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 素十俳句研究  素十二百句抄

放屁虫あとしざりにも歩むかな Feedback 合評を投稿

高野素十  

(へひりむしあとしざりにもあゆむかな)

合評

ゆれ合へる甘茶の杓をとりにけり Feedback 合評を投稿

高野素十  

(ゆれあへるあまちやのしやくをとりにけり)

花御堂を見たことのある人には直感的に伝わってくる情景ですね。甘茶の盥の真ん中に誕生仏が立っておられて盥の縁に柄の部分を凭れさせた真鍮製の軽くて小さい杓が沈めてあるのです。揚句のそれを甘茶掛けをする人が入れ替わり立ち代わりあるので、数本ある杓が落ち着くひまがないのです。それらの人の賑わいに混じって作者も甘茶かけに臨んでいるのです。わかりやすい句ですが、杓に焦点を絞って花御堂の賑わいを連想させているところが非凡です。

合評

探梅や枝の先なる梅の花 Feedback 合評を投稿

高野素十  

(たんばいやえだのさきなるうめのはな)

探梅は冬の季語ですが、春隣の雰囲気を感じますね。「探梅行」とも詠まれるように早咲きの梅との出会いを求めて里山路を散策することをいいます。 もしみのるが素十と同じ情景に出くわしたら、次のように詠んだと思うのです。

探梅や指呼の枝先に梅の花

真っ先に見つけて、"ほら、あそこに咲いてるよ!" と叫んでいたと思うからです。多分素十も同じような感動を覚えてこの句が授かったと思います。 句の雰囲気からは、one of themではなくて、ようやく出会えたうれしい一花であったように感じます。まず枝先の蕾から咲き始めるというのは梅の特徴だと思うので「枝の先なる」というだけで魁のそれであることがよく分かります。昔カメラの師匠から「梅は枝先の花を撮れ」と言われたことを思い出しました。

合評

猫柳四五歩離れて暮れてをり Feedback 合評を投稿

高野素十  

(ねこやなぎしごほはなれてくれてをり)

合評でも意見が別れているように、「しばらく猫柳に佇んでいた作者が四五歩離れて振り返るとはや暮色を帯びていた」の意と、「四五歩の距離をおいて咲き並んでいる猫柳がいま昏れなんとしている」とのどちらなんだろうかと私も悩みました。「四五歩離れて」の措辞がその選択を惑わせるが、十歩二十歩ならともかく四五歩の距離で振り返って前者のようか感興が得られるかどうかと考えるとやや無理な気がする。

季語の本質からして、猫柳であるがゆえに池畔や湖畔の風景と共に連想が広がるのだとするならば、後者のほうが詩情があるように思える。春宵という季語がある。また、「春宵一刻値千金」ということばもあるように、この時間帯の春の風情は格別の趣がある。

合評

大いなる蒲の穂わたの通るなり Feedback 合評を投稿

高野素十  

(おほいなるがまのほわたのとほるなり)

詳しくは知らなかったので調べてみると、雌花が結実後に綿クズのような冠毛を持つ微小な果実になり、この果実が風によって飛散する。そして水面に落ちると速やかに種子が実から放出されて水底に沈みそこで発芽するそうだ。「通るなり」の措辞からは大空を飛んでいるのではなく目線の高さでゆっくりと移動しているのが見えているのだと思う。私は見たことはないが、大いなると言っているのでかなり大きな塊状で飛んでいるのだろう。

子供頃わたしは、蒲の穂をみるといつもフランクフルトを連想していた記憶がある。

合評

甘草の芽のとびとびのひとならび Feedback 合評を投稿

高野素十  

(かんぞうのめのとぼとびのひとならび)

野萱草の若芽を「芽甘草」というらしく、検索するとパック入りの「芽甘草」が売られていました。素秀解にあるように、写生の模範と賞賛される一方、他派からは草の芽俳句と侮蔑を込めてよばれた有名な句である。虚子は「かういふ句の面白さが分らない人たちは気の毒な人たちです」といってこの句を絶賛支持した。ポイントは「とびとびに」ではなく「とびとびの」で、その違いについて素十自身が解説している。

早春の地上にはやばやと現れた甘草の明るい淡い緑の芽の姿は、地下にある長い宿根の故であろうがこのような姿であった。一つのいとけなきものの宿命の姿が、<とびとびのひとならび>であったのである。それを私はかなしきものと感じ、美しきものと感じたのであった。<甘草の芽のとびとびにひとならび>ではないのである。

この一文を引いて倉田紘文氏いわく

素十のあふれるような情感というものを十分に汲み取ることができる。そしてその「情感」のこの作品への観入は、<とびとびのひとならび>の「の」の一字に託しているというのである。つまり<とびとびの [ 生命の ] ひとならび>ということなのである。(後略)

