2021年6月
目次
(しゆのひもをひきながれきしあふぎかな)
ちょっとむずかしかったですかね。揚句の季語は「流扇」「扇流し」で、金や銀の美しい扇を川に流して興じる遊び。室町時代、大堰(おおい)川で行われたものに始まるという。歳時記では、「西祭」「三船祭」に掲載されているので復習してほしい。この作品は、加代子さんの代表句でもあり、「流扇」は、いま学んでいる加代子句集のサブタイトルにもなっている。古式的かつ雅な祭りの情景をさらりと詠んで味わい深い作品である。
南上加代子句集紹介 のページに直筆の色紙を紹介しているので改めて鑑賞してほしい。
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日舞なのかと思われます。赤い紐を長くたらして踊りこんできたところでしょうか。 (素秀)
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「ひき流れきし」とあるから、長い紐の付いた扇であろう。ネットを調べたら、浦安の舞(扇舞)というものにヒットした。色糸を長く垂らした扇を使う巫女舞である。長い朱の紐が流水のように涼しく感じられる。 (せいじ)
(くじやくのはをれてひきずるあつさかな)
孔雀のトレードマークといえば、何といってもオスの美しい飾り羽根。その羽根が雌へのアピールであることは知っていても、それが 3 月から 6 月下旬にかけての繁殖期だけの限定であることに気づいている人は少ないと思う。繁殖期が終わると飾り羽根は折れたり抜け落ちたりしてみすぼらしくなる。揚句の孔雀はちょうどそのような時期であろうことがわかる。抜けた羽根は、10月くらいから再び生えはじめて、1月ごろには生え揃う。
- 合評
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羽の折れた孔雀が痛ましいです。でも、暑さは容赦ありません。 (豊実)
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もう閉園になってかなりたちますが小豆島に孔雀園があったのを思い出しました。何百羽も放し飼いにされ飛行ショーなどもありました。放し飼いの孔雀はときには喧嘩もしたりして羽根が折れていたりします。それでも羽根を拡げて誇示する様は哀れにも感じられます。作者も猛暑で羽根を引きずる孔雀を哀れんだのかも知れません。 (素秀)
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動物園の孔雀であろう。美しくあるべき孔雀が折れた羽をひきずる何とも零落したさまを見ると、この夏の暑さがいや増して感じられることよ。 (せいじ)
(あしわるきひつじかたかげまもりをり)
六甲山牧場などでもときおり見かける風景である。闘争による外傷のほか、病気や難産の影響などによって足弱になったと思われる。他の羊たちは炎天下であっても元気に散って牧の草を喰んでいるのにぽつんと一匹だけ牧舎の片陰にうずくまっている羊を見つけたのである。「守りをり」には深い意味はなく、「留守を守る」という言い方と同じで、一緒にいた仲間の羊がみな出払って一匹だけ残されているという孤独感を表していると思う。
- 合評
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足の悪い牧場の羊が日差しを避けて建物の陰に涼んでいる。陰はは狭いのでしょう、他の羊に押されても負けまいと踏ん張っている様子を作者は応援しているようです。 (素秀)
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足を怪我した羊が、小屋の陰でじっとして暑さを凌いでいるのだろうと思いました。「守り」は自分の身を守っているように思いました。 (豊実)
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山の牧場だろうか、夏の日差しを受けて羊たちが草を食んでいる。ふと見ると一匹の足の悪い羊が牧舎の日陰にじっと佇んでいる。まるで牧舎を守っているかのように。 (せいじ)
びしよ濡れの草履ぬがずに鮎を焼く Feedback
(びしよぬれのぞうりぬがずにあゆをやく)
鮎釣りは、ゴロゴロとした底石の渓流に足を踏み入れて竿を振るので、長靴と地下足袋を一緒にしたような渓流足袋、鮎足袋と呼ばれるものを掃く人が多い。しかし今日のように漁具が発達していなかった時代は、素足に草鞋というスタイルであったのかも知れない。「びしよ濡れの草履」は、渓流の中から上がってきてそのままで有ることを意味しているので、せいじ解のような状況であろう。体験ツアーのようなイベントで釣りたての鮎を河原ですぐ焼いて客に振る舞っているのである。
- 合評
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鮎釣りをしてそのまま河原で焼いて食べようとしているのでしょう。皆濡れても良い草履かサンダル履きで川に入ったり鮎を焼いたり楽しんでいるようです。 (素秀)
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川遊びをして、その川で捕れた鮎を河原で焼いているのでしょう。「びしょ濡れの草履」で現場の臨場感が伝わります。 (豊実)
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鮎釣りが解禁された夏のある日、鮎を釣って食べさせてくれるところに出かけた。そこでは鮎釣り名人が昔ながらの藁草履を履いて釣りをしていた。釣った後、濡れた草履を脱がずにすぐに鮎を焼くのが定番のサービスなのだが、作者はそのようなやり方に感激したのではなかろうか。 (せいじ)
