2021年8月
目次
(ひとりゐのうきよにたへむろをひらく)
浮世とは「憂き世」の意で現世のこと。死後の世界に対してこの世の中…ということになる。夫婦仲睦まじく平和で幸せだった生活も伴侶の死によって一変し、耐え難いほど寂しく一人居の空しさを感じるのはないだろうか。いづれは天国で再会できることを信じていまは耐えるしかないと炉火を育てているのである。幸せだった過去を思い出すにつれ涙もろくもなるが、炉火の炎が涙を乾かして励ましてくれるのである。
- 合評
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ひとり身になって初めての炉開き。これから一人で冬を迎えること、生活していくことへの決意が見られます。 (素秀)
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炉を開くが冬の季語。夫を亡くしてすぐの茶道行事だったのではなかろうか。「一人居の浮世」によって、一人残されたこの世のはかなさ、つらさがよく伝わってくるが、そのようなつらさに耐えて、これから一人で生きて行こうとする決意が「たへむ」に感じられ、いじらしい。つらさに耐えつつ茶会に参加し慰められたのだと思う。 (せいじ)
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炉開きをして心を静め、夫を亡くしてしまったが、一人暮らしの寂しさに耐えようとしている。 (豊実)
(わたむしはもふくのむねにとどまりぬ)
綿虫は晩秋から初冬にかけて、空中を青白く光りながら浮遊する。物に当たると付着する。初雪の頃出現することから、雪虫とよぶ地方もあるようだ。
「喪服の肩」「喪服の裾」ではなくて「喪服の胸」の措辞がとても効いていてうまいです。作者は綿虫があたかも送葬した人の化身となって自身の胸にすがって来ているかのように感じたのである。葬儀は済んだと言っても死者を悼み悲しむ思いは今なお胸に溢れたままなのである。
- 合評
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綿虫の意志で喪服にくっついているようです。か細い綿虫に儚さも感じます。 (素秀)
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綿虫が冬の季語。雪のように綿のようにふわふわと漂っていた小虫が喪服について離れようとしない。故人の魂のようにも感じたのであろうか。あなたはいつもわたしと一緒にいてくれるのですね、とつい読んでしまう。せつない句である。 (せいじ)
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黒の喪服についた綿虫の白が目立ち気になるが、葬式の最中なので、そのままそっとしておいたのだろうと思いました。 (豊実)
(まいこつをおへしてはからあきのかぜ)
納骨、埋骨の意に大きな違いはないが、埋骨と言われると故郷にある代々の墓に納められたというような雰囲気を感じる。「空ら」の措辞は物理的な説明ではなくて、埋骨を終えたという安堵感とともに故人を悼む気持ちや何気に心に残る「空しさ」を代弁している。季語の「秋の風」が作者の心象に協調しているからである。この作品は、熟達された写生の技術によって心象の部分をみごとに包み隠している。これこそが青畝師直伝の「俳句のこころ」である。
- 合評
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49 日法要も納骨も終えて一息ついたところで、改めて終わってしまった感慨や寂しさもあると思います。空いてしまった手に吹く風も冷たさが増しそうです。 (素秀)
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愛する人との別れはつらい。ひとり取り残されてしまった寂しさが「手は空ら」に託されている。寂しさに追い打ちをかけるように秋の風が身に沁みる。 (せいじ)
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さっきまで大事に手に持って抱いていた骨壺。無事に埋骨を終えて手が空になり、秋風が寂しく感じられる。 (豊実)
(じようさしにみとりをはりしあきうちわ)
暑い夏もなんとが凌げたと思っていたが、秋口になって看取りの甲斐もなく他界されたのである。誰とは言っていないが同居の親族であろう。看取りの日々に使っていた団扇、いつでもすぐに使えるように状差しに挿しておくのが定位置であったのだが、いまは名残の秋団扇としてそのままになっているのである。
それを眺めながら共に戦い続けた看取りの日々が思い出されるのである。精一杯お世話できたという安堵感も漂っている。
- 合評
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団扇のしまい場所に状差しは良く使われます。看取りの後に差されたとなると亡くなられた方の愛用の団扇だったのかとも思えます。 (素秀)
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夏の間看病に使っていた団扇が、秋になり、状差しに刺されたままになっている。看取り終わって取り残された自分と、秋になってうち捨ててある団扇とが共鳴して、亡くした人への思いが伝わってくる。 (せいじ)
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残暑の中、団扇をあおいで看病をしていた。息を引き取った後、枕元の状差しにさしてある団扇が故人を見送っているようだ。 (豊実)
