六月晦日の祓いに白紙を人の形に切ったものに自分の名前を書いて御祓川へ流す。人形に己の穢を移してしまうのである。神域をめぐる澄み切った流れは浅瀬ではあるが少しずつ動いていて、形代は波にのるように見えるのである。
じっとその行方を掌をあわし目で追いつつ、石くれや川藻にひっかからず、つつがなく流れてほしいと願うのである。境内の木の間隠れを瀬音をたてながら楢の小川は下闇へ隠れていく。作者はこの情景を「波まかせ」と表現した。もはや、人の手を離れた形代は神にあずけたわが身の分身なのだからといっているのである。
古い下宿のたたずまいと有り様があからさまに表現してある。かっちりと力点をつかんでいるから第三者に情景が理解できるのである。水栓が緩んでいるという表現一つで安下宿であることがわかり、それ以外の不備さえ連想できる。おそらく立て付けも悪く電灯も薄暗く畳も壁もじめじめと黴びているのであろう。どうやら男性の独り者の部屋でなかろうか。
そんなわびしい下宿生活をする人物に親しみを覚えてくる不思議もこの句のおもしろさである。この句、黴という季語に目をつけたことが手柄である。俳句はマイナスシンボルを句材として生かすことが楽しいのである。緊張感を持って感動のアンテナを張っていたいものである。
暖竹は、本州中部以西の海辺や河岸に群生、高さ二〜四メートル、それ以上にもなるたくましい植物である。大南風の吹くこの季節、暖竹は一年中で最も勢いよく繁茂し、沖から吹く風に一日中ざわついでいる。土地によると南風のことを、はえ、まじ、まぜとも呼ぶが時には雲を飛ばし高波を起こすことがある。
暖竹は撓う力が強いので大南風を受けても折れるということはまずない。すぐに立ち上がってざわついている。ひねもす、よもすがらこれをくりかえし元気なのである。防風垣きとして漁師町や港を見下ろす高台に植えられていることが多い。この句は和歌山県新宮での作。 太平洋から吹く大南風がいかなるものか想像できるおもしろさがある。
梅天は雨気をふくんだうっとおしい大空、一点の色めきもなく外界は天に封じこめられたような感じをさす。しかしそれなりに夾雑物のないシルバーグレイの天空を仕立てるべく詩情に遊ぶ作者である。古典や近世文学の世界へ悠遊させてくれる。大景をゆったりと中心を逃さない青畝師の句の仕立てを学びたい。
実はこの句、須磨離宮公園の句碑「須磨涼し今も昔の文の如」の句とともに、主情ののぞきすぎ傾向もこの辺りを限度とするように…と、虚子先生から注意された作品である。主情の句を好むひとは多く、私も例外ではないが、あくまでも一幅の絵画として連想できるように表現することから逸れないことが大事である。客観写生の訓練をやかましく唱えるのは、そのテクニックを習得するためなのである。
雨の中の雨という見方が非凡である。そういわれてみると無限に降る雨粒の中、まるで選ばれたようにきらりと雫を宿している大藺の姿が眼前に浮かぶ。大藺は背が高く水辺草として代表的なものであるが、池や沼に群生するだけでなく観賞用として家の庭にも植えられる。
観察の目を大いに向けた作者は、鼻が茎の先に密生しからみあっていることに気づく。雨はいったんその花に宿り、そこからスルスルと直線を下がっていく。どうかすると茎の途中で雨の玉を凝らせているものもあっておくゆかしい。この凝っている雨の中の雨は花をまたいできらりと光って止まっているものであろうと思う。
広重の絵に「大藺に白鷺」があって、まだ花をつけない丈のあるものが描かれている。
青蛙は体調四センチくらいの小さな蛙で、いかにも蛙の中では子供子供したように見える。深読みをすると青蛙の青は四季であらわすと春にあたる。となるとこの青蛙は少年から青年にかけての年代で、能狂言では冠者にあたる。太郎冠者なのである。
