝が沢山あることに主眼が置かれているような気がする。仲のよい二人が手を繋いで浜辺を散策していると、桜貝が沢山落ちているのに出くわした。あそこにもある、そこにもある、といった具合に、二人離れて桜貝をたくさん拾ったのではなかろうか。 (せいじ)
  • 恐らく母と子が海岸を散歩していて.ふと子が桜貝を見つけつなぐ手を離して拾った。と言う句で親子のなにげ無い一場面である。 (宏虎)
  • これはロマンチックな風景ですね。海岸を手をつないで散歩しているカップル。彼女が足下に桜貝を見つけて、その手を離して拾う。二人の会話が聞こえてきそうです。 (豊実)

雪片のとびつく蟹は脚を曲ぐ Feedback

南上加代子  

(せつぺんのとびつくかにはあしをまぐ)

わかりやすい句だか表面的な鑑賞で終わってはいけない。雪が降っている状況なので市場やテントで売られているので素秀解の通り、漁港での水揚げ風景と見る。蟹は山陰の香住あたりも有名だが、「雪片の…」と詠まれると越前あたりのボタン雪の雰囲気かも知れない。特に着目したいのは「脚を曲ぐ」の措辞である。「雪片のとびつく蟹の動きをり」とは詠めても、「脚を曲ぐ」と写生するのは非凡なことなのである。これによってまだ動いている活きのよい蟹であることも分かる。且つ、「脚曲がる」という結果ではなく、いままさに動いている瞬間の「曲ぐ」なのである。誰にでも詠めそうな句であるが、平明さの中に多くの学ぶべきポイントが隠されている。

合評
  • これは港か船上での光景でしょうか。上がったばかりの蟹に雪が降って大きな結晶になっていく。蟹はゆっくり脚を振っているばかり。 (素秀)
  • 目に見える程大きな雪の結晶が蟹の甲羅に落ちてひっついた。蟹は寒さに震えるかのように脚を曲げて身を小さくした。 (豊実)
  • この蟹はずわい蟹で冬の季語ではないかと思う。トロ箱に脚を曲げて窮屈そうに入れられている蟹に、湿気のあるぼた雪のような雪片がくっつくように激しく降り注いでいる雪の港の情景を想像した。 (せいじ)

五人囃子いかなる楽を奏すらん Feedback

南上加代子  

(ごにんばやしいかなるがくをそうすらん)

なんでもないことであるが、雛人形を眺めながらふとそう感じたことをそのまま十七文字にしたという句である。無心に対象物を観察し心を遊ばせることで見えないものが見え、聞こえない楽が聞こえるのだと教えられた。作者の心は人形の世界からいにしえの時代へとタイムスリップして想像をふくらませているのである。私達も幼い時代にはこのような好奇心を抱いたと思う。理屈や固定概念を捨てて句を詠むことの大切さを学びたい。

合評
  • 雛人形を見ながら色々な想像をしているようです。他の人形は黙って座っているでしょうから、唯一音を出すであろう五人囃子の奏でる曲を思うのは楽しそうです。 (素秀)
  • 五人囃子が春の季語。ひな壇に、地歌・笛・小鼓・大鼓・太鼓の五人囃子が並んでいるが、どのような楽を奏でるのか、確かに聞いたことがない。面白いことに気が付いたものである。 (せいじ)
  • お雛様で五人囃子は雛壇の上に飾ってある、お二人の結婚を祝うための演奏で左から、締太鼓、太鼓、小鼓、笛、謡の順だそうです。和やかな空気が流れ、謡の高砂か鶴亀を吟じておられるのでしょう。 (宏虎)
  • 「いかなる楽を奏すらん 」と言いながらも、既に頭の中には雅な五人囃子の様々な音楽が流れているのでしょう。 (豊実)

墨雛に侍べらかしむる有馬筆 Feedback

南上加代子  

(すみびなにはべらかしむるありまふで)

墨雛は普通内裏雛なのでその傍らに三人冠者に模して有馬筆人形も一緒に飾られていたのである。広島の品女さん宅にお招きを受けた時、床の間に青畝師からのプレゼントだという墨雛が飾られあったのを見たことがある。決して綺麗という感じのものではないが風流に遊ぶ俳人の心が伝わってきた。揚句は多分西宮の青畝邸かつらぎ庵を訪ねた時の作品かと思う。お正月には投扇興を飾ったりとか昔の遊びには殊に風情がある。新しさを追求することは良いことだけれど私達俳人は温故知新の心も大切にしたいと思う。

