2021年3月

目次

焼藷を買ふ元町の人目かな Feedback

南上加代子  

(やきいもをかふもとまちのひとめかな)

中国はさつまいもの生産量世界第一位。焼藷は東アジア特有の食文化とされ、石焼き芋や壺焼、かまど焼などがある。中国では大都市でもリヤカーや屋台店で焼芋が売られているという。この句、おそらく神戸元町にある南京街界隈の風景ではないかと思う。せいじ解、素秀解のとおり昼日中から衆目のもとに女性が焼芋を買うという行為にはやはり恥じらいがあるのだろう。そうした心理を主観を押し出さずに表現できている。写生とは斯くあるべきの感を強く教えられる作品である。

合評
  • 衆目の中で焼芋を買うのはちょっぴり恥ずかしいのだろう。少女のような恥じらいが見えてとても可愛らしい。 (せいじ)
  • 神戸元町の商店街、賑わう人達の目を気にして焼き芋を買っている。誰も気にしていないのだろうけれどもつい気になってしまうのです。おしゃれなケーキとかなら何も気にならないのでしょうが。 (素秀)

玄室を出し目にぱつと曼珠沙華 Feedback

南上加代子  

(げんしつをでしめにぱつとまんじゆしやげ)

暗い玄室から出たときに眩しさを感じるのはあたりまえなので、「玄室を出し目にぱつと桃の花」でも意味は通じます。この句場合、「曼珠沙華」が動かない季語であるかどうかを鑑賞する必要があります。曼珠沙華(彼岸花)には、「死人花」「幽霊花」など、ちょっと不気味な別名があります。お墓に植えられていることも多く「墓花」と呼ばれることもあります。遺跡として保護されている玄室の周辺は昔ながらの佇まいに整備され曼珠沙華が生きのこって咲いているのでしょう。この句における「曼珠沙華」の季語は、そうした風景を連想させるための役割と玄室の帝を悼む作者の気持ちとが含まれているのである。

合評
  • 古墳の玄室に入る時も曼珠沙華は見えていたはずです。より鮮明に見えたのは薄暗い所に慣れた目だから。 (素秀)
  • 玄室を出た目には外は眩しすぎて一瞬視力を失う。目を細めて何気なく外を見ると、血のように赤い曼殊沙華が目に飛び込んできた。「ぱつと」に突然起こった感がある。死の世界から生の世界に舞い戻ってきた安堵感のようなものも感じる。 (せいじ)
  • 暗い玄室から外に出ると、鮮やかな曼珠沙華の赤が明るい太陽の光とともに目に広がった。 (豊実)

アーケードをどりいできし神輿かな Feedback

南上加代子  

(アーケードをどりいできしみこしかな)

この句、作者の立ち位置によって二通りの解釈ができそうですね。アーケードの入り口に差し掛かったときに威勢よく出てくる神輿と出会ったと解釈するケース、もう一つは「アケード」で句が切れて、アーケードを歩いていたら横丁から突然神輿が現れたとする解釈です。合評では前者の解釈が多いようですね。どちらかに決めつける必要はないですがいろいろ連想を広げることも鑑賞では大切です。

「をどりいできし」は、「踊る」ではなく躍動感の「躍る」の方の意が強いのではないかと思います。予想なく突然の出現に驚いた…という意味も込めてあるので、あえて「ひらがな」をあてたと思う。難しい漢字をあてることが高尚だと勘違いしている人が多い。あるていど上級者になれば、一句の中での漢字とひらがなとの斡旋の仕方も考えて推敲することを学びたい。

合評
  • アーケードにはいろんな商店が立ち並び、各商店の前で商売繁盛を祈願して神輿が踊る活気を感じます。 (豊実)
  • 作者は大通りのこちら側にいて、あちら側のアーケードの出入口(明るいところから見れば暗闇にみえる)から突然、夏祭の神輿が踊りながら飛び出してきたのを見てびっくりしたのではないだろうか。「をどりいできし」に瞬間を感じた。 (せいじ)
  • 夏祭りの神輿がアーケード商店街から出てくる。担がれて揺れるさまが踊っているようだと。 (素秀)

ちび草鞋壁につらねし安居かな Feedback

南上加代子  

(ちびわらじかべにつらねしあんごかな)

宝塚中山寺山門の仁王像のところに大きな草鞋とたくさんのちび草鞋が吊られている情景を覚えておられるでしょうか。これらは自分の足腰が丈夫であるように、また遍路の長旅に最後まで耐え抜くことができるようにとの願いを込めた奉納草鞋だそうです。山門に吊るされるのが一般的ですが、この句の安居寺では山門だけではなく壁にも吊るされていたということではないかと思う。かなり有名で大きな遍路寺での安居であろう。

季語の「安居」は、個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、1か所に集まって集団で修行すること。および、その期間のことを指すのであるが、檀信徒も交えて数百人を超える規模で盛大に行われるところもあるそうだ。加代子さんは書の心得もあるのでこの寺で夏書なども行われるのではないかと思う。下五を「安居寺」とするほうがわかりやすかったかもしれないが、作者も参加するという意味を醸すために「安居かな」になったと思う。

合評
  • 「ちび」で小坊主の修行かなと思いました。草履を壁にかけて整頓することも修行の一環で、初々しさを感じます。 (豊実)
  • 各地から集まってきた修行僧たちの草履が並んでいる。どれも相応にすり減って長い距離を歩いていたのだと知れます。 (素秀) -
  • ちび草履とは先がすり減った草履のことだろうか。そうだとすれば、安居に入る前に僧たちがいかに托鉢に精を出していたかがわかる。このちびた草履は安居が終わった後もまた使うのだろう。壁に大事に掛けられたちびた草履を詠むことによって修行僧の熱心さ、修行の厳しさが伝わってくる。 (せいじ)

盆の燭西院の河原を火の海に Feedback

南上加代子  

(ぼんのしよくさいのかはらをひのうみに)

