山吹は桜の花の終わる頃、若葉のみどりにまじり黄色い五弁の花をひらく。八重の園芸種もあるが一重山吹がよく好まれる。『自註・阿波野青畝集』には「ちりそめた山吹の風情を味わって生まれた句である。三片二片というふうに数を逆にかぞえるのは散って減りゆくイメージである」とある。言葉をよく理解し、いかに適切に使われているかを思わせられる。鮮やかな黄の花びらがこぼれつぐさまが目に見えるようである。
うぐいは産卵期になると雄のからだに紅色の婚姻色がはしり腹部も赤みがさすためこの名がある。五体投地は両ひざ、両ひじと頭を地につけ合掌礼拝することで仏教では最上の敬礼法とされる。釣り上げられたうぐいが跳ねるのを五体投地のさまと見た。しばらく跳ねていたうぐいはやがて静かになって死ぬ。魚の跳ねかたに五体投地という仏教的な使ったところが面白い。紅色をみせて跳ねるうぐいが、やがて死んでいくさまを直視したのである。そこはとない哀れさも感じられる。
古木の幹に空洞があった場合、そこから腐ったりしないように樹医という人によって手当されている。セメントを詰められている桜を詠むことなど誰も考えないであろう。満開の花の美しさ、散る時の花吹雪など桜に対する概念ができているのである。「詰められ」て「老いにけり」という見方は老桜に生命感を与えていて、古風に言えばもののあわれを感じさせる表現になっている。また既成の美意識にとらわれない新しさがある。
雲水は行雲流水のようにゆくえの定まらないことから所定めず遍歴修行する行脚僧のこと。この作品の自註が興味深いので引用する。
「禅語であろうが、囊中無一物と墨書きした軸を見た。無欲の境涯を表現するものである。これをヒントにして一笠一杖の雲水が花の中に佇んでいるところを想定してみた。京都に行けばどこかで見られる風景であろう。無一物では概念と見えるから具体的に仕上げなければと考えた揚句に気のつかぬまに落花が頭陀袋の中へ飛んできたので、無一物ではないんだ、ニ三片落花があるんだと詠んだわけである。こうした叙法は一種の皮肉の意味がある」
青畝師のいわれる「あまたの経験に基づく写生」であり豊かな連想力のなせる句である。
秀衡桜は熊野九十九王子の一つ。藤原秀衡夫婦が熊野詣での途中、道中の難儀を思い乳児を乳岩という岩に置き、山桜の一枝を挿し、熊野詣での帰りまでの無事を念じたが、子供は無事、桜も根付いていたという故事の秀衡桜である。熊野の山中にひっそりと咲く秀衡桜、その花も散ってゆく熊野の春を惜しんでいるのである。詠嘆帳のしらべはうつくしく、秀衡桜に対する愛惜の心が伝わってくる。
中辺路より熊野を巡る旅に詠まれた。「乾坤」は易の卦の乾(陽)と坤(陰)で、天地の意とする。ひとひらの落花に対して「乾坤」の文字は天と地という悠久を思わせる。虚空を上下してとぶ花びらの行方を目で追う花人の姿が「さすらふか」の表現で浮かんでくる。何かを暗示したという深い意味はなく心の目でみたままを詩人の感覚で写生したのである。
素秀解のとおり湯の峰温泉は熊野詣での湯垢離場として古くから知られ紀州の名湯とされている。地元の老舗旅館「あづまや」に青畝師の「紅梅やあづまやの湯に恋ひ宿る」の句碑が建立された折の熊野行での句。「脱がばや」は願望の意で「脱ぎたい」と言っているのでしょう。湯の峰の湯…とひびきの良い表現で一句の仕立て方としてクラシックな趣がある。花の頃の湯の峰は旅の気分を一層深くさせることでしょう。「花衣」の季語は熊野詣での道にふさわしく活きている。
和歌山県熊野川町に句碑として建てられている。熊野詣の道、山中をゆく中辺路での作。高弟の下村梅子著『鑑賞秀句100句選』に「巻紙を伸べてまず、山また山をいくつも描き、それに山桜を点々と配して描き、その下のほうに御輿につづく行列を描き添えれば『熊野御幸絵巻』ができそうだ」と書かれている。大景の美しさが、まるで絵巻の一部分を切り取ったように描かれていて絶妙。花の頃熊野を訪ねればこの句の風景に出会えると思う。名詞ばかりで構成されたユニークな句でとりあげられて鑑賞されることが多い。
淡路島は花の栽培がさかんで、特に3月頃からは金盞花の島と言えるほど金盞花畑がひろがる。国産みの島といわれる淡路ゆえに「淡路一国」とはまさにいいえて妙、淡路島全体に金盞花が咲いている印象が鮮明である。瀬戸内海最大の島であるが、こんなふうに詠まれると島を一周したような気分にさせられる。大らかで技巧を弄さない詠みっぷりを学びたい。
