2021年9月
目次
(このへんのらつかだたみははかでほし)
「掃かでほし」は古語表現で、「掃かないでほしいな」という軽い願望の意になります。また「○○畳」という形容は俳句では一面にうち広がる様子の表現として葛畳、落葉畳などと使われます。広々とした境内の庭や直線的な参道の石畳、レンガ敷の遊歩道などにうち敷いた落花の美しさはまさに絶品です。大木の幹の周辺に裳裾を広げたようにうち敷く落花もまた風情ですね。具体的な場所の描写はあえて省略されていて鑑賞する側の想像に委ねています。言いたいことを忍耐して省略したがゆえにかえって様々なシーンに連想が広がるのです。17文字しか使えない俳句では、このような省略というテクニックがとても重要になります。
- 合評
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大木の桜並木に隙間なく散り敷いた落花の中、ぼこりぼこりと出た真っ黒な根、がとてもマッチしていた情景を思い出す。はかずにそのままでという、気持ちが良くわかります。 (そうけい)
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落花畳とは桜の花びらが一面に降り積もっていることを表現したのかなと思いました。掃かでほしと言うのも風で飛ばされないでほしいということかもしれないと思いました。 (豊実)
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散った桜が石畳を覆いつくしているのでしょうか。歩くのも躊躇われるほど美しいのでしばらく掃除などせずにそのままにして欲しい。 (素秀)
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落花が春の季語。我が家の近所でも、桜の花が一面に散り敷いて素晴らしく美しいところがあるのだが、近所迷惑と思って家主がすぐに掃き清めてしまう。見るたびに、掃かないでほしいと心から願っているのだが。この季節、名所と言わずどこででも桜を楽しむことが出来る。 (せいじ)
とまり木を噛じるあうむや花ぐもり Feedback
(とまりぎをかじるおうむやはなぐもり)
花ぐもりという季語の働きをどう捉えるかがポイントでしょうね。どちらにしても「花ぐもり」は屋外の季語なので素秀解の動物園の檻のオウムか花の庭が見えるベランダ等に置かれた籠のオウムであろう。鳥が齧ったりこすりつけたりするのは嘴の手入れだと言われますが、花曇りの季語にはやや物憂い気分があるのでこのオウムの振る舞いがあたかも春愁を持て余しているかのように感じさせる描写ですね。オウムの所作を見ている作者もまたそんな気分を共有しているかのように伝わってくる。
- 合評
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おうむは人の言葉をまねる。声も、姿も大きくもてはやされる、といえど人の真似をしたくない時もあろうか。生理的なことか?止り木をかじっている。またその姿も愛らしい。花曇りのように。 (そうけい)
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動物園かなと思えます。ちょうど桜の時期で園内にも桜並木があったのでしょう。穏やかな花曇りでオウムも暇を持て余しているようです。 (素秀)
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オウムは鎖で繋がれてとまり木で退屈そうにしているのかなあと思いました。桜が咲いているけど、曇っているのでちょっと冴えない感じがうまく取り合わされたように思います。 (豊実)
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花ぐもりが春の季語。華やかさの中にある陰りのような語感がある。止まり木をかじる鸚鵡は、ケージの中でストレスを発散しているのだろうか。それとも単に遊んでいるだけなのだろうか。鸚鵡をながめながら、春の何となく重苦しい気持ちを慰めているような感じがする。 (せいじ)
(うつしえはじゆんしうもなくほほえめる)
俳句では、うつし絵は仏壇や机上などに置く遺影写真という意味で使われるケースが多いですが、肖像画などと考えてもいいと思います。この句の鑑賞ポイントは、「微笑んでいる写真の主には春愁などない」と報告しているのではなく、作者自身がいま春愁の状態にあることを暗示しているということです。そうでないと季語が動いてしまうからです。素秀解にあるように「あなたは春愁など無縁でいいわね」と羨んで語りかけている感じです。写真の主が誰かということは省略されているので亡きご主人かも知れないし家族かも知れないですね。
- 合評
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単純な見方(写し絵)しか解りません。写し絵、すなわち写した絵、写生として、見ました。自然や、人の世、全てが春の季節の中ふっと愁を感じた時.写し絵を見ると、それは、ほとんどは陽の姿でとどまっている。写し絵は感動など自身の気持ちが入っているもの。それは見る人によっても伝わってくる。見ることで、あれこれ想像し、癒され思わず微笑んでしまっている。 (そうけい)
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遺影かなと思えます。生きていれば春に憂うこともあるが死んでしまった人は写真でほほ笑んだままだと羨む気持ちもありそうです。 (素秀)
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写し絵は多分亡くなられたご主人では無いだろうか。その写真が何時もほほえんでいる光景を句にされたのでは無いだろうか。 (宏虎)
