「夜の秋」は、晩夏にふと覚える秋の気配である。青畝師は昭和57年の6月、高野詣でをされた。6月の高野山は夜の涼しさを覚えても、それは夜の秋の感じではない。したがってこの句は、追想を詠まれたのであろう。青畝師は追想を詠む場合、自分をその場に置いて詠め、と言われたことがある。高野山に来てみれば夏はすでに終わり、夜はしみじみとした秋である。「夜の秋はすでに秋の夜」の断定は高野山なるが故に納得できる。この句は、虚子の「炎天の空美しや高野山」をふと思い出させる。
当時は毎年7月になると、青畝師は六甲オリエンタルホテルに避暑されるのが習いであった。掲出の句はその折の作である。せせらぎの音を「おしゃべり」と捉えたのは、小流れに沿う散歩を心から楽しんでいたからだと思う。同時作に「お迎えに来し車椅子避暑散歩」の句があることから、車椅子による散歩であったのであろう。平成四年、このとき青畝師はすでに癌に冒されていたのだという。この六甲避暑から五ヶ月後の平成四年十二月二十二日、青畝師は九十三歳の生涯を閉じられた。
「森林浴」が、どのような作例によって新季語となったのかは知らないが、人々は清澄な大気や緑を求めて山野を散策するようになった。海に海水浴という季語があるように山に森林浴という季語ができても、おかしくはない。今日でも森林浴を季語としている歳時記は少なく例句も乏しい。ただ揚句の場合は、素秀解にもあるように、「藻は茂り」が、枠役として清涼感を醸して主役の森林浴を生かしている。まだ十分認められていないうちは他の季語で補うことも良い方法だと思う。
案山子翁あちみこちみや芋嵐 青畝
「芋嵐」がはじめて登場し、当時話題となったこの句もそうであったと思う。朝日新聞「折々のうた」(大岡信)は、「森林浴」の句をとりあげて、「青畝は(中略)最晩年まで豊麗で平易な巨匠の作品を続々と作った。「森林浴」のような新しい語を何のためらいもなくとり入れ、使い方は常に意表を突く斬新さだった」と評している。
青畝師には芋虫、毛虫、げじげじ、尺取など、人に好かれない小動物を詠んだ句がある。これらの小動物も青畝師にとっては憎めない存在であったのであろう。尺取は木の葉を食べる害虫である。指で尺を計るような屈伸運動をして匍行(ほこう)するが、休むときには小枝のような擬態をする。このような尺取のたわいない仕草が、作者には面白かったに違いない。
揚出の句の尺取は、小枝の擬態をして油断していたところを疾風に襲われたのだ。疾風は尺取の擬態を暴いたのである。「棒となりたる」はいささか誇張した表現のようにも思えるが、この誇張がユーモアを醸し出している。「尺取の」ではなく「尺取が」であることにも注目したい。
「桂浜三句」と前書きがある。詠み込まれた地名が、他の地名と置き換えてもよいと思われる句を見ることがある。そのような地名は、十七音にまとめるための借物にすぎない。青畝師の詠まれた地名は、それぞれに動かしがたい存在感をもっているのに驚く。
色が浜霞とぶ冬迫りけり 海の日のつるべ落としや親不知 戸隠の裾野まばらに蕎麦打つ灯
これらの句も掲出の句も、余情の中心が地名にあると言えるであろう。土用波は遥か彼方からしだいに盛り上がり、極限に達した波頭が地響きを立てて崩れる。前書きにある桂浜には、坂本龍馬の像が太平洋に向かって立っている。純白に青みのさした海の色、波の色は白緑以外に表現の言葉はない。「土佐涼し」の語感の重みは、土佐という風土の重みでもある。
ガンジーの無抵抗主義、言葉だけは子供の頃から聞いていた。写真で見るガンジーは、痩せて小さなおじいさんであった。昭和47年に、とい子夫人の石仏研究会印度旅行に同行されて、インド、ネパール、タイを巡遊されている。青畝師は海外旅行もよくされていたが最も興味を持ったのは、印度であると話されていた。
ガンジーの反英闘争は武器を持たなかった。不服従を唯一の武器とした静かな戦いは、根強く執拗につづけられた。ガンジーの銅像は、カルカッタ市内の広場にあると青畝師は印度巡遊日記に書かれている。歳時記は季語である「跣」の本意を、「夏は素足で降りたり、海辺の砂を踏んだりして、土の感触をたのしむ」と説明しているが、ガンジーの広場を目指す跣に青畝師は何を見たのであろうか。独立はしても、今なお貧しさの残る印度である。
