昭和60年作、句集『除夜』の掉尾をかざる句である。『除夜』には、青畝師84歳から86歳まで三年間の作品が収められている。昭和58年6月、84歳の師は、右腎臓摘出の大手術を受けた。8月一旦退院したものの、11月再入院し、翌年の4月にようやく退院している。初めての9ヶ月にも亘る闘病生活は、高齢の青畝師にとって、危険なハードルであった。それだけにハードルを無事に克服した喜びは一入であったにちがいない。
句集名の『除夜』は「未来への夢をふくらませた私の存問として付けた」と「あとがき」に記しているが、この句の「金の砂子を撒い」たような金色燦然と照り輝く「除夜の灯」は、大病を克服して、生死の境を潜り抜けた青畝師が、みずから、来るべき米寿を祝い、みずから、旺盛な生命力を謳歌しているようにも感じるのである。「除夜の灯」の解釈については、当初この句をかつらぎ誌上で見た時、除夜詣での境内で焚かれる篝火の「除夜の火」の誤植ではないかと思った。でも句集に乗った句も「除夜の灯」であったので、そうでもないらしくいまだに定かではない。凡士解が正解かもしれない。
今年の3月から、阿波野青畝師の秀句鑑賞を続けてきた。取り上げた作品は時代的に古く、俳人阿波野青畝の作品という前提でなければ推し得ない要素も多かったと思う。難しすぎて作句の学びになったどうかともかく、みのる俳句の原点である阿波野青畝師の境涯や俳句の心、信念というようなものを知っていただくには、十分なワークではなかったかと思います。教材としては、1~3月分を残しますが、合評の活性化を願って昨年で終わりとし、新年からは南上加代子さんの作品を合評します。一年間のご協力いただいた皆様に、心よりお礼申し上げます。
冬蜂の死にどころなく歩きけり 鬼城
痩蛙まけるな一茶是に有 一茶
これらの句は、青畝師の句と共に庶民的で、弱者である動物に自己の感懐を託している点では共通している。鬼城の蜂の句には、弱者である自己の諦めきった心境を反映して、諦感が漂っている。一茶の蛙の句には、強いものに対する弱者の反抗的な負けじ魂が横溢している。この両者には弱者であるが故に諦めるか、弱者であるが故に負けまいとするかの違いがある。青畝師の老いた犬は衰弱の姿を曝しつつも行く年を惜しんでいるのである。老衰の犬までも、行く年を惜しむという人間味溢れる俳諧的詠嘆に巻き込んでいると言えよう。つまり弱者であるが故にますます俳味増して行くのである。老いという人間的欠落を逆手にとって、いよいよ芸術にのめりこんで行く、作者の強靭な俳句への執念を感じるのである。
もう少し深く連想すれば、下五の「年惜む」の前で、切れがあると思う。「涙を垂らして年惜しむ」ではないので、老犬が年を惜しんでいる…というような単純な写生ではない。年を惜しんでいるのは作者、その傍らに年老いた老犬が寄り添うように侍っているという構図も目に浮かぶのである。
昭和60年の作。「年の瀬」というと「もう年が終わってしまうという詠嘆・あわただしさ・切迫感」などを感ずるのが通例で、歳時記を見ても、ゆとりのある「年の瀬」の例句などは見つけることができない。とうころでこの句は、「六区」の「年の瀬」の夜である。「六区」は言うまでもなく、東京浅草の歓楽街の通称で、六区と聞けば、誰でもあの独特の雰囲気をすぐに思い出すことができる。それにしても何という楽しくゆとりのある年の瀬であろうか。「ぺちやくちやの」という口語の擬態語が、あっという間に、「六区」の「年の瀬の灯」に我々を溶け込ませてくれる」。これはまさにゆとりある楽しい現在の、若者の「年の瀬」である。86歳の青畝師が至芸が、旧来の「年の瀬」の概念を一挙に吹き飛ばして、若々しくまことに新鮮な「年の瀬」を現出しているのである。
昭和5年作、句集『万両』所収。甲東園の仮寓に近い寺での作。自選自解に「万両といえば、私の生まれた家には丈高く育った万両がある。殊に母は万両を愛していたようである」とあるので、「万両」は、故郷への郷愁と分かちがたく結びついていることが分かる。自席に座って、寺の庭の赤い万両の実を見た作者は、その万両に、生家の庭に生えていた万両の思い出をダブらせて、憑かれたように凝視していたのであろう。