(あおぐとりひれふすけものねはんぞう)
季語の「涅槃像」は、涅槃図に描かれた寝釈迦のこと、万物が嘆き悲しむ姿に描かれる中、鳥や小動物たちは無表情に侍るだけという構成が多い。そういう鳥獣の姿の違いに気づいたところが非凡である。涅槃図の句は詠み尽くされているので、どうしても類句が多くなる。如何に目新しい視点を見出すかがポイントである。その意味で揚句はまさにコロンブスの卵と言えよう。
- 合評
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涅槃図の描写と思うのですが、涅槃像を見て鳥や獣の悲しむ様を想像したのかとも思えます。 (素秀)
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悲しみに天を仰ぐ鳥たち、ひれ伏して慟哭する獣たち、吟行でよく行った中山寺の涅槃像を思い出す。 (せいじ)
(すみびなににあひのすずりおきにけり)
墨雛は「立雛」対を墨に練り上げ型入れをして作られる。奈良の代表的な伝統工芸であくまで観賞用のものである。高級品は10万円を越える高価なものであるが書に携わる故人にとっては粋極まるものであろう。高級な墨雛に対して例えば端渓のような高級な硯を逸書に飾ったのだと思う。硯を高御座の代りにしたとも考えられる。
- 合評
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墨雛というものがあるとは知りませんでした。調べると人形の形をした墨ですが非常に高価なものです。少し寝かしておく方が良くなるともあります。 (素秀)
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「硯置き」なので、墨は摩っていないとわかります。使うのがもったいないかわいい墨人形をお気に入りの硯と並べて飾っているのでしょう。 (豊実)
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「墨雛」とは立雛の形をした人形墨のことではないだろうか。墨として使うのはもったいないような気がするが、飾って適度に枯れてきてから使うとのことである。硯を机に置いて正座し、さあこれから墨を磨るぞという気構えを感じるが、使う硯も折角だからお雛さまに似合うものをと考えたのであろう。お洒落ですね。 (せいじ)
(かんそうをきれてをりてふところで)
インタビューをうけている主人公が、想定外の感想を求められて即答できずに思案して居る様子が目に浮かぶ。懐手でインタビューを受けるということはかなりの大物であろう。不本意な質問を受けて不快感をにじませているようにも思える。「ふところ手」の季語がいろいろ連想を膨らませてくれる。
- 合評
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友人と映画か演劇を見た帰り道でしょうか?感想を聞かれて、何と言っていいのかわからない感じですね。 (豊実)
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何の感想なのでしょうか。映画、観劇、コンサートかも知れません。帰りに友人と感想を話し合っているのか、会場の外でインタビューを受けているようにも思えます。 (素秀)
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対面して話をしているのに余りの寒さに和服の袂の中に手を入れてしまい礼を失してしまった。しかしそれほどまでに寒かったのですよと言いたいのだと思う。 (せいじ)
(しようろうのひとつはなるるみゆきかな)
うっかり読むとたくさんある鐘楼のうちの一つ…と解しやすいがそうではなく、擬人法的に読み替えれば、「ひとりぽつんと離れて」の意であろう。
鐘楼のみに焦点をしぼることで、七堂伽藍の建ち並ぶ大寺院の深雪の大景を連想させるところが上手いと思う。急峻な鐘楼の屋根から滑り落ちた雪が砦のように嵩をなして如何にも近寄りがたい印象をうけたのである。素秀解にあるように足跡も見えないという雰囲気も感じる。
- 合評
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朝からの雪が深く積もって少し離れたところにある鐘楼にはまだ誰も近づいていないようです。足跡も無くただ雪が降り続いているようです。 (素秀)
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大伽藍を眺望できるところから見た情景であろうか。雪が深く積もっているために主立った建物だけしか見えないが、かえってそのおかげで、鐘楼が他の建物よりも少し離れたところにあることに気が付いた。まるで深雪がそれを教えてくれたかのように。 (せいじ)
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寺院の境内の端にある鐘楼が深い雪のため近づけなくなり孤立している。冬の静けさをしみじみと感じる。 (豊実)
(だつこうのペンへのかんしやとしおしむ)
この頃の加代子さんは、俳句結社「ひいらぎ」の幹部同人として初心者の指導に協力されたり、兼題句の選者として奉仕されていたのでペンをもつライフワークも増えていたと思う。好きな俳句に携わりながらその自らの奉仕によって喜びを共有できる仲間がいることを思うと充実感に満たされるのである。季語が「年惜む」なので、年末が期限であった作業を済ませてけじめががつけられたことにホットするとともに、健康が守られて無事に一年間の奉仕を務めることができたことへ感謝の気分が感じられる。
- 合評
