鹿はその交尾期の鳴声を以て秋の季としている。しかしこの句の場合は「なんばんぎせる」を主たる季語と見るのが妥当であろう。こんな句に接すると、青畝師の童心とも思える温顔を思い出して唯々懐かしさが募る。「なんばんぎせる」は「はまうつぼ科」に属し、芒や砂糖黍等の根に寄生する。形がオランダ渡りの煙管に似ている処からこの名がある。また薄紫色の花の首を傾げたような風情から「思い草」とも呼ぶ。
奈良であろうか、「芒の根方に生えた南蛮煙管の花を見ていると鹿が嗅ぎに来た。咥えるかと期待していたがやっぱり咥えなかった」というのである。あの飄然とした鹿が、哲学者めいた細面に南蛮煙管を咥えたおかしさを想像する。如何にも青畝師らしさがある。主観に関する虚子の戒めを守りつつも、最後はこんな融通無碍の境地に到達されていたのである。
中国古代の天文学に基づく七十二候による秋の季語で、雀の羽の色と蛤の貝殻の色に似通うものがある所から、このように言われいたともいう。昔和尚が、鰻を桶に生かしておいて見つかり、「長芋を水に浸けておいたら鰻に化けた」と言い逃れしたというのと似た話かもしれない。「乙姫石」は佐賀県呼子町の加部島にある佐用姫が夫を恋うていて化したという石である。青畝師もその日記で「荒唐無稽ながら一句を詠んで宿に帰る」と記している。長い季語と、複雑な「望夫石」の伝説を十七文字に収め得る。そんな俳人はざらには居ない。青畝師は後日「古い季語を残したい」と語っておられた。
自選自解の中に「季語の蛇の傍題に『穴惑』というのがあって、これまで例句はない。そこで『穴惑』ということばが面白くなり、私が創めようと勢いこんだ」とある。その頃詠まれた最初の句は、
穴惑顧みすれば居ずなんぬ 『万両』
であった。穴惑の句は全句集を通じ12句ある。蛇はその外観から人間には嫌われるようであるが、「穴惑」という季語には何となく間の抜けたような愛嬌を感じたのではなかろうか。蛇は秋の彼岸頃、穴に入って冬眠するという俗説がある。それで彼岸を過ぎて見かけるのは、穴に入れず迷っている間抜けな蛇ということになる。まして、穴にも入れず、まだ呑気に泳いでいる蛇となれば、まことに滑稽である。季語の常識を破った滑稽句と言えよう。
青畝師には、神を詠み、仏を詠まれた句が非常に多い。しかし青畝師は昭和22年にカトリックの洗礼を受けられた、れっきとしたクリスチャンである。カトリックは、マリア信仰とも言われ、聖母マリアの神秘的な清浄感は、信者にとって何物にも替え難い思いがするのであろう。この句の鑑賞は『自然譜』の自句自解に詳しい。「小さな池を前にして大理石の立像はつつましく手を胸に合わせておられる。その倒影も水の面をいやが上にも白く光ってうつっていらっしゃるので、水澄むという季節感がそこにあふれた感じであった。三年後渡欧、ピレーネ山脈のふもとでルルドの聖堂を拝した強い感動はやはりこの句が因であったのかと思う」とある。一句の中の季語よりもその季節感を重視した青畝師の作句信念をまざまざと見せつけた秀句である。
蓑虫はどことなく俳諧的である。「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」は芭蕉が弟子土芳に与えた自画賛。これにより土芳の草庵を「蓑虫庵」と称する。しかし蓑虫には発生器官はない。また「和漢三才図会」に、「その首を動かす貌、蓑衣たる翁に彷彿たり」とある。青畝師はそれを「ぬき衣紋」と見た。少し蓑から頭を出して、前屈みにぶら下がった蓑虫の姿は、まさにぬき衣紋である。艶なる見立てと言わざるを得ない。