「座について」と音便を用いいた理由については、森田峠師の『「万両」全釈』に作者からの聞き書きとして、「その座のゆったりとした気分を表したいためと、後の『憑き』と畳語のようになるのを避けたかったと説明してくれた」とある。畳語とは、「同じ単語または語根を重ねて一語とした複合語」と辞書にあるが、難しいですね。「座についたから万両が目に憑いた」という説明調になることをいわれたのかもしれないが、意味が深すぎて私にもよくわからない。庭がよく見える席であるから、座の上席であろう。
昭和39年の作。青畝師の受洗は昭和22年、48歳の時である。亡妻秀と夭折した娘多美子の二人から入信をすすめられたという。したがって昭和22年作の「ミサの鐘すでに朝寝の巷より」を初めとして、以後、数多くのキリスト教に題材を求めた句を残している。しかし、その作句態度は信仰を内に蔵しつつも、写生の立場を離れるものではなかった。
この句が詠まれた頃は文語訳聖書の時代、マタイ伝五章三十九に「人もし汝の頬を打たば、他の頬をもこれに向けよ」とあるのに基づいている。青畝師はこの言葉に対し、正直に「左頬を向ける勇気がない」と告白した上で「息白し」と結んでいるのである。信仰のない人の「息白し」とは内容が全く異なるのである。自分の弱さを認めることが信仰との戦いとも言われるが、厳しい対決を経た上での「息白し」であるから、季語としての重みがいっそう加わっているものと言えよう。
昭和12年の作。家の畳部屋が少なくなったので、畳数がぐっと減り、その上に何でも使い捨てが常識となってしまった現代では、「畳替」という季語もほとんど実感を失いつつある。「畳替」は新年を迎えるための一種の年用意で、年末に畳屋が入って、家中の畳を外し去り、新しい青々とした畳と入れ替えたり、あるいは庭で表だけを替える作業をすることである。
このような季語の背景から実景を連想してみる。この句は、寒空に威勢よく家を開け放って、畳屋が畳を庭に持ち出し、表替えの作業をしているところであろう。低く平らかな作業台の上に置かれた畳の向こうに、青桐が一本生えているのである。その青桐は枯木ではあるが青々とした真っ直ぐな太い幹で、「柱のごとし」という比喩がぴったりなのである。年末の忙しい雰囲気の中で、庭に出された畳と立ち木の関係を比喩をもって巧みに結びつけている。
昭和41年の作。自註に「那智妙法山へ案内された。見渡すところは熊野の山塊である。紺紙をくちゃくちゃに揉んでひろげた感じ。音一つせず眠った冬山だった」とある。「紺紙」は紺色に染めた和紙。うつぎ解のとおり、金泥や銀泥で写経するのに用いる「紺紙」である。冬の熊野の山塊を見て、それを比喩するのに「紺紙」を連想することは並の感覚では出てこないであろう。しかもその紺紙をくちゃくちゃに揉んでひろげた感じだというのだから、この比喩は一筋縄ではない凝りようである。素材が奇抜な上に、その素材をそのまま使うのではなく、加工してようやく比喩が完成しているのである。しかし、奇抜で複雑な過程を経た比喩ではあるが、その結果はきわめてすっきりしている。遥かに遠い冬山並みの比喩としてこれほど適切なものはまたとないと思われる。
クリスマスツリーは綿の雪を冠り、七色の電飾が点滅して、ぶら下がっている銀紙の星やその他の飾り物を光らせる。その中に「エアメール」も見られるのである。「エアメール」は外国の友人から送られてきたクリスマスカードであろう。クリスマスツリーにエアメールを吊るす、そこには青春の香りがある。十代の青春が息づいていると言っても不思議に思うものはないだろう。青畝師89歳の作である。とても89歳の老人の作とは考えられない若さとロマチシズムが宿っている。
この句、「エアメール」で休止があり、「エアメールがきたよ、そのクリスマスカードも吊り下げられる聖誕樹だよ」と目の前にクリスマスカードが飾られつつあるように仕立ててあるところに学ぶべきポイントが隠されている。初句で切れているところに作者の思い入れが込められているのである。