ここに詠まれている父は、実父橋本長治である。実父は八木銀行高取支店長時代、この地の製薬業を資金面で支えたそうである。実父は俳句に夢中になっていた20歳代の青畝に、「そんなことをやって飯が食えるか」と、嘆息したという。この句の詠まれた頃の実父は喜寿であった。退職して閑日月を過ごしていた父を大和から呼び、甲子園の住居に滞留させたりしたと、自註句集にある。「しみじみ高し」は、寝顔を見ながら老いた父をいとおしく思われたのであろう。青畝師は母を11歳で亡くしておられるだけに、もろもろの思いが去来したのに違いない。同時作に、
昼寝あはれ咽喉の仏のものを言ふ
がある。実父は昭和15年、他界された。
7月24日は小説家芥川龍之介の忌日。俳号は「我鬼」であるが死の年の2月に発表した小説に風刺的な「河童」の作があることから河童忌ともいう。龍之介はこの年、自ら生命を絶った。山本健吉は、「芥川の文学は常に何物かに脅迫されている近代人的な弱さがある」と書いている。虚子は、俳句は極楽の文学であると言い、青畝師も賛同して、俳句には救いがなければならないと主張された。
芥川文学と極楽の文学とは別であると言っても、芥川文学を否定しているのではない。極楽の文学と異なる文学を突きつめようとした龍之介の短かった生涯に思いを馳せているのである。
釣橋は山峡の人々の暮らしと深く関わっている。日常の行き来は言うまでもなく、祝ぎごとも葬列も釣橋を渡ることがある。登下校時の子供達が釣橋を揺さぶるのも山峡ならではの戯れである。「こたび帰省の子に躍る」は、帰省子の喜びもさることながら、釣橋もまた帰省子を迎えた喜びに弾んでいるのだ。作者によって描かれた山峡の夏の一点景はリズミカルな言葉の運びによって躍動している。
自註句集でこの句のことを次のように言っている。「天竜峡に釣橋がほそぼそと渡されていた。(中略) 見ていると、茂みの中から一人足早に来るのであった。(中略) 私は彼を帰省の少年と見立てる興味を感じた」釣橋を渡る人物を、帰省の少年と見立てたと言うのは面白い。青畝師は作句工房の秘密を明らかにして、はばからない。
青畝師は昭和58年6月に右腎臓摘出の手術を受けている。一度退院したが再入院して越年した。句集『除夜』には「病中吟」として20句が収められている。香水の句はその中の一句である。香水は夏の外出に、汗臭い体臭を消すための身だしなみとして用いられる。しかし青畝師に撒かれたのは、病臭を消すための香水である。「撒かれ」という受身の表現から、なすがままに委せるより外はない病床の作者の姿がうかがえる。
この句は、青畝という自己を言葉として詠み込み、「青畝病みにけり」と自己を客観視したところにペーソスがある。青畝師はもうひとりの青畝に、「えらいことになった」と言っているようである。同時作に「腎臓をひとつうしなひ生身魂」の句がある。
晩年の富安風生と青畝師は親しかった。昨日のナイターは面白かったなどと他愛のない手紙のやり取りをしていたという。風生は曾て、「俳句は生活のしみのようなものだ」と言った。風生には富士の句が多い。中でも赤富士は意欲的に詠みつづけた。
赤富士に露滂沱たる四辺かな 赤富士に鳥語一時にやむことあり
風生には自筆の『富士百句』がある。「風生は九十四まで」には、自分は風生の齢までいきられるだろうか、いや生きようと言った思いがある。このときの作者は80歳、「富士涼し」は、清らかであった風生の生涯に寄せる賛辞でもある。
平成に入って青畝師は、ソ連崩壊、湾岸戦争など世界情勢を句にしている。
星飛びし夜毎にソ連変わりけり カシミヤの毛布ぐるめの避難民
これらは何れも新聞報道、テレビを見ての作品と思われるが、こうした句を作らしめた作者の胸奥に何があったのだろうか。句集の寸言には、「ソ連邦はいよいよ69年目の崩壊と宣言した。私の一生で共産党が生まれて消えたという訳だ」と書かれている。