昨日の作品とセットになった連作です。「西院」というのは、京都市右京区にある地名で、「さいいん」と読む場合と「さい」と読む場合の2通りあるそうです。阪急電車の駅名は「さいいん」で京福電鉄嵐山線の駅名は「さい」。昔は「さい」と読むのが一般的だったようです。それぞれに諸説由来がるようでその中に「さい」は「賽」、つまり「賽の河原」を意味するとされていたというのがあります。平安時代、洛外にあった西院は、西の果てといって魔界との西の境目とされ、そこにはいわゆる「三途の川」の河原があると考えられていました。

賽の河原の「賽」は、親より先に死んでしまった子供が、親不孝の罰として河原に積み上げる石のこと。河原で石を積んでいると鬼がやってきて積んだ石を崩し、子供が積み直すとまた鬼が崩す…。石が積み終わるまで死んだ子供はあの世にいくことができず、河原で永遠に石を積みつづけるという恐ろしくもあり悲しげもある説ですね。

河原を埋めた燭を「火の海」と形容したところが上手いです。揺れ惑う一つ一つの火がそうした哀しい先祖の霊だと考えると無常観が溢れます。

合評
  • 昨日の句に続いています。無数の石仏、石塔に蝋燭の灯りが灯り火の海のように広がっている。一つ一つが無縁の仏かと思うと頭を下げすにいられないのかと。 (素秀)
  • 故人を追悼する精霊流しの風景を火の海と表現したところに、穏やかではない何か悔しさのようなものを感じました。 (豊実)
  • 西院の河原は京都にはいくつかあるが、この句の西院の河原は千灯供養の行われる化野念仏寺のことと思われる。西院の河原は賽の河原、無数に並んだ五輪塔は嬰児が父や母のために一つ二つと積み上げた石塔を連想させる。その一つ一つに蝋燭の灯がともると墓地全体がまるで火の海になる。美しいけれど何となく怖いような気持ちがしているのではないだろうか。 (せいじ)

化野に吾の一灯の盆供養 Feedback

南上加代子  

(あだしのにあのいつとうのぼんくよう)

化野念仏寺千灯供養というイベントがあり、毎年8月23日・24日に、念仏寺境内の西院の河原にまつられている数千体の無縁仏にろうそくを灯し供養されます。多くの石仏は、今でこそ無縁仏となっているが、時代を遡れば私達の先祖様がいらっしゃるかもしれない…作者はそのような思いで一灯を献じたのである。私は写真でしか見たことがないが、闇の中に千灯の燭が揺れ動くさまはじつに幻想的な風景であろうと思う。

合評
  • 化野はかっての風葬地、人の世の虚しさの象徴としても用いられる。この句の化野はもちろん地名としての化野で盆供養の写生でしょう。無数の供養灯に自分の灯りを探す作者の目があります。 (素秀)
  • 化野念仏寺でお盆に行われる千灯供養、写真でしか見たことはないが、闇の中に無数の光が揺らめいて幻想的である。作者もこの無縁仏供養に一灯を献じたのであろう。「吾の一灯」に「一灯をともす」という気持ちが込められているような気もする。 (せいじ)

ボーイスカウトたちのゆづりし滝を見る Feedback

南上加代子  

(ボーイスカウトたちのゆづりしたきをみる)

この風景、私も神戸布引の滝で見かけたことがある。滝壺のかぶりつきで屯していたボーイスカウトたちが指導者に促されたか自発的に場所を譲ったのである。作者は、最初はボーイスカウトたちの後からやや遠目に滝見をしていたが、ようやく滝しぶきのかぶる最前列の一等席を譲ってもらい、改めて豪快な滝をうち仰いだのである。みなさんの合評の通り滝の涼しさに加えて清々しさを感じさせる句です。

合評
  • ボーイスカウトの少年たちの礼儀正しい大きな声まで聞こえてきそうです。少年たちの爽やかさと滝の清麗さがリンクしている様です。 (もとこ)
  • 滝が良く見えるように、ボーイスカウトたちが場を譲ってくれた。勢い良く流れる滝、ボーイスカウトのカーキ色、爽やかな笑顔が見えてくる、臨場感のある句だと思いました。目を閉じると、マイナスイオンまで感じられそうです。 (なおこ)
  • 登山道を途中に滝見のスポットがあったのではないでしょうか。ボーイスカウトの少年たちが集まっていたが場所を空けてくれた。滝はもちろん、気持ちの良い少年たちに会えたのもうれしかったのだろうと思えます。 (素秀) -
  • 滝の爽快さとボーイスカウトたちの爽快さが重なって心を打つ。子どもたちが自分にしてくれた行動によって、それがなければ普通の滝見で終っていたかもしれない滝が特別の滝となった。連体形が効いている。この句は大好き。 (せいじ)
  • ボーイスカウトの子供たちが、滝の前に集まっていてちょっと邪魔だったが、礼儀正しく場所を譲ってくれた。滝と子供たちが爽やかに共鳴している。 (豊実)

虫を売るくはへたばこの女かな Feedback

南上加代子  

(むしをうるくはへたばこのをんなかな)

屋台店の立ちならぶ秋口の一点景を捉えた作品でしょう。みなさんの合評を読ませていただきながら、それぞれ感興に微妙な違いがあるのがとても愉快に感じました。どちらにしてもこの句のお店はあまり繁盛しているようにはみえないですね。昨今では女性の喫煙姿もさほど違和感はありませんが、この句の詠まれた昭和45年なら少し印象が違うと思う。ふてくされたように半身の姿勢で足を組み、たばこを吹かせている女性の店で虫を買う気になりにくいですし、子供たちもより寄りつきにくいでしょう。そんなことは承知の上で悪態をついているとしか思えない。売れても売れなくてもどうでもよく、ただ義務的に店番をしている。そんな境遇の女性かなと思う。

合評
  • 露店の虫売りに場末感漂います。咥え煙草の女は若いのか年配なのか、読み手の想像力でどちらとも取れます。 (素秀)
  • 秋ならではの哀愁を感じる。「くはへたばこの女」に退廃的な雰囲気を見るが、イエスはこのような女性にも声をかけ飲食を共にしたことが思い出される。 (せいじ)
  • ずばり、テキ屋のねーちゃんのイメージです!虫の風情と女のふてぶてしさのギャップが面白いです。 (豊実)