もはや青蛙の太郎冠者は能舞台とも知らず跳ねて遊んでいるのである。跳ねてひょいと止まったときは両手をついて口上を申し立てている姿だと見るとなかなかおもしろい。わずか十七字の日本語がこのように人を楽しませる。それは感受性であり、モチーフをいかにつかむかということにかかってくる。いつも虚心でいることこそ、詩の神様が味方してくれるのかも知れない。
除草機は把手のついた木枠の先に回転式の鎌を、押しながら前方へ進んでいくと雑草が絡まる仕組みになっている。広い田んぼも畝の間を一歩一歩押し進めながら除草するのである。
この季節は草が最もよく生えるので雨上がりの土の柔らかいうちに農家の人は寸暇を惜しんで除草機を使う。夕方一日の労働が終わるときには除草機は泥まみれになる。近くに川などがあればそこですすぐのであるが、この句では湖があり、どぼんと浸けるだけで泥が落ちる。それは広い湖の一点へ没するばかりの除草機なのである。その瞬間今日一日の労働は終わりを告げる。昔は牛馬を利用していたが、最近は動力や除草剤を使うのでこんな情景を見ることができなくなった。
青畝師は大和の人である。大和には吉野川、十津川という全国屈指の鮎に川がある。そこでは深吉野の鮎、十津川の鮎とよんで珍重される。その生きのいいものを使って寿司にする。地元では先祖代々から受け継がれているその家その家の味があって、シーズンには必ず作るのである。いぶし銀のように光る鮎の姿寿司、いわゆる押寿司である。
ある日作者のもとへ手造りの鮎寿司を持参した客があった。久しく大和を離れている青畝師にぜひ食べてほしいと大和から持ってきたのである。客もまた師に会えたうれしさに、ふる里の様子、鮎の釣れ具合、その味ののり具合など話に花を咲かせた。如才ない青畝師の人柄はおもたせの鮎寿司をいっしょに食べさせたにちがいない。打ち解けた人と人との関係がこの句から伝わり、読者に寛ぎを与える。
一読、梅雨時の山国を連想する。豪雨があれば沢や谷は濁流が走りおそろしい。雷火がたつと一天かき曇り一山をゆるがすようなとどろきがする。普段は大きな胡桃が翼を張る静かな村もこのシーズンは崖や切通しに土嚢を積んだり敷き込んだりしなければならない。
昼間というのに暗い空に雷火が走った。その瞬間、大きな枝ぶりの青胡桃が浮き上がった。鮮やかな青さであった。自解には「天竜峡の宿に昼寝をした。空のあやしさにふと目を覚ます。強い神鳴が震動する。あわてて窓に目をやる時光った。光の中の青胡桃は鮮やかすぎた」よある。刹那を捉えたみごとな写生である。
宇治川での作とある。大きな松が翼を広げ、真下に鵜小屋が作られている。篝につかう松材も積まれている。独特の鵜舟が松幹に舫ってあり瀬に揺れている。時刻が近づくとそろそろ鵜匠のお出ましである。小屋から鵜を出し人に接するように声を掛けてやっている。今か今かと待つ観光客に鵜篝が焚かれると辺りに松明が匂う。
いよいよ鵜匠が装束を整え舟に乗り込む。烏帽子から足先まで全て真っ黒で統一されている。人形使いの黒子のようである。岸辺の松影も宇治山の影もシルエットに変わり、しっとり闇の世界に沈んでいく鵜飼の景が「夕ごころ」という情趣で見事に写生されいる。
クリスチャンの作者に安息日がやってきた。週に一日神とのつながりになかで心身の憩いを持つことを安息日という。通常は教会の礼拝に出向くがこの場合の青畝師は、日常の疲れを一休みしてアロハ姿で寛いでいるのであろう。
主宰の仕事を天職とし、選句選句で追いかけられる一方、自らも作品を生み続ける俳人としての生涯を九十三歳の高齢まで貫かれたことは驚嘆である。青畝師にとって俳句と信仰は同意義のもので、神の創造物を賛美することが一句を生むことであったにちがいない。この句から己れ自身もまた対象物として詠みこなせる客観性を学ぶことができる。 「安息日は人のためにもうけられた」(マルコ 2.27)