合評
  • 墨雛が有馬筆を侍らせている、作者の気持ちとしては墨雛の方を格上に見ているようです。ひな祭りの時期なので主役は墨雛だと言う事でしょう。 (素秀)
  • 有馬筆は室町時代から伝統があり、兵庫県から重要無形文化財に指定されてをリます。穂先を下に向けると軸の上部から人形が飛び出してくるからくり型。後は豊実さんと同じです。 (宏虎)
  • 墨雛が春の季語。「墨雛に似合ひの硯置きにけり」という句が前にあったが、この墨雛も観賞用のものであって、その高級な墨人形の周りに数本の有馬筆が侍女のように立てて置かれていたのではないかと思った。有馬筆は立てると軸尾から可愛い雛人形が出てくるとのことであるから、まさに侍女のように見えたことであろう。 (せいじ)
  • 有馬筆とは軸の上端から人形が飛び出すからくりがある筆ですね。墨雛の周りに有馬筆を侍べらかさせて、作者が人形遊びをして楽しんでいるように思いました。 (豊実)

聖夜待つ世界のワイン並びけり Feedback

南上加代子  

(せいやまつせかいのワインならびけり)

宗教行事をモチーフとした俳句は、その内容が憑きすぎてもいけないし、逆に離れすぎると季語が動く。つかず離れずの微妙さを捉えることが成否の分かれ道となる。正しい宗教的見識なくして安易に詠むと陳腐極まりないものになりやすい。せいじ解にあるように聖書にはいろいろなシーンでワイン、ぶどう酒が登場する。また礼拝の中で行われる聖餐式では十字架で流されたキリストの血潮としてぶどう酒が配られる(実際はぶどうジュースであることが多い)。

揚句のシーンは、素秀解、豊実解のとおり、宗教的な意義とはやや異なるクリスマスパーティーの写生と思われるが、聖書は全世界の国々でベストセラーと言われるところから、「世界のワイン」という措辞が聖夜という季語に対してつかず離れずの関係を醸していると言えよう。

合評
  • レストランのワインセラーですね。誕生をワインも祝っているようです。 (素秀)
  • 聖夜が冬の季語。合評とは少し離れるかもしれませんが、礼拝におけてワインはイエス・キリストの生命ですから、世界中の人々がそれぞれの晩餐においてキリストの誕生を待ちわびているような気にさせられました。 (せいじ)
  • 高級レストランのワインセラーの情景かと思いました。聖夜のパーティーが楽しみです。 (豊実) - 2021/10/18(月)

一卓に積む贈物クリスマス Feedback

南上加代子  

(いつたくにつむおくりものクリスマス)

「積む」という措辞から山なりになるほどの贈物だと思うので家族ではなくてそこそこの人数が集まるクリスマスパーティーであることが分かる。またそれは会場の中央に置かれた卓の上でみながそれを囲んでこれから始まる交換会のくじ引きを笑顔で待っている人々の顔も浮かんでくる。多くのことを説明しないでで省略し、きるだけ焦点を絞りこんだ写生術によってかえってその周辺の景や雰囲気をより具体的に連想させるという作風を学び取りたい。

合評
  • 教会でのクリスマス会でしょうか。みんなが持ち寄ったプレゼントがテーブルに集められています。これからくじ引きが始まるようです。 (素秀)
  • それぞれに当てたクリスマスプレゼントや、教会に当てた物もあろうかと想われますが、それらが一つのテーブルに積み上げられている。傍には着飾ったクリスチャンが談笑している。又は美味しいご馳走を食べている。 (宏虎)
  • クリスマスが冬の季語。家族のクリスマスプレゼントは普通ツリーの根元に置いておくものだが、これは子どもたちのためのクリスマスパーティーの模様であろう。大人や子どもが持ち寄ったプレゼントを一つのテーブルの上にどんどんと積み重ねていっている、現在進行形の句ではないかと思った。 (せいじ)
  • クリパでのプレゼント交換だろうと思いました。一つの机にみんなが持ち寄った番号付けされたプレゼントが山積みになっている。自分にはどれが当たるかなとワクワクしている。 (豊実)

灰皿を汚す女や年忘 Feedback

南上加代子  

(はいざらをよごすをんなやとしわすれ)

