秋も終わり近くなると、日差しも弱くなり、自然の中にも日常生活の中にも冬の到来が間近であることが感じられる。迫りくる寒気への畏怖の年もないとは言えないが、一方ではそれを迎え入れようとする親近感もあるようである。馬頭観世音は、馬の保護神として、頭上に馬頭をいただいた忿怒の相をした変化観音で、馬頭を直接頭にするものもある。六観音・七観音の一つで、普通は三面で、二臂・八臂像などがある。この句は、六、七体の忿怒の相をした観音像がひとかたまりになって冬を待っておられるとの意で、季節の移り変わりは自然や人間だけでなく、観音像も例外ではないという作者の思いがあるように思う。平淡な表現の中に、著とした物語的な味さえ感じられる。「一とかたまり」に秋の寂寥さがある。
馬刺は、馬の刺し身のことで、熊本県の阿蘇地方の温泉宿などで食べさせてくれる。崩れ簗は、漁期を過ぎ不用になった簗をいうのである。梁漁も時季が過ぎると、梁に懸る魚も少なくなって破損した簗も繕わず、河川の中に放置したままになっている。その時期になると、谷川を挟んだ山々は色鮮やかに彩られる。その美しい山々の狭間の渓流に梁の残骸が白波をかぶっているさまは哀れで索漠とした感じがある。現在では生活のための梁漁は行われておらず観光用のものしか無いので崩れ簗の風情を見ることは出来ない。
自註・阿波野青畝集、「新薬師寺の十二神将の中でも戌を護るこの神将が代表的で忿怒の相が秀れている。外部の紅葉に日がさしてあたりが燃ゆるように染まるのである」とある。この句は、右手に剣を持った忿怒相の婆娑羅大将が紅葉に照らされて生きているようだという意である。この「生きてをる」は、現存しているという意味ではない。生きているようだと言っているのである。あまりの紅葉の美しさに婆娑羅大将を生き返らせたいという作者の願望から生まれたのかも知れない。
自註・阿波野青畝集には、「堀端の並木は柳ばかり。夏は涼しい蔭をあたえていたが、冷える風には堪えかねて細い葉っぱは梢から散ってゆく。どの柳が果てるのだろう」とある。柳の葉は秋の終わりごろになると一度に散るようになる。連歌時代には桐、柳などの散るのを「一葉」と言っていたが、俳諧では「一葉」は桐に限られ、柳は桐とは別に「柳散る」という季語が用いられている。しかし両方とも秋を知らせる一現象とされていることには変わりはない。下五の「散りいそぐ」が極めてく効果的で、冬に向かって先を争うように散ってゆく柳並木が想像できる。また、その言葉にはリズム感があり、躍動感があり堀の澄んだ水とともにあたりの澄んだ秋の空気が感じられる。
自選自解には、「野良着の女がとある軒端にたっている。はじるいろも見せず帯をゆるめ上体をゆする。そこへ通りがかって、見ては悪いと反射的にそっぽを向いてしまったのだが気になった。みな人のよい穏やかな村での仇っぽさ---この気分ので句を作りたかった」とある。初案は「当麻乙女」であった。現在は機械化が進み機械で乾燥するので、筵に籾を干している光景は見られなくなった。この句は昭和12年の作であり、天日で籾を乾燥するところである。女の野良着の間に籾が入り、痒みを覚えたのであろう。恥じらいもなく帯をとき始めたというのである。「帯を解く」に作者のあだっぽい心の動きがあるが、嫌味もなく低俗さもない。かえって「大和をとめ」と叙したところに品格さえ感じる。
菩提樹の実を菩提子。菩提樹はシナノキ科の落葉高木で寺院によく植えられる。釈迦がこの樹の下で生まれ、成道し没したことからこの名があると言われている。菩提子を乾燥させて、数珠をつくる。数珠は仏・菩薩を礼拝する時に手にかけて揉み、または念仏・念誦の回数を数えるためにつまぐる用具である。菩提子は淡黒小球形の核果で、外皮が硬くこれを貫きつないだものが数珠である。数珠の中間に大珠があり、これを母樹といい、その他の数は108個で百八煩悩を除くためと言われている。数珠は、仏・菩薩の礼拝には欠かせない用具であるが、数珠を作る前の菩提子は単なる果実に過ぎず、別に踏んでも罪にはならないという句意であり、ものごとを現代風に割り切った考え方であるが、うっかり踏みつけてしまったあとの言い訳のようにも聞こえてユーモアがある。