囮屋でおみやげの用の鮎を買っている。主人がなれた手つきで生簀から鮎をつかみだし、笊の上に一尾ずつならべている。少しでも大きく、できるだけ容のよい鮎をと客の気持ちを写生している。くろい目をぱっちりとあけながらまだ命終にいたらぬ元気さで口を動かしている。しばらくそれを眺める客と主人のやりとりも想像でき、生きの良い鮎に感動しているのである。
妹は男性から、妻、恋人、姉妹、その他の女性を呼ぶ語であるが、ここでは妻をさしている。まくなぎは目まといとも呼ぶが、手で払っても払ってもつきまとい、ひどいときには睫毛にあたったり、目にとびこむことさえある。おおむね誰にでもまつわる小さい虫であるが、今まさに愛妻を襲っているのである。ところが作者には一向に寄りつきもしないどころか目にも見えないというのである。したがってその煩わしさが実感できないでいる。不思議な人を見るように眺めながら内心かわそうにとおもいやっているのである。
青畝師は田舎育ち、藁草履を穿き、片道二時間の距離を通学した人であるから、鍛えられた足や皮膚はまくなぎのほうが逃げていくのであろう。飾らない青畝師の人柄の見える句である。
「小十戸」は、十戸前後、十戸ほど、という意味になるかと思う。龍神村は、これといって遊興の場もなくただ温泉に浸かるか渓流釣を楽しむかで、夜は灯りも少なく真っ暗といっていいほど寂しい村である。えごの花が咲き始めるとこの村にも少し活気が出てきて鮎釣客がふえてくる。しかし素朴な村人の様子は何の変哲もない。龍神村の土地柄はさびしいえごの花が似合っている。
梅雨どき水郷へ出かけると葭切の声が賑やかである。小雨がしとしとと降っている葭原はまるで何かつぶやいているように葉音をたてている。この時期、葭の底の方では浮巣がいとなまれ、雌が卵を抱いている。警戒心が強い雄は絶えず見張りをして少しでも自分の巣に近づこうとする人間や、舟、艪の音がしようものなら声をたてて雌に急を知らせる。したがって、けたたましく鳴き声をたてる葭切の近くには浮巣があることが多い。この句、葭切の生態を余すなく捉え、ことばはこびが「の音」を重ねてなめらか、リズム的である。小雨降る水郷情緒がしっとりと描かれ、想像のひろがる楽しさがある。
朴の葉の緑は明るい。花が終わると葉はのび放題である。この句、中七の「なぶられて」は擬人化表現で一瞬どきりとさせられる。青嵐に吹きもまれ、大揺れの朴をこのように捉え、主観をどっと出す表現は青畝師の特徴が出ている。自然風物にこれほどの主情を打ち出す半面、人に対しては淡々とむしろ我慢せずの態度でした。自解には「青嵐が山野を撫でるように通るとき、最も大騒ぎを見せるのは朴に決まっている」と書かれている。素朴で思ったとおりの文章を書かれる青畝師であったが、決して美文を良しとされなかった。
大きく広々とした芭蕉の葉は日をさえぎったり風にひらめいたり周囲の陰影を。そばに座敷でもあるとほの暗く昼間でもうっとおしい気がするものだ。それがまたく剤には面白く俳人に好まれる。ある日、芭蕉広葉を見上げていた作者は、ふと守宮らしい影をみつけたのである。守宮の手、足、尾の容は特徴あるものでじっと観察する気になった。太陽の光を受け風に揺れるとき、風の収まっているとき、守宮はそれでも動かない。瞬間、二重写しの守宮を見てとった。影絵のように太陽のいたずらである。作者もまた芭蕉の緑に染まりながら守宮と一対一の境地を楽しんでいる様子も解る句である。
泰山木の大きな白い花の咲きはじめから咲き終わりまでを「滓」という一語で表現しきっている。樹上にさみどりの蕾が立つようにのぞきはじめるといつのまにか膨らみはじめ、ゆるやかに花びらをほころばせる。満開になると灯がついたように明るく、次々と他の蕾もひらきはじめる。先がけの花が色褪せ淡褐色から褐色となり、花の「滓」となるのである。樹下へぽたぽたと咲き落ちることなく、樹上で生涯を閉じる哀れを慈しみ深く詠い上げた作品と言える。