苺食ぶテレビの歌手とむかひあひ Feedback

南上加代子  

(いちごたぶテレビのかしゆとむかひあひ)

一日の仕事から開放され家に帰り、夕食やお風呂も済ませて一番寛げる至福の時間帯なのでしょう。「むかひあひ」の措辞が効果的に働いていて、カメラがズームアップして歌手の顔がテレビに大写しになったときの感じを連想させます。苺はミルクの中に浸して押しつぶして食べる派と蔕の部分を指先でつまんでパクリとまるかじりする派とがあるようですが、この句はきっと後者ですね。

合評
  • 昭和 45 年ごろと言えばカラーテレビも普及してた頃かと。歌手の華やかな衣装と目の前の苺の赤がよく合っていたのかもわかりません。 (素秀)
  • 今はクリスマスの上等な苺のイメージですが、昔は路地ものの苺しかなく、旬の六月頃は山盛りの苺をよく食べました。昭和 45 年ごろは夜のヒットスタジオなど生放送の歌番組が多く、テレビは一番の娯楽で、茶の間でテレビを見ながらの、リアルタイムの歌を聞くことが「むかひあひ」という言葉になったのでしょうか。 (もとこ)
  • テレビ桟敷という言葉を思い出した。テレビのおかげで自宅で苺など食べてくつろぎながら観劇や観戦ができる。ラジオと違いテレビだから好きな歌手の細かな表情まで読み取ることができるのがうれしい。「むかひあひ」がうまいと思った。 (せいじ)
  • 甘酸っぱい苺を食べながらテレビを見ていたのだと思います。テレビの歌手と向かい合って苺を食べる、という視点が斬新だと思いました。苺が可愛らしいイメージなので、テレビの歌手は、若い女性アイドルを思い浮かべました。同一視をしているような…。 (なおこ)
  • 今日から昭和 45 年の作品。この頃から加代子さんらしい個性が開花しはじめているように思います。

湧きたてる霧のすきまの山桜 Feedback

南上加代子  

(わきたてるきりのすきまのやまざくら)

霧は、水分を多く含んでいた空気が冷やされ水蒸気を維持できなくなって水滴となり、それが空気中に浮かぶと霧となる。そのため、霧はとくにゴルフ場やスキー場など、気温が変わりやすい山間部で発生しやすい。俳句で詠む霧は、秋口の寒暖差の大きい時期によく発生するので、俳句では豊実解のとおり秋の季語とされているが、山間部では早春の頃にも同様の現象が起きる。みなさんの合評にあるように山桜だと思う。

渓深くから上昇気流に乗って沸き立つ霧は濃淡があり、その隙間から覗く山桜は、まるで幻影のように見えるのである。山桜は萌黄の葉っぱ混じりに淡い色で咲くので、霧紛れだとその色も消されて、もとこ解にあるように一幅の墨絵見ているような素敵な情景を連想させてくれる。

合評
  • 山桜はソメイヨシノの様にふんわりと柔らかい咲き方ではなく、山々の中に、群れることなく、きりっと咲きます。霧に覆われた墨絵のような世界にその山桜がきりっと色を添えている景が浮かびます。 (もとこ)
  • 見え隠れする山桜に霧の動きが見えます。山深そうです。 (素秀)
  • 深く立ちこめた霧のわずかな晴れ間に、山桜が鮮やかに浮かび上がる。霧は秋の季語ですが、ここでは霧は脇役ということですね。 (豊実)
  • 霧が山裾から勢いよく立ち上るその隙間に山桜がちらっと見える。何とも幻想的な春の風景である。 (せいじ)

炉囲みて宿場の歴史聞きにけり Feedback

南上加代子  

(ろかこみてしゆくばのれきしききにけり)

わかりやすい句ですね。みなさんの合評で言い尽くせていると思います。見えてくる宿主は、雄弁という雰囲気ではなくてどちらかと云うと訥弁なタイプの昔語りの様子に思えます。

合評
  • 歴史のある宿場町の旅館、囲炉裏もあって風情があるようです。長い夜を主人の話を聞きながらの食後のひと時かと思います。 (素秀)
  • その町のゆっくりとした時間の流れの中に自分を置いてみたような、旅の風情がとてもよく感じられます。 (豊実)
  • 昔の宿場町の民宿であろう。囲炉裏を囲み鍋をつつきながら、宿の主人が語る町の歴史秘話に耳を傾けた。地酒も出たかもしれない。冬の夜の囲炉裏の周りに至福の時が流れている。 (せいじ)

深夜めく入口はバー日短 Feedback

南上加代子  

(しんやめくいりぐちはバーひみじか)

「深夜めく入り口」をどう捉えるかによるが、作意としてはバーに入ったのではなくて、薄暗くなった夕方の路地を歩いていての作品ではないだろうか。場末のバーは、表通りに面しては構えず、路地のような狭い道を一筋奥へ入ったところにある。赤や青に灯ともしたちっぽけな看板がポツンと壁にあるだけで、扉の外から中の様子を窺うことはできない。表通りのお店は明かりを付けて戸をあけているが、バーのある裏通りは、どの店も固く閉ざしていて、まだ夕暮れだと云うのにまるで深夜の街のようだという感興ではないだろうか。街明かりの届かない短日の路地裏ゆえによけいにそのように感じたのだと思う。

合評
  • バーが開くにはまだ少し早い時間、冬の日は暮れてもう街は真っ暗である。バーには灯りも無くまるで深夜のようだと感じたのでしょうか。 (素秀)
  • 昼の時間が短くなって宴会が始まるときから暗いので、二次会のバーに入るのが深夜のように感じたというのであろう。女性である作者にはこんな付き合いは早く切り上げて家に帰りたいという思いがあるのではないだろうか。 (せいじ)

夜泳ぎやひとすじ浜の灯のならび Feedback

南上加代子  

()

「浜の火」とあるので泳いでいるのは海であることが想像できる。少し沖へ泳ぎ出て振り返ると浜の灯が数珠つながりに見えたという。実際は海辺の宿の灯であったり街明かりであったりといろいろだと思うが、闇夜で見ると遠近感もなくなって一筋につらなって見えたのである。作者自身が泳いでいるように一人称に詠んであるが、加代子さん自身かどうかは定かではない。わんぱくの数人であったり、あるいは恋人同士であったりとロマンチックに連想してみても楽しい作品である。

