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南上加代子句集紹介

あひにゆくこの髪恥づる野分かな Feedback 合評を投稿

南上加代子  

(あひにゆくこのかみはづるのわきかな)

合評
  • 野分にもかかわらず会いに行く相手とは誰であろうか。風に乱れた髪が恥ずかしい。この髪を思うと本当にうらめしい野分であることよ。 (せいじ)

鈴虫の一壺を贈る見舞かな Feedback 合評を投稿

南上加代子  

(すずむしのいつこをおくるみまひかな)

合評
  • 何の見舞いかなと考えてしまいました。病気とかでも無さそうですしまだ暑さの残る地方への納涼の虫の音かなとも思えます。 (素秀)
  • 昔は鈴虫を壺や甕に入れて鳴き声が共鳴するのを楽しんだとのことであるが、私には経験がない。何とも風流な贈り物である。 (せいじ)
  • 私自身、子供のころ鈴虫をたくさん飼っていて、近所のおばあさんに鈴虫をガラス瓶に入れて差し上げたことを思い出しました。 (豊実)

眼帯の濡れてをりたる端居かな Feedback 合評を投稿

南上加代子  

(がんたいのぬれてをりたるはしゐかな)

季語の「端居」がどのように働くのかと考えると難しい句ですね。暑いからといって汗で眼帯が濡れることはないような気がする。なにが原因で眼帯をかけているのかはわからないが、多分、涙が止まらないというような症状かと思う。うっとおしいけれども我慢して耐えるしかない。気分転換を図ってその辛さを紛らわすための端居ではないだろうか。

合評
  • 室内の暑さを避けて縁先で涼んでいるのだが、知らぬ間に眼帯が汗で濡れていることに気が付いたのであろう。眼帯の濡れによって夏の暑さを表現しているのだと思う。端居の涼しげな雰囲気と眼帯をつけているうっとうしさとの対比が面白い。 (せいじ)
  • 眼帯はものもらいか何かでしょうか。涼んではいるのですが汗で濡れてくるほどまだ暑いのか、日中の汗がまだ乾いていないのかと思われます。 (素秀)
  • 端居にはくつろいだ納涼のイメージがあるのに、なぜ眼帯が濡れているのだろう?喜びの涙か、それとも悲しい涙か?いずれにしても、端居で心を落ち着けようとしているのだろう。 (豊実)

汗の子の手習ひの墨とばしけり Feedback 合評を投稿

南上加代子  

(あせのこのてならひのすみとばしけり)

わかりやすい句であるだけに、しっかりと季語の本質を捉えることを怠ってはいけない。やんちゃな子が手習いの最中にふざけて墨を飛ばしたのではなく、 素秀解の通り、書き上げた半紙を先生のところへ持っていこうとしたときに汗の手が触れたという状況ではないかと思う。それを叱責するのではなくて、がっかりしている生徒に、「大丈夫よ…」と優しく声をかける先生というあたたかみのある点景と読み取りたい。

合評
  • 真夏の習い事、子供らは汗も墨も散らしながら真剣にやっているようです。 (素秀)
  • はじめは汗の子を腕白坊主と想像したが、季節が夏であることを考えると、腕白坊主に限る必要はないのかもしれない。墨を飛ばすのは子どもの常であるが、特に夏は集中力が続かないのでよく起こるのであろう。暑い夏の習字教室の一風景が活写されている。 (せいじ)
  • 「草じらみつけてきし子や書を習ふ」と同じような場面。やんちゃ坊主が筆の墨を飛ばして座敷を汚してしまったようだ。 (豊実)

春の夜や門限きめず一人住む Feedback 合評を投稿

南上加代子  

(はるのよやもんげんきめずひとりすむ)

春は、「春宵一刻直千金」と言われるように、春の夕から春の夜までの間の風情を詠むことが多い。日中の苦熱から開放され涼しさを中心とする「夏の宵」にくらべて、なにか色っぽい趣きがある。夜になってもなおつづくその気分を「春の夜」と詠んだ。さらに時刻が更けると「夜半の春」となる。それぞれに固有の趣が有るのでそれをくみとることが大事である。

両親と一緒に暮らしていた学生時代には厳しい門限があったのであろう。また、社会人となってからも会社の寮などで同様のルールがあったかもしれない。しかし今はひとり暮らしの住まいを得て気楽な生活を楽しんでいるのである。反面、少しさびしい孤独感も漂わせていて、「もうちょっと遅くなってもいいかな…」とお友達との春の夜を惜しんでいる様子を連想してみた。