即座に肯定も否定もできない私には、ただ唸るしかない。もう一つ逸話を見つけたので引用しておく。素十のこの句が詠まれた同年、素十より先に虚子が詠んだ作品に下記がある。

茨の芽のとげの間に一つづつ 虚子

この句が素十の揚句の下敷きになったのでは?と記している記事が見つかった。そんな気がしないでもない。

合評

風吹いて蝶々迅く飛びにけり Feedback 合評を投稿

高野素十  

(かぜふいててふてふはやくとびにけり)

春風に乗って蝶が飛んでいる。その春風のせいか速く飛んでいるように見える。眼に見えない風に蝶を配することによってあたかも風が見えるようにしたところがこの句の眼目ではないかと私は思う。ところがこの作品も例によって「そのままで、ただの報告」という評価が多く、かの日野草城でさえ、「平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。(中略)けだし天下の愚作と断定して憚りません。」とまで酷評しているのです。

言い訳は一切しない素十さんですが、ホトトギスに掲載された素十俳句論を引用しておきたい。

俳句とは四季の変化によって起る吾等の感情を詠ずるものである。などと、とんでもない事を云ふ人がおります。感情を詠ずるとは、どんな事になるのか、想像もつかぬのであります。現代は科学の発達した時代で科学を究める人の態度は、素直に自然に接し、忠実に之を観察する点にあらふかと存じます。俳句も亦結論はありませぬ。それで結構です。忠実に自然を観察し写生する。それだけで宜しいかと考へます。

いかにも素十らしい論ですね。「俳句とは自然に寄り添うこと、そして自分に嘘をつかないこと。」つまり、自然、生命に対して誠実にあることなのだと。何となく耳のいたい思いがするのは私だけだろうか…。

合評

朝顔の双葉のどこか濡れゐたる Feedback

高野素十  

(あさがほのふたばのどこかねれゐたる)

季語の朝顔は初秋。本来は花を意味するが、揚句は芽を出したばかりの双葉を詠んでいる。朝露に湿った黒土を押しのけるように顔をだしてひらいた双葉である。うつぎ解にもあるが如露で撒かれた水滴がついているのではなく双葉のありようそのものに濡れた感触を覚えたというのである。

「どこか」というのは、はっきりとそこ…というのではなく、どことなく…というような意味である。このような曖昧さもまた素十俳句の特徴の一であるが、それが素十の抒情的な一面とみることができる。素十句は全く主観のない単純な写生句だする評価も少なくないが、決してそうではないと思うのである。徹底して焦点を絞ることで、描写していない他の要素を読者に想像させるというのが素十俳句の特徴だと思う。

合評
  • 如露で水をやったり雨の後なら余りにも当たり前で「のどこか」は目には見えてないけれど双葉は濡れている程に生気があるよと作者は感じられたのでしょう。 (うつぎ)
  • 双葉が春の季語。双葉の例句としてよく載っている句である。春先に朝顔の種をまき、毎日水をやっていると、ある日双葉が土から顔を出す。はっきりとどこそこが濡れていると明確にいうことはできないが、どことなく濡れているのである。産子のように感じているのではなかろうか。 (せいじ)
  • 双葉が仲春だそうです。どこか濡れゐたる・・ですから、全体的にびしょ濡れというわけではないようです。昨夜の雨の粒が残っていたのか、葉っぱの水分が溢れているのか、散水の水の粒か・・・あっちの双葉もこっちの双葉も、産毛に水の粒をくっつけていたのでしょう。水を含んだ黒い土まで見えてくるようです。 (あひる)
  • 新芽の双葉が濡れているように見える。生まれたばかりの生命の瑞々しさでしょうか。 (素秀)
  • 「朝顔」は初秋の季語ですが、ここでは花ではなく双葉が主役です。中七の「双葉のどこか」に味わいを感じました。どことはっきり言わないのだけれども、かえってリアリティを感じます。作者は水やりをしながら発芽して間もない朝顔の双葉の初々しさ・瑞々しさを喜んでいるのではないでしょうか。 (むべ)
  • この句の場合、朝顔はまだ咲いていないので、双葉が季語ですね。双葉が何故濡れているのかよくわかりませんが、土の湿り気を持ち上げてでできた雰囲気が感じられます。 (豊実)

真青な葉も二三枚帰り花 Feedback

高野素十  

(まつさおなはも二三まひかへりばな)

うつぎ解にあるように俳句の場合、「何々の帰り花」といわないときは原則さくらをさすという暗黙の約束のようなものがあります。でも絶対的なものではないようです。「真青な葉」といわれると違うかもと自信ないのですが大島桜かなと思いました。大島桜はソメイヨシノとは違って花とほぼ同じタイミングで葉がでてくるからです。でもその花と同時に出はじめる葉はやや茶色っぽい眠り葉なので「真青」ではないです。でもほどなく無垢で綺麗な緑になる美しい葉で桜餅の材料になります。