合評
  • 夜の海は少し危ないのですが、この句では一人では無さそうですし、浜の灯がひとすじに見えるほどですから少し沖に出ている感じもします。 (素秀)
  • 夜の海は真っ暗で怖いので普通は泳がないと思います。そんな夜の海でも浜のひとすじの灯の下で泳いでいるのでしょうか? (豊実)
  • 海辺の旅館に宿泊し海に泳ぎに出かけたのではないだろうか。夜だからあまり遠くには行かない。浅瀬で泳ぎながら遠く沖合に目を向けると、目の高さに対岸の浜の灯りが一筋に並んで見えた。昼間とは違う夜の、しかも海面から見る対岸の景色、何とも涼しげである。 (せいじ)

何の絵とわからぬ昼の走馬灯 Feedback

南上加代子  

(なんのえとわからぬひるのそうまとう)

季語としての走馬灯はお盆の期間中に軒や窓に吊るすものとして鑑賞することになる。本物の走馬灯は外筒に描かいてあるのではなくて、頂部に風車のついた内側の回転筒のほうに絵柄となるものが仕込まれていて火が入ると影絵となって外筒に映るのである。昼間は外も明るく外筒に透けてかすかには見えるが判別はできないのであろう。お盆の期間中の昼間の風情であるが、素秀解の通りやや疲れて退屈しているような気分を感じる。

合評
  • 確かに灯りの点いていない走馬灯は、ぼんやりして何が描いてあるのか判りにくいものです。昼の暑さにはうんざりで早く日暮れて涼しくならないものか、との思いもあるのでしょうか。 (素秀)
  • もしかして、走馬灯の蝋燭に火がついてないのかなと思いました。夕方に火をつけるのを楽しみにしている? (豊実)
  • 走馬灯の絵は昼間はよく見えないのかと妙に納得させられてしまった。六日の菖蒲や十日の菊と同じような感興であろうか。 (せいじ)

翼船に昼寝する間のなかりけり Feedback

南上加代子  

(よくせんにひるねするまのなかりけり)

高速化のために浮揚してすすむ翼船は、どうしても揺れが大きくなるので大型フェリーなどの船旅のように快適ではない。波の高い外洋での航行は難しく瀬戸内とか琵琶湖などの近距離移動で運行される。揺れがひどいのでゆっくりと寝てなどおれない…という意味のほかに、あっという間についてしまったという感興もあわせあると思う。いづれにしても「昼寝」は夏の季語、避暑地へ移動するための船旅であろう。翼船の巻き上げる水しぶきとともにスピードがあるだけに頬を撫でる風もより涼し気である。

合評
  • 社員旅行で小豆島に行くのに水中翼船に乗ったことがある。水上を跳ねているようなものなのでおちおち昼寝もできない。目的地に着いてほっとしたのだろう。緊張感から解放された気持ちを大声で一気に吐き出している感じがする。 (せいじ)
  • 徳島と神戸を結ぶ水中翼船があったのですが、残念ながら乗船したことはありません。天保山までの高速船は便利で良く利用しましたが、あれでもかなりうるさくて振動も揺れもありましたから、とても昼寝などできなかっただろうなと思えます。 (素秀)
  • 瀬戸内海を初めて水中翼船で渡ったのだと思います。私も思った以上に揺れて酔いそうになった経験があります。 (豊実)

のけぞりに蟻ひきこまれ蟻地獄 Feedback

南上加代子  

(のけぞりにありひきこまれありじごく)

蟻地獄を見つけるとつい周辺に蟻がいないかと誰もが見渡す。けれども、この句にあるような偶然に出会うことはまずない。たぶん吟行組の一人が蟻をつかまえてきて、蟻地獄のすり鉢の縁に置いたのではないだろうか。俳人はそんな殺生をしてはいけないですね。「のけぞりに」という表現があまりにもリアルなのでスローモーションビデオを見ているような錯覚がある。蟻地獄と蟻の取り合わせは如何がと思うフシもあるが、青畝師がこの句を選に残されたのは、「のけぞりに」の措辞に非凡さを見出されたのだと思う。

合評
  • 季語の蟻地獄に引き込まれる蟻を動画で見ましたが、まさにのけぞりながら、ずるずると引っ張られていました。蟻地獄という言葉が持つ不気味さを感じます。 (もとこ)
  • 蟻地獄に落ちて這い上がろうとしている蟻の写生です。のけぞり、に蟻の必死さが良く表れています。 (素秀)
  • 蟻地獄に落ちた蟻は懸命に這い上がろうとするがひっくり返ってのけぞるように滑り落ちていく。じっと見ていないと気が付かない。蟻のなすすべのない様子が「ひきこまれ」にうまく表現されていると思う。 (せいじ)
  • 子供の頃、お寺の縁の下で蟻地獄に蟻を入れて遊んだことがあります。蟻には気の毒ですが、蟻が慌てふためく様子に興味津々でした。 (豊実)

定休日とて街筋の寒さかな Feedback

南上加代子  

(ていきゆうびとてまちすじのさむさかな)

道の両側にお店が連なっているアーケードのような商店街を連想する。そこはまた鉄道の駅へのアプローチにもなっていて町の人々の生活通路になっているのである。もとこ解にあるように一斉休日の今日は、通る人もまばらでいつもの賑わいもなく、寒々しい感じがした。体感的な寒さを詠んだ句は多いが、感覚的な寒さを詠んだ句として非凡である。「季語を感覚的に使う場合は、必ず具体的な情景を写生して取り合わせること」、これは紫峡師から何度も教わったことであるが、その具体例として最適なお手本である。