この句は女性目線での軽い嫌悪感というものを感じさせる作品だと思う。作者自身が描いている女性としての立ち居振る舞いとしてあるまじき行動をしている女性の姿を客観写生してあるだけの作品であるのにどことなく隠された作者の心象が伝わってくるのは熟達した省略の力であろう。企業のそれも顧客を招いての年忘れの宴の華として用意されたホステスの感じがする。

合評
  • 当時は煙草を吸う女性は少なかったのではないでしょうか?賑やかな忘年会で、女性が大胆に煙草を吸っている様子を想像しました。 (豊実)
  • 喫煙がはしたないなどと言われていた時代かも知れません。年忘れの今夜ばかりは遠慮なく煙を吐いているようです。 (素秀)
  • 年忘が冬の季語。忘年会は無礼講だから、日ごろは淑やかな女性たちも男性に伍して煙草を吸って灰皿がいっぱいになっているのであろう。「女」は作者自身とも他の女性たちともとれるが、嫌悪感を感じつつも、そうせざるを得ない心の闇をにおわせている。今年の垢はすべて落としてしまおう。年忘れなんだから。 (せいじ)

ナフキンは直立聖夜待つ卓に Feedback

南上加代子  

(ナフキンはちよくりつせいやまつたくに)

せいじ解のとおり高級レストランでのクリスマスディナーでしょう。格調高い雰囲気が感じられます。これから始まろうとる宴の前の緊張感をうまく捉えた写生句だと思う。「直立」というやや堅苦しい措辞の斡旋によってこの句が活かされていることに気づきたい。

合評
  • 「ナフキンは直立」い言うだけで、真っ白で清潔なナフキンが綺麗に三角に折り畳まれているのが目に浮かびました。 (豊実)
  • クリスマスを控えて教会では準備に大わらわである。ナフキンは清潔に洗はれ、お客さんを待つテーブル立っている。銀のスプーンやお皿も並べてあろう。本番の聖夜はどんなご馳走が出るか楽しみだ。 (宏虎)
  • 聖夜が冬の季語。三角に折り畳んだ白いナフキンが白い皿の上に立てて置かれている。クリスマスディナーの始まる前のテーブルの様子から、特別な夜の楽しいひとときが予感させられる。 (せいじ)

純白の聖樹は金ンの鈴ばかり Feedback

南上加代子  

(じゅんぱくのせいじゆはきんのすずばかり)

純白の聖樹をどう理解するかがポイントだと思うが、綿の雪がたっぷりと架けられたものというよりモミノキを模したツリーそのものが真っ白な樹脂製でつくられていて、そこに吊るされている鈴は皆金色なのである。「鈴ばかり」という措辞は、吊るされている鈴がみな金色だったという意味もあると思うが鈴以外の飾り物はないとう意味も含まれているかと思う。クリスマスディナーを提供するような高級レストランとかホテルのロビーとかに飾られている大型ツリーの感じがする。

合評
  • クリスマスツリーは綿の雪がが多すぎるし、飾りは鈴ばかりで何だか極端だな、と言う事なのでしょうか。子供たちにツリーの飾りを任せたのかも知れません。あらあらと思いながらも純白の聖樹も悪くないと思っているようです。 (素秀)
  • 聖樹が冬の季語。大きなクリスマスツリーではなく、白い綿で全面を覆い金色の鈴だけを飾ったシンプルな机上の聖樹のような気がする。金色に光り輝く鈴が純白に映えて美しい。「金ン」は金色のさまざまな輝き方を示しているのではないだろうか。いのちでもある光が鈴ごとに異なる光を放つ。 (せいじ)
  • 真っ白で金の鈴飾りがあるクリスマスツリーですね。今時なら通販でも売ってますが、当時は珍しく、大人の感じがしてとてもおしゃれだったのでしょう。 (豊実)
  • クリスマスが近くクリスチャンは、何かと多忙な日々であろうかと存じます。教会に有る聖樹は金の鈴ばかり、座席から見ても変化が無いように見える。聖樹は冬の季語。 (宏虎)

揚舟の上の一と笊鰈干す Feedback

南上加代子  

(あげぶねのうへのひとざるかれいほす)

揚舟とは、合評にもあるように水害時に使われ、普段は家の軒下に吊り下げられていた事に由来するが、群馬の水郷の川下りなどで使われているものも揚舟と呼ばれている。しかし揚句では鰈が干されていると言うから海辺に近い河口付近の旧家かと思われる。鰈も編み籠などにいれて風通しの良い軒下などに吊るして干すのであるが、揚句では笊に広げた鰈を吊るされた船の上に置いてあるのであろう。一と笊とあるので商売用ではなく自給の生活の糧として自然の恵みの幸を干しているのである。のんびりとした漁村農家の一点景として描かれた絵が見えてくる。