芦刈をする人が、夕暮れになると寒いので、刈りとった芦を焚いて暖をとるのが芦火である。また、彼芦原に火を放って焼くときの火を指して詠まれる場合もある。この句は暮れかかった芦原に炎があがり、うつくしく照らし始めたというという意である。秋の夕暮の一つの情景を捕えた句であるが、そのサラッとした詠みぶりに、秋のわびしさの余韻が残されている。また「芦火一つ」にも作者のデリケートな心の動きが感じられる。自註・阿波野青畝集には、「暮色のふかくなるにつれて暗くなった芦原ににあらわれた焚火ははっきりと火の色が増した。すぐ消えると全く何もない。燃え上がるとき特に美しい」とある。
山の薯のことを一般的には「山の芋」と、また「自然薯」ともいう。山の芋は、山野に自生するマモイモ科の蔓性多年草である。食用になる根は長大で多肉、地下に深く下りているので、木の根や石塊などに邪魔され、歪んで掘り出すのが容易でなく特別の形をした専用の鍬があるが、掘るのに技術を要する。下し金は、大根・わさびをする下ろす料理器具で多くのとげのある金属の板である。この句は、山の芋を下し金ですり下ろすと、粘りっ気が強く、紐状に長々と伸び、なかなか切れないので作者は紐と叙した。「紐となる」だけで山の芋の特徴をよく表している。山の芋は、根とは別に葉腋に生じる玉芽がある。その玉芽のことを「零余子」と言って、茹でたり炒ったりして食用にする。
藷は「甘藷」のことである。戦中戦後、米に代わる主食として各地に甘藷が作られていた。それというのも、米作が今のように品種改良、耕作法の改善が行われていず、肥料などの物資不足の時代であり、比較的人手も肥料も必要としない甘藷が作られていたのである。この句は、甘藷を掘ったあと畝が丸見えとなり、その上に広い空がかむさっている風景である。作者はその状態を「天を戴けり」と詠んだ。『広辞苑』によれば、「天」は天地万物の主宰者、造物主、帝、神などの解釈があり、「天を戴けり」は広々とした藷畑も神のご加護によるものだと詠んでいるように思われ、戦中戦後の食事事情の悪さを生々しく描写した句である。また天と地を配した見事な調和。そして「畝」を重ねたところに自然のリズムがある。
句集の秋の句の中に混じって載っているから、「朝の寒さ」は「朝寒」と同義に使われているのであろう。この時季になると、日中は暖かいが夜明けには著しく気温が低下し、その落差に肌寒く感じられる。また、ドレッシングはサラダ油や酢などを調合して作ったもので、特にサラダなどの調味料に用いるソースである。気温が著しく下がった朝など、生野菜にかけてもよく混じらない。作者はかんおような日常茶飯時の出来事を素早く捕えて描きとることが巧みで、また得意でもある。この句から作者の一般庶民の生活にやさしい眼差しを向けた心がよく描かれて共感を覚える作品である。また「かな」の切れ字が効果的に用いられ、つい昨日まで、朝寒を感じなかったのにもうこんなに冬が近づいてきたのかなあというような余情を醸し出す役目をしている。