原石鼎は明治19年島根県に生まれる。京都医専に入学、吉井勇等と短歌の結社を作ったが退学して東京に虚子を頼る。虚子に帰郷を勧められ、明治45年に帰郷の途次、吉野に医業の兄を尋ね、小川村小(おむら)の診療所に落ち着く。その後、再び上京、大正10年「鹿火屋」を創刊。「淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守」の代表作がある。青畝師との関係は大正10年頃、度々会ってその誌友となったが、翌年野村泊月に逢った青畝師は古格を学ぶべきを悟り、「鹿火屋」を去っている。
一度は医者を目指した石鼎は立派な八字髭を蓄えていたようである。その髭をひねる癖でもあったのであろうか。そんな石鼎を懐かしんでの一句である。青畝師は晩年「数多の経験に基づく写生」ということを言われた。虚子に諭された写生をあくまで守りながらも、自由な俳句の境地に到達した。この句もそんな境地での作品で、夜長の気分が横溢している。
君臨とは強大なものが群小の上に勢威を振ることである。何かと思ったら七色に輝く一面の露びたし(おそらく朝日中)の中で歯を磨いている青畝師である。そんな不遜とも取れる言葉を使ってユーモアを醸し出す。晩年の青畝師は誠に融通無碍、それを大岡信は平成9年8月3日の朝日新聞朝刊全国版の「折々のうた」で「手がつけられない天衣無縫ぶり」と書いている。露の句といえば、
金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎
が有名である。しかし青畝師にも負けず劣らず露の句が多い。全句集を通じて58句を数える。虚子歳時記には茅舎と同じ3句が収録されている。青畝師最晩年、最後の句集『宇宙』の最後にこんな気力の溢れた佳句が「あることはまさに驚異である。
芭蕉の訪ねた頃は「種(いろ)の浜」と呼ばれ、当日のあらましは弟子等栽の筆で浜辺の寺に残されている。芭蕉はその浜で採れる「ましほの小貝」と西行の歌に引かれての遊山であった。青畝師もまた芭蕉の俳枕に引かれて訪ねたものであろう。『おくのほそ道』に「夕ぐれのさびしさ感に湛へたり」とあるが、その如何にも華奢なますほの小貝の棲む小さな浜の寂しさを表すのに「秋蝶のさすらふかぎり」と表現された手腕は心憎い。この句を読んで「眼を細めて、心の色ケ浜を見る」と評した俳人があった。
如何にもさらさらと詠まれた句である。「一品の枝豆に足る」から、胸襟を開いて話し合っている二人(多分)の関係や人物像も見えてくる。枝豆と言ってもそんな種類の豆がある訳ではなく、大豆の事。よく田圃の畦に田植えと同時に植え付けされるから畦豆ともいう。農家では普通、完熟しない柔らかいのを引き抜いて、枝ごと茹でて食べるから「枝豆」と呼ばれる。今は枝から千切り、網袋に入れて売られているが、鞘のままで茹でた豆は、突き出しには欠かせない素朴な食べ物である。
「一夕話」の語は、辞書には見当たらないが、「ある夕方の世間話」ぐらいの意味と思われる。テーブルの上には一皿の枝豆とビール、そして二つのコップだけ、気心の知れた二人の会話、そんな情景の見えてくる句である。そのシンプルさがよい。
「大山が芋嵐で揺さぶられた」というのではない。それでは余りにも虚構になる。「ゆさぶりをかけ」とは誇張表現ながら言い得て妙である。その言葉に隙きがなく、読む者は成るほどと納得する。大山は「伯耆富士」とも呼ばれ、西方からの眺めはまさに秀麗、最高峰では1729メートルの高山で、「出雲国風土記」のも出てくる神山でもある。