(はいざらにしているさざえかたのちやや)
この作品もどのような情景の場所にある茶屋なのかまで想像を膨らませたい。加太は、紀淡海峡の絶景を望むリゾート地で、高台には素敵なホテルが点在し、海岸線沿いには海の幸を提供するお店も多い。揚句の茶屋もまた道の駅とかドライブインに隣り合った海沿いの場所ではないかと思う。自分が食べたさざゑの殻を灰皿にしているのではなく、大ぶりで見栄えするものを綺麗に手入れしてテーブルの上に置かれてあるのである。涼し気な海風も通っている。
- 合評
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瀬戸内海のさざえはツノがありませんが、和歌山のさざえには立派なツノがあってテーブルに置くと調度良い感じに立つのでは。手ごろなさざえの殻を灰皿として置いてあるのかとも思います。 (素秀)
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加太の茶屋でさざえの壺焼きを食べ終わった人が、貝殻を灰皿にして一服しているのだろうと思いました。 (豊実)
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さざえが春の季語。加太は和歌山県の加太であろう。春も終わろうとする頃だろうか、茶店に入り、食べたばかりのさざえの殻を灰皿にしている人がいるのを見て、今がさざえの旬であることにあらためて思い当たったのであろう。作者もさざえを注文したに違いない。 (せいじ)
(てうどなきゆえさんそうのすずしさよ)
避暑地の古民家のような山荘を想像する。宿主に案内された部屋はこれといった調度もなくがらんどうであったのであろう。古民家ゆえに懐かしい古風な調度も配置されているかと想像していたがちょっと期待はずれであった。でも風通しの良い部屋は、山からの涼気が通ってとても涼しく、これも(調度のないのも)またよし、と納得したのである。
- 合評
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豪華な調度品は無くとも自然の中の涼しさは得難いものだ、との感慨かと。 (素秀)
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身の回りの日用道具が何もないので不便と言えば不便だが、山荘には涼しい自然の空気があればそれで十分。 (豊実)
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涼しが夏の季語。山の中にある別荘はそれ自体涼しいであろうが、調度がなくがらんとしているが故により一層涼しく感じられることよ。家事などから解放された爽快感も感じられる。 (せいじ)
ヴィナスの像立つプール暮れにけり Feedback
(ヴィナスのぞうたつプールくれにけり)
ヴィナスの像立つ…とあるので、味気ない矩形のプールではなくて、せいじ解にあるようにリゾート地の円形に近い泉のような形態になっているもののように思う。となれば高所に位置し眼下に街を展望できるとか海が展けているというような場所であることも連想できる。プールだけではなくて展けたあたりの風景も黄昏れていると考えられるので異国情緒に溢れたロマンチックな景色が連想できないだろうか。俳句は述べられている事実だけを理解してよしとするだけではなくて、省略された部分にも連想を広げて隠された情景が見えるように鑑賞することが大切と思う。
- 合評
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ナイトプールなどもありますがこのプールは夕暮れ近くそろそろ終業が近いのではないでしょうか。ヴィーナス像にも夕日が差して少し寂しさも感じられます。 (素秀) -
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プールが夏の季語。ヴィナスと言えばミロのヴィーナスやヴィーナスの誕生を思い浮かべるが、そのようなヴィーナスの(おそらく等身大の)白い石像が飾られているリゾートホテルのプールサイドで一日をのんびりと過ごしましたよ。避暑地で夏季休暇を満喫している様子がうかがわれる。 (せいじ)
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ヴィーナスの白い石像がプールを見守っているような景を想像しました。今日は既に日が暮れて、プールで遊んでいた子供たちはいなくなり、無事一日が終わったなあという感じがします。 (豊実)
クッキーをつまみさくらんぼをつまみ Feedback
(クッキーをつまみさくらんぼをつまみ)
クッキーをつまんだ手でさくらんぼもつまんだ…という報告の句ではない。親しい仲間とひとつテーブルを囲み茶話を楽しんでいるのである。卓の上にはそれぞれが持ち寄った手作りの菓子や果物が並んでいて、四方から手が伸びて思い思いの好物をつまんでは話が尽きないのである。さくらんぼは遠来の友の土地の名物さくらんぼの感じもする。省略が効いているゆえに連想が広がるのである。このリフレインは覚えておいて使えるかもしれない。「ピーナツをつまみチョコレートをつまみ」だとウイスキーを飲みながらの卓になる。
ところでこの句、五七五の調子ではなく五三九というリズムになっているが、きちんと十七文字に収めれているので「破調」ではない。俳句ではよく詠まれる手法で「句またがり」と呼ばれる。披講子が上手に詠むことで耳にも心地よくなる。「クッキーを」と「つまみ」で切って、後半の「さくらんぼをつまみ」は一気に詠ずるのである。