この屑入は、どぎつい性などを扱った、家庭に置いては良くない悪書を集めるためのもので、紙を食べる山羊の形をしているのである。折から、その山羊の屑入の傍らに、救世軍の社会鍋が吊られて、歳末助け合いの喜捨が道行く人に呼びかけられているが、応ずる人は少なく、鍋の中は寥々としていて、集められたどぎつい写真入りの悪書は、山羊の腹に一杯だ、というのである。この句、「山羊は」の「は」の使い方が絶妙である。「山羊」を取り立てて強調して、山羊(悪書)は満腹だということを示すと同時に、省略されている慈善鍋はからっぽだという意味をも含んでいるのである。社会風刺の気持ちをユーモラスに表現している。
この句は、青畝師92歳の自画像である。「冬至翁」は「冬至さなかの老人」の意であり季語を擬人化したものではない。老人に冬は禁物で「冬至」と言えば、厳しさが迫るように思われるが、この「冬至翁」という造語には何か楽しげな響きがある。そして、「ルーペに紐をつけにけり」も、喜ばしいことをしているような感じである。 「かつらぎ」に発表された「青畝日記」を読むと、この頃の青畝師は、幼時からの耳の遠さに加えて、視力も落ち足も不自由で、日常生活は容易ではなかったようである。老人にとって、ものを読むのにルーペがいるようになり、そのルーペも物忘れがちで行方を探すことが多く紐をつけて常用するようになれば、精神的にも落ち込んでしまうのが普通である。しかし作者は日記に不自由をこぼしても、作品の上では、かく楽しげに句を仕立てるのである。92歳にして、俳味はますます豊かである。季語が冬至であるので着膨れていてルーペを探すにももどかしいので世話をやく家族が紐をつけてくれたのかもしれない。
「菊を焚く」は「牡丹焚火」と違って、歳時記に独立の「菊焚く」という項目があるわけではなく、「枯菊」の項目に「枯菊焚く」という例句が含まれている。 この句「菊を焚くよりも」の後には「あはれなり」が省略されている。したがって、その省略の部分を含めると、形式的にも内容的にも和歌的な要素の強い句と言えるだろう。下村梅子氏の『鑑賞秀句百句選・阿波野青畝』によると、青畝師は大学ノートに月間の作品を清書し、かつらぎ庵で行われていた「白鳥会」という研究会に出し、さらに推敲して「かつらぎ」に発表しておられたという。そしてその用済みになったノートを「荼毘に付すんや」と言って焚かれたそうである。一句一句、精魂を込めて作ったものをノートと共に句屑として焚くあわれさは、枯菊を焚くあわれさに勝るとも劣るものではないのである。
「狐火」は冬の夜、山野や墓地などに怪しげに燃える火のこと。古来、狐が口から吐く火だ、と言われているが、正体は物質が酸化腐敗していく過程で燐が発光する現象、もしくは静電気の放電現象と考えられている。幻想的な、民族的な季題である。この句の解釈につて、「狐火を眺めながら、ある男が知ったかぶりをして、狐火について一くさり話している場面」と取る説があるが、どうやらそうではないらしい。森田峠師は「狐火が出ているよ。まことらしい顔つきでまあ、一連なりにでているよ」という風に通訳している。青畝師の話も聞かれての鑑賞だと思うのでそうなのかもと思うが…。どちらにしても、「まこと顔にも」という表現には、今まで半信半疑であったものが、本物のようだと信じはじめる微妙な心理の揺れが内包されていて、「狐火」という幻想的な季語の味わいを一層深めていると言えよう。
昭和31年、東京浅草の露店市を見ての作なので、物のあふれた昨今の大師市のような雰囲気とは少し違うかと思われる。戦後十年を経た頃で、日本は敗戦の痛手からようやく立ち直ってきつつあったが、庶民の街の露店市などには、まだまだそこここに戦後の影も宿っているのであった。師走の雰囲気の中でうろつく作者の眼前には、安い値をつけた金鵄勲章の本物が冷やかし客の目にさらされ、もはや軍人の名誉も全く地に堕ちた時代をあらわにしていた。室内や店内にあるべきはずの外套、しかも古着の外套が、ここでは、青空のもとにたくさん吊るされ、弱い冬日を浴びているのである。この句では「あをぞら」と古着の「外套」の対比が、色彩的にも、情緒の上でもはっきりしていて、庶民の古着市の哀感をそそるのである。自解に「青空の真下で見ると、品物のあわれや庶民のにおいを強く覚えさせられるのであった」と青畝師自身も伸べている。
