神戸市主催の六甲全山縦走というイベントがありそれに挑戦したときの句です。神戸西端(須磨浦公園駅)から宝塚市に至るコース距離56Kmのロングルートです。中途半端なところで足を痛めたりすると命取りにもなりかねないので私は3回に区切って試走しました。やはり日頃から訓練して挑戦しないと通しでは無理だと気付いて断念しました。
嵐山側から渡月橋を渡ってすぐにあるお店から大堰川の屋形船を写生したくですが、紫峡師は隅田川の風景を連想したと言って採ってくださいました。俳句は作者の立ち位置を確認してから鑑賞するのが基本です。そして一人称で詠む、一人称として鑑賞することが基本なので、作者も一は茶屋ということになります。
互いに支え合うように手を取り合って花下に佇むお二人は、二タ三言交わしあいならがら、にこにこと笑みをたたえておられた。花明かりに照らされたその表情は平安にみなぎり、まるで天国で寛いでおられるかのようであった。少し離れてその姿を眺めながら、私たちもまた斯くありたいと強く思った。
減反政策による休耕田ではなかったかと思う。そのまま放置すると荒れるのでげんげを植えて備えたのであろう。ちょっと失敬して踏み込んでみると四囲に広がるげんげ田はまさに浄土の感じがした。
洗礼を受けて世界観や価値観は変わりつつあったのだが、それまではなんとも思わなかったことに罪悪感を感じるようになり、「こんなことならクリスチャンにならなければよかった…」と悩むことが多くなった。自分で頑張って自分を変えなければ…という思いが強かったのだと思う。気分転換に晴れた下萌えの川堤に寝転んで目をつむっていると草萌の香りに包まれる感じがして癒やされた。
ふとこの聖書の言葉が頭を過ぎって「天恵の日」になった。
都市部での無電柱化工事が始まった頃の作。特に年度末には多く見られた光景です。安全策で囲んだ中に材料や工具もおいてあって、ときどきマンホールから半身乗り出しては、また潜るというような動作を繰り返すので面白いなと感じました。
鉄道新駅開業のアドバルーンです。昭和時代はアドバルーン広告や飛行船広告が全盛期でした。高層建物が少なかったので広告効果も高かったのですが、さまざまな規制も厳しくなって、昨今ではほとんど見られない光景です。日本の多くの企業は、期末期首をけじめにする傾向がありましたから、当時は「開業=春」で季感的にも大丈夫だと思っていましたが、今の時代であれば微妙かも知れませんね。
瀬戸内沿岸には多くの漁協があり穏やかな内海では海苔の養殖が盛んです。揚句は須磨旗振り山の見晴台から海を見下ろして詠んだ句です。正確に方千畳あるのかどうかは定かではないですが朝凪の浦和に広々と構築された海苔ひびの形容として使いました。浜辺からではこの感じはなく高所から俯瞰した景であろうことも連想してほしい。
福音は、良いたより、喜ばしいおとずれ…の意。語源はイエスの生涯と教えを説いた新約聖書の四福音書だと言われるが、特にそれを意識して詠んだものではない。温かい陽射しに誘われて庭にでてみると何処からともなく初蝶がやってきた。高舞う様子もなく、ものの芽や芽吹きそめた庭の木々を存問するかのようにジプシーしている。その姿は「お〜い、もう春だよ!」と告げ知らせにやってきた神の御使いのように思えたのである。教会員の若いカップルから結婚式の証人の依頼を受けた時、下記の小文とともに色紙にしたためてお祝いとした。
小さくて力弱く群を作らずにただ一匹で舞う姿は、春の訪れを知らせてくれる使者のようだ。
このような小動物に親しみつつその営みを観察していると、私たちもまた神によって生かされていることを深く覚えるのです。 小動物や植物は言葉を持たないけれど、自然の摂理のままに生きることによって健気に神を証ししている。
福音を伝えるのに理屈や努力はいらないと思う。
育む生活の中に喜びと賛美が溢れていれば、私たちはそこに神の臨在を見るでしょう。