- 合評
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クッキーをつまみで切れる破調ですが自然にさくらんぼをつまみに繋がるリズムの良い句だと思います。リフレインの効果もあるかと思います。 (素秀)
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さくらんぼが夏の季語。何人かでクッキーとさくらんぼを食べながら談笑しているのであろう。「つまみ」に臨場感がある。「つまみ」「つまみ」のリフレインも楽しい。 (せいじ)
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このさくらんぼは自分で摘んできたのでしょう。さくらんぼ摘みを楽しんだ後、クッキーもつまみながらお茶を飲んでいる楽しい時間だと思います。 (豊実)
(つりばしをかけしぼくじようほととぎす)
一読六甲山牧場を連想しますが断定して鑑賞することは句を小さくします。吊橋がかかっているということで起伏のある高山牧場で道とか谷で区切られた牧を吊橋でつないでいる情景が連想できます。「ほととぎす」のところは、「馬柵涼し」「風涼し」「虫涼し」「百千鳥」「蝉しぐれ」等々、どのような措辞をあてても一応俳句にはなります。実際にほととぎすが鳴いたかどうかは定かではありませんが、作者はいろいろ推敲して「ほととぎす」という季語をあてたのではないかと思います。これによって山峡の牧場であることと、空高く鳴きわたるほととぎすの声によって空間の広がりを感じさせることに成功していると思う。
俳句は、事実の報告ではなくてあくまで文芸作品である。創作のプロセスとして吟詠が大事であるが、芸術作品として高めるためによく推敲してときには上手に嘘をつく…というテクニックも求められる。ただしそれは数多の体験によって培われるもので初心者が安易に真似することは危険である。
- 合評
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初音とはありませんが初夏の雰囲気です。吊り橋に吹く風も気持ちの良いものではないでしょうか。 (素秀)
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ほととぎすが夏の季語。この牧場は六甲山牧場であろう。確か道路の上に吊橋が架かっている。この句は、吊橋が新しく架けられてすぐの、ほととぎすがなく頃に詠まれたのではないかと想像した。ほととぎすは「テッペンカケタカ」と鳴いているように聞こえるから、語呂合わせのようでもあって面白い。 (せいじ)
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吊橋がかかる川がある牧場なのでかなり広い牧場なんでしょう。吊橋を渡っている時に山の方からホトトギスの声が聞こえる長閑な空間です。 (豊実)
(かごまくらうなじをほそくみせにけり)
籠枕は籐(とう)や竹で編まれた枕。中空で風通しがよく夏に用いる。昨今はエアコンの普及で生活の中で見かけることもなくなり死語になりつつあるかもしれないが、冷房のない時代には風通しの良い縁側近くの畳の上で籠枕で昼寝という風情があった。ベッタリ仰向けに寝ると背中に汗をかくので、高枕で横向きに寝るというスタイルが一般的、故にうなじも目立つのである。蚊帳の中であるような雰囲気的もあり、みなさんの合評にある通り女性の寝姿が想像されるので艶っぽさも感じられる作品である。
- 合評
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籠枕で着物の女性が横向き寝ている。うなじが細く見えて涼しさを感じます。 (豊実)
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籠枕が夏の季語。普通の枕のように頭が沈まないので寝ている人の細い首筋がよく見えたのだと思う。浴衣姿の女性を想像したが、人目をはばかることなく横臥しているところを見ると、気心の知れた女友達との旅行の一こまであろうか。 (せいじ)
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ちょっと籠枕で昼寝と言うところでしょうか。横を向いて頭を預けた首筋が細く美しく見えたかと。 (素秀)
(しゆんとうのわんしようレジをうつてをり)
春闘とは「春季闘争」の略語であり、1955年(昭和30年)から始まった労働組合と企業による交渉を指す言葉である。主に賃金の引き上げと労働条件の改善が要求されるが、昨今では長時間労働による過労死などの社会問題を背景に、労働時間の減少や職場環境の改善が求められるケースも増えている。昔は、交通機関の運転や工場の生産ラインを停めたりというような実力闘争が主流であったが、昨今では利用者に迷惑をかけないで世論に訴える形の闘争になってきている。
揚句の場合、スーパーマーケットでレジをうつ女性の姿が目に浮かぶ。「レジを打ちにけり」という瞬間写生ではなく、「レジを打ってをり」とあえて時間の継続を詠んでいるところが効果的である。顧客に対しては普段と変わらず笑顔で対応しているのであるが、腕の腕章が春闘交渉中であることを暗黙に訴えているのである。
- 合評
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腕章を付けてレジ打ちをしている人を見ているのでしょうが、作者には今も闘っているのだなと感じている気持ちがあるようです。昔の活動を思い出している感じです。 (素秀)