合評
  • 揚げ舟はこちらでも見かけます。干し鰈の頃ですから水が出る時期でもなく、用のない舟が良い干場になっているようです。 (素秀)
  • 干鰈が春の季語。揚舟とは洪水に備えて軒などに吊るしておく浅底の軽い舟のことのようであるが、春になって定期点検でもするためだろうか、揚舟を下ろして外に置いておいたところ、これはよい場所だと、女性たちが笊を一つ置いて鰈を干していた、そのような春の情景ではなかろうか。 (せいじ)
  • 群馬の水郷谷田川の川下りは有名で、揚舟とは小型船舶を差すそうです。その船首か船尾に一笊の鰈が干してある。田舎ののんびりした風景を連想させる句として面白い。 (宏虎)
  • 揚舟とは洪水に備えて蔵などに吊るしておく小舟のようですね。その揚舟の上のわずかな隙間に鰈が干してある。海の生活の工夫が感じられ、干した鰈もおいしそうです。 (豊実)

白樺に提灯吊りて踊りけり Feedback

南上加代子  

(しらかばにちゃうちんつりてをどりけり)

北海道とか信州とかの避暑地の風景でしょう。大規模に切り拓かれたキャンプ地の感じもあります。広場を取り囲むように白樺の枝に盆提灯が吊られている。都会の盆踊り風景とは少し違った雰囲気に感動しているのです。おそらく盆踊りのシーズがすぎると駆け足で寒い冬がやってきてやがて雪に閉ざされてしまうような地域、地元の人達は短い貴重なこのシーズンを惜しみつつ楽しんでいるのである。

合評
  • 白樺のある地方の旅をして盆踊りに遭遇したのでしょうか。手ぶり身ぶりを真似て一緒に踊ったのかと。白樺も提灯にも涼しさを感じます。 (素秀)
  • 踊りが秋の季語。お盆の時期に信州の高原でキャンプをし、白樺の枝に持ってきた提灯を吊るして仲間で盆踊りをしたのでもあろうか。ひょっとしたら山仲間の初盆だったのではないかと思った。あるいは、白樺のある高地の村の盆踊り会場であるのかもしれない。 (せいじ)
  • 白樺林が盆踊の側にあるのか、提灯を吊って踊っている。明かりが白樺を映し出し、踊り子達のざっくばらんな雰囲気が、良く出ている田舎の盆踊りと詠んだ。 (宏虎)
  • 盆踊りの提灯は広場にロープを張って吊すことが多いですが、白樺の木に吊っているとは風情がありますね。樹皮の白い光沢が灯りに浮かびます。 (豊実)

わが前へ前へ苧殻の火のころぶ Feedback

南上加代子  

(わがまへへまへへをがらのひのころぶ)

苧殻焚くという習慣は知識として、あるいはテレビドラマの一シーンでしか見たことがないのですが、お盆の習慣として有名です。苧殻の火の揺らぐのを眺めていると故人への想いがつのるのでしょう。豊実解にあるように炎にのりうつった精霊が作者をこがれて近づこうとしているかのように錯覚したのであろう。それだけ作者にとっても故人を偲ぶ思いが強いということだと思う。

合評
  • 迎え火の苧殻の火が風に吹かれて揺らめいている。不思議と自分の方に向いてくるのは祖霊の力が働いているのかも知れません。 (素秀)
  • 苧殻火が秋の季語。お盆の門火(迎え火、送り火)として苧殻を焚くとのことだが、焚火のように井桁型か合掌型に苧殻を組んで火をつけるのであろう。火が盛りやがて苧殻火が崩れるが、それが自分の方へ方へと倒れてきた、というのではないだろうか。 (せいじ)
  • 私は苧殻を使ったことがないのでよくわかりませんが、「火のころぶ」は精霊が喜んでいるイメージかなと思いました。 (豊実)

並ぶ店産地違ひの西瓜売る Feedback

南上加代子  

(ならぶみせさんちちがひのすいかうる)

西瓜を売る野菜店が並んでいるということは、素秀解、せいじ解のとおり中央市場とか卸売り市場の雰囲気です。熊本産は早生種で有名ですが産地違いが並んでいるというのですから旬の季節だとわかります。汗を拭きながら好みの西瓜を選んでいる客と売り主の威勢のよい売り声が聞こえてきそうです。