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手書きの原稿に時代を感じます。愛用のペン、おそらく万年筆だろうと思えます、に感謝しつつ行く年を惜しんでしみじみしているようです。 (素秀)
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原稿を書き終えてホッとするとともに、過ぎる年を惜しんでいる。手にはペンだこができているかもしれない。 (豊実)
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年末までかかってやっと原稿を書き終えることができたその相棒ともいうべきペンに感謝しつつ、過ぎ行く年を惜しんでいる。「ペン」にはまた、多くの人たちの助けも暗に含まれているのではないだろうか。 (せいじ)
(タイプだこなつかしみつつりんごむく)
結婚して家庭に入り主婦としての落ち着いた日々の生活になった。食後のデザートにと林檎を剥きながらナイフをもつ手元のタイプ胝に気づき、タイビストとして働いていた独身時代を懐かしく思い出しているのである。昔のタイプはいまのパソコンのキーボードを打つような軽快な作業ではなく、とくに日本語のタイプは植字のような作業であったため指に胼胝ができるほどの過酷な作業であった。高度成長期には残業つづきの激務でもあったと思う。家庭に入って幸せな生活を得た今、独身時代の苦労がしみじみと懐かしいのである。
- 合評
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胝ができるぐらい相当多くのタイプを打ったようですね。今はその仕事も引退して、のんびりと林檎の皮を剥いているのでしょう。 (豊実)
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タイプの仕事を辞めてからかなり日にちは立っているのに、タイプ仕事で出来たタコはまだ消えない。リンゴを向く手を見ながらしみじみ昔を振り返っているようです。 (素秀)
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林檎は秋の季語。林檎を剥く手に、仕事を辞めてもまだ残っているタイプ胝を見て、悲喜こもごもの往時を懐かしんでいるのだと思う。句意に晩秋の林檎がよく似合う。 (せいじ)
(ふゆじたくふるきせたいとみられけり)
俳句表現はときに曖昧なところもあるので断定はできないが、文法的に判断すると「見られけり」なので第三者からそう見られたという受動的表現になる。第三者を写生したのであれば「見たりけり」と能動的表現になるからである。この時期、加代子さんは北人さんと再婚された。お二人とも熟年であられたので新居も家具類も新婚家庭のような雰囲気はなく永年営まれた夫婦の家庭の雰囲気のままであったということではないかと思う。再婚を祝福するために訪ねてくれた客人に、「なんだか昔から連れそているかのような感じだね」という感想が漏らされたのである。
- 合評
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あらたまって冬支度をすることに世代の差を感じているようです。けり、と言い切るところに若干ほっといてくれ的な気持ちもありそうです。 (素秀)
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近年、生活様式が変化して行わなくなった冬支度もあると思います。でも、その世帯では昔ながらの冬支度を行っている。何でしょうね? (豊実)
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秋も深まれば都会でも冬支度を始めるが、衣服にしても暖房機にしても準備する物によって年代が分かってしまう。年寄り世帯と見られたことを自嘲気味につぶやいているようにも、また、開き直っているようにも感じる。 (せいじ)
(かやのたばうつばりにあるいろりかな)
大きな囲炉裏の間の吹き抜けの屋根を仰ぐと梁の上に萱の束が乗せてあるのを見つけた。素秀解にあるように屋根を葺き替えたとこの残りであろう。何らかの謂われがあるのかも知れない。萱の束のありようだけ叙してその理由とか目的とかには触れていないが、茅葺きの大家を連想させている。囲炉裏は冬の季語、飛騨高山の白川郷のような風情を写生したのかも知れない。真っ黒に煤びかりした大梁も目に浮かぶようだ。
- 合評
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屋根の葺替えをして残った萱束を梁にに掛けて保存しているのだと思います。断熱にもなるし補修にも使えるしで、一石二鳥なのでしょう。 (素秀)
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萱葺きの屋根裏の梁に補修用の萱の束が掛けてあるのだと思います。萱葺きの家に囲炉裏があるなんて風情がありますね。 (豊実)
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萱は秋、囲炉裏は冬の季語だが、句意から冬の句と思われる。茅葺きの家を訪問し、囲炉裏に座してふと上を見ると、梁の上に萱が束ねて置いてある。屋根を葺くために萱をいぶしているのだろうか。「萱の束」の発見によって、囲炉裏を中心としたこの民家の日々の生活を垣間見た思いがしたのだと思う。 (せいじ)
(べんがらののこるしゆくばのあきまつり)
「べんがら、宿場町」で検索すると、せいじ解にあるように岡山県高梁市の吹屋地区がヒットします。吉備高原の山あいに、かつて銅山町として発展した吹屋ふるさと村が紹介されており、昔ながらの古い町並みの写真も載っていました。9月には「吹屋べんがら灯り」というお祭りがあるようだ。古町の路地に