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春愁が春の季語。この「うつしゑ」は、作者本人の写真ではないだろうか。微笑んでいるのは本当の私ではない。写し絵はしょせん偽物であって、春の何となく気が塞いでいる心の中までは写しとることができないのである。その幻影感を表すために「うつしゑ」「ほほゑめる」と、かな表記にしているのではないだろうか。「ゑ」の繰り返しも絵画的で美しい。 (せいじ)
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「うつしゑ」は故人の肖像画かと思います。その顔が微笑んでいて、今、哀愁を感じている作者を慰めているのでしょう。 (豊実)
(やきいものにほふつじあるぎんざかな)
その昔、高度成長期に接待の北新地あたりでも見かけたような記憶がある。揚句の場合も裏銀座の細い横丁に並ぶ高級バー街ではないかと思う。この焼藷屋は店舗を構えているのではなくておそらく屋台ではないだろうか。この焼藷をホステス嬢らへのお土産代わりに買ってもっていくと大いに歓迎されたりする。あるいは少し客足が遠のいた時間帯に彼女たちが買い求めに来たりもする。そういう雰囲気が連想されるのである。作者がそんな場所へそんな時間帯に吟行に行ったとは想像し難いが、句集にはバーの句もあるのであながちとも思う。ちなみに焼藷の相場は普通の町中のそれより数倍高かったりする。諸場代の関係かも知れない。
- 合評
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銀座も華やかな表通りばかりではないと言う事です。裏辻には焼芋の屋台もあるんだよと。 (素秀)
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焼藷が銀座の辻で売っているのが我々は意外と思うが、女性の焼藷好きは今も昔も変わらず、需要と供給の関係と思う。 (宏虎)
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焼藷が冬の季語。銀座の一角に庶民的な焼藷を売る店を発見した。銀座と言えば高級な洒落たお店が並んでいるという先入観があったが、そうではなかった。観光案内にはない銀座の生の感触が伝わってくる。これが冬の今の銀座なんだ。 (せいじ)
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銀座と言うとおしゃれな街で、ちょっとした都会の緊張感もある。でも、路上で焼藷の匂いに出会ってほっとしたのではないでしょうか? (豊実)
(くつのおとせいどうにさえかえりけり)
みなさんの合評にあるとおりカソリックの大聖堂の感じです。礼拝時ではないとき観光客に開放しているのでしょう。大理石敷の床を蹴る靴音はドーム状の高天井に谺するように響き、人も少なく暖房もされていないので冴えざえしく感じたのです。「大聖堂に冴え返る」としたいところを「聖堂に冴え返りけり」
と切れ字表現を用いて強調しているところに作者の意図が感じられて非凡だと思います。
「冴える」「冴え返る」の季語は、本来体感的な感覚を詠むのですが、聴覚や視覚的にも捉えることができるのが俳句の世界です。修練を積み、理屈で句を詠むことから卒業しないとこのような感覚の作品をものすることはできない。
- 合評
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ゴシック建築の大聖堂のつややかな石の床を歩くと、革靴の音がアーチ型の天井まで響く。冷たく神聖な空気が身を清める感じがします。 (豊実)
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大聖堂に響き渡る靴音の硬さに春と言えども冷たさを感じています。まだまだ空気も乾いているようです。 (素秀)
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冴返るが春の季語。カトリックの大きな聖堂を連想した。静かな聖堂に足を踏み入れると、音響のよい広い聖堂一杯に自分の靴の音が鳴り響いた。春なのに凍りつくような音であった。教会ではこのころレント(四旬節)が始まる。 (せいじ)
トナカイの絵のメニュー見る聖夜かな Feedback
(トナカイのゑのメニューみるせいやかな)
12月に入るとどの飲食店もクリスマス一色に飾り立てて特別メニューを準備したりしてサービスをする。揚句の場合も聖夜を祝うディナーショウのテーブルではないかと思う。お品書きのようなメニューがおいてあってクリスマス気分を盛り上げるためにトナカイのイラストが描かれている。どんな美味しい料理が出てくるのかとわくわくしてメニューを眺めているのである。キリスト教の本質とはややずれている感じもあるが、おおらかに受け止めたい。
- 合評
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そのメニューにはトナカイ以外にもサンタクロースやクリスマスツリーの絵もあったように思います。でも、特にトナカイの絵が素敵だったのでしょう。聖夜の楽しい食事の場面ですね。 (豊実)
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クリスマス用のメニューなのでしょう。トナカイが料理の紹介をしているのか、選ぶのにも苦労しそうです。 (素秀)
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聖夜が冬の季語。クリスマスイブのレストランではないかと思う。トナカイの絵のメニューが楽しい。注文した料理をサンタクロースがトナカイの引く橇にのせて運んできてくれるような期待を抱かせる。 (せいじ)
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クリスマスの夜に皆集まって、色々国によってトナカイの絵が違うメニューをご覧になっている、一家団欒の景色を詠まれた光景と思う。 (宏虎)