合評
  • 西瓜が夏の季語。卸売の中央市場のようなところだろうか。旬の西瓜を売る店が並んでおり、店ごとに産地が異なっている。「○○県産、うまいよ」というような売り込みの声が聞こえてくるようだ。ちなみに、都道府県別の産地ベストスリーは、熊本県、千葉県、山形県とのことである。 (せいじ)
  • 市場での買い物でしょうか。スイカが並んでいますが店によって産地も大きさも違うようです。どれも美味しそうに見えて悩ましい選択を強いられながらも楽しんでいます。 (素秀)
  • 西瓜を売っている店が並んでいる。うちは産地が違う西瓜を並べている。直訳するとこうなるが、甘さや皮の薄さや種の多少を自慢している様にも取れる。 (宏虎)
  • 今ほど物流が発展していない時代に、各産地の西瓜が店に集まってくる。まさに今が西瓜の最盛期であり、夏を感じさせます。 (豊実)

碑を楯としてをる外寝かな Feedback

南上加代子  

(いしぶみをたてとしてをるそとねかな)

一読、石工が制作作業中の碑を楯にして外寝しているのかなと思いましたが、みなさんの合評を読んでちょっと違うのかと思いました。史籍の一隅に巨大な忠魂碑などを見かけることがあります。むべ解のとおり碑の裏側に謂れとかが彫られているのでそれを見ようとしたところ外寝人を見つけて驚いたのである。

合評
  • 石碑で日差しを避けての昼寝かと。楯のようだと言っているのですから避けているのは人目でもあるでしょうし、さぼっているのを見つからない為でもあるかもしれません。 (素秀)
  • 外寝が夏の季語。暑い室内を逃れてする外寝は、夜にも昼にも使うとのことであるが、この句には寝るのにちょうどよい濃い影が見えてくるので、時刻は日が少し傾いたころではないだろうか。大きな碑を想像する。太陽という敵から守ってくれるかのように、碑がよき影を落としている。 (せいじ)
  • 石碑に寄りかかってうたた寝をしている。その石碑がうたた寝の姿を人目につかないようにしている。女性が外で寝るのは少し恥ずかしい気持ちがあったのかもしれません。 (豊実)
  • 石碑を読もうと近づいていくと、石碑の裏で職人さんが横になっていたのでしょうか。「外寝」は夏の季語で、暑い中午前の作業が一段落し、昼食後の仮眠。石碑が人目と日差しから職人さんを守っています。作者は読むのもそこそこに、そっと離れていったのではないかと思います。おかしみも感じる句。 (むべ)

衛士めきて立つ石人の灼けにけり Feedback

南上加代子  

(えじめきてたつせきじんのやけにけり)

寺院の門とかに石造りの尊者像が建てられていることが多いです。西宮神呪寺の山門前には尊者が、大阪太閤園のお庭の入口に仁王像がありましたね。芦屋の滴翠美術館のお庭でも見かけました。珍しいものに出会うとつい触れてみたくなるのは俳人の習性で揚句の石人も以外に灼けていて驚いたのである。石人には直射日光を避けるすべもなくただただ立ち尽くししかない。どのような状況下でも直立不動の石人はまるで衛士みたいだというのであろう。

合評
  • 真夏に訪れた古墳で石人石馬を見ている作者。特に石人は、頭巾を被った武装した兵士を思わせる像で、古墳はかなり位の高い方のお墓だったのでしょう。真夏の太陽がじりじりと照りつける中、作者ふくめ見学者のためにじっと黙って千年の時を警護してくれているよう。 (むべ)
  • 石人を見たことはありませんが、古墳のそばに立っていると考えたらいいのでしょうか。埴輪などの埋葬品と違い屋外に置かれるのでしょう。夏の日差しに灼かれても立ち尽くす姿が衛兵のようだと感じたようです。 (素秀)
  • 真夏の炎天下で古墳を見学されているのではないでしょうか?石人は墓を守るかのように千年もの間、毎年灼熱の太陽で灼かれているのです。 (豊実)
  • 灼くが夏の季語。筑紫君磐井の墓とされる八女市の岩戸山古墳に石人石馬がある。置かれているのはレプリカとのことだが、真夏の直射日光に灼けた石人は何があっても微動だにしない衛士のようであった。句を読むだけで夏の暑さがひしひしと感じられる。 (せいじ)