「芋嵐」は元々青畝師の造語である。「案山子翁あち見こち見や芋嵐」で初めて使われた。勿論この句の季語は「案山子」である。その頃は「芋嵐」は未だ季語としての市民権は得ていない。その「芋嵐」を季語として初めて使ったのは、石田波郷と言われている。掲出句では「芋嵐」を季語として使い、かつ擬人化しているが、誇張法と相俟って青畝師独特の滑稽味をも醸している。青畝師晩年の自在な表現力が生み出した秀句と言えよう。
自註・阿波野青畝集には「狂言の萩大名ではない。萩を植えた小庵を賛美したいばかりにこの語を借りることにした。萩の見頃はほぼ十日ぐらいか」とある。このかつらぎ庵(自宅)は大阪市内の本宅の別宅として甲子園に建てられ、空襲で本宅が焼失したため、それ以後は自宅として使われていた。庭内には松の巨木も残り、 広大な庭には紅白の萩が道を狭めていた。当時は鎌が用意されて萩刈りイベントも行われたと聞く。
蓑虫の此奴は萩の花衣 青畝
この句と並べて鑑賞するとき、選びぬかれた言葉が並び、豊かな気分とユーモアに溢れる名句というべく、読者の心を痺れさせずには置かない。
子規は俳句も他の芸術ジャンルと肩を並べるまで価値を高めるべきと考え、その方法として写生を説いた。その精神を受け継いだのが虚子であり、虚子の教えを正しく受け継ぐものとして青畝師があったと私は思う。「去る者を追はず」は、古代中国東周時代の前半(=春秋時代)の歴史を記した歴史書『春秋』の一節で勿論「来るものは拒まず」が省略されている。
「天下の子規忌を修するに、去るものは追わず来るものは拒まずという態度を堅持していることよ」と詠まれたのである。対象は虚子かも知れないし、青畝師自身を客観視されたのかも知れない。ただ注意すべきは、決して俳句に寓意をもたせてはならないということ。去ったのは誰かといった詮索は不要である。ある雑誌に青畝俳句に寓意をもたせて合評した記事が掲載されたとき、青畝師はわざわざ自ら付記して、それを強く戒められたことがある。
十九日ともなれば月の出は望月よりも三時間以上。年によって多少違うが、九時過ぎの月の出ともなれば、明かりを行灯に頼った昔は、寝て待つより仕方がなかったのであろう。寝待月と称された所以である。月の季語を考える時、電灯の煌々と輝く現代を脳裏に置いていては理解できないことが多い。明かりが乏しく月明を待ち兼ねた昔の人々の身になって考えるべきであろう。
当然十九日の月は望月に比べて大分歪(いびつ)になり、暗い感じがするであろう。そんな月が突然雲から落ちて辺りを照らし出したように見えた。普通は月が下に動くとすれば西の空にあるときである。しかし十九日の月が西にあるとすればそれは残月。そこで、この月は東の空にあって、雲が上に動いたための錯覚と分かる。不気味さと肌寒さを感じる句である。
月に酒は付き物である。人は花が咲いたと言っては飲み、雪が降ったと言っては飲んだ。しかし、しみじみと飲む酒と言えば「温め酒」の頃、即ち月見酒ではなかろうか。花見の酒は今でも盛んであるが、月を見て酒を飲む風習は少なくなった。青畝師は余り酒を嗜められなかった。飲めないのではなく、飲まなかったのだと思う。酒席に出ることは勿論多かった。若い頃、野村泊月の相手をして知らぬ間に徹夜をし、夕日と思ったのが朝日であったという話は有名である。雰囲気は決して嫌いではなかったのだと思う。「年忘酒飲まねばの会ならず」のような句も残しているが、むしろ「治聾酒や一なめずりのお相伴」のように、治聾酒や白酒を詠んだ句が多い。
出の遅い月を、事もあろうに養命酒を嘗めるようにして飲みながら待っている。如何にも晩年の青畝師らしい枯淡の滑稽さを覚える一句である。