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春闘が春の季語。今は知らないが、私の時代、管理職以外の社員はおおむね労働組合員であった。スーパーマーケットかデパートか、レジを打っているのは女性だと思う。仕事中も赤い腕章をつけているのである。当時の春闘の一風景がよく切り取られている。 (せいじ)
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私は春闘の腕章をした人が働いているのを見た記憶がありませんが、昭和の高度経済成長期の一場面ですね。 (豊実)
(もんぷくのますらをぶりやしちごさん)
ふだんはお茶目で腕白坊主の男の子が正装させられ真面目顔でおすまししているのが滑稽であったのだと思う。
- 合評
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幼い男の子も紋付袴に装うと大層立派に見えて一人前の男に見えます。 (素秀)
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七五三で黒紋付を着せてもらった男の子。小さいけど堂々としている。「ますらを」は今ではあまり聞かない言葉ですね。 (豊実)
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七五三は冬の季語。五歳になった男の子が紋付の羽織袴を着て神社にお詣りしているのであろう。紋服を着るとやんちゃな男の子も立派な男に見えるから不思議である。紋服を着ているのはお父さんと解釈しても面白いと思う。 (せいじ)
(けいゑんのかみとみゆなるひひなかな)
お雛様はふつう、天皇・皇后の姿に似せて作られた男女一対の内裏雛を飾りますが、揚句のものは女雛だけなのでしょう。しかもかなり年代物の古雛で、かつては美しかったであろう髪も、寝乱れ髪を連想させるほどにほつれが目立つのである。もともとは内裏雛であったが男雛は壊れてしまったというような事情があるのだと思われる。「乱れ髪なる」といわずに「閨怨の髪」といったのが非凡であり驚きであるが、作者自身の戦争未亡人としての哀しい体験がこのような詠嘆になったのではないかと思う。
- 合評
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内裏様と仲良く並ぶお雛様を恨めしく見ているのかなと思います。お雛様の綺麗な黒髪も閨怨の身にはいっそう恨めしいのかと。(素秀)
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この句は難しい。閨怨とは、夫に捨てられた妻がひとり寝の寂しさをうらむこと、とのことだが、雛人形の髪がそのような女性の髪のように見えたというのはどういうことだろう。寝乱れた髪のようであったというのだろうか。何かの故事を引いているのだろうか。 (せいじ)
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この髪は雛の髪だと理解しました。ご主人と別れた後の寂しさを雛に重ねているように思いました。 (豊実)
(コーヒーのききめもなくてはるねむし)
依頼された原稿の下書きとか俳句の選とかの作業を進めているのだけれども春の陽気に誘われてつい眠くなってしまって効率があがらない。そこで眠気覚ましにと熱い珈琲を入れて飲んでみたけれど期待したほどの効果がなく相変わらず眠いのである。思考を伴うような内容の作業をしているときは、特に眠気に誘われやすくなる。揚句の作者も又そのたぐいの作業中であることが想像される。
- 合評
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春眠の気持ちの良い眠りをなんとか覚ますためにコーヒーに頼っているようです。あまり効果はないけれどもそれも仕方がないと思っているようです。 (素秀)
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例えば、本を読んでて、起きてたいのに寝てしまうってことありますよね。コーヒーぐらいでは春眠に効果なし。 (豊実)
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朝のコーヒーであろう。目を覚まそうと思って飲んだコーヒーであるが、ちっとも効きませんでしたよ。否定的な言葉遣いを通して逆に心地よい春の到来を喜んでいるのだと思う。 (せいじ)
(ぎおうぎじよひとつのしよくのいてにけり)
蝋燭が凍てるとはどういうことなのかが難しいですね。祇王寺の仏間には平清盛、祇王、祇女など複数の仏像が祀られておりそれぞれに燭台があります。灯されていた複数の燭のうち祇王か祇女像のあたりの一つが消えていたのを寒さのために凍てて消えたと感じたのではないかと思う。録音された女性語り部の音声が BGM のように流されて悲話が伝えられるので、とりわけ身にしみるのである。
- 合評
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祇王寺というと落柿舎吟行を思い出します。まだそれほど寒い時期ではありませんでしたが真冬の祇王寺は凍てつく寒さなのでしょう。漏れてくる蝋燭の灯りも冷たく感じられたのかと思います。 (素秀)