自刃の間のみは暗くて白障子 Feedback

南上加代子  

(じじんのまのみはくらくてしろしやうじ)

「自刃の間」をキーワードに検索すると戦国時代の歴史に残るさまざまな場所が見つかります。この句は作者の経験によって生み出されたテクニックが隠されています。白障子は本来明るいイメージなのに他の部屋よりも暗いと感じたのは作者の心象を代弁しています。さらに死装束の白にも結びつきます。加えて自刃という措辞からは「血」を連想しますから、地の赤と障子の白とが鮮烈なイメージを更に強くさせています。俳句では十七もじしか使えないので言いたいことを全て表現することはできません。徹底した省略と素直な写生によって歴史の事実へタイムスリップしたり作者の心象が汲み取れたりと連想が広がるのです。

合評
  • 豊臣家に所縁の深い、金剛峯寺の秀次公自刃の間でしょうか。「障子」が冬の季語なので、作者は寒い季節に訪れたものと思われます。自刃の間には冬の日差しも届かず障子の白さがよりいっそう際立っている。政治や権力の中で翻弄された人生に思いをはせたくなります。 (むべ)
  • 白障子の部屋が続いているが、その自刃の間には何故か薄暗い影を感じてしまう。切腹があったと聞くだけで尋常ではない雰囲気を感じてしまうのも無理はないでしょう。 (素秀)
  • この障子は自刃の間の障子かと思いました。自刃の間の空気の重々しい暗さに対して、障子の白さが際立っている。 (豊実)
  • 障子が冬の季語。白障子は明かり障子であるから部屋はほんのりと明るいはずである。それにもかかわらず、多くある部屋の中で自刃の間だけが暗く感じられた。心に覚える寒さが「暗くて」に表されていると思った。高野山に関白秀次の自刃の間があるが、自刃の間は他にもあると思う。 (せいじ)
  • 何かの罪で自刃をお上又は上司に告げられ、当日その部屋だけ薄暗くて一方に白障子がある。現代離れした変わった句にどぎまぎした。何か作者は昔の本を読まれたのでしょうか。 (宏虎)

いたどりの道に流人の墓いくつ Feedback

南上加代子  

(いたどりのみちにるにんのはかいくつ)

八丈島あたりには立派な流人墓地が残っていますが、揚句の場合は路傍の草がくれに見つけた素朴なもの、むべ解のとおり身分の低い罪人が厳しい使役のはてに当地でなくなったのではないかと連想できます。人気のない草深い道を連想させるために春の季語「いたどり」をあてたことにより春愁の気分をも感じさせる非凡さを学びたい。

合評
  • 作者は海の美しさや海鮮の美味しさなどを求めてやってきた観光地の島(伊豆七島は江戸幕府以降の流刑地ですが、もっと古い隠岐、佐渡などかもしれません。)で眺めの良いスポットを訪ねる途中、山道に春の山菜いたどりを見つけうれしくなりたどっていると、苔が生えてもはや刻印も読めないお墓が……歩を進めるとまた一基、また一基と草に半分隠れて現れます。天皇や高僧のお墓でないことは一目瞭然です。観光でやって来た島の、古い歴史とここで果てた名もない人々の命。流人の墓という措辞がすばらしいと思いました。 (むべ)
  • いたどりの道は新芽が伸びかけた頃だろうと想像します。並んだ墓の合間にいたどりの若芽が出ている。普段から掃除やお供えが出来ているのだろうと思えます。 (素秀)
  • いたどりが春の季語。流人と言えば、都から遠く離れた辺境または離島を思い浮かべるが、春になって虎杖の生い茂る道なき道を踏み分けて登って行くと、その道の果てに流人の墓がいくつもあった。海の見える小高い丘かもしれない。望郷の思いの中でその地で亡くなった流人たちの悲哀を感じる。「いたどり」のかな表記が流人たちに優しい。 (せいじ)
  • 離島だと思うところに俊寛?を筆頭に流人の墓が並んでいる。その道沿いに虎杖が生えている。何と無く淋しい句で有る。 (宏虎)
  • 流人の墓を覆うようにいたどりが茂っている。最初の墓に気づいた後、いたどりの茂る山道をたどると次々に墓が見つかったのでしょう。廃村のような場所かなと思いました。 (豊実)