数百の手作り灯篭のほのかな灯りが幻想的に映し出され、三味線、尺八の音に合わせて、吹屋小唄の踊り手たちがベンガラ染の浴衣姿でしっとりと踊り歩く。固有名詞を使わずに吹屋の秋祭りだと想像できるように詠まれているのが上手いと思う。
- 合評
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岡山県高梁市は吟行で行きましたが、文字道理りべんがらの朱が戸板に塗ってあり、壮観を覚えた記憶があります。秋祭りは知りませんが作者はその時期に行かれたのでしょう。 (宏虎)
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中国地方、特に山陰に赤い屋根の家を良く見かけます。ベンガラを塗っているのではないと思うのですが昔の名残で日本瓦の赤い屋根が多いのかなと思います。湿気に強いそうですし雨や雪の多い地方だからでしょうか。秋まつりの頃は空気も乾いてベンガラの本領発揮とはいかないのでしょうが、旅行者の目には赤い家並みが壮観に映るのでしょう。 (素秀)
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岡山県高梁市の吹屋という地区は、江戸時代、赤色顔料「ベンガラ」の産地として栄え、瓦や壁などもべんがら色で統一された赤い町並みがいまも残っているらしい。作者はここを訪れ、栄華は去っても伝統の秋まつりは絶えることなく引き続き行われていることに感銘を受けたのではないだろうか。 (せいじ)
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ベンガラ(赤い顔料)が建物の外壁に利用されたところが残っている古い宿場町。そこでの小規模な秋祭りに風情を感じます。 (豊実)
(いちげんのことのさそひしあきしぐれ)
一弦琴は須磨琴とも呼ばれ一枚の板に一本の絃を張っただけの、日本独自の弦楽器で極めて簡素で原始的な琴です。平安時代、在原行平が須磨に流謫された時に、初めて一絃琴を作り、ひとりこれを弾じて、その寂寞を慰めたと伝えられています。須磨には一弦須磨琴保存会が今も活動していて須磨寺などでイベントが開催され、ありがたい法話のあとに一弦琴の演奏されます。「敦盛春愁」「青葉の笛」などが有名です。揚句は秋に開催されたものですが、おそらく平家滅亡にまつわるものであったのでしょう。独特の寂寥感が醸されてそれを悼むかのよう時雨れてきたよという感興ですね。
- 合評
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琴の一弦だけで奏でる少し寂しい音色が響いていた。その音色が雨を誘うかのように、秋の時雨が降っている。 (豊実)
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秋時雨は秋の終わりの冷たいにわか雨、少し暗い雰囲気もあります。一弦琴の音色はよく知りませんが、時雨を呼ぶようなもの悲しい音なのだろうと思わせます。 (素秀)
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一弦琴は見たことがないが、おそらく寂しい音色なのだろう。その音に誘われるようにして秋の時雨がまた降りはじめたことよ。秋さびた琴の音と雨の音が融け合って心に響く。 (せいじ)
(おがらかふふたつにをつてわたされし)
NHK の朝ドラでお盆の迎え火に苧殻を焚いているシーンを見ました。苧殻は麻の皮を剥いだ後に残る芯の部分のことで、麻は古来より清浄な植物として考えられてきました。清浄な植物なので、悪いものを寄せ付けないと考えられていたのでしょう。また、燃やすということも清浄な空間を作り出す行いです。お盆は先祖の霊ばかりでなく、諸霊を慰めるものですが、悪さをする霊を家に迎えないという意味も苧殻の迎え火には込められているといいます。
最近は割り箸サイズに折りそろえてパックされたものも打っているみたいですが、揚句の苧殻は長いまま売られているもののようですね。せいじ解にあるように「二つに折って」と具体的に写生したことで手際よく捌いている売り主の姿が見えてきます。
- 合評
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売る方と買う方の気持ちの問題かなと思います。どうせなら自分で折って使うので長いままで良かったのにという気持ちが少しあるのかなと思います。 (素秀)
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苧殻とはお盆の迎え火に使うものみたいですね。お店の人が親切に苧殻を使いやすい手頃な大きさに折って渡してくれた。ポキッという音も聞こえます。 (豊実)
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いわゆる昔の市場で、あるいは旅先のそのような市場で買い物をしている風景を想像した。芋殻は長いので、店のおばさんが、二つに折り曲げ、そしておそらく新聞紙に包んで渡してくれたのではなかろうか。「二つに折って」に臨場感がある。 (せいじ)
(あけばすぐエネルギーげんれいぞうこ)
電気冷蔵庫の普及によって季節感が希薄になりつつありますが、季語としての冷蔵庫は氷冷蔵庫の時代に遡ります。従って暑い夏であることを念頭に入れて詠み、また鑑賞しないとただの報告の句になってしまいます。汗だくで外から帰宅してまず冷蔵庫の扉をひらき、冷たい麦茶、栄養ドリンク、ビール、アイスクリーム等々で夏バテや一日の疲れを癒やします。そういう意味でのエネルギー源ではないかと感じました。もちろん栄養価の高い食料という意味も含まれているかも知れませんが、夏の句として鑑賞するとき、季節感を汲み取ることが大事だと思います。
- 合評