合評
  • お子さんが進学か就職かで一人暮らしを始めることになったのでは。これからは門限の無い自由な暮らしが始まる、春の夜からもそう思えます。 (素秀)
  • 郷里を出て一人暮らしになった学生時代を思い出す。一人暮らしだから門限を決める必要もない。そのような生活が始まった春の夜、門限がなくても早く家に帰って一人の自由を満喫している。「門限きめず」がすべてを物語っている。ただ、そのような生活もしばらく経つと寂しさを感じるようになるのだが。 (せいじ)
  • 一人暮らしを始めたので、夜遅くなっても親からとやかく言われることもない。春の夜のほどよい暖かさの風情を味わっている。 (豊実)

鳥どうし虫どうし寄る涅槃かな Feedback 合評を投稿

南上加代子  

(とりどうしむしどうしよるねはんかな)

涅槃図を前にしてどのように詠むかというのはとても良い訓練になる。かなり多くの作品が詠み尽くされているのでどうしても類想になりがちであるが、そうした条件下でなお心を無にして如何に新しい発見を見出すかということが試されるからである。釈迦本人と取りつき嘆いている人々や奇人らを写生する句が多いが、揚句では無表情な小動物たちが寄りあつまって居る様子に着眼したのである。感情表現を持たないこれらの小さい霊は、弱肉強食の世界に生をいとなむが、いまは互いに寄り添うことで釈迦入滅の悲しみを共有しているのだと作者は感じたのである。

合評
  • お釈迦様の入滅を悲しむ人や動物たち、鳥も虫もこの時ばかりは争いもせず寄り添っている。涅槃絵図を写生して仏法の教えを現わしているようです。 (素秀)
  • 涅槃と言えば中山寺の涅槃絵を思い出す。お釈迦さまを慕って鳥も虫もその死を嘆き悲しんでいる。絵に描かれているままにその姿を写生したのであろう。「どうし」の繰り返しにリズム感がある。 (せいじ)

書を習ふお喋り叱り日脚のぶ Feedback 合評を投稿

南上加代子  

(しょをならふおしやべりしかりひあしのぶ)

また書道教室の句が出てきたので、加代子さん自身が子どもたちのための教室を営んでおられたのかもしれない。放課後からはじまり、夕食の時間までには終わって家へ帰らせなければならないのであるが、日が永くなって少し気分が緩んでいる気分が伝わってくる。叱り方も頭ごなしの一喝ではなくて、「これこれ…」という具合にやさしい長閑な感じである。前にも書いたように、「日脚のぶ」というような感覚的な季語は、得てして「…だから日脚のぶ」という説明句になりがちであるが、具体的な情景を写生して取り合わせることで活きてくるのである。

合評
  • 冬至を過ぎると、一日一日と日が伸びる。叱られる子供も一日一日と成長していく。 (豊実)
  • 春が近くなり日の暮れるのが遅くなってきたので、習字を習っている子どもたちは外で遊びたくてうずうずしている。習字に集中できずお喋りを始めた子どもたちが先生に叱られてしゅんとなっている様子までも見えるようである。 (せいじ)
  • 先の習字の句に続いているのかと。子供たちのお喋りを叱るのは作者のようで、やはり教えていたのかなと思われます。 (素秀)

角ごとにさくら草おく画廊かな Feedback 合評を投稿

南上加代子  

(かどごとにさくらさうおくがろうかな)

桜草という名前は、「我国は草もさくらを咲きにけり」と小林一茶の俳句にあるように、花の形がサクラ(桜)の花に似ているところから由来する。 最近は園芸種が増えて、プリムラと言われたほうがピンとくるが、プランターなどに群生させると風情がある。この句、情景はよくわかるがなぜさくら草なのかと考えると難しい。薔薇でもいいのではないかと穿ってみたりするけれど、よく考えると画廊の主役は絵画であってコーナーの空間を飾る鉢物は脇役でなくてはならない。薔薇とかのような豪華な花ではいけないのだと思う。素秀解を読んで納得させられたが、ごちそうなどを味見するときに品代わりの度に水を呑んで味覚をリセットするように、そうした主催者の意図も感じられる。