合評
  • コロナ禍で経験した街筋の寂しさを思い出しました。商店街通りの一斉休日で、全ての店が閉まり、人もいない。普段の賑わいがあるからこそ思う寒さでしょう。 (もとこ)
  • 商店街に買い物に来たもののお目当ての店は定休日で休みであったのでしょう。がっかりした気持ちになおさら寒さがつのります。 (素秀)
  • 定休日だから仕方ないにしても、商店街にあまりにも人影がない。寒さが寂しく骨身にこたえる。 (豊実)
  • 冬の定休日の商店街、人通りがなく、照明も暗く、遮るものがないので寒風が通りを吹き抜けている。作者は定休日と知らずに訪れたのではないだろうか。人がいないとこんなにも寒いのかとの思いを強くしたのであろう。 (せいじ)

冬ざれや回る力の出ぬ水車 Feedback

南上加代子  

(ふゆざれやまはるちからのでぬすいしや)

みなさんの合評どおり、水源がなくなって回らなく(回れなく)なった水車をじっと眺めながら心を通わせているうちに作者と水車とが一身になり擬人化された表現にまで昇華したものであろう。卓越した写生の力によって見事に作者の少主観を表現している作品だと思う。冬ざれの句は得てして寂寥感を伴うが、うつぎ解にあるように春になればまた復活するであろうという希望につながる気持ちまで連想させているのは見習いたい点である。

合評
  • 草木も枯れ果てた、天地の荒んだものさびしい景色を写生しています。水車のある風景です。少し大きな水車を想像しました。「回る力の出ぬ」と表現することで、水車が回っている時の様子も想像できる気がします。 (なおこ)
  • 何もかもが荒れ果てて寂しいさまを冬ざれというとありますが、自然の万物だけでは無く、動かぬ水車を擬人化することで、寂しさが際立つように思います。 (もとこ)
  • 冬の蕭条とした景色ですが水も涸れて動いていない水車を回る力の出ぬ水車と擬人化してユーモアを持たせている。そこに春になればの救いを感じる。 (うつぎ
  • 水が涸れて動かない水車。水車は水の力で回るものだが、自分で回る力が水車にあるかのように擬人化して見たところが面白い。冬には休んでいる水車も春にはきっと力が出て元気に回るだろう。 (せいじ)
  • 枯れはてた冬の畑にポツンとある水車小屋なのでしょうか。この時期使われることもなくただ佇んでいるのみです。 (素秀)
  • 川の水量が減りほとんど回らなくなった水車に、冬の静かな寂しさを感じます。 (豊実)
  • 今日から昭和44年の作品になります。

解禁の日の鳥焼いてもてなさる Feedback

南上加代子  

(かいきんのひのとりやいてもてなさる)

狩猟ができる期間のことを猟期と言い、日本の猟期は原則 11 月 15 日~翌年 2 月 15 日(北海道は 10 月 1 日~翌年 1 月 31 日)に法律で定められている。ハンターたちにとって 11 月 15 日は待ちに待った狩猟解禁日なのだ。猟期が「冬」に定められているのには、二つの大きな理由がある。一つ目の理由は、誤射の危険性が低いから。冬は木から葉が落ち、草が枯れ、山野の見通しが良くなる。また、農閑期で里山で作業をする農林業者が減るという事情もあるようだ。

さて、この時期の鳥といえば渡り鳥なので、せいじ解のとおり鴨料理が連想できる。民宿の主が狩猟の資格を持っていて、この日に合わせて招かれたのである。宿にとってもこの時期初めての客なので、山や畑の幸とともに手料理のごちそうでもてなされたのである。一元ではなく毎年通って馴染みになっているような親しみが感じられる。宿主やその家族も一緒に卓を囲んでいるような情景も連想できる。

合評
  • 猟師にとっては待ちくたびれた解禁日。その日狩った鳥を焼くもてなしは特別のものなのでしょう。 (もとこ)
  • 狩猟解禁が季語となるので、この句は解禁の日の鳥/で切れるのかなと思います。 (素秀)
  • 狩猟法では 11 月 15 日が狩猟解禁日とのこと。鳥はおそらく鴨であろう。冬の句である。解禁日当日の朝方か夕方に打った鴨を焼いてもてなしを受けた。鴨は鴨でも特別な鴨、最高のもてなしに対する喜びと感謝が感じられる。 (せいじ)

通夜の客今宵の月の良きを云ふ Feedback

南上加代子  

(つやのきやくこよいのつきのよきをいふ)

亡くなられた方の冥福を祈る通夜に愛でる満月なので、故人の生涯や為人につながる感興として鑑賞することになる。したがって不慮の死とか病死、事故死などの哀しい死ではなくて、安寧な大往生であったのではないだろうか。清らかでまどかな月を愛でながら故人を悼みつつもなぜか平安裡にあるのである。

合評
  • 亡くなられた方の良き人生を良き月と重ねられ、参列者がしみじみと追悼しているのではないでしょうか。 (もとこ)
  • 偲んですごす通夜客も今夜の月に触れずにはおれないほどの名月であったのでしょう。 (素秀)
  • 中秋の名月の中でのお通夜、名月がまるで故人を出迎えに来たかのようだ。故人は俳人かもしれない。そうであれば、通夜の客にも俳人が多いことだろう。作者も含め客同士、名月を介して故人の思い出を語り合っているのではないだろうか。 (せいじ)
  • 「いい月ですねえ。」と、亡くなった方の魂が月の風情に溶け込むような気持ちで弔っている。 (豊実)

木曽材のちらばりて河涸れにけり Feedback

南上加代子  

(きそざいのちらばりてかはかれにけり)

せいじ解にあるように、木曽川の伐木流しは非常に古く(江戸時代)から行われ、圧制の政策の中で、生きるがために粗食に耐えて、木曽や飛騨の杣人たちは、無口ながらこの仕事を頼りに生き抜いてきたのである。明治、大正と生き続けてきたが、中央線の開通と発電用のダムの建設によってその生命は絶えた。昭和年代でもその名残の木曽材が河原やその周辺に散らばっているのであろう。ダムで堰き止められているので冬季には涸れ川状態になるので、あの有様は昔の過酷な作業の様子を髣髴とさせるのである。案内の人にその時代の説明を聞きながら悼むような心情によって生まれた句であろう。