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再投稿をお許しください。「開けば」は、空になったらの意味ではないかと思った。冷蔵庫が空になったらすぐにまたエネルギー源になるものを補給する、夏はそれほど体力を消耗する、またそのために冷蔵庫をよく使いますよ、ということではないだろうか。 (せいじ)
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「開けば」の意味が難しい。とりあえず、瓶などの蓋が開いたらと解釈した。開いたらすぐにエネルギー源になる飲食物、人によって異なるだろうが、夏と言えば何といってもビールではないだろうか。冷蔵庫できんきんに冷したビール、疲れたときに飲むといっぺんに元気が回復する。 (せいじ)
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料理もしたくないような暑い夏。冷蔵庫にあるのは、すぐに食べれる作り置きのおかずか、甘い冷菓か、果物か? (豊実)
(ジーパンをまうしあはせてたびすずし)
「涼し」という季語は、いろんなことばと合成して使えるのでとても便利です。「芳名録涼し」も「旅涼し」も気分的な涼しさで感覚的なものではないですね。夏の暑さの中に一服の涼を感じること、見出すことが俳句なのです。みんなで相談して計画された愉しい避暑の旅なんでしょう。
- 合評
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友人との旅行で活動的な服装としてジーパンを選んだ。涼し、に山や高地への観光かなとも思えます。 (素秀)
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気が置けない友達との二人旅であろうか、予め相談してともにジーパンをはいていくことにした。旅と言えばちょっとおめかしをしてというのが定番であろうが、夏だから身軽にとジーパンを選んだところが面白い。 (せいじ)
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「ねぇ、何着て行く?」「ジーパンでいいやん。」、、、。女性同士の楽しそうな旅ですね。 (豊実)
(たつぴつをみればほうめいろくすずし)
葬儀、披露宴ほかいろいろなケースが連想されるが、高名な客人が出席するお目出度いイベントのような感じがする。作者は、正装してその受付とかの奉仕をしているのではないかと思う。「涼し」の季語があてられているので、男性的で豪快な筆跡ではなくて、流れるように書かれた女性の草書体であるような気がする。書かれた筆跡をみて涼しげだと感じるのは作者自身も書への関心が高いからであろう。
- 合評
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芳名録でまず浮かぶのは葬儀の記帳でしょうか。かなり字の上手い人でも普段のようには書けないものです。そんな中すらすらと達筆で書かれた名前を見るといかにも涼しげに映るのかも知れません。 (素秀)
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最近は筆ペンやサインペンで書くことの多い芳名録であるが、弘法筆を選ばず、達筆な人は道具の良し悪しにかかわらず達筆である。見事な文字を見てとても爽やかなよい気持ちになったのではなかろうか。能書家である作者だからこその感がしないでもないが、ひょっとしたら、この筆の跡は師のものだったのかもしれない。 (せいじ)
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披露宴の受付の場面かと。涼しさを感じさせるとはどれ程の達筆なんでしょうね?達筆に涼しさを感じた感性が豊かだと思います。 (豊実)
(へいさうをいそがれてをるげがきかな)
第三者ではなく自画像としたら鑑賞するのが適切かと思う。また「急がれてをる」なのでリクエストと見る。書に長けた作者は知り合いから表装まで済ませた完成品を頼まれている。どうせならなるべく夏書の時期までに届けたいと緊張感を持って書いているという状況。おおむね皆さんの鑑賞どおりと私も思います。
- 合評
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掛軸の表装を依頼していたのだが肝心の夏書がまだ仕上がっていないと言ったところかと思います。焦りもあるし気持ちを引き締めてもいる、かなでしょうか。 (素秀)
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夏書を掛軸にして書道展か何かに出展するのだろうか。表装してもらう時間も考えて早めに書いておかなければならないのだが、夏書そのものがまだできていないよ~といった趣きであろうか。 (せいじ)
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表装をする程に見事な夏書ができたのだろうと思いました。表装ができあがって床の間に飾るのが待ち遠しいのでしょう。 (豊実)
ガードレールぷつりと切れて登山道 Feedback
(ガードレールぷつりときれてとざんみち)
「ぷつりと途切れ」ではなく「切れて」なので、連続したガードレールはまだ続いているのであるがとある一部分が切れていてそこに登山口の標識が立っているという情景かと思う。JR 三宮駅前からタクシーで中腹あたりまで移動して、そこから布引滝への登山道を下ったときのことを思い出しました。街中から車道のガードレールに沿って歩いてきたときに、人一人がなんとか通れるほどにガードレールが切れている場所があり、「○○登山口」という小さい標識を見つけたのである。うっかりしていると見過ごしてしまいそうなそんな感じの場所、「ぷつりと切れて」の措辞がそれを連想させている。
