2016年6月
目次
(ふんえんのかくすゆうひやうまひやす)
暑い夏の一日が終わって、耕作や荷役に使役した馬を川や池に引いて行き、浅い水際に立たせてからだを洗い、汗を流してやり、蹄を冷やしてやる。人も一緒に水に入って洗ってやっている景である。その背景には活火山が休む間もなく煙を噴きあげていて夕日が傾こうとしている。この山の火山灰によって育まれている麓の畑で、今日も一日無事に守られたことを感謝しつつ、明日もまた一緒に頑張ろうなと労いつつ愛馬に語りかけている素朴な耕人の姿も浮かぶ。ミレーの晩鐘を思わせる情景ですね。
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私の子供の頃夏休みや春休みに父母の実家へ帰ると農耕用の牛や馬がをり全ての時間がゆったりと流れていのを思い出します。夏の夕暮時、一日の仕事を終えた安堵感がとても良く出ていて、やの切れ字が良くきいていますね。(ひかり)
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現代では農耕馬・牛の姿がすっかり消えて農器機にとって代わられました。家畜とともにあった農家や林業の暮らしも様変わりして、こういう牧歌的な光景に出合うこともなくなってしまいました。これからは、もうこうした句は生まれない・・・と考えるととてもさびしいですね。本当に懐かしい絵画のような句です。(まゆ)
(ゆきゆけどかわはらばかりやなとおし)
梁は川の流れを狭くして、竹を編んだ簀を張り、魚をとる漁法。夏の涼しげな梁風景を写生しようと吟行にきたけれど、ゆけどもゆけども広々とした河原が続くばかりで一向にそれらしいものが見えてこない。歩き疲れて立ち止まり川堤の木陰で一休みしている吟行グループの人たちの姿が浮かびます。河原ばかり…の措辞からかなり大川のような雰囲気があるので大掛かりな梁なのでしょう。
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ゆきゆけど…の措辞に歩き疲れた作者の疲労感がよく共感できます。もっと近いと聞いて張り切って出かけてきたのに、こんなはずではなかったなという後悔めいた雰囲気も感じます。簗は夏の季語、愚痴をこぼしながら汗を拭っている作者の姿も見えてきます。(ひかり)
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気がせく気持ちがよく伝わってくるが、それほど大きな川ではないのでは。足場の良いところから河原に降りて川沿いに進んでいったとも考えられる。地元の人にすぐそこですよと聞いたのに、そのすぐそこがこんなに遠いのかと、町人の感覚とのギャップを痛感した一句とも読める。 (まゆ)
(じゃりしきてあぜみちよろししょうぶえん)
花菖蒲は栽培の歴史が古く品種も多い。改良された歴史や経緯によって花形が異なり、江戸系、伊勢系、肥後系などと名札が添えられている。
揚句の菖蒲園も系統ごとに田が分けられ、それぞれを畦道で区切ってある。昨今は歩板や木道で仕切られたものも多いが、雨でぬかるみやすい時期でもありこの菖蒲田の畦は新しく砂利を敷きつめて歩きやすくしてあるのである。畦道をたどり丹精込めて育てられた美しい花菖蒲を愛でつつ、足元を気にせず心ゆくまで花を楽しんで欲しい…という主催者の心配りにも満足しているのである。
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おお、この砂利を敷いてあるのがいいね!まるで畦道のようじゃないか。と、砂利の音をかみしめながら嬉しそうに歩く姿が目に浮かぶようです。(まゆ)
そこらぢゆうちらばるマッチ芝を焼く Feedback
(そこらじゅうちらばるマッチしばをやく)
季感は「野焼く」、早春、《山焼く》と同じ目的で野を焼くこと。焼く場所によって、堤焼く、丘焼く、芝焼くといいます。
主として害虫駆除を目的とした行事です。堤や丘や山を焼くときには枯れ草の背も高く着火しやすいので、棒の先に襤褸を巻き油を染み込ませて松明を作り、着火していきますが、枯芝は背も低く繊細であるのと、一気に燃え広がるのを避けてマッチで直接火をつけているのである。
燃え広がる火の機嫌をみながら、風の強さや方向とも相談しつつ次々と点火している様子がわかる。マッチの火を直接芝に添わせると火傷の危険があるので、擦って火の着いたマッチを足元の芝の上に放り投げているのではないかと思う。そこらじゅうちらばるマッチ…は、その残骸であろう。またこの表現から、狭い芝庭ではなくて広芝であることも連想しやすい。