合評
  • 貯木場の光景かなと思いました。冬はシーズンオフでもあるし浮いている木材も少なくなり、川の水も枯れ気味で閑散とした冬の景色かと。 (素秀)
  • 林業が休業中なのでしょうか?河原に伐採した木曽材が雑然とあり、水が涸れた冬の川が一層わびしく感じられます。 (豊実)
  • 「木曽材の筏流し」でネット検索したところ、筏に組む前に木曽川の上流部で「小谷狩」「大谷狩」という運送プロセスがあることがわかった。水量が減る冬場に行うため、流送する木材で川瀬に堰を築いたうえで堰を壊し、水を一気に流して木材を流下させるとのこと。いつの時代まで行われていたのかは知らないが、堰を壊す、水が一気に流れ出す、木材も一本一本散らばって流れていく、という光景は想像するだけで勇壮である。あとには涸れた川が残り、水がちょろちょろと流れるだけである。 (せいじ)

師の留守の書斎も萩の花の中 Feedback

南上加代子  

(しのるすのしよさいもはぎのはなのなか)

「かつらぎ庵にて」と前書きがほしい作品である。当時、加代子さんや品女さんを始め同年代の地元女性作家が青畝先生の直接指導を受けていた。先生は誰でも訪ねやすいようにと敷居を低くして受け入れておられたので、お友達を誘って「かつらぎ庵」の萩見物にでかけたのである。奥様の気遣いで先生の書斎にも案内されたのではないかと思う。書斎にも庭の萩を剪って壺に活けられていて、窓から見えるお庭にも盛りの萩が見えるという状況なのであろう。留守の書斎を気軽に訪ねられるというところに垣根を設けずに指導してくださる青畝師の為人が伺えるのである。

合評
  • 師の留守の間も、庵には萩の花が咲き誇っていた。師の書斎を神聖な場所として見ている印象を受けました。 (なおこ)
  • 師は生憎の留守だったが、萩は満開で庵も書斎も花に囲まれていた。この萩を見られただけで満足だなあ、という心持でしょうか。 (素秀)
  • 萩の花を見せてもらおうと何人かの句友と師のお宅を訪れた。はじめから分かっていたかどうかは知らないが師は留守であった。庭の萩の花は見頃であり師の書斎もその中にあった。このような美しい萩の花を師とともに見ることができないとはと、師の不在をちょっぴり残念に思っている。嬉しさに中に一抹の寂しさが感じられる。 (せいじ)
  • 加代子さんにとっての師とは青畝先生のこと。当時、かつらぎ庵の広いお庭は萩で有名でした。

二三べん回れば覚え盆踊 Feedback

南上加代子  

(にさんべんまはればおぼえぼんをどり)

近年、町中での盆踊りはすっかり減りましたが、この句の詠まれた時代は、地域交流のイベントとして定例行事でした。事前の練習など指定なくても踊りの輪に入って見様見真似している内にすぐの覚えてしまったのである。最初は見ているだけだったのが手招きされたか背中を押されたかで自然と踊りの輪に馴染んでいったのである。吟旅をよくされていた加代子さんなので旅先の田舎の盆踊りであったかもしれない。「二三回」といわず「二三遍」と詠んだところが非凡である。

合評
  • 観光で盆踊りに体験参加したのかと思います。単純な手ぶり足はこびは直ぐに覚えてしまって、地元の人に混ざっても違和感なく踊れているようです。 (素秀)
  • 盆踊りの輪に加わった時のことだと思います。一二周目は前の人の動きを見ながら、ぎこちなく手足を動かしますが、三周目になる頃にはすっかり動きを覚え、楽しく踊ることができています。 (なおこ)
  • 簡単な振りなので盆踊りの輪に入ることができた楽しさが溢れています。得意そうな雰囲気もありますね。 (もとこ)
  • 作者はよそから来て盆踊の輪に加わったのであろう。簡単な手ぶりの輪踊、実際に二三べん回ったら覚えてしまった。体験を句にしているので実感がこもっている。 (せいじ)
  • ためらいながら踊りの輪に入っていく。見よう見まねで手足を動かす。意外に私でもできるじゃん。 (豊実)

ビール呑む酔はだんだん毒舌に Feedback

南上加代子  

(ビールのむよひはだんだんどくぜつに)

職場の呑み会の雰囲気がある。酔の勢いにのって自制がゆるみ、普段不満に思っていたことが吹き出したのである。泣き上戸、笑い上戸はまだ許せるけれどこの種の酔いつぶれはたちが悪い。上司批判程度ならいいけれど同僚の悪口になるとあとあと影響が出るのでそろそろ誰か止めないと…。「饒舌に」ではなく「毒舌に」が面白いですね。

合評
  • 酔いが回ると、普段は言わない様な嫌なことでも言葉に出す人はいます。酔いのせいとは言い難いこともあります。理性的な人ほど反省することが有るのではないでしょうか。 (もとこ)
  • ビールで酔ってくるにつれて愚痴やら悪口やらで場が盛り上がってきているのではないでしょうか。まだまだこれからとも思えます。 (素秀)
  • 夏のビールはうまい。ついつい度を越して酔っぱらってしまった。だんだんと自制心が効かなくなり毒舌に。その記憶はあって自己嫌悪に陥っている。とはいえ、夏のビールはうまかったと改めて思っているのではなかろうか。 (せいじ)
  • 酔いにまかせて多少の毒舌は笑いを誘うこともありますが、この場合は、だんだんとエスカレートして毒舌が行き過ぎたような感じがします。 (豊実)

土牢の香炉に落ちし椿かな Feedback

南上加代子  

(つちろうのこうろにおちしつばきかな)

土牢と香炉の関係が難しいですが、ここは素直に線香をたむけるためのものだと理解しました。鎌倉大仏の前にある大香炉は有名です。この句の香炉も落椿を受け止めるそれなりの大きさのものであろう。土山の入り口は築山のようになっていて椿の枝が被さっているような風景が見える。護永親王の土牢をネットの写真で見てみたが香炉らしいものは映っておらず、揚句のそれかどうかは定かではないが、香炉が置かれているということはそれなりの地位の人であったことがわかる。「落ちし」なので、じっと観察していて偶然香炉に落ちた瞬間を写生したのではないかと思う。