- 合評
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峠道のガードレールがプツンと切れているところがあり、そこから山へ踏み入る道がある。ここが登山道の入り口だと標べがあったのかも知れません。作者が登山をするかどうか判りませんが、山への細い道を歩く山男の背中を見たのかも知れません。 (素秀)
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「ぷつりと切れて」がリアルであり、そこに、一片の心細さと、しかしまさにこれからが登山なんだという緊張感、高揚感がうまく表されている。 (せいじ)
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ガードレールがなくなった先に細い道が続いている。さあ、これから本格的な山道にはいっていく。登山の楽しさが始まる。 (豊実)
(かがみなぎながれわかめもなかりけり)
平明に詠んであり句意は明快であるが、写生によって普段は潮流の早い瀬戸の海で若布漁を生業としている地方であることを見事に暗示している。若布は、一年生の海藻なので、冬から春にかけて最も大きくなり、夏場にはほとんど目にすることはありません。鳴門若布が有名で激しい潮流が生む歯ごたえの良さが特徴で全国ブランドとして知られています。春の大潮時などには潮流でちぎられた若布が波に漂う。若布は三春の季語として扱われるがこの句は繁茂期を過ぎて夏近しの季感がある。
余談ですが、むかし神戸に引っ越してきたころに職場の釣キチ連中と終日波止釣に熱中した時期があります。大潮のときにはごうごうと汐が流れ飛ぶように仕掛けが流されて釣りになりません。やがて汐の流れがピタッと止まると嘘のような一枚鏡の海になる。まさに嵐の跡の静けさの感があります。素秀解にある瀬戸の夕凪の幻想的な景色はとても詩的です。汐が止まると魚の動きもなくなりパタッと釣れなくなる。汐の動きが止まる寸前と止まった汐がやがて動き出す時合がもっとも魚が釣れます。これを釣用語では潮時といいます。
辞書では、「1. 潮の満ち引きが起こる時刻。2.物事をするのに、一番よいおり。チャンス」とありますが、「終わりの時・引き際」といった意味で捉えている人の方が多いかも知れませんが、本来は最適期という意味なんです。ことばは愉しいですね
- 合評
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鏡のような凪と聞くとイメージするのは瀬戸の夕凪です。若布もありますが、夏を感じてしまいます。 (素秀)
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潮流の速い鳴門海峡や関門海峡は若布の漁場として名高いが、潮流の向きが変わるとき、海が鏡のように静かになる。海が凪ぐと千切れた若布が流れることもない。潮の流れが止まり、それと同時に時の流れも止まってしまったかのようである。 (せいじ)
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凪で海面が鏡のようになっていて、若布が波に揺れることもない。一時の休息感があるが、静かに海は生きている。 (豊実)
(ひとづまとなりしながてにさくらがひ)
俳句では春の潮干狩の関連季語として貝類を詠む。桜色の光沢をもつ美しい二枚貝であるが、薄くて華奢なのでふつう見られるのは海辺に打ち上げられた貝殻の破片で見るからに桜の花びらに似てロマンチックな叙情をつのらせるので古くから古歌にも詠まれてきた。幸せを呼ぶ貝といわれていて、二枚の合せ貝は恋愛成就のアイテムとして用いいられる。「汝が手」なので作者ではなく新婚の友人を訪ねたときの作品であろう。独身時代のデートの海辺で見つけた桜貝を見せながらエピソード(惚気話?)を聞かさせれているのかも知れない。幸せそうな様子をちょと羨ましく眺めている作者も見えてくる。
- 合評
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さくら貝を無邪気に探していた子が今はもう人妻に。感慨深いものでもあるなぁ。 (素秀)
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初々しい新妻の手にさくら貝が乗っている。さくら貝の光沢のある美しい桜色がやさしい雰囲気を感じさせる。 (豊実)
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初めて里帰りをした娘と春の浜辺を散策している情景が想像される。「人妻」という世俗的な言葉遣いと「さくら貝」という乙女チックな物の取り合わせにはっとさせられたが、「さくら貝」が「汝が手」にあることによって、いま幸せであることが伝わってくる。 (せいじ)
(ひなならぶベビーベッドのすぐそばに)
既に誕生した赤ちゃんがねかされているベビーベッドなのか、生まれる前に早々と準備されているものなのかによって鑑賞はかわってくる。昨今は生まれる前から赤ちゃんの性別がわかるので女の子だと判っていて早々とお雛様が飾られているという情景もありうるが、ここは素直に知人の女児誕生のお祝いに訪れたときの作品ではないかと思う。「すぐそばに」の措辞から団地サイズの雛壇のような感じがするので、マンション住まいの新婚さんの部屋を連想する。多分赤ちゃんはまだ目もよく見えていないくらいの嬰児ではないかと思うけれど、おじいちゃんおばあちゃんからのプレゼントなのかも知れない。生れたばかりの赤ちゃんが周囲の人たちに幸せを撒き散らしている感じです。
- 合評