(いちまひのむきずのばせうちよくりつす)
「一枚の無疵の芭蕉」の解釈で意見が分かれますね。芭蕉はまず一枚の巻葉が直立するように伸びては開き、また次の巻葉が立っては開くという感じに増えて行きます。小様子を玉巻く芭蕉、玉解く芭蕉といいます。揚句は最初の一枚の玉巻く芭蕉の直立するさまを詠んだものと思う。やがて雨風になぶられてぼろぼろになっていくであろう芭蕉の初々しい姿に感動したのではないだろうか。先達の破れ芭蕉に混じって、これから玉を解こうとしている芭蕉という見方もできるが、やや理屈っぽい感じがする。
- 合評
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破芭蕉となると晩秋です。この句の芭蕉も秋も深まったころのようです。割れていない葉を探す方が難しいほどの中にまだ開きかける前なのかも知れません。まっすぐに立った若い葉を見つけての感慨かと。 (素秀)
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芭蕉が秋の季語。「直立す」とあるから「一枚の無傷の芭蕉」とは新しく出てきた若い葉のことであろう。一枚の無傷の葉を指し示すことによって、まわりの沢山の破葉が見えてくる。傷つきやすい芭蕉の葉が背景にあっての無傷の葉であると思った。 (せいじ)
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芭蕉の葉は大きくて傷つきやすいが、何枚かある内の一枚の葉だけが直立して目立ち、しかも傷がなかったので、とても立派に見えたのでしょう。 (豊実)
(いもほりしつるあぜみちをふさぎけり)
沢山の人でにぎやかにいも掘りイベントをした感じがします。団体の園児たちかも知れないです。がんじ絡みのつるに足を取られると怪我をするので畑主が丸めて畦に退避させているのでしょう。
- 合評
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芋掘った後の蔓は丸めて集めます。畔いっぱいの蔓に豊作を見ています。 (素秀)
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藷掘りが秋の季語。藷は根を食べるが蔓も美味しいらしい。蔓を引っ張ったら根が付いてくる。具体的な描写によって豊作を喜んでいる様がよくわかる。 (せいじ)
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藷がたくさん掘れたことを直接言わずに、掘った後、畦道に放置された蔓のかさ高さを捉えたのがうまいと思いました。楽しい芋掘りだったのでしょう。 (豊実)
(くさせんりきりのうみとはなりにけり)
雄大な風景の中に佇ってながめているうちに霧が立ち始めた。と見るあいだにたちまち霧の海と化して何も見えなくなってしまったよ…という感慨かと思う。早朝の吟行であることも考えらられる。
- 合評
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温泉から続く草千里、九州旅行かと伺えます。早朝でしょうか、一面の霧に草原が海のようになってしまった。それはそれで広大な風景だろうと思えます。 (素秀)
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草千里とは熊本県阿蘇の草千里ヶ浜のことかと思います。本来なら見えるはずの美しく広大な草紅葉が一面の霧で覆われて見えなくなってしまった。霧の海「とは」なったものの、それはそれで美しい風景には変わりないということかなと思いました。 (豊実)
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作者は草千里と有るから阿蘇山が霧に包まれたと見られたのでしょう。多分バスの中からと思います。 (宏虎)
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霧が秋の季語。草千里と言えば阿蘇を思い出す。阿蘇を去るときに外輪山から雄大な阿蘇をふりかえっているのだろうか。昨日行ったあの草千里が今日は霧に覆われて海のようになっていることよ。 (せいじ)
(おとたててふけるいでゆやくさもみぢ)
まず季語の草紅葉からいま噴いている温泉の環境を連想することがポイントと思う。観光地化して整備された場所ではなく周囲に自然な山道が残っているような源泉ではないかと思う。深い草道を分け入ってお目当ての温泉に出会ったのではないかと思う。寒暖差が大きいほど草紅葉も綺麗に色づくのでやや高地のような雰囲気もある。
- 合評
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間欠泉が少し色づいた草原に吹き出している。風の音ぐらいしか聞こえないところに吹き出るお湯の音はさぞ豪快でしょう。 (素秀)
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秋色に染まった草原を見渡せるところに湯が噴き出ているのでしょう。湯の音が草原の爽やかさを引き立てています。 (豊実)
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草紅葉が秋の季語。一読して別府の地獄を思った。坊主地獄なども音を立てるが、ここは間欠泉ではないだろうか。諏訪湖の近くにもあったと思う。間欠泉の凄まじさの中で草紅葉が優しい。考えすぎかもしれないが、草紅葉が間欠泉の怒りをなだめているようにも感じる。 (せいじ)
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音立てて噴き出している温泉を見たことがある。孫を連れてハウステンボスへ行ったとき、列車の窓から雲仙温泉を草紅葉は無かったが、茶色の岩のあいだから音出して噴き上げている光景を見た経験がある。草紅葉とあるから時期はもう少し先かも知れない。 (宏虎)