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冬の祇王寺であろう。境内にある祇王祇女らの供養塔に捧げられた蝋燭の一つが凍っていたのであろうか。それとも、「一つの燭」とは、凍るような寒さの中、祇王祇女らの木像が安置されている草庵の仏間から洩れくる灯りのことだろうか。 (せいじ)
(ひろきえんひなたなれどもかざはなす)
風花は、晴れた空を雪がひとひらずつ舞落ちてくることをいうので鑑賞するときの視線は空をうち仰いだ感じかと思う。従って素秀解、せいじ解のとおり広縁に座して日向ぼこしながら目線を庭にやって愛でていたときに雪が吹き込んできたので空を仰いだときに風花なんだと気づいたのである。この風花は須臾に失せてもとの冬陽射しの縁に戻ったと思われる。句には描かれていないが「広き縁」から美しい庭を連想することができ、しばしの白日夢を見ている感じではなかったかと想像する。
- 合評
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縁側で日向ぼっこでもしていたのかも知れません。ちらつくものがあるのでふと見ると雪が舞っている、あー風花だなぁと空を見上げたのかと。 (素秀)
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日の当たる広い縁に座って庭を眺めていたら、晴れているのに風に乗って雪がちらついてきましたよ。龍安寺の石庭のようなところを想像した。 (せいじ)
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季語は風花で、風花とは晴天にちらつく雪ですね。とすると、日向は季語の本意に含まれると思うので、うまく解釈できませんでした。 (豊実)
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今日からは、昭和55年の作品になります。
ウインドの天使は菓子やクリスマス Feedback
(ウインドのてんしはかしやクリスマス)
俳句で英語をカタカナ表記する場合になにかと是非論が生じる。厳密には、ウインド(wind)は「風」になるので、揚句の場合は、ウインドウ(window)つまりショーウインドウの意であろう。デパートかお店のショーウインドウが聖夜劇の一シーンのように飾られていたのである。登場人物や造形物などがカラフルに可愛く作られているのであるが、その中の天使が特に目について、しかもお菓子で作られていることに気づいてさらに愉しい気分を感じたのである。
- 合評
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クリスマスケーキの飾りが天使の形をしていたのかと思います。砂糖菓子かチョコレートか、子供に尋ねられてあれも食べられるよと答えるお母さんがいたのでは。 (素秀)
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ウインドウにいろんなクリスマスの飾りがされている。「は」なので、天使だけがお菓子でできていたのでしょう。食べるのがもったいないぐらいかわいい。 (豊実)
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クリスマスの商店街、ケーキ屋さんのショーウインドーにお菓子の天使が飾られていたのであろう。天使が菓子でできていることを面白く感じたのだと思う。 (せいじ)
(にはとりにリボンのはなやクリスマス)
花結びにリボンのかけられたクリスマスチキンの写生ですね。日本ではクリスマスというとチキン料理を思い浮かべますが、もともとはアメリカの七面鳥料理に由来しています。古くから北・中央アメリカに生息していた七面鳥。アメリカの先住民の食料であったことはもちろん、アメリカに移住してきた人たちも飢えをしのぐために捕らえたり、先住民に分けてもらったりして命をつないだそうです。
七面鳥なくして今のアメリカはないとまで言われるほど、アメリカにとってありがたく貴重な食糧源だったんですね。そのことから、七面鳥料理は「感謝」の現れであるとされ、クリスマスだけでなく感謝祭やお祝い事の食卓に並べられることがアメリカの文化として根付いています。日本ではクリスマスに七面鳥ではなくチキンを食べることが多いですよね。その一番の理由は、七面鳥が手に入りにくいからです。
- 合評
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クリスマスにチキンを食べるようになったのはいつ頃でしょうか。自分の記憶ではお店ではなく家庭でも食べだしたのは昭和 40 年ころからのような気がします。もちろん丸ごと一匹丸焼きではなく骨付きモモ肉で持ち易いように骨を紙かアルミ箔でくるんでいました。そこにリボンを巻いたのはクリスマスならではの装飾かと。 (素秀)
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欧米ならさしずめ七面鳥だろうが、鶏をまるごと焼いて脚部に白い輪っかのようなものをつける。クリスマス料理の定番だが、白い輪っかではなくリボンが花のように美しく結ばれたていたのだろう。リボン飾りにキリストの生誕を祝う心が表れている。 (せいじ)
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クリスマスパーティーでローストチキンにリボンの花飾りがついていたのが嬉しかったのでしょう。(生きた鶏ではないと思うのですが・・・。) (豊実)
時雨るると摩文仁の海の暗らかりし Feedback
(しぐるるとまぶにのうみのくらかりし)