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雛人形を飾るなら座敷になるのでしょうが、狭いアパートでは赤ちゃんのすぐ隣に雛段を飾るしかなかったのでしょう。赤ちゃんの近くに雛人形があるのも悪くはないと思っているようです。 (素秀)
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赤ちゃんを圧倒しそうなぐらいの大きな雛壇を想像しました。小さなベビーベッドと大きな雛壇の対比がおもしろいように思いました。 (豊実)
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ベビーベッドのすぐそばに雛人形を飾ったのか、あるいは、飾ってある雛人形のすぐそばにベビーベッドを移動したのかは別にして、今、ベビーベッドのすぐそばに雛人形が並んでいる。「すぐそばに」がいい。嬰児がいつも眺めることが出来るようにとの親心が感じられて清々しい。 (せいじ)
(しりもちのまますべりゆくスキーかな)
スキーもスケートも初めは体重移動やバランス間隔がつかめないので下半身の動きに対して上半身がついていけないので尻餅をつく。はじめてスキーを習い始めた頃を思いだします。誰もが体験しているだけに共感しますね。
- 合評
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スキー初心者にありがちな状況ですね。「すべりゆく」なのでかなり長い距離を滑ったように思います。悲鳴が聞こえてきそうです。 (豊実)
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尻餅をついて立ち上がりも出来ないし、止まりもできない。まるで喜劇映画のシーンのようでおかしくて仕方がない。 (素秀)
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初心者はボーゲンの形でへっぴり腰で滑るから、スピードが出て怖くなると尻餅をついてこけることが多い。かなりの傾斜なのだろう、尻餅をついたまま滑っていく姿が、本人には申し訳ないがとても愉快である。 (せいじ)
河豚の皮ぼろぎれめきてありにけり Feedback
(ふぐのかはぼろぎれめきてありにけり)
ぼろぎれのような皮に焦点を集めて詠まれたことにより、大皿に盛られたふぐ刺しの全体像まで連想が働きます。ボタン模様に盛り付けられた透き通るようなふく刺しが見えてきます。美味しそうな大皿を眼前にして如何に詠むかと構えるとき、あれもこれも言いたくなるのを我慢して焦点を絞り、他は省略するというテクニックを学ばされる。「ぼろぎれめく」という比喩もいい得て妙である。
- 合評
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皮引きされたフグの皮はまるでボロギレのようだが、これが食べると美味いのだから何事も見た目ではないものだ、と。 (素秀)
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河豚の皮は、河豚刺しの大皿の隅に盛っている湯引きして刻んだものしか見たことがないが、ぼろ切れのようだとはよく言ったものである。確かにそのように見えるから面白い。コリコリした食感があって、もみじおろしを加えたぽん酢につけて食べるととても美味しい。 (せいじ)
ウエファースの家こはれざる聖菓かな Feedback
(ウエファースのいえこはれざるせいかかな)
ウエファースの家をあえて壊さないようにしているのか、壊そうとしても壊れないのか、「壊れざる」の措辞をどう捉えるかが難しいですね。「壊さざる」ではないので、みなさんの合評とは違う後者で鑑賞してみる。ケーキを切り分けるとき、ケーキにはスッとナイフが入るのだけれどウエファースの家はナイフの刃を拒むように逃げて壊れないということかなと…。でも、ちょっと無理のある鑑賞のような気もします。家を壊すことができずに最後まで残ってしまった…と解するほうが自然ですね。
- 合評
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買ってきたクリスマスケーキを切り分けるとき、飾りの形を残すようにした。ケーキは食べてしまったのだが、飾りは崩してしまうのが惜しくてまだそのままなのである。 (素秀)
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クリスマスケーキの飾りのウエハスの家が壊されず残っている。教会の仲間のパーティーでウエハスの家を壊すのに遠慮があるのかも。 (豊実)
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ウエハースと板チョコなどでできたお菓子の家をクリスマスケーキとして子どもたちと一緒に手作りしたのではないだろうか。壊して食べるのがもったいないぐらいの出来栄えなので、いつまでも壊れないままなのであろう。 (せいじ)
(みやげやのはたおつてゐるよながかな)
日本の機織り文化は、雪国で栄えている。麻織物の原料となる苧麻の栽培に適していたこと、湿度が高いので糸を紡いだり撚ったり織ったりするときに糸が切れにくいことのほか、半年豪雪に閉ざされる冬の間でも家でできる生業として最適であったからであろう。化学繊維の普及でこうした文化が廃れていくのは残念である。揚句もそうした雪国の観光地で詠まれたものではないかと思う。雪国の秋は紅葉も美しいので土産屋としての観光収入も多いと思うが、雪で閉ざされる頃にはほとんど無収入になるのでは思う。生計のための兼業なのか店で売るためのものかはわからないが、地元に人たちの慎ましくも健気な生活ぶりに心打たれているのである。