唐松は、マツ科の落葉高木で黄葉が美しく、材質は耐久性・耐湿性が強く鉄道の枕木や電柱などに用いられていた。山葡萄は、ブドウ科の落葉性蔓低木で北国のような比較的寒い地方の山野に自生する。蔓は野葡萄より太く長く生長し、巻きひげもあり高さ20mの唐松でもからみつくとうにして巻き登る。いくら耐久性が強い唐松でも、くるくると巻き付かれては耐えることが出来ないかも知れない。若しかしたら枯れるかも知れないという句意である。唐松の大木と弱々しい蔓とを対比させ、更にその蔓が大木を枯らす虞があるあると叙したところが面白い。この句は写生句であるが、「枯らす虞れ」と詠んだところに作者の心の動きが微妙に描かれており、心象風景でもある。
熟柿は紅く熟した柿のこと。渋柿は紅く熟さないと甘くならないから、熟柿にして食べるのが普通である。木にあるまま紅く熟すのを待つと、鵙などの好餌になりかねないので、一般的には熟さないうちに収穫し、籾殻の中などに入れ熟すのを待って食べるのである。大熟柿は夏柑くらいの大きさの百目柿というのかも知れない。百目柿は文字どおり、一つが百匁(135グラム)あるという大柿である。「ひやくひろ」は腸のことで、昔は熟柿を多く食べると「おなかをこわす」とよく言われていたようである。「吸ひ」「ひやく」「ひろ」「冷やし」と「ひ」を重ねたあたりに、リズムの軽やかさを感じる。「熟柿を食べて腸を冷やした」という普段の出来事を捕えて詩化シたことが巧みで、即興的な味わいと軽妙さとがある。
自選自解に、「日航機で札幌へ一気にわたったが、札幌から北見への行程は汽車で、時間のかかること甚しい。それに景色がますます山深く、人里離れが濃厚になって侘しい思いに駆り立てられる。今まで見たネオンの灯が一つもない。太古のように森林が多い。とある村で見つかった一点の灯かげに私の心がときめいた。どんな人がそこに住んで灯をつけたのだろうとなつかしくなった。アイヌ語のコタンは部落をいうのであるが、コタンに語感がユーカラらしく聞こえて面白い」とある。ユーカラは、アイヌに口承されてきた叙事詩の一つである。作者は、たった一つの灯に枯葉がぱらぱらと散るような秋の夕のもの悲しさを覚えたのである。季語の「秋の夕」が効果的で、貧しいアイヌの暮し向きが想像される。
青畝師の高弟で山本杜城氏の鑑賞に「そのまっただ中に立つ一本の柱、それに払子が掛けてあるが、秋風に吹かれ乱れて、ちょうど柱を包むように見えたというのである。しかし、よく味わってみると、この句は、むしろ『秋風の包む柱の払子かな』という意味ではないだろうか」とある。払子は長い獣毛を束ね、これに柄をつけた法具。もともとインドで蚊や蝿を追うのに用いいたが、のち法具となり、日本では禅僧が煩悩、障碍を払う標識として用いられている。句意としては、柱に掛けてあった払子が秋風に吹かれて柱を包んだとあるが、実際には払子が柱に巻き付いたようになったのではなかろうか。払子が法具であるところからそれを包むと表現したように思われるのである。
藁塚は晩秋の一風景。刈入れの終わったあと、新藁を乾かすため田の畔などに藁束を円形や四角に積上げたものを藁塚という。昔は刈りとった稲をそのまま積上げていたが、その後稲の穂を扱いだ後の藁だけの束が積上げられるようになった。現在はコンバインなどの発達によって稲扱ぎのとき藁も一緒に細かく切り刻まれるので、藁塚はほとんど見ることが出来ない。一つ目小僧は目がひとつだけの怪物であるが、この句はその怪物を真似た鳥威しを素材にして詠んだものである。1つ目を吊るしてあった用済みの綱で、しかも一つ目を外さないまま藁塚に括ってあったのであろう。作者はそれを一つ目小僧が縛られていると詠んだのである。このような詠みぶりは青畝師の得意とするところであり即興的な味わいと軽妙さとがあり、それが俳句の一つの特性を備えているのである。