摩文仁は、合評にあるように沖縄戦の悲劇を象徴する場所である。揚句の「時雨るると」の「・・・と」は、古文としての用法です。接続助詞の「と」「とも」は現代語の「〜ても」「~としても」に相当し、『〜ても、…である』と表現したい場面で用いられます。この「と」「とも」は接続助詞なので、語句と語句をつなぐ働きを持ちます。用法としては「逆接仮定条件」と呼ばれ、仮に想定した条件に対して、その仮定条件から逆接(予期される結果が現れないこと)の話を進める表現です。
従って句意としては、「時雨れてきて・・海が暗い」のではなく、「時雨れていても・・海は暗かった」ということになるので微妙に感興が変わってくるので難しいですね。時雨れていても空は明るく広々と海も展けている情景と思いますが、壮絶な沖縄戦の歴史に思いを馳せるとき、素秀解にあるように気持ちの上で暗さを覚えたという心象的な写生ではないかと思います。
- 合評
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苛烈な沖縄地上戦を思うと明るい沖縄の海も暗く感じられてしまいます。暖かい沖縄ですから時雨というよりは俄雨なのでしょうが。 (素秀)
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初冬に沖縄の摩文仁の丘を訪れたときの俳句と思われる。時雨れて暗くなるのはどこの海でも同じであるが、それが摩文仁という特別な海であるがゆえに、読む人にいろいろな思いを呼び起こす。固有名詞がよく効いていると思った。 (せいじ)
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晴れた日は海の景色がとても美しいだけに、時雨で暗くなると、沖縄戦で亡くなった方々への追悼の気持ちが深くなる。 (豊実)
(かれいそぐはすにきのふもけふもあめ)
素秀解が秀逸と思う。時間の経緯位を詠むと焦点がボケるので句が弱くなるので、基本は今の瞬間を詠むようにと戒められてきた。しかしよく味わってみると揚句は、昨日を思い出しながら今日の今を詠んだもので、時間の経緯の写生ではないと思う。「十六夜のきのふともなく照らしけり 青畝」「きのふにも優る人出や残り福 みのる」これらの句も同様である。
- 合評
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枯蓮だと冬の季語ですが、昨日も今日も雨ですと秋の長雨に思えてきてしまいます。枯れ急ぐとありますのでまだ枯れきってはいないのなら晩秋の感じではないでしょうか。 (素秀)
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枯蓮が冬の季語。まだ枯れなくてもいいのにどんどんと枯れてゆく蓮。季節の移ろいははやい。降り続く冬の雨に枯蓮がぐっしょりと濡れていることよ。「枯れ急ぐ」に作者の心情が隠されている。 (せいじ)
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蓮の花が思ったより早く枯れそうになっている。その花を静めるようにしっかりとした雨が降り続いている。 (豊実)
(すまごとをきかせてつきののだてかな)
神戸市須磨区の須磨離宮公園では、毎年、中秋の名月を愛でる『離宮月見の宴』が催される。抹茶を味わう野点に参加できるほか、在原行平が須磨の浜辺で流木に冠の糸を一本張り、岸辺の葦で弾いたのがおこりといわれる一絃「須磨琴」や二胡の演奏、高校生による和太鼓演奏などを観賞することもできる。揚句は、この離宮月見の宴に参加された折の作品であろう。
- 合評
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「聞いて」ではなく「聞かせて」としたところに、茶会の亭主への感謝が感じられます。 (豊実)
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月を見ながらの野点で須磨琴を聞く。物のあわれを誘う音色なのでしょうか。 (素秀)
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白砂青松の須磨の浜辺で催された月見の野点で、須磨琴(一弦琴)の上手な演奏を聞いて感動したのだと思う。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感を総動員してこの場を楽しんでいる様子がうかがわれる。 (せいじ)
(らつかんのゆがみきにせしげがきかな)
幾通りも書き上げた作品の中からこれと決めたものに落款を押して提出するのでしょう。歪まないように真直ぐに落款を押すのにはコツがあって、私の場合は、まず右下の角を押し付け、次に水平に気をつけながら左下の角を押し付けます。つまり落款の下辺を先に押し付けるのです。下辺の水平が決まったらゆっくりと上の方へ力を移動させていくと概ねうまく押せます。作者もそのように細心の注意を払って落款を押したのですが、それでもどことなく歪んでいるような気がして満足感が得られていないのです。
- 合評
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集中して書いた夏書だからこそ最後に押す落款も気を抜かず慎重に。 (素秀)
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心を籠めてした写経だから、落款も歪みのないように気をつけて押しましたよ。最後の最後まで気を抜かずに夏書をしていることがよくわかる。 (せいじ)