合評
  • 誰が幽閉されていた土牢なのでしょうか。鎮魂の香炉がしつらえてあるところをみると名のある人なのでしょう。落椿も慰霊に花を添えているようです。 (素秀)
  • 土牢のあった薄暗い辺りに香炉が置いてあり、薮椿の濃い赤の花がぽとりと落ちて彩を添える様な情景を感じます。 (もとこ)
  • 昔、土牢で亡くなった人の霊を慰めるために香炉が置いてあるのかなと思いました。ただ、その香炉は今はほとんど使われておらず、そこに、霊を慰めるかのように椿が落ちたのでは。 (豊実)
  • 土牢をネットで調べたら護永親王が幽閉されたといわれる土牢跡にヒットした。鎌倉市二階堂エリアの鎌倉宮にあるという。これではないかと思った。土牢跡に香炉が焚かれていてそこに椿が落ちている。悲劇の護永親王と落椿がよくマッチする。 (せいじ)
  • 昭和43年の作品。

大波を起すイルカの顔寒し Feedback

南上加代子  

(おおなみをおこすイルカのかほさむし)

「大波を起こすイルカ」といわれると水族館のショーのイルカのことだと分かります。でもそのイルカの顔に寒さを感じるというのには驚きです。冬の寒い季節なのでイルカショーなのかどうかわからいが、大波を起こしている最中のなのでハイジャンプするまえに水槽をぐるぐると泳ぎ回っている状況かなと思う。息継ぎで水面にでたイルカの顔が寒々しく見えたというのですが、必死に泳いでいるわりにはひょうきんで無表情な感じの顔なので余計にそう見えたのかもしれない。でも、私にはこんな感覚の句は詠めない。降参です。

合評
  • イルカショウだと思います。イルカが浮き上がったりジャンプして飛び込んだりしているのを見るだけで寒さがつのるのでしょう。 (素秀)
  • イルカショーを思い浮かべました。前のほうの席では、わざわざイルカが飛沫をかけて、観客を喜ばせます。しかし、寒い冬では近寄る観客も無く、イルカの顔まで寒々としているのでしょうか。 (もとこ)
  • 海にいるイルカなら波を切って泳ぐように思われるので、この句のイルカは水族館のプールにいるイルカではないだろうか。ショーのイルカかもしれない。イルカの顔も近くに見える。人には寒い冬ではあるが、イルカは平気でプールに跳び込み大波を起こしている。 (せいじ)

責任感瞳に見えしマスクかな Feedback

南上加代子  

(せきにんかんひとみにみえしマスクかな)

マスクは風邪の予防や、また風邪を引いた人が冷たい外気を吸わぬために用いるもので基本的には白色というのが常識であった。ところが花粉症対策の春マスクが出現したり、医療現場では感染防止にマスクを年中常用するようになった。さらに昨年来のコロナ禍でマスクは季節感を失ってしまいとても使いにくい季語になってしまった。とはいいつつも俳句鑑賞ににおいてのマスクは冬季のものとして鑑賞して欲しい。その他の季のマスクの場合は、別の季語と取り合わせて詠むようにしないと支離滅裂になるので注意が必要である。

回りくどくなったが、揚句のマスクの主人公は、医療関係者ではなく風邪を引いたか風邪気味の人と見るのが正しく、職場における責任者のように思えるのである。マスクをかけることによってよりクローズアップされた生気あふれるリーダーの瞳は、ともに働く同僚たちにも励ましと勇気を与えているのである。

合評
  • マスクをつけていると表情が分からないが、目に責任感が見えた。「責任感」という言葉にハッとしました。お仕事中の方だと思いました。 (なおこ)
  • マスクを着け一見しんどそうだがその目は責任感に満ちて力強い。病気でも休まず凄い人だなあと感じられたのでしょう。 (うつぎ)
  • マスク姿が当たり前の今とは違い、マスクをしている人が少ないなかで、風邪でも仕事を頑張る様子を、責任感が見えるという表現はおもしろいと思います。 (もとこ)
  • 風邪気味なのにマスクを付けて仕事をしているのかと。マスクから出ている目はやる気十分なのでしょう。 (素秀)
  • まるで今のコロナ禍を詠んだかのような・・・。マスクをしているのは医師ではないでしょうか?その瞳に信頼を寄せています。 (豊実)
  • 目は口ほどに物を言うというが、口を隠したマスクの上の瞳の中に見えたのが責任感であったというところが面白い。マスクは風邪の予防や防寒のためにつけるものであるが、この人は少し咳が出るのにそれをおして出勤している人なのかもしれない。そうであれば責任感がさらに引き立つ。昭和 42 年ごろの時代の若々しさを感じる。 (せいじ)

長き夜の二つの船の灯の遅速 Feedback

南上加代子  

(ながきよのふたつのふねのひのちそく)

もとこ解のとおり吟旅の宿で寛ぎながら長き夜の情緒にふけっているのであろう。沖遠く散らばる船の灯の中に連れ添うように同じ方向に進んでいる二つの灯が見える。暗い夜の海なので船影ははっきりと見えないが多分大きさが違うのであろう。ただ無為に眺めていたが、少しづつ二つの灯が離れていくので進む速さに違いがあるのだと気づいたのである。力強い句を詠むために可能なかぎり瞬間写生を心がけよと教えられたが、「長き夜」の季語に関しては例外であることを学ばされる。そうと気がついてからもなお間隔があいてゆく沖の灯を眺めている長夜の感興は俳句ならではの風情である。

合評
  • 波音しか聞こえない真っ暗な海に、二つの灯が離れていく様子を、秋の静かな夜、何ともなしに見つめている。旅先の海辺の宿でしょうか。 (もとこ)
  • 船影の見えない灯だけの遅速を見ていると二つの船はどんな船だろう何処に向かってどんな人が乗っているのだろうと想像をかき立ていつまで見ていても飽きない。静かな秋の夜の一シーンです。 (うつぎ)
  • 沖の船と手前の船の速度の差をのんびり眺めている夜のひととき。時間もゆっくり流れるようでまさに長い夜を過ごしているようです。 (素秀)
  • 海峡の見えるホテルのラウンジでウイスキーなど飲みながら夜景を眺めている場面を想像した。秋の夜は長い。至福の時が流れる。この夜中にも船が動いていることが灯の動きによってわかる。それも複数。暗闇の中、灯の動きの遅速がその残像とともに海峡の夜景に立体感を与えている。 (せいじ)
  • 一見、止まっているようにも見える二つの船だが、灯に速度差があるので、少なくとも一方は動いている。遠くの船を眺めながら物思う。 (豊実)