(しよてんみるいつぽいつぽのしうしかな)
「一歩々々」なので作品のまえに立ってひととき鑑賞し、また歩をはこんでは次の作品を見ている。そしてそのたびに秋思がつのるということかと思う。
「自分も修練しているけれど、とてもこんなふうには書けないなあ」という秋思だとすると平凡すぎて面白くない。私は、先師かあるいは共に切磋琢磨した親しい友人の遺作展ではないかと想像してみた。思い出の詰まったひとつひとつの作品を前にしてあれこれとつのる秋思は深いものがあるように思う。
- 合評
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書をやられていた作者が書展で秋寂しい気持ちになるものなのかなと思いました。やはりこれは一人で見ていることに秋思を感じているのだろうと思います。 (素秀)
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展覧会は秋に催されることが多い。作者も関係している書道展だろうか、作品を一つ一つ時間をかけて丁寧に鑑賞する。作品ごとに、書の意味、書の出来栄え、書いた人との関係など、さまざまなことを思う。「一歩々々の秋思」に思いの深さを感じる。 (せいじ)
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一歩ずつゆっくりと歩きながら、書の作品を一つずつ鑑賞している。作品の趣と自分の人生を重ね合わせて、物思いにふけっているのかもしれない。 (豊実)
(ぼうきようのおもひをたたぬへきろかな)
川端康成の小説を連想させるような描写ですね。壁炉がある場所というと都会の町中ではなさそうで難しいですが、とにかく作者は故郷をでてからかなりの年月が経っていること、帰郷もできていないことなどが背景にあるように思う。そしていろんな事情があって故郷のことはもう忘れてしまいたい。忘れなければならないと自分自身に言い聞かせている。壁炉の炎を見ながら望郷の思いはたつべしとしながらもなお絶つことができない切なさを詠嘆したのだと連想すると一編の小説になってくる。その理由が何なのかは読者の想像に委ねているのである。
- 合評
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思いをたたぬ、ここの解釈に悩みました。故郷を想う気持ちも暖炉の前では絶つ事ができぬのなら、暖炉の前では望郷の念が増すのだろうと思えます。 (素秀)
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炉が冬の季語。壁炉とあるので日本ではなく海外のヨーロッパ風のホテルを想像した。海外にしばらく滞在すると日本が恋しくなる。冬のホテルの一室、外から帰ってきて身体を暖めてくれる壁炉ではあるが、日本への望郷の思いを断つことまでは出来ないよね、ということではないだろうか。 (せいじ)
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壁炉の火を見つめていると物思いにふける気分になる。遠く離れた故郷をなつかしく思っているのでしょう。 (豊実)
(じょおうかパジャマのわれをはべらしぬ)
女王花(じょうおうか)は月下美人のこと。一夜花ですが微震しながら開いていくさまは実に妖艶で神秘的です。夕刻の水撒きときに見ると今夜辺り咲きそうだという雰囲気がわかります。楽しみにしていた作者は、早速家の中に鉢を取り込んで、夕食も歯磨きも早々に済ませてお風呂に入り、パジャマに着替えていまかいまかと咲き始めるのを待ち構えているのである。クライマックスを見届けたら、そのまま寝床に入れるように準備万端という感じである。
- 合評
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寝ようと思ったのに、女王花が開き始めているのに気づいた。朝にはしぼんでしまうので、いつまでもパジャマ姿のまま見ている。 (豊実)
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寝支度も出来たのに月下美人の花が開いてきたので眠る訳にはいかなかった。侍従のように花を待つ自分を面白がっています。 (素秀)
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女王花は月下美人のことで夏の季語。月下美人は一夜限りの花。鉢を部屋の中に移しパジャマ姿のまま花をながめながら一夜を過ごしたのであろう。寝てしまうのがもったいないほどの美しさであった。女王と侍るがうまく響きあっている。 (せいじ)
(かたはらにやぎをつなげるひるねかな)
実際は三人称の景かもしれないがあえて一人称で詠んだものと思う。犬の散歩にリードを使いますが、この山羊もやや長めの紐で繋がれているです。繫ぐという表現から牧場のような多頭数ではなく素秀解のような家畜としての一匹の感じで、草を食べさせるためにあちこちと連れ回りちょと疲れてたので立木につないで主人公はそ木陰でうつらうつら一休みしているのでしょう。のんびりとした牧歌的な風景が目に浮かぶ。
- 合評
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昔は山羊を飼う農家も多く目的は山羊の乳でした。最近は草取りの目的が多いようです。畦やなぞえの草を山羊に食わせて除去します。飼い主は山羊に働かせて昼寝をする訳です。 (素秀)
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昼寝が夏の季語。自分が昼寝をしているのではなく昼寝をしている人を詠んだのではないだろうか。自家用に山羊を飼っている農家のお爺さんを想像した。心が安らぐ風景である。 (せいじ)