虚子の墓が鎌倉五山第三位にあたる寿福寺に。梅雨どきの鎌倉は静かで道すがら雨に濡れるあじさいに立ち止まったり、鎌倉五山という立派な建物に驚いたりしてるのであろう。虚子は明治四十三年に東京から移り住んでいる。俳句の修行に師の膝下で学ぶことができる人と、遠く離れて一人こつこつ努力しなければならぬ立場の人がある。青畝師は後者であった。師弟は三世といわれるが師亡きあとなお尊敬し慕う青畝師の心情が滲む作品である。この句、鎌倉五山という重厚な言葉を据え、季語あじさいで閑寂さを表現、挨拶句のような情趣がある。
人工的庭園のあやめではないところがこの句のよさである。早春ほつほつと角ぐむ芦も六月は青々として風のままに吹かれている。その芦の間に紫の色彩がちらと覗いた。芦に添うようにあやめが咲いている。この句、仮名が多く字配りのやさしさまで配慮してあるようだ。自解には「古来夏の季として詠まれたあやめとか杜若とかに夏の情緒のあるためなのか、もはやそこにたとえば哨兵のごとくに夏がやってきたのかという驚きを覚える。(中略)散文的な叙法は散漫になり易い。しかしリズムを考慮して情緒をだしている」とある。
椎の花は栗の花のような異様な臭いではないが決して芳しいとも言えない。むしろ不快さを覚える向きが多いと思うが、その香に慕いよる蚊の習性をおもしろいことばで一句に仕立て上げている。素秀解のとおり、餅を搗くというのは蚊がひとかたまりになって上下運動をしていることである。いわゆる蚊柱のたつことである。雨の近づくときなどにだんごになってうごめいているのをよく見かける。そのせいで椎の花がこぼれるわけではないが、群れなす蚊のいたづらととうけとった青畝師の童心に惹かれるのである。一人遊びの幼子の心が自由自在に遊ぶようなそんな感じかなと思う。自解によると「『餅を搗く』」ということばはある土地の人のいうことば」とある。
蛞蝓の這ったあとは銀線が、その来た道をはっきりと見せる。この句、中七の措辞、「かくもてらてら」という表現は蛞蝓の特徴を正しくいいあてている。写生の目が確かなのである。しかし写生に終わっているわけはない。上五「来しかた」に青畝師の主情がのぞき、ほのぼのと優しみを感じさせる。上五から中七に読みくだすとき、ユーモアさえのぞくのである。
この句から死刑宣告を受けた人の作品を選句していることがわかる。複雑な思いの中に朱筆を握り添削をし、選しているうちに夜がしらんじてきたというのである。青畝師の嘆息が伝わてくるのは季語の斡旋によるものであろう。自解には「罪を憎んでもざんげする人を憎むことはできぬ。まして真情をもって自然の美を見つけているこの際の彼の生命を消して済むのか。私は矛盾だらけの社会を考えさせられて、目をとずる能わないで夜明けを待ったのであった」とある。青畝師は主宰である前に俳人である。自然を詠い賛美してこその俳人の良識を兼ね備えもつ方であった。
大地を走る蟻の一日は朝日が出たときからはじまる。どこへ行くのか脇目もふらず、せっせと列を急ぐ。一見、一団体のように見えるのであるが、別に迎合している様子もなく、ただ追従しているのでもなく、思いがけないところで曲がったり、個の考えで動いている。対向してすれちがう蟻がいても、それはそれでぶつかることもなく上手にやりすごす。この蟻の世界を人の世におきかえたらさぞ住みやすい社会ができるのではないかと…ふと胸に問う青畝師である。働き者で努力家で、炎天をものともせぬ健康なからだを持ち、和して同ぜずという理性と教養のようなかたまりを持つ小さな蟻に感動してうまれた一句である。「満面に汗して酬もとめざる 青畝」の一句が頭をよぎった。