共産主義の象徴であったレーニン像が、クレーンによって横倒しにされた。民衆はそれを無表情で見ていた。信仰をもつ作者は、論理構築されたイデオロギーとはなんであったのかと、無残なレーニン像を見たのかも知れない。
青畝師には、「三輪山は玉と鎮みぬ星月夜」の句もある。三輪山をご神体とする大神神社には「月の山大国主命かな」の句碑が建っている。三輪山と青畝師の関わりは深い。
高浜虚子は那智の滝を、「神にませばまこと美はし」と詠み、青畝師は円錐形の均整のとれた三輪山の美しさを「姿涼しも」と詠った。「神ながら」は、神でおわしますまま、神のお心のままに、との意であることは言うまでもない。青畝師にとっては星月夜の三輪山も月の夜の三輪山も、白日の三輪山も大国主命であり神なのである。
青畝師86歳、箱根の旅での作。「足柄」は、すぐに足柄山の金時を思い出させる。源頼光の四天王の一人となった坂田金時の幼名は、金太郎といった。血色良くまるまると太った金太郎が、足柄山で熊と相撲を取り勝ったという話は子供の頃よく聞かされた。
この句、「雷公」がうまい。「公」にはいろいろの意味があるが、この句の雷公には親しみを表している。金太郎が熊に勝った足柄山で暴れる雷は、雷公と呼ぶにふさわしい。足柄山を転げ回って去る気配のないのである。「雷公の」語感のよさは絶妙という外はない。
青畝作品には小動物を詠んだ句が多くある。初期から晩年の句集の随所に微笑ましいさまざまな句を見ることができる。
みの虫の此奴(こやつ)は萩の花衣 蟷螂はなびける萩の落とし物 黒き玉出てでで虫の目となりぬ
このような句には何れにも温かなまなざしがあり、そこにはユーモアとペーソスが漂っている。青蛙の句の着想は奇想天外である。太く深く彫られた髭題目に身をひそめて動かない青蛙を、隠れん坊をしていると見たのだ。髭題目は日蓮宗の七字の題目「南無妙法蓮華経」の法をを除いた六字を、先端を髭のように脇に延ばして書かれたもの。
髭題目の一字を隠れ処として、何時までもじっとしている青蛙に、「もういいよ」と呼びかけたのだ。「俳句は存問の詩」といわれたお言葉を改めて教えられる。晩年の青畝師の自在さを示す句でもある。
青畝師は耳疾をもっていたが物音を捉えた句を数多く詠まれている。「猟の沼板の如くに轟けり」は大きな音であるが、「太き尻ざぶんと鴨の降りにけり」は、大きな音ではない。青畝師は音を表現する比喩や擬声語に、まことにすぐれた感覚と音感をもっておられたことに驚く。
夜振りの句は、吉野川で詠まれたくであるが、このような情景は何処の川でもあると思う。読者はそれぞれの体験と重ねて水音を立てながら近づいてくる夜振りの火を思い描けば良い。読者はそこに、近づいてくる物音は「じゃぶじゃぶ」でも「ちゃぶちゃぶ」でもなく、青畝師の表現された「ちゃぼちゃぼ」であることの真実を合点するに違いない。青畝師が聞き止め、そして表現された「ちゃぼちゃぼ」は、水から足を抜きながら一歩一歩近づいてくる音である。この擬声語には牧歌的なぬくもりがある。
青畝俳句には、さまざまな角度から月下美人を詠まれている。
月下美人魂こめてふるへけり 女王花ただちに卒塔婆小町かな
月下美人はサボテン科の一品種、夏の夜に乳白色の大輪の花を美しく咲かせながら芳香を放ち、咲こうとする力を漲らせた花弁はかすかに震える。「魂こめてふるへけり」 である。咲き始めてから咲き終わるまで五時間ほどで月下美人の生命は果てる。「ただちに卒都婆小町かな」なのである。
今夜は咲きそうという気配があるときは室内に取り込んで鑑賞したりするが、真夏の夜の夢を自ら演じる月下美人に、外の雨は静かな音をさせて降ることがある。月下美人に夜半の雨はふさわしい。かつらぎ庵には大きな鉢植えの月下美人があった。この句は、ご自宅のそれを詠まれたのであろう。
青畝師には他にも陰部を詠んだ句がある。
をかしさよ銃創吹けば鴨の陰(ほと) ひとの陰玉とぞしづむ初湯かな 春日輝々神妃は陰をもてりけり 初湯殿卒寿のふぐり伸ばしけり