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牧歌的な風景を思い浮かべました。山羊の世話が一段落して、そこで昼寝をして気持ちよさそうです。 (豊実)
(せきぼうのランタンやりようほしいまま)
北京頤和園万寿山西麓、昆明湖岸に浮かぶように造られた石造の船形建造物。北京吟旅での作品かも知れないですね。ネットで検索してみると昼間と夕景の写真ばかりで夜涼の雰囲気のものは見当たらなかったが、湖面に映ったランタンの明かりがゆらゆら波に揺らぐ様子はまさに夜涼そのものであろうと想像できる。その一箇所が煌々としていてあたりを払うような雰囲気が「ほしいまま」の措辞になったと思う。
- 合評
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石舫なるものを初めて知りました。船の形をした水上建築物です。ランタンの灯りが湖上に映りそれは美しかったのでしょう。 (素秀)
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石舫とは水辺に建てる屋形船の形をした石造の建物のことのようですね。そこに電気の灯ではなく、ランタンの灯がある。いかにも涼しげですね。 (豊実)
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夜涼が夏の季語。石舫とは北京頤和園にある大きな石の舟のことだろうか。頤和園は西太后の離宮で知られる名園とのこと。石舟に灯ったランタンの光に浮かび上がった名園をながめながら夏の夜の涼しさを満喫しているのであろう。異国情緒も味わっているに違いない。 (せいじ)
(うじなれやちやつみぼしゆうビラをはる)
宇治市では主にてん茶(抹茶の原料)と玉露が生産されており、新芽の頃日光を遮るために茶園に覆いを施す「覆下栽培(おいしたさいばい)」という栽培法が普及しています。宇治では町中でも寒冷紗に覆われた茶園が見られ、宇治独特の春に茶園が見えなくなる覆下茶園の景観はいまなお継承されています。作者は茶処宇治市の特徴をよく知っていたので「宇治なれや」の措辞が思い浮かんだのである。「京なれや」「須磨なれや」の表現法は俳句ではよく使われるが、的確に風土をとらえて写生しなければ失敗に終わる。何度も通って吟行して初めてその土地の風土が実感できるのである。
- 合評
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茶摘女募集の貼り紙に宇治ならではと感心しています。茶摘みも観光化しているなあ、とも思っているようです。 (素秀)
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茶摘女が春の季語。ふと見つけた茶摘女募集というお茶の名産地ならではの貼紙に、ああ今が茶摘の最盛期なんだと得心したのであろう。私もこのようなちょっとした発見に季節を感じとりたい。 (せいじ)
マネキンは黒ん坊ばかり水着ショー Feedback
(マネキンはくろぼばかりみずぎショー)
いつの頃からか、デパートの水着売り場では真っ黒なマネキンを使うようになった。豊実解の通りビキニが主流になった頃かも知れない。いろいろなカラーの水着を着せられた黒ん坊のマネキンがあちら向きこちら向きしてポーズを取って何体も並べられた売り場は、あたかも水着ショーをしているかのようだと感じた。
- 合評
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ビキニの水着が流行りだしたころでしょうか?当時は、今のような水着姿の若い女性のモデルはあまりいなかったのかもしれません。黒いマネキンにちょっと違和感があったような気がします。 (豊実)
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水着のマネキンは日焼けした浅黒い肌ばかりなのでしょう。夏用のマネキンとも言えます。 (素秀)
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水着が夏の季語。水着売場の展示はまるで水着のファッションショーのようであって、水着を着せたマネキン人形は真っ黒に日焼けした人や子どもを模したものばかりであったということではないだろうか。 (せいじ)
(とおころげするはするままえんどむく)
主婦の夕餉支度は忙しい。豆ご飯を炊くために豌豆をむき始めたがひと粒が活きよいよく飛び出して床に落ちて転がった。ふと見ると足元ではなく少し遠いところまで転がったみたい。でもそれを構っていると手が止まってしまって手順が狂うので、"まあいいか!" と許容したのである。おらかな加代子さんの性格がユーモラスに表現されている。
- 合評
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エンドウ豆をむいていたら取りこぼしてしまった。結構転がってしまったが、それは放っておいてむいている。やり出したら止まらなく作業ってありますね。 (素秀)
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豌豆が夏の季語。遠ころげという言葉遣いが面白い。するはするままという表現もリズミカルで楽しい。情景が目に浮かぶ。 (せいじ)
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えんどう豆の皮を剥いている時、豆粒が転がるなんてことはどこにでもある日常のことですが、それをとても和やかに表現されているなあと感心ました。「むく」のひらがなも良いと思いました。 (豊実)
苗木見る如露のしぶきを飛ばされて Feedback
(なえぎみるじよろのしぶきをとばされて)