贄は、朝廷または神に奉る土地の産物、特に食用に供する魚・鳥などを言うのである。百舌の贄は肉食性の百舌が捕らえた蛙や昆虫・蜥蜴などを木の枝などに突き刺し、あとから食べようと思って、そのまま忘れてしまっているのだろうとも言われている。鋭い棘を持つ枳殻や有刺鉄線などに、からからになっている百舌の贄を見かける。即身仏は即身成仏のことで、人間が仏の力によって生きたまま仏になることをいうのである。蛙などが、百舌によって生きたまま贄にされるのを百舌の贄という。人間も仏の力によって生きたまま仏にされるので、仏即ち法の贄ということになるとの句意である。即身仏と百舌の贄のような特異な素材を取り合わせて詠むことなど、凡人には到底出来ないことであり、青畝師の指摘天分の豊かさには敬服する。
自註・阿波野青畝集には、「好天の日はひもすがら鵙が鳴きその声けわしく他の小鳥は黙ってしまう。が、日の傾くにつれて静まると、きまって山彦もしなくなった」とある。鵙は雀より大きく、鶲よりは小さい、性質は荒く、昆虫や蛙・蛇・鼠なども捕らえる。山野や都会にも繁殖し、高い木の頂や電線に止まって、尾を上下に振りながらキーッ、キーッと鋭い声で鳴く。鵙猛ると言われるほど大きな声である。縄張り確保のためと言われているが定かではない。この句は、日暮れになると、それまでこだまして鳴いていた鵙もおとなしくなるとの意である。こだまと鵙があらそうように叙しているのが面白い。
自選自解には、「私は蕭条たる吉野を見捨て難く登ったのだ。義経を憶い南朝をを悲しむのに最もふさわしいので、宿着のままで蔵王堂へと逍遥した。おごそかに締まる堂を背にして石階に腰を下ろす。後の月がしずかに照らしてくる。頬に明るく流れる光線を感じながら瞑目する。そうすると目ぶたのうらに真黒な体躯の、一方の足を宙に上げた蔵王権現の尊像が力強くやきついて見えたのである」とある。作者の自解で意を尽くしている。後の月と権現像との二つの異なるものの取り合わせが、まことに巧みでまるで絵画を見ているような感じを与えてくれる。「目つむれば」に作者の心の動きがあり、また、その言葉の語感が美しく瞑想に誘うようなひびきがある。まさに写生を超越した作品であり、幻想的で余情が深い。
河川を遡る鮎などを獲るための上り梁に対して、秋季産卵のために河口へ向けて下る落鮎などを獲るための仕掛けを下り梁という。ダムや護岸工事などが盛んに鳴るまでは、梁漁が各地の河川で行われていたが」、最近では観光客のための梁漁が多い。「恐ろしきほど町高き」だけで、他は一切省略されているが、人里離れた谷深い河川が想像できる。作者は谷底から仰向けに見た町並の高さと下り梁のある蒼い澄み切った流れとに焦点をしぼり、何らの修飾もせずに叙したのである。この単純な配合が却って効果を生み、晩秋の谷間の情景が連想され、また谷川の快い響きが微妙に躍動して行く秋を惜しむ情が」よく描かれている。
頭陀袋の解釈は素秀解の通り。以前は、頭陀袋を首にかけて歩く修行僧を見かけたが最近は全く見かけなくなった。現在は、専門の学校教育を終了すれば僧侶になれるであろうし、またその後の修業にしても、その仕方が変わってきたものと思われる。この句が詠まれた昭和50年頃は、まだ修行僧がいたようである。作者はぺしゃんこの頭陀袋を首にかけて歩く修行僧の姿に、「豊作であるのに、何故頭陀袋がぺしゃんこなのだろう」と、そのときの心情を」詠んだのである。淡々とした詠みぶりの中に、深まりゆく秋のわびしさが感じられる。また「頭陀ぺしやんこや」という言い方に晩秋の哀感が込められている。
前書に「日向国見ケ丘」とある。高千穂峡は宮崎県の高千穂町にあり、『古事記』や『日本書紀』に出てくる天孫降臨の伝説の地でもある。豊の田は、風水害もなく、稲のよく出来た豊年のことをいう。現在は、米の品質改良、耕作法の改善、農薬などの発達によって、米が余り減反政策がとられ豊年の実感はなくなった。じつはこの句、ひいらぎ時代の勉強会で、「豊の田の中に高千穂峡がある」というのは、現実にはあり得ないことであるから、客観的な写生ではなく、心象風景を詠まれたものだという節があった。しかし、後日鑑賞分を青畝師に検閲して頂いた処、実は旅の帰りの飛行機のなかでの離陸時の窓景色を写生されたものだとわかった。高齢になられても好奇心と探求心を追求される姿勢に一同頭が下がったものである。