自解には「をかしさよ」の句について、「いままで俳句で陰部を詠んだ人がない。川柳の末摘花のごとく下品なものにしてはならない。陰部を詠んでも気品がなくては成功しない」とある。大岡信は朝日新聞の「折々のうた」に「藻は茂り森林浴のやうな鯉」の句とともに「初湯殿」の句を挙げて、「こういうのを手がつけられない天衣無縫ぶりと言うのだろう」と書いている。
こともあろうに、いちばん大切なところまで抜けてしまった羽抜鶏は、みすぼらしい姿をさらしている。でもそれは一時現象である。
「那智滝」と脚注。那智高原に「子に生きて又孫に生き杉を植う」と刻まれた平松いとゞの句碑が建てられた。いとゞは虚子没後、二十歳年下の青畝を師と仰ぎ、虚子の花鳥諷詠は青畝に生きていると弟子たちを指導した。青畝師はこの句碑の除幕式の主賓として那智を訪れたのである。
折からの雷雨も祝賀会の頃にはやみ、句会場の二階からは那智滝を正面から見ることができたそうだ。青畝師は窓によって雲烟に変幻する那智滝をご覧になったのでしょう。「神のます」は、虚子の「神にませばまこと美はし那智の滝」を踏まえているのではないかと思われる。
「太閤の覇を思ひけり」は、太閤の覇とはなんであったのかを思ったのである。辞書に「覇」とは、諸侯の旗がしら、武力や謀術によって天下を従える者、とある。秀吉の幼名は日吉丸である。才覚と機知と策略をもって戦国の乱世を駈けめぐった日吉丸は木下藤吉郎となり、羽柴筑前守秀吉となり、豊臣秀吉となり、関白となった。太閤とは関白を子に譲った人のことである。
大阪城は太閤の覇のシンボルであるが、大阪城には秀吉の盛衰も同居している。晩年の秀吉は、主君信長の姪、淀君との間に生まれた秀頼を溺愛してその行く末を案じた。死期の近いことを知った天下人の苦悩は弱い一人の人間の苦悩と変わりはない。青畝師には、「端居して濁世なかなかおもしろや」の句もある。青畝師にとっては太閤の覇もまた濁世のドラマの一齣なのかもしれない。
三重県尾鷲海岸での作。この句を所収している句集『紅葉の賀』の序に、「見えないものを見る目を美しく保たねば、ものの生命も自分の生命も逃げてしまうということが恐ろしい…」と、自戒とも思える記述がある。一人の鮑海女の桶に「みつ」と書いてある。その桶は採った鮑を入れる桶であり、息がはずめば抱かえて、波にゆられながら憩う桶でもある。「みつ」と書いた桶に「みつ」は命をあずけて潜き浮かぶことを繰り返している。働き者の「みつ」である。
この句は写生句であるが、「みつ」の語感を最大限に生かしているところにテクニックがある。「桶を頼りの」は、見えないものを見た目である。
その日の気分によって着るものを替えているのであるが、アロハは派手な模様の半袖シャツ、裾をズボンの外へ垂らして甚だ開放的だ。甚平は子供や老人が着る袖無羽織のような単衣、どちらかと言えば老人くさくなる。アロハと甚平の極端とも言える雰囲気の相違が句を面白くしている。
青畝師の服装は大胆であった。吟行などには驚くほど派手なブレザーを着こなしておられた。何事にもとらわれない自由さがそうさせたのであろう。「アロハ着たり甚平着たり」は作者の自画像である。「老気儘」は、気儘な自分を楽しんでいるいるようである。
自解によれば、「奥の細道」に随行した曾良の墓のある壱岐を通過した折、甲板から見た漁港なのだそうだ。けれども鑑賞にあたっては何処で詠まれたかにそれほどこだわらなくても良いと思う。ただ、作者の位置を船上に置くことによって、漁港の全体の景の中に石油タンクが見え、船の進むほどに遠ざかりゆく距離感が「漁港涼し」を実感させる。
アポロはギリシャ神話の太陽神であり、青春のシンボルであると言われている。この句は素材の構成も言葉の運びも若々しくてこころよい。石油タンクにアポロの顔を描いた島の一漁港に、青畝師のまなざしは親近感を持っている。
この句は子供の頃、盥の日向水にセルロイド、ブリキなどで作った金魚、亀、白鳥、人形などを浮かべて遊んだことを思い出させる。ブクブク泡を噴いて沈むのは、どこかに穴が開いて水が入ったからだ。水を振って抜いてまた浮かべて、同じことを繰り返して飽きなかった。同時作に「浮人形のつぽ倒れて浮きにけり」がある。この句も「のつぽ」の俗語を楽しく使っている。