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夏書の落款が少しゆがんでしまった。折角うまく書けたのに・・・。でも、書き直しまではしなかったように思います。 (豊実)
(たまぬけしげつかぼじんにあさどくる)
魂を震わせるように咲き開いていく月下美人の様子は、とても神秘的で命の尊厳を感じます。花が萎えたことを「魂ぬけし」と表現されたことで作者自身もそのような感動をうけたのだということが分かります。朝になり昨夜の感動に感謝しつつ悼むような気持ちで朝の窓を開けたのである。ちなみに萎えた月下美人の花は酢の物にして食べられるというお話を青畝先生から聞いたことがあります。
- 合評
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月下美人は幻想的な美しい花です。夜に咲くのはこうもりが受粉するためとか。受粉されなかった花は一晩でしぼんで散ってしまいます。しぼんだ花を魂がぬけたとは妖しく夜に咲く月下美人らしい表現です。 (素秀)
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私は月下美人を実際に見たことがないのですが、夜に咲いて朝にしぼむ神秘的な花のようですね。しぼんだ花に朝日がさして新たな時が始まる気がします。 (豊実)
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月下美人は夏の夜に咲いて朝方に萎むので、花が咲いたら室内に移して観賞することが多い。ひとしきり花を愛でた翌朝、魂が抜けたように萎んでしまった花を見届けて、雨戸を開けたのであろう。 (せいじ)
(はらまきをつきさすまつばまつていれ)
腹巻きは、本来お腹が冷えるのを予防するためのものなのですが、大工の棟梁とか庭師の親方といえはなぜか腹巻きをした強面が連想されます。休憩時になると腹巻きの中から喫煙用のキセルが出てきたりする風景を見た気がします。夏の季語としても詠まれていますが、揚句の場合の季語は「松手入れ」なので晩秋ということになります。秋に剪定するのが植物にとっては一番よいということでこの時期の季語になっていますが、最近はお盆前とかお正月前などの顧客要望もあって松手入れの季感は曖昧になりつつあります。普通は、「松葉松落葉」と松の文字が重なるのを避けたいという意識が働くのですがこの句の場合は、これ以外の表現が見つからないですね。
- 合評
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脚立に上がり松に覆い被さるように剪定をしている庭師は腹巻をしていて、奥の枝葉を落とす時に松葉が腹回りを突いているようです。腹巻でお腹を守っているように見えたのでしょうか。 (素秀)
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松手入が秋の季語。刈り取った松の古葉が庭師の腹巻に突き刺さっているのだろう。よく観察しているなと思った。 (せいじ)
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庭師の腹巻に切り落とした松の葉がひっついている。それを擬人的に突きさすと表現したのが面白い。 (豊実)
(けんえいのためにすずりをあらひけり)
句意については皆さんの合評の通り。加代子さんは地元西宮地域の俳句普及にも尽力されている。阪神タイガースの初詣で有名な西宮廣田神社境内に昭和54年吟道碑が建立されたが、その活動や以後のイベントなどにも重鎮として奉仕されている。秋の行事のための献詠であろう。
- 合評
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硯洗が秋の季語。手習いの上達を祈る北野天満宮の行事に由来するらしい。勝手な想像だが、七夕の日に催される神社の献詠俳句会に、自作の俳句を色紙か短冊に墨書して出すため、前夜、硯を洗い清めて作品を仕上げましたよということだろうか。 (せいじ)
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神社などに俳句を献上するためあらためて硯を洗っている。七夕の短冊でしょうか。 (素秀)
(ごごうがまならぶへつつひうしたうぢ)
「へっつい」はご飯を炊くための釜、かまどのこと。揚句の場合は、炊飯器ではなく昔ながらの五合釜なのである。丑湯治は、土用の丑の日にあわせて湯治をすると一年間無病息災で暮らせるという言い伝えで習慣となった文化である。この句の詠まれた昭和54年のころはまだ残っていたのであろう。今日のような綺麗な建物ではなくて古びた木造の旅館の雰囲気がある。鑑賞としてはやや懐古的な感じがする。
- 合評
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土用の丑の日の湯治は今ではあまり聞かない習わしかと思います。湯治宿で客たちが自炊のために竈で炊飯をしているのも、すでに珍しい光景だったのかも知れません。 (素秀)
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湯治の宿で暑気払いをしたのでしょう。へっついに五合釜が並ぶほど多くの宿泊客がおり、賑わっているようです。 (豊実)
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丑湯治とは土用の丑の日に合わせて湯治をすることらしい。古びた湯治場のかまどに五合炊きの釜が並んでいる。数人のグループで自炊して逗留する湯治客がこの時代にも結構いるんだと驚いたのではなかろうか。 (せいじ)