如露のしぶきは、売り主の意地悪だとは考えたくない。手塩をかけて育てた苗木に対する愛情故に元気で瑞々しさを保つようにと水を注いでいるのである。特に春の芽立ちの頃は水切れが最大の敵だからである。売り主の視線はお客の立ち居振る舞いよりも苗木のほうが優先なのである。一方客の方は、冷やかし気分であれこれジプシーしながらいろんな苗木に手を差し伸べているというそんな情景が浮かぶ。互いに相手のことに気遣かないその瞬間に如露のしぶきがかかったのである。よく省略された写生ゆえに連想が広がり活気ある苗木売り場の風景が見えてくるのである。
- 合評
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よく見ようとかなり近くにいたのではないでしょうか。飛沫も気にせず、ではないかと。 (素秀)
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苗木見る(苗木市)が春の季語。どれを買おうかと逡巡していたら、水しぶきが飛んできたので、店主にせき立てられたと感じたのであろう。故意かどうかはともかく、「如露のしぶきを飛ばされて」がリアルである。 (せいじ)
(ぶつだんのまへにひとりのはなみずし)
よほどの豪邸でなければ庭に桜は植えないと思うので、お花見に行ったお土産に花見寿司を頂いたか買ってきたのでしょう。家に帰りそれを故人の仏前に備え花見の様子を報告したあと、寂しい気持ちでご相伴しているのである。互いに健康であったころ仲良くお花見に行ったことを懐かしむ気分も感じるが、仲間と一緒に賑やかに楽しんだ花見のあと家に帰ってから一転してしみじみと独り身の寂しさを実感しているのである。
- 合評
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花見寿司はちらしでしょうか。一人で食べるのも寂しいので仏間で食べています。桜の報告などもしているようです。 (素秀)
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庭の桜をながめながら仏壇の前でお寿司を食べている。ひとりといいながら故人と一緒の気持ちなのであろう。 (せいじ)
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もしかしたら、仏壇の前から庭の桜が見えているのかなと思いました。仏壇にお寿司を供えて、よく二人で花見をしていたことを思い出しているのでしょう。 (豊実)
(たいらなるぶつそくせきにはなのかげ)
仏足石には縦に置かれているものもありますがこれは平板な石に彫られているのです。「平らなる」と詠じているのですが「大いなる」という感じもつたわってきます。「影」ではなくて「翳」という文字を斡旋されたのにも作者の意図を感じます。よみも意味も同じですが、翳といわれると巨木の万朶の花翳が仏足石を抱擁しているかのように感じます。句意としてはごく平明なのですが字句の斡旋のうまさによって眼福な絵を見ているように感じます。
- 合評
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風化して辛うじて文様がわかる仏足石に桜の影が差している。桜の影が文様の代わりをしているようです。 (素秀) -
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満開の桜樹の影が仏足石の上に落ちている。年を経て足形や宝輪などの刻印が薄れてほとんど見えなくなっているのだろうか。平らなるが故に花の翳がくっきりと映し出されてモノクロの美しい絵を見ているようであることよ。灌仏会に参加したのかもしれない。 (せいじ)
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桜の咲く木の翳に仏足石が鎮座している。平らな石の上に桜の花びらが落ち始めているかもしれない。 (豊実)
(はるをしとやむをえざりしうそをいふ)
本心ではない嘘を言わないといけないということは気心の知れた仲間ではなくて、相手を気遣って同調せざるを得ないというシチュエイションだということがわかる。偉い先生かも知れないし、春愁の友人などから同意を求められるような言葉が投げかけられたら否定はできないですよね。場の雰囲気をはかって思わず嘘をついてしまったが、なんとなく漂う罪悪感も拭えないのである。
- 合評
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作者は夏が好きなのかと思いました。生暖かい気候が苦手な人もいます。 (素秀)
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夏に待ち人が来るのでしょうか?本当は早く春が終わってほしいのに、周りの人には春の風情を楽しんでいるように見せかけているのでは? (豊実)
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過ぎ行く春を惜しむ気持ちにまだなれないのであろう。やむを得ない事情が何かはわからないが、春の真っ最中なのに「春惜しむ」という兼題でも出たのだろうか。 (せいじ)
ナイトキャップ抜けてをりたる朝寝かな Feedback
(ナイトキャップぬけてをりたるあさねかな)
季語の朝寝を調べると、"春は寝心地がよく、たとえ十分な睡眠をとっていても、いつまで もうつらうつらと温かい寝床にくるまっていたいもの。 猛浩然の 「春眠暁を覚えず」を出典とする。 「春眠」から派生した言葉。" とあります。ナイトキャップという言葉は初めてですがそれらしいものが存在することは理解できます。洗髪した髪は十分に乾かしていても寝癖がつきやすので女性が夜寝るときなどに着用するようですね。何度も寝返りを繰り返しているうちに外れてしまったのです。なんでもないような滑稽味がこの句の命です。同じような体験のある人が鑑賞すると思わず苦笑いしてしまうような作品です。
- 合評
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幾度となく寝返って、ナイトキャップが外れてしまうほど、気持ちの良い朝寝だったのでしょう。今は空調があるのでナイトキャップを使っている人は少ないのでは? (豊実)