合評
  • 結構広い画廊なのかもわかりません。展示の趣向が変わる所に鉢植えで気分を変えるのかも。春の気分も満点です。 (素秀)
  • 角ごとにさくら草をおいている画廊とは、主催者のおもてなしの心が伝わってきます。ゆっくりと鑑賞することができます。 (なおこ)
  • 回廊式に絵の展示をしているのだろうか。曲がる角ごとにさくら草の鉢を配するという画廊運営者の春らしさの演出が心憎いばかりである。平仮名と漢字のバランスがよく目に心地よい。 (せいじ)
  • 画廊なので室内ですね。鉢植えのさくら草が壁の絵画の傍らに置かれ、柔らかな雰囲気で絵画を鑑賞しています。 (豊実)

病人にバレンタインの薔薇挿され Feedback 合評を投稿

南上加代子  

(びようにんにバレンタインのばらさされ)

完全な気重なりの句ですね(^o^)

でも冷静に鑑賞すればバレンタインが主季語であることは分かります。ちょっと難しいですかね。以前にも書いたことがあるかもしれませんが、加代子さんの大親友が波出石品女さんです。品女さんは結婚されて広島の人になられましたが、それまでは兵庫県立病院のナースでした。ということでこの句は品女さんとの関わりの中から生まれた作品だと思われます。

入院患者から薔薇をプレゼントされたナースかもしくはドクターではないだろうか。ただ、ナースの場合は患者との個人的な関わりの節度について厳しく教育されているので、素秀解のとおり私も女性の入院患者と主治医の男性ドクターとの所作のように連想してみました。白衣の襟に挿された薔薇は目立ちますね。ドクターも勲章より嬉しかったことでしょう。もちろん絶対正解はありませんから、連想は自由に広げていいのです。

合評
  • あまりに客観写生なので、作者が当事者ではないように感じました。照れくさすぎて、他人事のように詠まれたのでしょうか?バレンタインに薔薇の花を贈るということなので、赤い薔薇だと思いました。季語はバレンタインですが、薔薇は五月の季語ですね?考えれば考えるほど分からない句ですが、句会であれば私も頂くだろうと思いました。まるで映画のワンシーンのようです。 (なおこ)
  • バレンタインは女性からはチョコレート、男性からは薔薇の花を送るのではないでしょうか、日本ではチョコの方が目立っていますが。お見舞いも兼ねた薔薇の花のプレゼントなのでしょう。 (素秀)
  • 場面を想像するのが難しいが、バレンタインデーはもともと愛する人に贈り物をする日だから、女性から男性へという日本の習慣とは関係なく、女性である作者が夫からプレゼントされたときのことを詠んだのではないかと考えた。夫はその時たまたま軽い病気でもしていたので、外に買いに行くのではなく庭にある薔薇を摘んできて、花瓶に挿すとかではなく、妻の髪に挿したのであろう。「挿され」に無理やりされた感があり、そこにまた喜びを感じている。 (せいじ)
  • 自分が患っていても人を愛する心を忘れないことは大切。早く元気になりますように! (豊実)

総立ちの鴨おどろきししぶきかな Feedback 合評を投稿

南上加代子  

(そうだちのかもおどろきししぶきかな)

「総立ち」は原句のままであるが、「総翔ち」の意と理解して良いと思う。鴨はお尻が大きく重いので一般的な水鳥のように瞬時に水から飛び立つことはできない。助走するようにしぶきを立てて水面を駈けながら低く飛び立つのが鴨の特徴である。なので、一陣の鴨が一斉に飛び立つときには何事が起こったのかと思うほど激しく水しぶきがあがる。そうした鴨の特徴をしっかり捉えているので季語が動かないのである。総立ちの…鴨の代わりに、鶴、鷺、鳰などと入れ替えてみても実感として連想できないことを確認できる。季語が動かないように写生することの大切さを学び取りたい。

合評
  • 予期せぬ人に驚いた水面の鴨が羽音としぶきをあげ一斉に飛び立ったのを詠まれたのでしょう。鴨も驚いての行動でしょうが不意を突かれた作者の驚きも想像できます。 (うつぎ)
  • 浅瀬に立っていた多くの鴨が驚いてしぶきをあげたのでしょう。水面から飛び立つ時にしぶきが立つのは当たり前ですが、浅瀬でもしぶきが立つということはかなり驚いたのでしょう。 (豊実)
  • 驚いて総立ちししぶきを上げるという鴨の一連の動きを、「おどろきししぶき」と、原因としての驚きと結果としてのしぶきを繋げることによって、どちらが先ともいえない一瞬の出来事として表現しているのではないかと思った。不意を衝かれた作者の驚きも含意されているのかもしれない。 (せいじ)
  • 今日から昭和47年の作品です。

過去記事一覧

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