(たちおよぎしてをるときのかめすずし)
前進するときは水平姿勢で前足で掻き後ろ足で蹴っているが、小休止しているときは沈まない程度に四肢を動かしてちょうど水球の選手と同じような立泳ぎとなる。そのユーモラスな姿がいかにも涼しげに見えたのである。「立泳ぎ」という措辞を見つけたことがこの句の手柄である。
- 合評
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顔と前足だけを出して浮いている亀を立ち泳ぎしているようだと作者は見たようです。甲羅干しをし過ぎて熱くなった甲羅を冷やしているようで、亀の顔もよほど気持ち良さそうに見えたのかもしれません。 (素秀)
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亀が頭だけ出して泳いでいる。その頭が作る波紋が涼しげな感じです。 (豊実)
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普段はじっとして動かないことの多い亀が、水面から首を出して立泳ぎをしているかのように泳いでいる。静かで涼しげな夏の水辺の情景の中で亀の動きがアクセントになっている。 (せいじ)
(つばきさくぐるぐるまきのつるのなか)
岨道の途中に出会った藪椿でしょう。生い茂った蔓が椿の梢をがんじがらみに虜にしていて幹と蔓との見境もつかないほどなのであろう。に藪椿と言わずにそれと連想させる熟達された写生術を学びたい。
- 合評
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椿が咲く頃の蔓草は何なのでしょうか。ぐるぐる巻きにして椿の邪魔をしているのでは無さそうに感じます。 (素秀)
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蔓草の茂みに椿の花がある。あれっとよく見ると、蔓草に覆われた藪椿が花を咲かせていたのであった。蔓草が椿の花を咲かせたかのようで面白い。 (せいじ)
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あまり手入れをされていない椿かなと思いました。雑草の蔓にぐるぐる巻きにされても咲いている椿に愛おしさを感じます。 (豊実)
まぼろしのごとき野生馬吹雪きけり Feedback
(まぼろしのごときやせいばふぶきけり)
国内で野生馬といえば宮崎県の都井岬が有名。雪が降ることは有るかも知れないが吹雪くほどの状況になることはなさそうなので北海道の十勝あたりの放牧馬を野生馬と見立てたのではないかと思う。ヨーロッパであればこのような情景に遭遇できるのかもしれない。風に煽られて濃く淡く吹雪く中に野生馬の姿が幻影のように見え隠れするのである。幻想的な絵画を見ているようである。
- 合評
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野生馬は野生化した馬のことではないだろうか。吹雪の中に一瞬馬がいるのを見たのだが、本当にいたのだろうかと疑わせるような幻想的な見え方だったのであろう。 (せいじ)
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調べると野生馬は宮崎県にいるらしいが、宮崎県では吹雪はない。激しい吹雪の中で、野生馬が一瞬、幻想的に見えたかのように感じたのでしょう。 (豊実)
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吹雪の中に立つ野生の馬が実在するようには見えなかったのでしょう。岬の馬とか天然記念物の野生馬は有名ですが、吹雪くような所というとどこなんでしょうか。 (素秀)
(てんとうのすきーのみえずゆきけむり)
雪けむりを飛ばしながら高速で斜面を滑走するスキーヤーを遠景で見ている様子かと思う。斜面の瘤のような場所を越えるときに失敗して転倒したようだが転倒の勢いで生じた雪けむりだけが見えてスキーヤーの姿は瘤の向こう側に隠れて見えなくなった…というような時間経過だと思うが、瞬間写生に詠んでスピード感を余情として残しているところが上手いと思う。転倒する直前の姿は見えていたので「転倒したであろうスキーヤーの…」ではなく、「転倒の…」になったと思う。
- 合評
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派手なターンを繰り返していて転倒したのかもわかりません。大きく雪をかいてそのまま転倒したのでスキー板も隠れて見えなくなったようです。 (素秀)
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雪が風にあおられて視野が暗く煙る悪天候でスキーをしている。先を滑る人が転倒して見えなくなったのか?それとも転倒して外れた自分のスキー板が見えなくなったのか?いずれにしても怪我のないように! (豊実)
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転倒して舞い上がった雪煙にスキーも人も見えなくなってしまった。新雪のゲレンデかと思うが、さらさらした新雪を滑るバックカントリースキーのようなものを想像するのも楽しい。 (せいじ)
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