濡縁のほしきアパート月今宵 Feedback

南上加代子  

(ぬれえんのほしきアパートつきこよい)

解りやすく実感を共有できる作品です。濡縁は、雨戸の外側などに付けられた縁側のことで、雨水に濡れるためにこのように呼ばれます。俳句や短歌では、「月光に濡れる」という表現をするので、中秋と濡縁とのとりあわせは妙ですね。濡縁のあるような戸建て住宅に憧れているということではなく、アパートにも濡縁もどきがあったらよいのにという軽い願望でしょう。うつぎ解のとおり濡れるほどの月光を浴びならの実感だと思う。

合評
  • 今日は仲秋、濡縁に座って全身に月光を浴びながらゆっくり月見ができたらいいのに…。窓だけのアパートで残念に思っている作者が想像できます。 (うつき)
  • ずっと見ていたいほど美しい月だ。「濡縁のほしき」という表現でさらに、煌煌と光る月の美しさが伝わってきます。 (なおこ)
  • アパートの窓を開けての月見だが、今日の月には濡縁にお供えを並べて一杯といきたいものだ。 (素秀)
  • 濡縁があってもなくても名月は名月であるが、しかしやはり濡縁があったらなあと残念に思う心情がよく伝わってくる。つましいアパート暮らしとゴージャスな名月の対比も面白い。 (せいじ)
  • 仲秋の名月。アパートの窓の外から虫の声が聞こえます。そんな時、濡縁があったらいいのになあ。 (豊実)

存分に霧吹きたれど蛍死す Feedback

南上加代子  

(ぞんぶんにきりふきたれどほたるしす)

蛍の成虫の寿命は 1~2 週間と言われており非常に短いです。これは口が退化してしまったことで、水分摂取以上の行動がとれないためです。逆に幼虫のころは巻き貝や土壌動物を食べて成長します。成虫は幼虫時代に蓄えた栄養素を使って活動していると考えられており、これが成虫の寿命が短い一番の理由だそうです。環境や気候が適さなければ更に寿命が短るのでしょう。

この蛍、夜店で買ったか友人がくれたものでしょう。最初の夜は機嫌よく明滅して楽しませてくれたのに何気に元気がない。「しっかり水分を補給してやってね」と聞いていたので、復活を祈って何度も繰返し霧を吹いた。でも今朝覚めて籠の中を見るとひっくり返って死んでいた…という顛末でしょう。 もともと短い命なのに更にそれを縮めてしまったことに対する後悔の念とともに、生命の尊厳、儚さをも感じたのであろう。熱心に夏書などをされる加代子さんのことだから瞑想裡に合掌しておられる姿も目に浮かぶようである。

合評
  • 存分に吹きたれど死すと、十分手を尽くしても、運命に逆らうことはできないのだという、諦めの悟りの様なものを感じます。 (もとこ)
  • 蛍は成虫になると1週間から2週間の寿命と言います。出来るだけ長く生きてもらえるように水をたっぷり与えていたのだがやはり死んでしまった。美しいが儚いものだと諦めているようにも感じます。 (素秀)
  • 源氏蛍を飼おうとしたことがある。ダンボール箱の一面を網にして蓬を沢山いれ霧を噴いた。夜は光っていたが三日位で死んだ。この句は自然から引き離して貰って来るのではなかった、可愛そうなことをしたと思われての句のように思う (うつぎ)
  • 生き物を世話をするのは喜びもありますが、命の大切さを考えると大変ですね。おそらくは、籠の中で死んでしまった蛍が少しかわいそうです。 (豊実)
  • 季題は蛍籠であろう。籠の中に蛍を放って光の明滅を楽しむ。屋内にいて夏の夜の暑さを忘れさせてくれる。存分に霧を吹いた草を入れて大事に大事に飼っていたがとうとう死んでしまった。長らく楽しませてくれた蛍には感謝しかない。 (せいじ)

袖たぐりあげ祭笛習ひけり Feedback

南上加代子  

(そでたぐりあげまつりぶえならひけり)

写生句であれば「習ひをり」としそうなところを「習ひけり」と一人称に表現したところを学びたい。本番のスタイルなら浴衣に襷をして居るのかもしれないが、練習なので普段着の袖を二の腕が見えるあたりまで手繰り上げているのである。日焼けした逞しい腕のような気がする。女性のか細い腕では絵にならないのでやはり男性でしょうね。長老格のベテランがそばで熱心に指導しているそんな地域色のあるシーンが連想できる。

合評
  • 年に一度の祭りとなると地元では誰もが高揚高ぶるものだ。 一旦その域に入ってみれば、必死に笛の練習にも没頭するのだ。 (そうけい)
  • 袖たくりあげは男性で、自分の様に表現しているのは、身近な男性だからでしょうか。気合い十分の稽古の様子が伝わります。 (もとこ)
  • 習っている男性を見ての句だと思うが一人称にして習いけりと力強く詠んでいる。袖たぐりあげの描写が具体的で祭りに対する意気込みや高揚感が伝わってくる。 (うつぎ)
  • 祭笛の稽古をしたというのであるが、本番前のおさらいかもしれない。女性である作者が袖をたぐりあげる姿はちょっと想像しずらいので、男衆が稽古をしていたのを見ていたのではないだろうか。作者はその男衆になり代わっている。「袖たぐりあげ」に夏の暑さと男衆の熱さを感じる。 (せいじ)
  • 地域の祭りに参加してまだ間のない感じもします。まずは笛からなのでしょう。本人というよりはお子さんかなと思います。 (素秀)
  • 袖たぐりあげという措辞に、祭りに参加しようとする意気込みと嬉しさが感じられます。調子の良い笛の音が聞こえてくるようです。 (豊実)

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