月は満ちたり欠けたりする。月と太陽が地球を挟んで正反対の位置に来たときが満月、この日が太陽暦の十五日となる。次の日が十六夜であり、立待・居待・寝待と続いて、宵闇が長くなり、有明に月が残るようになる。
この句は従って十七日の月を詠んだ句となる。月の出は名月の日より一時間も遅い。作者はその遅い月を誰かと立ち話をしながら待っていたのである。「咄」の字を用いたのには深い意味はなく当時の作者の好み、「さし亘り」は月光があたり一面を照らすこと、「さし渡り」と同じである。立待月の気分を見事に掴んだ一句と言えよう。
発表当時から難解とされて来た句である。作者の詠んだ日が旧暦八月十七日か十六日かが議論の分かれる所であるが、素直に「十六夜の」と上五で軽く切るとよく分かる。虚子先生は、「『きのふともなく』の下に『けふともなく』を補足すれば良い」と言われたという。通訳すると「十六夜の月が、十五夜がきのうであったという風でもなく、望月と変わらぬくらい明るく照らしていることよ」となる。青畝師の代表作の一つである。
自選自解によると、「甲子園の仮住いで十六夜の晩も美しい月を見上げた。一日前の名月も良かったのを思い、それと比べるのも楽しかった。既望という熟語もあるので、欠けるはずのものがいささかも欠けないでいよいよ明るく照りわたるような感覚をおぼえながら、陶然として私は居たのである」とある。
青畝師には。全句集の中には、ざっと数えて陰暦八月だけで百十七句ある。その中で名月を詠んだと解る句は十一句、勿論「けふの月」は旧暦八月十五日の名月である。森田峠師は、「もし『長い』の一語がなかったら、陳腐この上もない句である。名人は危うきに遊ぶたぐいであろうか」と鑑賞している。
自選自解には「このように解る句をくどくど説く必要はあるまい。ただ私はいままでややこしく混みいった句を拵えるのに努力した。むしろそういう方向に満足を感じる時代もあったのであるが、黄金を伸ばす心地が大切也。さらりと詠いあげて何者かが大きく心に残るようにあるべきだ、と反省しはじえた頃の句である」とある。正に、さらりと詠い上げられ、残るものが大きい。
「初汐」の解釈は、歳時記によりまちまちですが「陰暦八月十五日夕方の満ち潮」というのが最も合理的だと思う。潮の干満は月と太陽の引力によって起る。従って月・地球・太陽と一列に並ぶ満月の時と、太陽・月・地球と並ぶ新月の時が一番大きい。更に潮の移動には時間が要るため、月の出が満潮、月が中天にくれば干潮と決まっている。とすれば、十五夜の満月が東から上がるとき、海は最も高く満ちている事となる。
伊根の家々は階下に舟揚場を持つ独特の形で、波静かな伊根湾を取り巻くように並んでいる。折からの満潮でその舟揚場にひたひたとさざ波が寄せている。それを十五夜の月が煌々と照らしているのである。詩人ならば誰もが一度は見てみたい光景である。「舟小屋ばかりかな」という詠嘆表現が実に素晴らしい。
名詞と助詞だけというのも珍しいが、「山又山山桜又山桜」のように漢字だけの句もある。青畝師の本心は、物珍しさより、この句の「しほり」を味わって欲しいというのが本音ではないかと思う。解釈は「満月の照らし出す山を大国主命と思って拝した」となろうか。この句の詠まれた大神神社は大和一宮として、昔から大和地方の信仰の中心である。この神社には神殿は無い。三輪山そのものがご神体である。山の姿は美しい円錐形であるが火山ではなく、侵食から残ったもので、大和の何処からも見える円やかな山である。
三輪の祭神は大物主神、大国主命との関係は和御魂と荒御魂とも聞く。しかし青畝師にとってはどうでもよい事、神々しく月に照らし出されたお山を拝した時、とっさに大黒様とも呼ばれる大国主命と見たのである。いつ読み返しても新しさを感じさせる不思議な句である。