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朝寝が春の季語。春の寝心地のよさについ寝過ごしてしまった。ナイトキャップを被っていたが、それが頭から抜けていることに気が付かないほどの快眠であったのであろう。あらいけない、髪が乱れているわ、と面白がっている感じがする。 (せいじ)
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昨夜の寝酒も抜けてしまうほどよく寝たと。休日前で少し深酒をしてしまったのかも知れません。 (素秀)
雨つぶも木の芽も綺羅となりにけり Feedback
(あまつぶもきのめもきらとなりにけり)
- 合評
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雨上がり、雨粒だけでなく木の芽も輝いている。雨粒の光だけに目を取られがちだが、あえてさりげなく「雨つぶも木の芽も」としたところがうまいと思う。 (豊実)
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綺羅を纏うと言いますが木の芽も雨粒も光輝く春であると言い切っています。 (素秀)
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木の芽が春の季語。雨が上がって陽が射してきた。雨粒の乗った木の芽がきらきらと輝いている。春の陽は木の芽にも雨粒にも、そして私にも分け隔てなく降り注いでいる。 (せいじ) -
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今日から昭和56年の作品になります。
(しようしんをつづりしにつきさらしけり)
日記を晒すということは、かなり昔のものだと思われる。当時としては受け入れがたいほど辛く心が傷つくようなことであったのだが、月日が経って読み直すとむしろ懐かしいことのように思い出されるのである。私もいま終活のための断捨離をしているのですが、記憶から失せていたような懐かしい書物とかが出てきて懐かしいです。なかには当時あつい思いで読み漁ったものも…(^^)
- 合評
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日記を虫干しすることにより、傷心の思い出を過去のこととし、新たな明るい気持ちを呼び起こそうとしている。 (豊実)
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古い日記の虫干しをしながら当時いろいろあった事を思い出しています。日に曝されたこともあるのでしょうが今となってはそれほどの事でもなかったと感慨しているようです。 (素秀)
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曝書が夏の季語。虫干しの蔵書の中に古い日記があったので読んでみたら、傷心を綴ったものであった。そういうこともあったなと懐かしく思っているのだと思う。 (せいじ)
(なれのふみみてなみだせりしゆうとうか)
ここ数日の作品の流れから推測して生前のご主人の文だろうと断定するのは鑑賞としてよろしくない。ただ、友の文、彼の文とかではなく「汝れの文」という表現からする推測して亡きご主人のものかもと想像することはできる。秋灯下に見ているのであるから、初見の文ではなく顛末を承知していてなおこみ上げてくる涙であろう。思うに自身の命の果を悟られたご主人が、幸せだった生涯と真心のこもった介護への感謝の文を密かに綴って残されていたのではないだろうか。私もいま真剣に終活を考えているが、家内への感謝状は必須かもしれない。
- 合評
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汝の文で近しい人からの手紙だとわかります。見て涙するは内容の分かっている昔の手紙です。事情は分からずとも読み手に作者の心情は良く伝わります。 (素秀)
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亡くなった夫の手紙を見て泣けてきたのであろう。「あなた、泣いちゃったわよ」と、夫がまだ生きているかのように、夫に語りかけている。相聞歌のようだ。秋灯の季語がよく効いている。 (せいじ)
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生前の夫からもらった手紙を読み返しているのでしょう。秋の静かな夜に、夫への感謝の気持ちと寂しさがこみ上げてきます。 (豊実)
(ぺんざらにペンかずかずやふゆごもり)
執筆活動を日常としている人のペン皿には、目的や用途によって使い分けるためにいろんな種類のペンがあるのである。それは理解できるが「冬ごもり」という季語がこの作品の中でどのように働いているのかを見極めるのは難しそう。そこがこの作品鑑賞のポイントになるかと思う。吟行が大好き、お出かけ大好きな作者であるが、高齢になるにつれ冬の期間は、どうしても家に籠りがちになる。そこでこの機会に文章執筆や書などいろいろと依頼をうけながらも滞っていた作業を片付けなければと腰を据えて机に向かったのであろう。「ペンかずかずや」という措辞によって、こなさねばならない仕事もいろいろ種類があるのだろうと思わせている。
- 合評
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家に籠ることの多くなる季節ですが書き物仕事をするには逆にちょど良い。ペン皿にいろいろなペンを並べて準備をしています。 (素秀)