句を直訳で理解しようとするとどうしても浅く淡白な鑑賞になり、得てしてチンプンカンプンになる。一句の中で季語がどのように働いているかを見極め、そこから作者の思いに連想を広げていくことが大切である。
「大山」は伯耆富士のこと。鳥取県西部にある火山で、標高1700メートル、山上に大山寺がある霊山である。昭和9年、その大山寺の顕照坊山坊での作。この句「大山の火燵をぬけて」という表現上の飛躍に特色がある。「大山の」と真っ向から地名を取り上げた言い方は、青畝師の代表作である「葛城の山懐に寝釈迦かな」を思わせる。もちろん、「葛城の」は、作者の故郷としての思いを含むので、特別の感情がまつわりついているけれども、この「大山の」にも畏敬の念が込められている。「大山寺」は平安時代、比叡山や高野山に比肩するほどの大寺であり、その大山寺の上に鎮座する「大神山神社」の祭神は大国主命なのである。青畝師は後(昭和35年)に「はたた神夜半の大山現れたまふ」という句をも残している。この畏敬の念を感じ取ることができれば、季語の「火燵」のぬくもりもさぞかしと想像できるのである。
昭和27年の作。「まんさくの花を探す旅」という前書きがある。自解に「まんさくの花を知り、みちのく風俗の角巻姿を見た私は、満ちたこころで平泉の中尊寺から足をかえした」とある。大阪や大和を見慣れた作者にとって、このみちのくの旅は、すべて新鮮で、東北の質朴な情緒を楽しく味わったようである。角巻は大型の四角な毛布を三角に二つ折りとして、マント風に羽織り、上半身をスッポリ包む女性の防寒用外出着である。自選自解に「姉妹か仲良しかわからない二人の女が肩をすりつつ歩いていく。もとより雪の上で足元がよいはずはない。言葉のやりとりも無遠慮に聞こえるようだけれど親密だ。すべて質素な東北民族に、この赤い暖色系の角巻は人目を惹かしめるものである」とある。雪原の上をもたれあいつつ行く赤い角巻、印象鮮明な句である。
青畝師は、小学校の頃から絵にも長じていて、遠出の吟行には画帳を常に携えデッサンをしておられた。晩年にはそれらを纏めて、角川書店から『私の俳画集』として出版し好評であった。ルノアールは、フランスの印象派の画家。青畝師の好きな画家の一人である。風景画にも肖像画にも風俗画にも優れていたが、晩年に描いた色彩の豊かなゆったりとした豊満な裸婦は、暖かで幸福感に満ちていてルノアールの特色を示している。
この句は、戦後毛糸編みが流行し始めた頃のものであり、その後「毛糸編み」の句は女流の台頭とともに多く詠まれるようになるが、この句のように画中の女に毛糸を編ませるというような発想は類がない。暖かで幸福感に満ちていて、しかも官能的であって、如何にも作者らしく、「毛糸編み」の句として秀逸である。
句の鑑賞はまず季語の判別からということを忘れないでほしい。「吸入」とあるから「冬の季語の吸入器」であることは自明。 呆れかえることを「開いた口がふさがらない」というが、この句を読んだ人は、まさに開いた口がふさがらないのではなかろうか。そして吸入器に向かっている人の姿を思い出して、思わず笑ってしまうのである。「かに」というのは「かのように」の意味であるから、「開いた口がふさがらぬ」は、吸入をしている人の直喩であるが、このように言葉の持っている意味を逆手にとっての比喩はまことに奇想天外というべきである。
表現方法は奇想天外で、その姿はユーモラスであるが、句の内容は深刻である。風邪を引いて、その治療のために吸入するのは、当人にとって、のっぴきならぬことなので、そのためにユーモラスな格好を取らざるをえない事情を考えると、病人の悲しみが伝わってくる。「単に面白おかしさをだけを捉えるのではなく、愛が感じられるように詠む」と青畝師から諭されたことがある。 「俳句のこころ」として、ここが最も大切なポイントで、この句には言葉の魔術師といわれた青畝師の特色がよくでている。