芭蕉の奥の細道のなかで特に注目される章の一つに「市振」がある。曾良の旅日記によると、「親知らず・子知らず」の難所を無事越えた芭蕉主従は、陰暦七月十二日、越中市振に宿をとる。その時、図らずも二人連れの越後の遊女と同宿、二人の儚い話が襖越しに聞こえ、翌朝道連れになって欲しいと懇願されるが、不憫と思いつつも因果を含め、袖を振り払って出立するという設定である。設定というのは連句の恋の句に因んだ芭蕉のフィクションというのが定説だからである。
一つ家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉
青畝師はこの一節を特に好み、しばし弟子の前で朗読して聞かされたという。「芭蕉と遊女が泊まった、あの市振で、今私も芭蕉の見たのと同じ月を眺めていることよ」という。青畝師の高ぶった気持ちが読者の心にひしと伝わってくる句である。
青畝師には滑稽句が多い。「俳諧」の「諧」が「諧謔」である以上、当然と言えば当然である。
をかしさよ銃創吹けば鴨の陰(ほと) 『万両』
が初期のものであれば、晩年には、
初湯殿卒寿のふぐり伸ばしけり 『西湖』
のような巧まざるユーモアの句がある。関西人特有の滑稽句という声もあるが、結構関東でも受けていた。川柳の末摘花のごとく下品では無いからであろう。気品のある滑稽句と言うべきか。この句も材料は、あの悪臭を放つ虫の世界のスカンクといわれる放屁虫である。名前からして滑稽であるのに、普通ならば「親分顔」というところを「児分顔」と言っている。そのとぼけた意外性が面白い。俳壇では何々調といった 7、弟子が師匠を真似るのが普通、それ故何処の結社と直ぐ見当がつくものもあるが、青畝調だけは誰も真似ることが出来ない。
昔は台風の事を「のわき(野分)」と呼んだ。野の草を分ける風という意味である。意味は同じでも言葉のニュアンスが違う。特に言葉を大事にされる青畝師は、はっきり使い分けておられる。最近は気象観測も進み、コンピューターにあらゆるデータをインプットして分析するため、規模や進路の予測も随分正確になった。それでも大自然は時には思わぬ動きをする。「まともに来ると予報されていた台風が奇しくも逸れたのは、天狗杉即ち天狗の神通力が風魔を退散せしめたのだ」という素朴さがなんとも面白い。この句は大山での青畝句碑除幕の折の句である。しかし天狗杉は各地にあり、それぞれ天狗にまつわる民話を残している。何処の天狗杉も勿論巨大である。そんな杉に吹き付ける風は、野分よりも台風が相応しい。
青畝師中国旅行の句である。桂林を抜きにしては中国旅行は語れない。絵をよくする作者は、その奇景を最も楽しみにしていたはず。念願の景に会い得た青畝師は灕江に配するに「有明の雁」と「二三行(かう)」という漢詩趣向の言葉を以て一句に纏めた。如何にも訪中句らしい。実はこの雁についてある人が訪ねた所「雁でなかったが小鳥が飛んでいた」と答えた由。要するに青畝師の考え方は、フィクション(虚構)ではなく、デフォルメ(変形)で、芭蕉以来多くの俳人が使っている構成ということらしい。これを青畝師は別の言葉で、「数多の経験に基づく写生であり、これも写生である」と言われている。
何の説明も要らないような至極明快な句である。俳壇にはこの句を「萩」の句とする考えもあるが、「落し物(かな)」と切れ字の省略と見たい。従って「落し物(=蟷螂)」に力点があり、先出の「蟷螂」が主たる季語であると考える。かつらぎ庵の庭には萩が多かった。青畝師をして「萩大名」と言わしめ、蓑虫までが萩の花を羽織る、そんな一面に萩の花の靡く庭であった。その萩から一匹の虫が零れた。二年後に、