大阪藤井寺の佐藤禎三さん宅のひな祭りを訪ねたときの作。2020年までは毎年開催されていたようで藤井寺市のホームページにも広報されるくらいだったのですが、その後の情報はなく高齢で止められたようです。残念ながら揚句の写真は残っていませんでした。
嵐峡渡月橋での作。春光を弾きながら磊々を馳せる白波が眩しい。川原石をジプシーしていた鶺鴒が突然翔び立ったのを写生しました。鶺鴒自信が煌めくことはないのだが川面の煌めきの中を翔び立ったのでそのように見えたのである。やがて鶺鴒は飛翔の弧をつなぎつつ嵐峡の高みへと消えていった。
奈良でひいらぎの大会があったとき紫峡師の特選に入選した句です。「奈良めぐる」では面白くないと思って「古都めぐる」にしたと思うのですが、みなさんの鑑賞を拝見しながら、むしろ京都のほうがぴったりだなと思いました。
紫峡師から素十俳句を学べと言われていたので、蹲ってものの芽に対しながら素十さんもきっとこうして観察していたんだろうなと心を通わせて授かった作品。吟行句会の選評で「みのるさんがこんな句を詠むまでに育った」と自分のことのように喜ばれたのです。雑音には一切耳を貸さず虚子の教えを一義として生涯を貫いた素十の人柄が紫峡師の心の中に熱く生きていたからだと思います。
「かつらぎ」の主宰を引かれてからも青畝選を渇望してやまない門下のために「一人一句」というコーナーが設けられた。投句は一句だけという条件のもとベテランの同人たちが鎬を削るので入選するだけでも赤飯もの。その中で天地人の3句が巻頭に選ばれる。天は宝くじに当選するくらいの確率なのだが若輩のみのるの作品が選ばれるという大番狂わせが起きてしまったのです。斯くして雲の上の存在であった長老諸氏からも「ものの芽のみのるさん」として青畝門の末席を許されるようになったのです。
罪なきイエス・キリストが人類の贖罪として十字架上で死なれたのだということは後に解るのであるが、当時は必ず神がイエスを救うであろうと信じてひたすら祈ったのでないかと思う。結局奇跡は怒らずイエスは夕刻に息を引きとられた。三日後にキリストとして復活されてから2000年を経た聖金曜日の今日、西空に傾く夕日に佇みながらタイムスリップしてゴルゴダの丘に思いを馳せたのである。祈っても祈っても神は沈黙されるのみ、信徒たちにとってはじつに永い永い一日であったことであろう…と。微妙に季語が動くかと案じたが、紫峡師も青畝師も選んでくださった。
妹背(いもせ)とは、夫婦または夫婦の仲を表す古語で短歌や俳句でもよく使います。吾妹、吾妹子は自分の奥さんのことになります。背山妹山というような言い方もあります。俳句をはじめて間もない頃の作品で草花のこともよくわからない頃でしたが、いまは私のほうが先生です。
バブル景気がはじけた1992年頃の作品です。ポルノ映画のプラカードを担いでピエロの変装をした人が信号待の人波を狙って交差点の片隅に佇っていました。突然舞い出した風花が長いつけ睫毛に留まったのを見て一瞬滑稽だなと感じて立ち止まりましたが、睫毛の風花を拭う様子もなく立ちすくんでいるその姿になんとも言えない悲哀を覚えたのをいまも鮮明に思い出します。ひとりの大先輩がある著名誌の鑑賞欄に、芭蕉翁の「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」に通じる現代の名句だと賞めてくださった作品です。
教会学校の春のレクリエーションが雨で中止になり、チャペルでゲームをしお弁当をたべたあと子供達と一緒に明石天文科学館へ行ったときの作。プラネタリウム館の椅子は少し仰向けに倒れるようになっていて油断した私は眠りに落ちていたようです。館を出て母教会へ戻り解散するまでずっと寝ぼけた感じでした。ときは3時半頃でしたから半分創作ですm(_ _)m
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