芥川龍之介の「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」と共に有名な句。芥川の句には自嘲の匂いがあるが青畝師の句は自画像ではない。自選自解で養父母を描いたと言っている。自画像ではないが境涯的な味わいのまつわる句である。「念力」は広辞苑に「精神をこめた力」とあり、一つの仕事に打ち込んでいる時の張り詰めた精神力のことである。境涯俳人と言われる村上鬼城に「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」という有名な作があり、青畝師の句は、この鬼城の句を念頭においての作である。「念力」という言葉が境涯的な味わいをもたらしているのだが、両句の内容は全く対象的である。鬼城はのっぴきならぬ「死」を配し、青畝師は格好の悪いユーモラスな「水洟」を垂らさせている。ゆとりのない鬼城に対し、青畝師の句は俳味に溢れていると言えよう。
この句は海鼠の句として、従来多かった形状の把握から一歩進んで、「生死わからぬ」というとらえ方をしている。初五の「あるがまま」は「生簀などにあるがままの状態」の意で、的確な写生であり、この「あるがまま」によって「生死わからぬ」という抽象的な把握が生き生きと読者に訴えてくるのである。ただ、青畝師の句としては珍しく、句の背後に無力感が漂っている。作者はこの句を作った昭和58年、84歳の高齢で、右腎臓摘出の大手術を受け、延べ9ヶ月の入院生活の後、翌年4月ようやく退院している。その生死を間をさまよった闘病生活の心境が、この句に反映していると思われる。この海鼠の「生死わからぬ」境に彷徨しながらも「あるがまま」という客観性、あるいは諦念を保持していう姿は、青畝師自身を思わせるものがある。
自註・阿波野青畝集に「少年の冬の遊びの。尖を鋭く削った棒切れをとばして勝負をつけるのであった。何回もくり返すうちに傷だらけの地面に変わったのである」とある。現代は子どもたちの遊びもすっかり変化して、こういう素朴な遊びはほとんど姿を消してしまった。したがって、こういう句は郷愁の詩として我々の心を打つのである。自註の「勝負をつけるのであった」という表現にも幼少時代を懐かしむ心がにじみ出ている。ところで望郷の詩といえば、ただ甘く美しく仕上げるものが多いが、そういう望郷の中にも、ぴりりと辛味を利かせて、単なる甘えの詩にしないところに青畝師の特徴がある。この句では「あばた」という一語が辛味となって、郷愁にリアルな味を添えている。甘く美しい郷愁の詩に「あばた」という言葉を持ち込むことは、常人ではなし得ぬところである。
朴の木は雑木として自生のものが多い。葉が大きく背も高いのでたいへん目立つ木である。寒さに遭うと一本の葉が一挙に生気を失い、垂れ下がって、表は焦茶色に裏はいよいよ白く変色し、風のまにまにばらばらと落ちる。その枯れざまを「気ぜわしさうに」と表現したのはまことにぴったりである。「気ぜはし」というのは、朴の身になった作者の主観であるが、「さうに」と様態化して客観性を付与している。「朴といふ」という上五は、そこが句の断点になっていて、一種の切れ字の働きをなしている。「朴といふ」の下に「木が」という言葉が省略されている形ではなく、山を見ていて、目について「ああ朴だ、といった」、その感じを生かしたかったのではないかと思う。「ホオ」という詠嘆の言葉の感じをも裏に生かした表現であろう。
この句の「此許よ此許よ」といふリフレインは、怪しげな魔窟か、あの世にでも呼び込まれそうな不思議な雰囲気を感じさせる。その理由のひとつは「河豚宿」という古風な表現が内包しているムードで、これを「河豚料理」とか「河豚の店」と上五を置き換えてみれば、その違いは明らかである。さらに古風なと言えば、「此許」という表記も記紀か万葉にでも出てきそうな古さが感じられる。そして、その根本的な原因は。「河豚」の持っている死に至る毒なのである。「河豚は食いたし、命は惜しし」という言葉があるように、河豚の美味に誘われて中毒死した話は、昔はしばしば新聞をにぎわせたものである。当今のように河豚が大衆化されていたわけではなく、食あたりの噂にのみ聞く「てっちり」の赤い灯、青い灯の看板の持つ怪しい雰囲気をこの句は、今でも十分味わわせてくれる。