鳥獣の害を防ぐため田畑に立てられる案山子は、昔は鳥獣の肉や毛を焼き、その悪臭を嗅がせて追い払ったことから「嗅がし」といったとも言われる。最近は、いろいろ個性的な案山子が作られ地域おこしのコンテストなども行われる。作者は単なる女の顔の案山子を見て、首の長さにイタリアの画家モジリアニが描いた女の顔を直感したのであろう。そしてモジリアニが描いたと言わず、「モジリアニの女の顔」と叙した。秋の風物である案山子に絵画を配したダンディーな作風には、柔軟な美意識を感じさせられる。自註・阿波野青畝集には、「最近はモダンな案山子が多い。服地が変わってきたからである。この案山子は首が伸びすぎモジリアニの女に見えた」とある。
自註・阿波野青畝集には、「城堀に沿うて一巡した。破れた蓮は何ともたとえよう無く惨憺と荒れてしまった。城を守った昔の武士の頃を想像すると一種の悲壮を覚える」とある。この作品を読んで、芭蕉の「夏草や兵どもがゆめの跡」が思い出される。下五の「城の蓮」の「城」は「城堀」を意味するが、作者が敢えて「城」と叙したのは、単に字数のことだけでなく、城堀に無残な姿をさらしている破れ蓮を見て、この城と運命を共にした当時の武士社会のことを思い浮かべながら、そのあり方に一抹の哀れさを感じたからに違いない。そのことは、上五の「惨として」からも想像できる。一方、その時季には城堀の水も澄んで、雲のない空や天守閣などが映るようになり、哀れさとは違った一つの風情を味わうことができる作品でもある。
自註・阿波野青畝集には、「稲田の畦みちの露をふんで歩く。螽が何匹となく葉にずがりついてこれも露まみれだ。私が側へよればくるりと螽が顔を隠す。手を出せば飛ぶ」とある。とのさまばったを小型にしたような昆虫で、体調は3センチほどあるが後肢がよく発達していて、飛翔もするし跳ねる力も強い。田圃や草原などにたくさん発生し稲を食べてしまう害虫である。第一腹節部に聴覚器があるからであろうか、人の気配がするとすぐに隠れるほど敏感で鳴かない。最近は農薬などの影響で激減したが、この句が作られた頃は、秋になると螽を取り、炒ってつけ焼きにしたり、佃煮にして食べたいう。細い葉末に顔を隠そうとする螽を叙したところに無邪気なユーモアがあり面白い。
『「万両」全釈』のなかで、森田峠師は「初紅葉が、さえぎっているものの合間合間にちらちら見えて、まるで赤い綴じ糸で綴ったようだよ」と釈している。初紅葉は、その年に初めて見る紅葉である。初紅葉の初の一字に、飯田龍太は「季節を賞で迎えるこころばえがある」と言っているが、まさにこの一字が秋の微妙なうつりかわりを感じさせてくれるのである。紅葉といえば楓に代表されるが、楓は晩秋であり、初紅葉はいち早く紅葉する桜か、それにつぐ櫨・漆・白膠木などの類であろう。句そのものは単純な構成だが、大自然の多くの事物の中から初紅葉のみを採りあげ、何らの修飾もなく一気に「遮るものにつづりけり」と叙したことにより、その表現に自然描写から生まれた力強さが加わり、秋の自然の息吹が伝わって味わいのある句となった。
森田峠師は、著書『青畝句集「万両」全釈』のなかで、「秋の谷という言葉に、爽やかな大気を感じる。その爽やかな谷に、猟銃音が起り、こだましたのだ。とうんという寸づまりな擬音語が、一発の短い銃声をよく伝える」と評し現在の猟解禁は、凡そ11月のようであるが、この句は大正13年の作であり、戦前の猟解禁が10月15日であったので、それ以降の作である。山と山に挟まれた細長い谷間に、静寂を破るかのように一発の猟銃音が起こったのである。とうんというスローモーション的な感じさえする清音が、谺となって澄みきった谷間に吸い込まれるように尾を引いて消えようとしない。そのとうんという音律が澄みわたる秋季を伝えてくれる。静と動とのみごとな調和に、格調の高い句となったのである。