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気持ち、よーく解ります!あるんですよね、慌てて箱を開けたら中身が全部飛び出して・・・沢山のマッチを拾い集めながら、情けないやら苛立たしいやら。で、戻す時は急ぐあまり半分くらい上下逆さまになったり。(まゆ)
(このひなをタヒチのしまにひろわずや)
拾はずや…の「や」は、古語で詠嘆をしめす間投助詞。
間投助詞『や』文中・文末の種々に付く。
〔詠嘆〕…だなあ。…よ。
出典徒然草 七
「つくづくと一年(ひととせ)を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや」
[訳] しみじみと一年を暮らすだけでも、この上なくゆったりとしている(ものである)よ。
美しい珊瑚礁で有名な南国の島タヒチは、蒸し暑い日本の風土から見ると夏のバカンスの避暑地でもある。雛流しは春の行事、外海へと遠ざかっていく雛を眺めながら、夏の頃にはタヒチのあたりまで旅しているだろうから避暑地の浜で君たちと再開したいものだなあ…という詠嘆でしょう。句集に並べられた雛流しの三句、連作として鑑賞することもできますが、即物写生をモットーされる紫峡先生にしては珍しくメルヘンチックな心象句と思います。心象を詠みながらも具体的なシーンを連想させるのは写生術のなせるところであろう。
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雛は海に沈みもせず無事椰子のふるさとのタヒチに着いたんですね。この雛を浜辺で拾い上げたのは、作者だったんでしょうか? それとも、ゴーギャンが描いたタヒチの少女だったんでしょうか? (豆狸)
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流し雛の句が続きますね。だんだん、願望や希みを掛けた句ではないかと思うようになりました。実際、河口をくぐり海まで流れ出る雛がどれほどいるかを考えると・・・サンゴの海まで辿り着くんだよ、タヒチの娘に拾われないとも限らないよ、と祈りながら流したのである。現実の厳しさが根底にあればこその句ではないかと思う。(まゆ)
(このひなはさんごのはなをはかどころ)
この句は、先にみなさんで鑑賞してみてください。季題は「雛流し」だと直感された方は初級卒業です。
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珊瑚の花の原産はブラジルとのこと。目の前の雛流しの雛が太平洋を渡り、ブラジルで珊瑚の花に包まれて安らぐというところまで想像されるところが凄いなあと思いました。目にうつる表面だけでなく、目に見えないものを観察しなさいというのはこういうことなのかと感じました。(さつき)
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川に流された雛は川を下り、海に出てゆきます。海原を流れているうちにどんどん水を含んで、ゆらゆらと沈んで行くことでしょう。海底には珊瑚の森があって、ポリプの花は満開。雛は珊瑚の花に囲まれて寧らかな眠りに着くことでしょう。(豆狸)
もう少し、意見が欲しかったのですがまとめてみましょう。意外と難しいですね。
季感は流し雛で句意も明快ですが、問題は写生句と見るかどうかです。珊瑚の花は珊瑚礁のことで植物の珊瑚花ではないですね。潮が引いて珊瑚礁があらわになりその上に沈んでいた雛を発見してこの句が生まれた…と解すと写生句です。
一方、外海へ流されていく雛を見送りながら、やがてどこかの小島に流れ着き美しい珊瑚礁に沈んで安らぐのだろうな…という推量の意にも解せます。つまり「珊瑚の花を墓所…にするのだろうな」が省略された推量です。
句集に収められた前後の雛の句の余韻があるので、どうしても後者の解に傾きやすいですが、単独で示された場合はどうでしょう。みのる解としては、一応前者にしておきます。
(やしのみとすすむひあらむながしびな)
名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ、故郷の岸を離れて汝はそも波に幾月
島崎藤村作詞「椰子の実」の冒頭の歌詞である。季題は「流し雛」