勿論ですが「真青な葉」というのは、青色の葉の意ではなく芭蕉の句にある「あらたふと青葉若葉の日の光」と同意です。冬晴の蒼天に透けるような瑞々しさを感じます。

合評
  • 帰り花は見つけただけで嬉しく幸せを感じます。青い葉も有ったかもわからないが花に有頂天になり気付かない人が多いと思う。ここでも作者の観察眼の凄さが読み取れます。何何の帰り花と言われてないので桜でしょうか。 (うつぎ)
  • 帰り花の木に青い葉っぱがでているのはめずらしいと思いました。何の花でしょうね? (豊実)
  • 帰り花かと思えば葉も青く、それも何枚も開いている。冬のひと日の思いがけない暖かさを感じさせます。 (素秀)
  • 「帰り花」は初冬の季語。花は、暖かい気温に休眠のタイミングを逃し、一部が冬に咲いてしまった桜と想像しました。花だけでなく青葉も一緒に愛でている作者の視線が優しく、桜の木に降り注ぐ日差しの暖かさに重なります。花芽と葉芽とが同時に出ているので、きっとソメイヨシノではないのでしょう。 (むべ)
  • 初冬、つつじや桜の帰り花をたまに見かけます。葉っぱも二三枚ということで、桜の帰り花をイメージしました。裸木に花だけでは寂しかろうと、葉っぱも付き添って帰ってきたようです。 (あひる)
  • 帰り花が冬の季語。土手でたんぽぽの帰り花を見つけたよ、よく見ると帰り葉ともいうべき真青な葉っぱも二三枚出ているよ、といった感じだろうか。この句にも作者の慈父のようなやさしいまなざしを感じる。 (せいじ)

揚羽蝶おいらん草にぶら下る Feedback

高野素十  

(あげはてふぴらんさうにぶらさがる)

植物図鑑では花魁草は二種類あるようです。洋名クレオメ(和名:花魁草)というのと夾竹桃に似たような花魁草(別名:草夾竹桃)です。花魁の艶やかな長かんざしのイメージからすると、俳句で詠まれるのは前者ではないかと思います。素秀解にあるように揚羽は普通の蝶に比べると大振りなので、アクロバットのような姿勢で密を吸っているのです。うつぎ解にあるように「ぶら下る」の措辞によって翅を煽りながらバランスをとっているかのようななシーンも連想できます。花の花魁と花魁風な蝶との絡みと見るのもよ、花魁と戯れている武将の姿とみるのもまた面白いです。黒揚羽が似合いますかね。

何度も書いていますが、鑑賞に正解、不正解というものはありません。どのように感じとるかはまた鑑賞者の個性なので、「なるほど、そんなふうにも見れるな」と互いに共有しあうことで感性の幅も広がるわけです。

合評
  • 「揚羽蝶」は三夏、「おいらん草」は晩夏の季語ですが、揚羽蝶が主季語ととりました。おいらん草の名の由来は花姿の華やかさ、また白粉のような香りなど諸説あるようです。揚羽蝶もまた、大振りで黄色と黒のコントラストが美しい種類。下五の「ぶら下る」によって、蝶の翅は閉じているのではなく開いているのではないかと想像します。美しい花に蝶が最も美しく見える姿勢で止まっています。終わりに向かう夏の美しさを感じました。 (むべ)
  • 風蝶草とも言われる花魁草は長く伸びた雄蕊が花魁の簪を連想させよく付いた名前だと思う。揚羽蝶は黒くて武士のようなイメージをもつ。ぶら下がるの措辞も具体的で句の圧倒的なリアリティに驚かされました。 (うつぎ)
  • おいらん草は7~9月に咲く花で、花の香りが花魁のおしろいに似ているそうです。円錐状にたくさんの花をつけるので、揚羽蝶がとまったら、重さで少し傾いだりしなったりするのでしょう。とまると言うよりも、まさにぶら下がっている様子が目にうかびます。蝶は蜜を吸い、花は受粉してもらう・・自然の営みの一部ですが、作者は愛しいような思いで見ていたのではないでしょうか。 (あひる)
  • アゲハ蝶は当然、蜜を吸いに来ています。花魁草は花がたくさんついて頭が重そうな花ですから、アゲハ蝶のような大型の蝶が取りつくとますます頭を下げてしまいそうです。アゲハ蝶はぶら下がったまま蜜を吸っているのでしょう。 (素秀)
  • 揚羽蝶とおいらん草が夏の季語。おいらん草の花言葉は「合意」「一致」「同意」「協調」だそうである。おいらん草にぶら下がって翅を休めている揚羽蝶、揚羽蝶をぶら下げさせているおいらん草、揚羽蝶とおいらん草の仲の良さが感じられる。 (せいじ)
  • 素十は季重なりが多いですね。ぶら下がっている揚羽蝶が主季語だと思います。蝶は少し揺れているかもしれない。きれいな映像が目に浮かびます。 (豊実)

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