北海道当別のトラピスト修道院での作。この句は、大気の澄み渡った青空にキリスト教徒のシンボルである十字架を象嵌したという意である。著書「俳句のよろこび」の自註には、「澄みきった空に嵌め込んだような十字架の神厳さ」とある。写生を超越した作者の発想は、抽象的な絵画のような感を与えてくれる。凡そ「客観写生」とはかけ離れた」逆説的な詩といえるのではなかろうか。
自註・阿波野青畝集には、「磧に下りて空の青さを見上げると釣橋が宙ぶらりんに見える。二三人静かに渡ると左右に揺れてしずまるまで時間があった。次の人はまだこない」とある。前書きに「黒部峡谷」とある。釣橋の高さがどのくらいかよく知らないが、自註に「宙ぶらりん」とあるから相当高いように思われる。また「人つづかざる」から想像すると横揺れも酷いようである。磧に下りて澄み渡った秋の青空を見上げると、怖いほど高く感じられる。遠くの山々も大気が澄みきって鮮やかに見える。その中にあって釣橋も一段と高く見えるのである。この句は、ただ釣橋の高さを詠んでいるだけではなく、「秋の空」「秋高し」「秋澄む」などの秋空の特色を詠んでいるように思われる。
「貧居」は「まずしい住い」、「簷」は「軒」と同義、「簷剪らず」は、藁屋根の軒端を剪らないで、葺きながしの状態を言うのである。10月の半ば過ぎる頃より天候も定まり、肌寒い感じもあるが山々は紅葉して美しい。霜が降りる頃には一段と鮮やかさを増してくる。その反面、原始的な葺きながしの藁屋根のたたずまいに感傷を誘うものがある。「されど」の接続詞が効果的で余情があり、深まっていく秋の寂寥感を与えてくれる。自註句集には、「韓国の田舎には貧しい藁屋根も少なくなかった。棟が丸く軒端は葺きながしのいかにも原始的、それにパカチの実が載り秋晴の日に光っていた」とある。
自選自解・阿波野青畝句集には、「花売娘のように、真赤な羽根をたくさん挿した箱を胸にかけて来るので一寸ためらいを感じた。今日からはじまる共同募金に気づいて、早速十円玉一つを少女に渡した。サービス精神に富む彼女は私の胸の位置を見定める。それから襟元にひらひらする一本の飾りをつけ一礼してくれた。その数秒間を長い時間に思われて息を止めていた私であった。少女の芳しい体臭をかげばよかったが、後のまつりであった。異性への好奇心にまだ小さい羞恥をもっていたのだろう」とある。作者の自解で意をつくしているが、このような経験は誰もが何度かしているに違いない。「息とめて」の下五は、作者自身の性格の描写で、ロマンチックな情景がよく描かれ、叙情味の深い作品となっている。
毎年10月1日から末日までの一ヶ月間、駅頭や街角などに学生や婦人団体の人などが列び募金活動を行う。募金に応じた人の胸に赤い羽根を挿してくれる。この句は、その赤い羽根を挿したルンペン氏を叙している。ルンペンとは失業者か浮浪者のことであり、まさかルンペンが募金したとは思えない。どこかで拾って挿したのであろう。作者は赤い羽根を挿しているルンペンに興味をもった。氏は、第三者を尊敬していう言葉である。社会福祉活動の一環として行っている共同募金活動に、ルンペン氏も賛同しているかのように赤い羽根を挿しているのを見て、氏をつけてお洒落のルンペン氏と詠んでみせたところが面白い。
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