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冬ごもりが冬の季語。家に籠って文筆活動をしているのだと思う。字を書く人にはたいていお気に入りのペンが用途別に何種類かあるものだが、それらをペン皿に用意して書き物をしている。「ペン皿のペン」「かずかず」の言葉の繰り返しにリズム感があって楽しい。 (せいじ)
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ペン皿に、ボールペン、万年筆、鉛筆など多すぎるぐらいのペンがある。冬ごもりで何かを書く時間はたっぷりある。今日はどのペンを使おうかと迷うのも楽しい。 (豊実)
(ひやつかにちしらたまつばきぐげとしぬ)
百ヶ日法要は「卒哭忌(そっこくき)」とも呼ばれ、遺族が泣き悲しむ(哭)ことから卒業するという意味があるそうです。時代の流れで、ご遺族だけでご供養するケースが増えているので揚句のシーンもご自宅の仏壇で身内だけでひっそりという感じがします。
供花は、亡くなった直後は「白上がり」といって白でお花を統一することが基本ですが、百箇日では通夜や葬儀ほどこだわらなくても構わないとされます。色のある花を選ぶこともできるので、故人が好きだった花や、ゆかりがある花を選ぶことが多いそうで、素秀解の通り故人のひととなりを偲んで清楚な感じの白玉椿を一輪、鶴首に活けてお供えしたのです。ご主人も青畝師を崇拝する俳人でした。椿を詠まれた名句があったのかもしれないですね。椿は春の季語ですから、百日前つまり前年の晩夏か秋頃に亡くなられたのだということがわかります。看取りの頃から年が明けて百箇日法要を迎えられるまでの作者の来し方も偲ばれます。
- 合評
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白玉椿は一輪挿しのように思えます。身内だけの法要に故人の好きな花を添えたのかと。 (素秀)
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椿が春の季語。椿の花の咲くころ百箇日法要を行った。供花とした白玉椿は故人が大事に育てていたものかもしれない。百箇日法要は悲しみに一区切りをつけて日常に戻るための節目の法要とのことである。「供花としぬ」にその決意を感じた。 (せいじ)
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百か日の法要で白玉椿を亡きご主人に供えた。おそらく、この白玉椿は家の庭に咲いていたもので、ご主人との思い出がよみがえるのでしょう。 (豊実)
(げつかびじんよみじのつまをおもひけり)
黄泉路は、黄泉の国(冥土)へ行く道すがら…ということになる。冥土への旅は49日かかると言われるので、作者は葬儀を終えてからまだ日にちが浅く悼む気持ちが十分に癒やされていないのである。
"ひらきゆく月下美人の震度かな 青畝"
の句があるが、魂をうち震わせるかのようにゆっくりと咲きひらいていくさまは、儚い命の尊厳を見ているように感じる。道に迷うことなく無事に黄泉に着きますようにと祈り心で亡き夫へ想いを馳せているのである。
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夜に花開く月下美人、一人の夜を慰めるように咲く花を見て亡き夫を思い出しています。 (素秀)
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夕方から咲き始め、朝にはしぼんでしまう月下美人を見て、夫との楽しかった時を思い出しながら、寂しい気持ちがつのっている。 (豊実)
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月下美人は夏の季語。夜開き数時間でしぼむ花である。それが今夜開いた。亡くなった夫がひととき私を訪ねてきてくれたのであろうか。夫への思いを断ち切ることのできない私であることよ。 (せいじ)
(からからのごぶつぱんみしさみさかな)
仏壇に線香、花、灯り・お水、ご飯をお供えする供養のことを仏教では「五供(ごくう)」と言います。ご飯を供えるのは「仏様の空腹を満たすため」とのことですが、仏様やご先祖様がご飯を食べる訳ではありません。お供えしているのは「ご飯の湯気」で、仏壇には湯気が出ている炊きたてのご飯をお供えするというのが習いだそうです。むかし母から、"仏壇のご飯は湯気が出なくなったら下げて美味しくいただくのよ" と教えられたのを覚えています。
冬は空気が乾燥するので炊きたてをお供えしても短時間ですぐにからからに乾いてしまうのでしょう。揚句からは、自宅の御仏飯なのかどうかは判別し難いですが、いづれにしても下げるタイミングを失した御仏飯に気づいてふと空虚な気持ち(寒さ)を感じたのである。ここ数日の作品を併せ鑑賞すると、亡くなったという事実をうけとめ冥福を祈りながらも、作者自身はまだ安寧を得られずにいるのであろう。もう少し時間が必要なのかも…。
- 合評
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仏壇に供えたご飯がからからに乾燥している。亡き夫とご飯を一緒に食べることはもうないと思うと、寂しさとともに寒さが増す。 (豊実)
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下げ忘れたのか事情で下げられなかったのか、乾いて硬くなった仏壇のご飯に部屋の寒さを感じます。独り住まいであろう事も窺えます。 (素秀)
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朝方に供えたときは御仏飯から湯気が立ち昇っていたが、ふと見ると御仏飯が乾ききっている。こんなにも速くからからになるなんてと、湿度の低い厳冬の寒さをつくづくと感じているのだと思う。「寒さ」には、独り身の心の寒さも含意されているのかもしれない。 (せいじ)
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