川床料理紙燭と共に運ばるる Feedback

南上加代子  

(ゆかりようりしそくとともにはこばるる)

辞書では紙燭とは小型の照明器具。紙や布を細く巻いてよった上に蝋を塗ったものとありますが、川床で使われるのは紙製の行灯のような感じなんでしょうか。昼間ではなく夕帳につつまれ始めるころから料理を楽しんでいる様子がわかります。川床料理に詳しくはないのでわかりませんがコース料理のように順次運ばれてくるのではなく、膳の上に並べられた懐石風の料理なのだと思います。先に燭が点され続いて料理が運ばれてきたのではなく「紙燭と共に」が発見であり作者の感動なのです。座の雰囲気と仲居さんたちの所作が具体的に見えてくるようです。

合評
  • 紙燭で灯りを取るとは風情があります。日が落ちかけて少し涼しい風も吹くころに料理も運ばれてきたところかと。 (素秀)
  • 季語は「川床料理」で夏、紙燭とありますので時間帯は夜、場所は京都のいずこでしょうか。夜の川の瀬音も涼やかに、桟敷でいただく美味しいお料理に舌鼓を打つ。風流な雰囲気とともに、明るく楽しい気分も伝わってきます。 (むべ)
  • 川床料理(ゆかりょうり)が夏の季語。川床は鴨川では「ゆか」、貴船では「かわどこ」と言うが、そのような納涼床に、仲居さんが、そろそろ日も暮れて来ましたねと言って、料理と一緒に紙燭を運んでくる。紙燭が具体的にどのようなものかはよくわからないが、それが珍しかったのだと思う。佳境はこれからといったわくわく感が感じられる。 (せいじ)
  • 京都の川床料理は貴船を中心に、賀茂川あたりでも有名である。前菜と共に紙で作ったローソクが運ばれて来たのを、珍しがっている。勿論せせらぎの音、風のぼんぼりの揺らす音を聞きながら。次は鮎の丸焼きが運ばれてくるを、楽しみながら夕闇の迫り来るのを待っている。 (宏虎)

豆飯の螺髪のごとく盛られけり Feedback

南上加代子  

(まめめしのらほつのごとくもられけり)

盛りにけり…ではなく、盛られけり…なので作者自身がそうしたのではく写生したのである。普通の食卓や客人に対してはそのような盛り方はしないので、初物として仏壇に供えられたものと思う。大盛りされているという状況をより具体的な言葉にするためにじっと観察をしていてやがて「螺髪のごとく」の意を得たのである。写生の基本は「見たままをそのまま」ではあるが感動が伴わない句は説明や報告になりやすい。まず何かを具体的に感じ取ったうえでそれを写生することが大事と思う。

合評
  • お椀に山盛りの豆ごはんがお釈迦様の頭のように見えた。その通りなのですが句にできるかというと難しいように思います。 (素秀)
  • 豆飯が夏の季語。豌豆や蚕豆などを炊き込んだご飯は、白いご飯の中にある豆の緑が美しいが、そのご飯がお茶碗に山のように盛られており、その中の緑の豆が螺髪のように見えたのであろう。螺髪からの連想で、お仏飯ではないかと思った。 (せいじ)
  • 豆飯が夏の季語。豌豆や蚕豆などを炊き込んだご飯は、白いご飯の中にある豆の緑が美しいが、そのご飯がお茶碗に山のように盛られており、その中の緑の豆が螺髪のように見えたのであろう。螺髪からの連想で、お仏飯ではないかと思った。 (せいじ)
  • 螺髪のごとくなので、白いご飯が見えないほど豆がふんだんに入った豆飯なんだろうと思いました。 (豊実)

仏壇を大きくひらき牡丹挿す Feedback

南上加代子  

(ぶつだんをおおきくひらきぼたんさす)

春のお彼岸、秋のお彼岸には墓前や仏壇にお花や供物をお供えして、ご先祖さまに手を合わせてお祈りを捧げるという日本ならではの風習がありますが、春彼岸の牡丹だとすると温室ものになるので、揚句の場合はお庭に咲いた遺愛の牡丹だと思います。「仏壇を大きくひらき」という表現によって大輪の牡丹を連想させているところが非凡です。大輪の牡丹を供花にするというのは俳人ならではの感じもありますね。 宏虎解にあるように「見て!こんなに見事な花を咲かせましたよ」と故人に報告しているような心情も汲み取れます。