復活祭に付随する季語で、イースターエッグ、染卵などと言われる。教会では復活の象徴として着色した染卵を飾る。絵ごころのある青畝師は、たのしんで色卵を作られたことであろう。キリスト像の名作が多く、暗く激しいタッチのルオーの絵と染卵の取り合わせに意外性があって驚く。「イースターエッグ彩る漫画かな」「イースターエッグ立ちしが二度立たず」などの作品がある。
俳誌「熊野」の記念句会に招かれた虚子に随行して滝に遊んだ時の作。疲れを気づかって用意した駕籠に乗って往復する虚子に随行者はお供して歩いた。「芝居をしているがごとく見られ、興味があった」と『自選自解』に書かれている。師の駕籠について歩ける嬉しさが伝わる。師の疲れを案じ何事も無きように、と祈る青畝師の気疲れが思われる。「花疲」の季語で熊野の花の旅のこころよい疲れであったこととうかがわれるのである。
「まことに活発なのでふと曽我五郎十郎の敵討という語呂合わせをして句を成した」と句集に書かれている。鯥五郎にとってはきびしい生存のさまなのであるが俳諧の心をもって眺める泥試合の言葉もおかしく、あわれでもある。歌舞伎などでも芝居になっている曽我兄弟の」敵討という発想がおもしろい。
人麻呂は歌聖と称される人であるが伝記的にも不明確で生没の年月も実際にはわかっていないといわれる。句意は明確、人丸忌に際して人麻呂を悼むより自分の亡き友人を悼むよ、と言っている。おそらくこの句は何度か行かれたと思われる明石の人丸神社での作と思われる。季語が動かないことを前提に鑑賞するならば、友人のお悔やみに明石を訪ね、ついでに人丸忌の神社にも立ち寄られたときの感慨かと思う。
ボッティチェリの流麗な描写の美しさは、作品「春」「ビーナスの誕生」などで知られる。春の大潮の時期、砂浜に出ての磯遊びはたのしく明るい風景である。磯遊びで貝を拾いながらビーナスの乗った貝を想像するとは非凡な空想力」と言わざるを得ない。「貝出でよ」と呼びかけの語調に活き活きととして磯遊びに興じている様子が伝わる。
法然院の墓所には谷崎潤一郎が生前に作った墓碑がある。二つの丸い自然石に空を右側に寂を左側に一字ずつ彫られていて、後ろ盾のように糸桜が植えられている。谷崎が平安神宮の紅しだれ桜を賞で、小説『細雪』の中で美しい姉妹がこの桜を見にゆく描写をしている。濃艶なしだれ桜を好んだ谷崎にふさわしい糸桜である。「わたしの背後へしづかな衣ずれが近づいて細雪の女性に驚かされるのではないかという気分」と『自選自解』に書かれている。
チューリップといえはオランダを連想するほどであり、首都アムステルダムの花市場では圧倒的にチューリップが多いのであろう。「世界一花市場なり」の端的な表現で註がなくてもオランダを連想する。「世界一」という率直な言葉が効果的に使われている。他にチューリップを詠んだ句としては「蜜やどす中心のありチューリップ」があり、チューリップの花そのものを写生して異色のものとなっている。
大茶盛は奈良西ノ京西大寺の行事。直径30センチ」、高さ20センチ程の大茶碗に箒のような茶筅で茶を点てて参詣の人に供する。隣席の人の介添えで大茶碗を持ち上げて飲み回す。茶碗を持ち上げた目線の先に庭の蝶の飛ぶさますがうつるのであろう。「ちらちら」の表現は、白や黄の蝶々がとびまわっているのが目に見えるようで、うららかな大寺の行事が具体的に目に浮かぶ。
トルソーはイタリア語で、人体の胴の意と辞書にある。首と手足を欠いた胴体だけの彫像で石膏で作られいる。絵を描く人にとっては、基礎となるデッサンのモデルとされる。ビーナス像の首から下を切り取ったようなトルソーには単純な美しさがある。目鼻を描かない白面の人形に、かえって表情があるように感じることがある。想像力がはたらくのである。作者はそこはかとない春の憂いをトルソーに託したのである。なくもなし、は春愁という季語に対して曲折のある表現となっている。
受洗準備のために夙川カトリック教会に通われた頃の作。朝ミサのはじまる五分ほど前に塔の鐘がなる。夙川教会のあたりは静かな住宅街なので、澄んだ鐘の音はよくひびき流れたことであろう。『自選自解』には「私が今までの習慣をもし改めなかったら、まだゆっくりと布団をかぶり朝寝しているじぶんだろう」と書かれている。心地よい春の朝の眠りを楽しむ人々に、鐘の音はゆめうつつにきこえるのであるが、そんな人々をも祝福するかのように流れるミサの鐘である。
鳴門の渦潮は有名でよく詠まれる。阿波は徳島県の旧国名であり、阿波側からの渦と淡路島側のぶつかるさまを詠んでいる。組討という言葉で、まるで戦って 4 いるかのような渦潮の激しさを思わせるのである。同時の作に「左巻右巻の渦船に触り」「大潮の擂鉢となる渦の笛」があり、いずれも渦潮の躍動感をよく伝えている。