平家の落人伝説で有名な徳島の祖谷のかずら橋である。青畝日記に「祖谷のかずら橋を私が勇ましく渡ったのを一同が驚き、元気だと喜んでくれた」とある。その「かづら橋」もこんな方向から句に詠まれるとは思ってもいなかったことだろう。「怖い」「高い」「揺れる」等という言葉で「かづら橋」を捉えるのが通常の感覚というものである。ところが青畝師は、「隙きだらけ」と、まさにかずら橋の隙を突いた表現をしたのである。かずらで編んだ橋であるから「隙だらけ」であるのは真実ではあるが、全くユニークな新しい捉え方である。しかも、「冬将軍」という相手方をあげられてみると、その「隙だらけ」がまさにぴったりなのだから素晴らしい。単に冬としないで「冬将軍」といかめしく表現したところが、「隙」に対してぴったりなのである。
「臘八」は十二月八日の臘八会のこと。釈迦が雪山で六年間苦行をして下山、菩提樹下で暁の明星を仰いで悟りを開いたという日であり、禅寺では法会が営まれる。12 月は臘月ともいって、その八日であることから臘八会といい、釈迦成道の法会であるから成道会ともいう。山本杜城の『「春の鳶」研究』には「とある禅寺でもあろうか。お詣りしたところ、たまたま臘八会を修していたのである。厳粛な気持ちで眺めた四方の山々にうっすらと雪が積もって、いよいよ冬が本格化する。そういう天地宇宙の根本原理をまことに淡々と平明に叙した」と鑑賞している。釈迦が悟りを開いたという臘八会にお詣りした厳粛な気持ちと、四方の山々のうっすらと雪が積もって厳しい冬が思いやられる、という気分とが響き合って潔い感じの句である。
「板」は、「いた」ではなくて「ばん」と読ませることにあとで気づきました。鑑賞してくださったみなさんごめんなさい。「猟の沼」は「猟の行われる沼」の意味で、自選自解に「印旛沼あたりの風景に想像を走らせた」とある。水鳥の猟が解禁になったばかりの広々とした沼、猟師達は小舟に身を伏せて猟銃を構え飛鳥を待つ。散弾を込めた銃の射程距離は短い。鳥が低く、近く、射程距離に入るやいなや、銃声が轟くのである。「板の如くに」の「板」は「板木(ばんぎ)」のことで、「寺院などで集会の合図などに叩きならす板。江戸時代、火災の警報にも用いた」と広辞苑にある。高く大きな耳を聾する音である。この句、その銃声が突然耳をつんざいたのである。「猟の沼」で句は切れる。そこで広々としたニマを読者の眼前に彷彿させておいて、「バンの如くに」猟銃を轟かせる。「バン」は擬音語的役割も果たしていることを考えると、やはり青畝師は、「ことばの魔術師」である。
芭蕉は貞享四年『笈の小文』の旅の途中、鳴海よりわざわざ25里の道を引き返して、渥美の保美に愛する弟子杜国を尋ねた。杜国は名古屋の米商、空米売買事件に関わって追放され、保美に謫居していた。芭蕉は深くこれに同情し、名古屋の越人に案内させて保美の里を訪れ、一里ほど先の伊良湖岬にも共に出かけたのである。「鷹一つ見つけてうれしいらご岬」はその折の吟、「鷹」には杜国の面影をもダブらせている。青畝師はこの句において、伊良湖の澄み切った空を飛びゆく鷹を見ながら、芭蕉がでし杜国を思いやった気持ちをしのび、さらに師の恩に感激したであろう杜国の心を思いやっているのである。「罪の」とわざわざ冠したのは、罪人としての杜国というとらえ方をしているのであろう。