6月6日の鑑真忌には大和上の木造が公開されるという。失明にもめげず苦難を乗り越えて渡日を果たした強い意志のあらわれた顔は、その奥にたたえられた慈しみの表情と調和してまことに聖とよんでふさわしい方であると思われたのでしょう。寺の中に鑑真の墳墓もあり、そのあたりに蟻地獄がある。摺鉢の中では蟻がもがき苦しみ切なく墜ちていくのが見える。その姿に一瞬、鑑真の生涯を重ねあわせ、夢うつつのような世界を描いた作品といえる。蟻地獄というような残酷な季語の蔵している深い読みを味わいたい。青畝師の句にはやさしみの詩情がそこはかとにじむ。人温というものであろうか。
青畝師には鮎釣りに長けた友人がおられ、ある日誘われて同行したとき生まれた作品だという。自解に青畝師自身が鮎竿を握って釣っている様子が仔細に記されている。「激流に向かって何べんも竿をふりまわす。上手へ振った釣糸がぐんぐん下手へ押し流されるのでまた振りなおし、こんな仕草を飽きもせず繰り返していた。恰も激流をなだめるかのごとく、やわらかく撫でまわしているように見えるのであった」緊密な描写に、なるほどとうなずかされる句である。感動を一点に凝縮したみごとな写生句だと思う。
眼前の十字架に向かっていると、はじめは気づかったが蜘蛛が囲を張っていることに驚きを感じた。蜘蛛はキリストのふところにある安らぎでせっせと囲を張る。キリストはその蜘蛛を慈愛を込めて眺めていらっしゃる。そんな図式ではないだろうか。杜若が咲く頃は雨が多く、雨が小止むとき蜘蛛は囲づくりが忙しい。中七の「雲の囲よ」の呼びかけによって単なる写生に終わらず蜘蛛に対する作者の存問の意が隠されている。
苗代や植田、また林などの害虫を明かりで誘って殺す装置を誘蛾灯という。近年農薬散布も行われるようになたのであまり見かけなくなった。この句は中七の措辞から植田に仕掛けたそれと思う。青々と育つ植田を荒らす蛾はその仕掛けを知らず近づき、受け皿となっている水に落ちるまでの間をはばたく。じっと見ていると確かに鬱々と言う感じである。即ちことばの魔術師といわれた青畝師の詩人としての的確な措辞である。自解によると「旧式のランプであった」と説明し、「こんな古風な誘蛾灯を見ると、昔の灯とまし頃のあやしい情緒が不思議に動いてきて、句作の気分を豊かにした」とある。
露天湯の岩場に腰を下ろし、女がひとやすみしているのである。「腿に布載せ」と細かい観察をして女性特有の姿態を表現する。心をゆるした人にしか見せないポーズ、いいかえて憎からぬ人にのみ見せる姿を上手く捉えている。湯へ来る前に、宿の人から「すぐ近くまで蛍がとんでくるのですよ」と聞かされていたのであろう。それを信じ、湯げむりのかなたから飛んでくる蛍を待つ心でもある。その愛らしい姿を眺めている作者もまた充実した時間を共有している。湯浴、腿、蛍というたおやかなモチーフがそろいすぎているのに徹底した写生表現があたたかい共感を与え説得力がある。まかりまちがえば卑俗な句になり得るところをとどまって品性を失わない。作品はどこかで品位を底流させたい。
雨期、芝はよく成長するので鎌や鋏で刈ることもあるが、手押式の先に鎌のついた芝刈機を」つかうと早い。電動式のうなりをあげるものも多く使われるようになった。この句はおそらく後者を使っているのであろう。先が芝に触れるやいなやあっというまに刈り込んでいく。まっさおな芝屑がまるで生き物のようにとびたっていく。次から次からととびたっていく。まっさおなみじんだなぁ…と感じ入っての表現がユニークである。芝刈機のうなり音、スピード感が迫り、活気ある一句に仕立ててある。
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