さざえをそのまま火にのせて焼く残酷焼きであろう。ぼうぼうと燃える炎の上にさざえをおいて焼くと、貝の中の潮がふつふつとたぎってくる。醤油の焦げる匂いがたまらない。「炎上」という大げさな言葉を使っているが、これにより「金閣炎上」など、激しい火勢を想像させる。さざえの角を焦がしている勢いのよい炎をオーバーに表現していて面白いと思う。
フィンランドは、全土の一割は氷蝕湖で、三分の一は沼沢地である。森林も多い。旅行中に出会った春月は旅ごころをいっそう深めたことでしょう。大きな捉え方で飛行機からの眺めではないかとも思える。点在する湖沼を抱擁するかのように照らしている春月を連想する。湖や沼の多さを「富める」と表現したことによって、春月のゆったりし感じを醸していると思う。
一施の施は、施す、恵みを与えるの意。虚子の一語は一つの施しであると受け止めているのである。青畝師は、虚子の折りに触れての直接の教え、虚子俳話などによる言葉を常にこころに刻まれ、まるで天からの恵みのように思っておられた。「春雷し弟子を戒む虚子忌かな」は同時の作である。
印度、ネパール、タイ巡旅での作。「摩す」は、こする、せまるの意で、囀りの聞こえるインドの朝、ホテルの窓を開けて天にもせまるかと見えるほどの寺院の高い塔を仰いだのである。著書『俳句のよろこび』(富士見書房刊)の中で「言葉は無尽蔵であるけれども適当な言葉はまことに少ないので、その言葉を早く探し出して十七字のワクに切り取る」と言われている。「天を摩す」は、まさしく無尽蔵の言葉の中から捜し出された適切な言葉なのだと思う。
子供の頃、誰でも必ず吹いたしゃぼん玉。更紗解のとおりこの句をよむと状景はあざやかによみがえる。ふくれてのびた楕円はすぐに丸くなり、ストローを離れて空へ飛んでゆく。しゃぼん玉そのものを詠んで、ずばりしゃぼん玉らしさがでている。同時の作に「しゃぼん玉爆破のしづく当たりけり」があり、パチンとはじけた瞬間をみごとに捉えている。練磨された即物的な表現を学びたい。
戦後、長崎を訪ねた時の作で大浦天主堂の磔像を詠まれた作品。磔像はキリストの処刑のいたましい姿でありカトリックの聖堂には必ず祀られていますが、『自選自解』によれば「泰山木のもとにイエズスの磔像が大きく目にとまった」とあるので、揚句の場合は素秀解のとおり戸外に祀られているものでしょう。折からの春の日が磔像を輝かせたのである。全身という表現はイエスの生身を感じさせる。痛ましいお姿が春光に柔らげられ復活の希望が感じられたのである。
『自選自解』には「吾が思い出の一つに吉野山の名物という桜菓子がある。五弁を正しく開く桜花を徽章のように押した」吉野葛の干菓子、うすもも色と白とをとりあわせてならべてあるのがいかにも嬉しい」とある。単純な優しい名前であるがその色は淡く上品で、舌にのせるとすっととける吉野葛の優しさは和菓子の絶品である。紅ほのぼの白ほのぼのとたたみかけた表現で、順に目を楽しませられているさまが見える。
明るく広がる春の空をスクリーンと見てそこに師虚子の姿を思い描いたのである。客観写生、花鳥諷詠、虚子俳話の数々、直接教えられたことなど……。「釈迦説法図というのがあるごとく、私の頭の構図には、虚子説法図が組み立てられる。春空のようにやさしく人を抱擁しうる説法図を宙に描いて亡師をしのだわけである」と『自選自解』にある。桑原武夫が「第二芸術論」を打上げた時、虚子は「春風や闘志いだきて丘に立つ」と詠み、俳諧を牽引していく立場としての覚悟を示しました。その精神を継承すべしという青畝師の強い意志も含まれていると感じるのは私だけだろうか。
自選自解によると「国原とは大和平野の盆地をいう」とある。大和は日本国の別称であり、「大和は国のまほろば」の言葉から、すぐれたよいところ、即ち大和国原と印象される。飛鳥では農業の副業に養蚕をしており桑が植えられていたと思う。桑の枝は鞭のようでその枝を照らして春月が昇った。国原や、と切ってひろびろとした飛鳥の野を眼前に浮かばせ桑畑の上に大きな春月を配置した。絵画的な描写である。
晩年の青畝師はルーペをよく使われた。ルーペをあてると拡大された字は部分しか見えずはみ出るというあたりまえのことなのだが妙に実感される。なぜ万愚節なのかを考えて見るに難しい。誰を騙しても良い日という意味だけが一人歩きしがちな季語ですが、考えてみれば4月1日は春という季節のど真ん中。本来この季語が種別として持つ春の明るさに思いを馳せれば、のどかな生活の一点景と捉えてもよいのではと思う。
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