枯薄について清少納言が「枕草子」の「草の花は」の中で、「秋のはてぞ、いと見どころなき」と言っているのをはじめとして、「ともかくもならでや雪の枯尾花 芭蕉」「狐火の燃えつくばかり枯尾花 蕪村」「化物の正体見たり枯尾花 也有」などから、「船頭小唄」(野口雨情)の「俺は河原の枯薄、同じお前も枯薄」に至るまで、日本の詩歌のほとんどが、悲しく淋しい哀れなものというイメージを持ち続けてきた。ところがこの句の枯薄は全くその従来のイメージを打ち破って、豪華絢爛たる「宝冠」の枯薄を現出したのである。青畝師自身も自註句集で「枯れた芒のさきの穂がふわりと呆けひろがると、更に小春日和だと何ともいえぬ豪華に見える。童話の王様が冠りそうで楽しい暖かさがある」と述べて、この宝冠は、日の当たった枯芒の比喩だと説明している。私ならどうしても「日当たれば宝冠となる枯芒」と添削してしまいそうだが、そこは鑑賞する側の連想に委ねて省略し、句全体に余裕をもたせている。
この句の「女」については故山本杜城氏の「春の鳶研究」に詳しい。要約すると「戦後の放恣で頽廃的な傾向の、いわゆるアプレガールである。赤茶色に染めてモジャモジャにパーマネントをかけた髪、原色のスカーフ。手を通さずに肩だけ羽織っただけの同じように原色のオーバァ。毒々しいほどに塗りたくった唇。咥えた要モク」としている。枯木に咥えていた煙草をこすりつけて消すような女性は、青畝師としては全く新しいタイプの女性で、この句は凡士解のとおり、戦後の世相を色濃く反映しているのである。表現も口語調で、K音を多く使って軽薄頽廃のムードを助けている。そしてこのアプレ的な感じを「枯木」をもって受け止めているところに作者らしさがあって、晩年の「リクルート事件の袋掛けにけり」(平成元年作)にみられるような社会性俳句の萌芽がこの句にもあるといえよう。
炭焼も現代では稀な仕事となっているが、かつて山間の農民は農閑期の冬になると一人で山中に入って炭焼にかかったものである。まず臓器を伐採した谷に窯を築く。その炭竈の傍らに粗末な炭焼小屋を立てて、作業期間中はそこで寝泊まりする。ひと竈焼き上げるのに大体一週間は籠らなければならない。日当たりのよい昼間は仕事に集中して孤独を忘れられても、夕暮れ時は侘しい。夕闇の帳が下りてしまえばあたりは漆黒の闇である。もちろん電気が来ているはずはなく、ランプがわずかに薄暗い光を投げかけるだけである。作者はその孤独な淋しさを思いやっている。山中の夕暮れに冬の日の失せるのは早い。まさに日は逃げ去るのである。闇夜の孤独がそこに迫ってくるのを防ぐ術はないのだ。「ぜひもなきこと」には作者の思いやりの深さが十分に込められていて、この句の眼目となっているのである。
「陰」は陰部の古語。自選自解に「尻といったのでは面白くない。陰というと色気があり、にたにたと笑うわけである。いままで俳句で陰部を詠んだ人がいない。川柳の末摘花(すえつむはな)のごとく下品なものにしてはならない。陰部を詠んでも気品がなくては成功しない」とある。森田峠師は、「銃創吹けば」は「銃創を探して毛を吹けば」の略、とあり、「古俳諧の滑稽味を現代に再生させた句と言えよう」と鑑賞している。「をかしさよ」は「滑稽だよ」の意であるが、「銃創吹けば」と併せ読むと、銃に打たれた鴨の哀れさが伝わってきて 4、作者が単なる滑稽を感じているのではないことがわかる。「陰」を「ほと」と古語で 4 表現して醜悪さを避けた上に、「銃創吹けば」に作者の鴨に対する優しさが込められていると言えよう。
季語は「冬菜洗ふ」であるが、それはこの句の現前の景ではない。しかし、この「冬菜洗へば」という中七の部分は、読者に、一人の農婦が眼前の農家から出てきて、門前の小川の洗い場に下りて冬菜を洗い、家に入ってしまう様を彷彿させる。想念上の人物とはいえ、一旦登場したものが、読みゆく過程において消滅するので、その寂寥感がより深まるのである。また、「用なささう」という口語表現は、「用無からん」などという文語表現に比べて発音、内容ともに力強さに欠け、無力感を伴って、冬の小川が涸れもせずに流れている淋しい感じを生かしている。結局、この句の実景としては、農家の前を冬も涸れない程度の小さい川が流れているだけなのであるが、その冬の小川の農家との関わりを含めた寂寥感が微妙な作者の言葉の斡旋によって、読者の胸に深く染み込んでくるのである。
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