流し雛(ながしびな)は 雛祭りのもとになったといわれる行事。「雛流し」ともいわれる。祓い人形と同様に身の穢れを水に流して清める意味の民俗行事として、現在も各地で行われている。流された雛は川の流れに乗りやがて外海へと出て流離の旅に出る。広々とした海原では同じように故郷を離れた椰子の実と出会って、ともに流浪の旅をする日もあるのだろうな…という感慨である。椰子の実と…の「と」は、「藤村の歌に詠まれた椰子の実のように」の意に解せなくもないが、素直に「椰子の実と出会って一緒に」と解したほうが情感が深いと思う。いづれにしても流し雛の句として異彩である。
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一読して、なんとスケールの大きいロマンあふれる句だろうと感動!雛といえば古い因習や哀しげなイメージがありますが、この句はむしろ爽やかな余韻を感じます。本当にこのようなことがあればどんなに素敵でしょう。 (まゆ)
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椰子の実といえば伊良湖岬、流し雛といえば鳥取を直ぐに思い浮かべて仕舞います。黒潮が運んでくる椰子の実と親潮が運ぶ流し雛。出会う日があるのかな? 出会ってほしいと思います。(豆狸)
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あらむの「む」の使い方に、「~だろう」という意味があることを学びました。また、「すすむ」という擬人的表現に椰子の実や雛に対する作者の優しさを感じます。「進む」ではなく「すすむ」と平仮名にされたのにも意図が感じられて優しい雰囲気になっていますね。(なおこ)
(ひにもたれやまとしおもうひとまるき)
天離(あまざか)る鄙の長道(ながぢ)ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
歌意は、「遠い田舎の長い道のりを故郷恋しさにやって来ると、明石の海峡から故郷大和の山々が見える。」
歌聖・柿本人麻呂は、大和の宮廷歌人として有名。
忌日は 3 月 18 日であるが、明石にある人丸山柿本神社では毎年 4 月 18 日に例祭が行われる。
境内にはこの歌が記された大きな歌碑があり、お天気のよい時はここから紀伊半島の山並みも望めるので、これを大和の山々と見立てたのであろう。
柿本神社の当該歌碑だと断定はできないが、旅先で詠まれた人麻呂の望郷の思いをうべないながら偲んでいるのである。碑にもたれ…の措辞によって作者の立ち位置を明確にしている。大和し思ふ…の「し」は古語で、自信はないのですが、このケースの場合は、「大和」にかかる強意の副助詞だと思います。普通なら「大和を思ふ」としてしまうが、大和し思ふ…とすることで古典的な雰囲気を醸している。
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古典も勉強していないとこうはは詠めないので、すごいなと思いました。人麻呂が大和を思うのと、作者が人麻呂を思うこととが重なり合っているのがすごく深いところまで思っているのだと感心しました。(なおこ)
(きんしゅぞとさかずきなげしとんどかな)
健康のために酒を絶たねばならないと度々決心するのだけれどいつも長続きせず、自分自身の弱さに忸怩たる思いにかられる。
年のはじめ、今年こそはと意を決して、愛用のぐい呑みをとんどの火に投げ入れたのである。
「今年もたぶん無理なのでは?」という周囲の視線にまで連想をひろげてみると滑稽味のある微笑ましいシーンとなる。
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父や主人を見ていて思うのですが、禁煙より禁酒の方がずっーと難しいみたいですね。禁煙は二人とも一度で成功しましたが、禁酒は朝今日からやめると宣言して、夕方には缶ビール一本ぐらいとなって成功した試しがありません。 この主人公も直ぐに挫折して、翌年も盃をとんどにくべられたことでしょう。(豆狸)
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「禁酒ぞ」という強い言い方に作者の今年こそはという強い意志を感じました。お猪口が放物線を描いてとんどに消えていくのが目に浮かびました。愛着のあったお猪口ともこれで決別だ…と作者は思った。(なおこ)
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