合評
  • 一輪差しだとしてもさすがに牡丹は花の王様です。仏壇を全開にしないと花が収まりません。 (素秀)
  • 牡丹が夏の季語。牡丹は大きな花なので、仏壇も大きく開いたというのであろう。亡くなったご主人は、花の王と言われる牡丹にふさわしく、その世界で活躍されていたと聞く。 (せいじ)
  • かなり大きな牡丹の花なんでしょう。花の大きさを直接言わずに、仏壇を大きくひらきと言ったのがうまいと思いました。 (豊実)
  • お祭りしている仏壇を大きく開き、亡きご主人の好きだった牡丹を手に入れ、供花に足して話しかけられた。 (宏虎)

傘立てに忘れ形見の遍路杖 Feedback

南上加代子  

(かさたてにわすれがたみのへんろづえ)

俳句は基本的に一人称で詠むという暗黙の約束が有るので自宅での写生だと思う。傘立てに置かれた遍路杖そのものにはには季感はないので遍路の季節が巡ってきて元気であった頃に二人で遍路の旅にでかけたことを懐かしく思い出しながら故人を偲んでいるのである。亡くなられた加代子さんのご主人もまた俳人であり、二人で頻繁に俳諧遍路の旅を楽しまれていたので常用品のように傘立てに挿しておられたのであろう。素秀解の通りご主人といつも一緒にという意味で形見の杖を使っておられるのかも知れない。

合評
  • 傘立てを見る度に持ち主のことを思い出すように、頻繁には使わないけれどあえて傘立てに保管している杖。今年もまた春が巡って来て、ともに旅した季節に思いをはせて…… (むべ)
  • この遍路杖は亡くなったご主人のものでしょうが、今も作者が常用しているようです。傘立てに差してあるのはいつでも使えるようにとの事でしょう。 (素秀)
  • 遍路が春の季語。亡くなられたご主人は、この季節になるとよくお遍路に行っていたのであろう。夫が愛用していた遍路杖がいまなお傘立てに残っている。夫が亡くなったことを改めて噛みしめているのだと思う。 (せいじ)
  • ご主人の形見の品である遍路杖が今も傘立てにある。寂しい気持ちは変わらないが、自分もそろそろ出かけてみようか。 (豊実)
  • 傘立てに忘れた杖が何時までも残っている。訊くところによると熱心なお遍路さんは亡くなられた様だ。 (宏虎)

スピーチを終へてメロンの匙をとる Feedback

南上加代子  

(スピーチををへてメロンのさじをとる)

食後のデザートにメロンが出されるということは季節は夏であり、かなり豪華な宴席であろうことが想像できる。メンイデッシュを食べ終わった頃から来賓(主賓なのかも)のスピーチになることは式次第で知らされており、作者もその一人としてあらかじめ指名されていたのである。やがてデザートが運ばれスピーチが始まる。宴席はくつろいだ雰囲気に包まれているのだけれど作者は自分の出番が来るまでは緊張して何も喉を通らない。冷や汗が出るのを覚えながらようやく重責を果たし終えた。ようやく我に返り安堵の気分で銀のスプーンに手を伸ばしたのである。句の主役はメロンのように思えるかも知れないが、宴席における作者の心理状態を巧みな写生で表現しているところを学びたい。

合評
  • 他者への祝辞でしょうか、それとも自身が受賞した立場でのスピーチでしょうか?晴れがましいけれどちょっと恥ずかしい、ようやく終わってホッと一息。緊張してカラカラになった喉に柔らかな果肉と果汁が沁みるようです。 (むべ)
  • なんのスピーチでも緊張はしますね。メロンとなれば大事な場面でしょうか、終わって食べるメロンはさぞおいしかったことでしょう!冷たいメロンが食べたくなりました。 (そうけい)
  • 表彰式か何かのスピーチかも知れません。いささか喉も乾いたのでメロンを一匙。甘味にホッとしているようです。 (素秀)
  • メロンが夏の季語。結婚式の披露宴ではないかと思うが、同窓会のようなものかもしれない。順番にスピーチをした後、食事の最後にメロンが出てくる。スピーチで渇いた喉を、旬のメロンが潤してくれる。 (せいじ)
  • 何のスピーチか判りませんが、やれやれと終へて冷やしたメロンを食べたと、と言う俳句だと想ふ。 (宏虎)
  • 結婚の披露宴でのスピーチでしょう。スピーチの前には手をつけなかったメロンに、ほっとして匙をとる。 (豊実)

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