青畝師の十一冊の句集に「浮人形」の句はこの二句のみであるが、このような句を詠まれるときの作者はまさに好々爺でもあろう。ぽかりと浮かんだ浮いてこいのお尻は、たまらなく可愛い。
「かつらぎ」は昭和四年創刊。この句の作られた昭和六年には第一句集『万両』が刊行されている。俳壇への華々しい登場であるが、青畝師はその頃の養家の環境を「大阪は十露盤の玉のうごく都会である。私は角帯をしめた管理人、最も封建主義のもとに入って忍辱の修業をつんだ」と述懐している。揚句についても自解に「泉をたずねて実際に写生した。(中略)その泉は崖に覆われてこんこんと清冽な水を噴ききあげた。(中略)やがて目に止まった蟹、青い蟹が石のごとく居る」とある。
青畝師は泉を実際に写生したのであるが、「紺青の蟹のさみしき」には、作者の主情が濃く出ている。封建的な養家での日常は、孤独な日々であったのではないかと思う。この年の九月、戦火は満州事変へと拡大した。
郷里の高取から真北に見える景色だそうだ。土地の人々がどうして畝傍山を峰山と呼ぶようになったのかはわからないが、峰山には自分たちの山と言った親しみがこもっている。自註には「五年間二里の道を遠しとせず中学に通ったので生駒や大和三山は見馴れて身についた親しい景色だった。わたくしらは畝傍を峰山と呼んだ。頂上へも登ったが実際に低い山なのだ。(中略)この句は畝傍を贔屓する自分の心を表したのであろう」と記している。麦を刈って生駒よりも高く見える峰山、「峰山高し」には童心とも言える喜びがある。
句集「万両」所収。『万両』は望郷の詩であると青畝師は言われた。ふるさとを思う作者に蚕飼のさまざまが明らかに浮かぶのであろう。揚句は帰郷吟である。「ふるさとや」は懐かしさの中でここがふるさとなのだと頷いている。養蚕では、まぶし藁にすがりそこねた蚕が障子に繭をつくることがあるという。最後の排泄物が褐色にしみた飼屋の障子もふるさとなのである。中学校を卒業した作者は嫂の手助けをして蚕を飼ったことがあるとのこと。
高浜虚子に「蚰蜒の打てば屑々になりにけり」の句がある。青畝師の句は「打てば」を省略している。日常語では、ちりぢりばらばらというところを、この句の場合、濁音を消して「ちりちり」と表現しているのである。「ちりちりばらばら」の「ちりちり」は、打たれてばらばらになった蚰蜒の脚にまだ命があり、こまやかに動いているようにも描写が及んでいる。「ちりちりばらばら」と言われてみれば、「ちりぢりばらばら」は、単なる常套語にすぎなくなる。青畝師の言語感覚はデリケートである。
句集「万両」所収の作品。「万両」は、すでに古典であると言われている。「道作り」も現在の道路工事、道路補修とは趣を異にしている。日本が貧しかった頃の田舎の道作りは機械力もなく肉体労働であった。青畝師の郷里では盆前によく道作りが行われ、各戸に賦役があったという。新しい道を作るのではなくていたんだ箇所を修繕したのだそうだ。
「ひだるし」は、ひもじい、空腹、という意味であるが、この句の「ひだるし」からは、そのような生理現象よりも先に、道作りの人たちの緩慢な動作が見えてくる。道をしへは、そのようなことに関わりなく飛び跳ねているのだ。
この句は極めつけの名句として多くの俳人に激賞されている。同じ光景を見ても「蛇の首」とは言いとめられない。大方の俳人は「蛇泳ぐ」とするであろうというのが評者の一致した意見である。鳳凰堂へと泳ぐ蛇は、遠ざかりつつやがて視野から消えるはずであるが、青畝師の「蛇の首」は強烈な存在感をもって消え去ることはない。
「蛇の首」は読者をどきっとさせる。しかし「蛇の首」を活かしているのは「水ゆれて」という極めてさりげない描写による導入であることを、見逃してはならないと思う。自解には「ルナールは蛇が長すぎると書いているけれど、私は鎌首だけだったと思う」と述懐しておられる。
感想やお問合せはお気軽にどうぞ。