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旅先の夜、散歩してるのだろうか。閉まっている土産屋から機織りの音がする。店先に並べる土産を織っているのかもしれない。静かな秋の夜に響く機織りが非日常で心地よい。 (更紗)
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紬なのか絣なのか機織りの夜なべをしている土産物屋。営業時間には実演や体験などもやっていそうです。 (素秀)
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夜が長く感じられる秋は旅行のシーズンでもあるから、土産物屋にとっては書き入れ時である。商品を作るのに忙しい。夜遅く散歩をしていると、土産物屋から機織りの音が聞こえてくる。なるほど、そうかと思わせられたのであろう。 (せいじ)
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土産屋が営業終了後、店の奥の方で機織りしている音が聞こえてくる。織っているのは商品にする生地だろうか?秋の夜長の空気を感じる。 (豊実)
(じようへきをちぬりしごとくすたもみぢ)
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圧倒されるほど強いお句だなと感じました。「血塗りしごとく」が効いています。「血塗りし」の「し」は強調でしょうか。そして「ごとく」と直喩に続きます。的確な表現によって、赤々しい蔦紅葉が城壁に絡まっている景が浮かび上がります。戦によって流された血と絡まる蔦に時代の流れを感じました。 (更紗)
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血ぬりという言葉が、その城にある血生臭い歴史を感じさせます。そのような赤い蔦であることよ。 (豊実)
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その昔は争いもあったであろう城壁を今は蔦が覆っている。その蔦も紅く色づいて血のようにも思える。 (素秀)
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血のように赤い蔦紅葉が城壁を覆っている。戦で流された血を思い出させるかのように。 (せいじ)
(ハイビスカスまがきとしたるへいしやかな)
ハイビスカスと兵舎と詠まれると沖縄という連想になりますね。ネットで調べると奄美大島&加計呂麻島がヒットしました。加計呂麻島といえば、「諸鈍シバヤ」。「諸鈍シバヤ」は、源平の戦いに敗れて落ちのびて来た平資盛一行が、土地の人々と交流を深めるために伝えたのが始まりと伝承されています。加計呂麻島の西の「実久」には、源為朝の子「実久三次郎」が実久三次郎神社に祀られており、この実久集落には兵舎跡などの戦争遺跡も多く残っているようです。
俳句では、何かにとり囲まれている状態を、「・・・籬としたる」「・・・砦としたる」「・・・玉垣なせる」等々の表現がよく使われます。砦と兵舎では憑きすぎになるのと、ハイビスカスは低木なので籬になったと思う。無理やりこじつければ、ハイビスカスの赤は灼熱と戦火のイメージ、次々と咲き継ぐ一日花であることから生命の尊厳を連想させるが、そこまでの作意はなくごく自然に詠まれた写生句と思う。
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米軍基地か自衛隊基地だとしてもイメージは沖縄です。ハイビスカスと沖縄の太陽がカマボコ兵舎を隔離しているようです。 (素秀)
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兵舎がハイビスカスに取り囲まれている。沖縄の米軍基地だろうか。夏の日差しがまぶしい。ハイビスカスは仏桑花とも言われる。平和を祈る気持ちをハイビスカスに託しているように思われる。 (せいじ)
(ばせうりんしちめんちようをはなちけり)
芭蕉林に七面鳥が放し飼いされているという状況と思うが、芭蕉林、七面鳥で検索してみてもヒットせず、場所の断定が難しいので鑑賞しづらい句ですね。ネパールあたりでは、家庭の庭で放し飼いしているという史料もヒットしましたが日本では見当たらず、ひょっとすると海外吟かもと思います。普通なら採れないような句ですが青畝師もご存知な情景故に旅の記念の句として残されたのかなと思いました。…でもちょっと難しいですね。
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芭蕉は秋の季語。大きな葉が少しの風でも簡単に割れてしまいあわれを誘う。七面鳥は異国の鳥、葉陰を闊歩するさまに異国情緒を感じたのではないでしょうか。 (素秀)
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熊本の水前寺公園に江津湖芭蕉林という自生の芭蕉林があるらしい。「縦横に水の流れや芭蕉林」という虚子の句碑もあり、作者はそこを訪れたのではないだろうか。七面鳥農法というものがあるらしいが、それはともかく、この芭蕉林では意図的に七面鳥を放し飼いにしているのだろう。作者は芭蕉林を徘徊する多くの七面鳥に蕉門の十哲を連想し、芭蕉林が七面鳥を放ったかのように表現したのではないだろうか。 (せいじ)
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解き放たれて走り回る七面鳥が芭蕉の大きな葉を揺らしている。芭蕉の大きな葉の迫力を感じる。 (豊実)
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