蟷螂は狐のごとく歩みけり 青畝
と詠まれているが、逆三角形のあの顔といい、小さいながらも斧を振りかざして相手に向かう姿といい、どことなく愛嬌者である。さらりと詠んで、萩に配するに蟷螂を「落し物」と見立てた所などは実に微妙に心に響く一句である。
鉦叩はこおろぎの、1センチにも満たない小さな虫であるため、実際にその姿を見ることは稀である。ない超えは印象的で、チン・チンと小さな澄んだ声で十数回続けて鳴く。その鳴き声から鉦叩の名がある。鍛冶屋虫と言われたこともあるらしい。蓑虫がなく言うのは実はこの虫のことであったとも言われる。その鉦叩の鳴く数を青畝師自身が数えていたが、読み違えたと言っている。「数の間違い」というのは誰か正確に数えた人が側にいて、突き合わせた結果間違っていたと言うのであろうか。「青畝よむ」の「青畝」には何か自嘲の思いがあるように思える。少年時代の中耳炎の手術の失敗から一生難聴という枷を背負った青畝師である。何でも意欲的に詠まれたが、やはり虫の音を詠んだ句の少ないことに寂しい思いがする。
当たり前のことを当たり前に。一度もげた虫の足が再びくっつくことの無いことぐらいは、誰もが知っていることである。しかし俳句では当たり前過ぎて忘れていたことを詠まれ、強い驚きを受けることがままある。この句にはそんな驚きと、その後深い「あはれ」徐々にが広がってくる不思議さがある。「きりぎるす」は古くは蟋蟀であった。
むざんやな甲のしたのきりぎりす 芭蕉
の「きりぎりす」は勿論蟋蟀である。きりぎりすは「チョン、ギース」と繰り返し鳴くため「はたおり」とも呼ばれるが、その鳴き声には野趣がある。盛んに足を動かすため、足がもげやすい。幼少の頃、捕まえて遊んだ「懐かしさ」と共に、いま一人の俳人として眺める「をかしさ」と「あはれさ」の入り交じった感慨が漂う一句である。
青畝師18歳、畝傍中学五年生の時の句である。「虫の灯」は火を取りに来る虫ではなく、虫の鳴く窓辺の灯火。虫の滋く鳴く窓辺の灯の下で、読書に没頭している難聴の一少年の姿の写生である。青畝師の自註によれば、「中学を卒業する前のこと、進学に大きな障害となる耳の不自由ということで前途暗澹、はなはだしくわたしは苦悩した。ほとんど捨鉢な気分を出していろいろの本をよく読みまくった。人が嫌で、読書の鬼となれば多少気もおちつくかと考えていたらしい」とある。青畝師は、自分と同じ身の上の少年を自分に重ね合わせて、客観視しているのだと言われている。虚子師に諭されてその教えを忠実に守り、客観写生による句作を心がけた青畝師のことばとして首肯できる。この句に心打たれた虚子は、後日同じく難聴の村上鬼城を引き合いに出して青畝師を激励している。
奈良坂は「源氏物語」にも出てくる古い地名で、大和と山城を結ぶ街道はここで平城山を越える為、かく呼ばれる交通の要路で、この句の詠まれた頃は一面に葛が元気よく育っていたらしい。「狂ほしき」はシク活用の形容詞「狂ほし」の連体形で「狂っているようすの」ということになる。自選自解・阿波野青畝句集には「いよいよ台風が来た。葛は大うねりをしてもみくちゃに狂い騒ぎ、甚だすさまじい情景を見せた。私らは無地に帰れるかと心配な顔をした。ある狂女が髪を振り乱し都へさして駈けてゆくような舞台をふと連想してみた」とある。奈良坂に相応しく「狂ほし」という古語を使い、「台風」と言わずに「野分」と詠んでいる。いかにも古典に通じた大和育ちの青畝師なられはの一句である。
「初月夜」とはいつのことなのか、確かな答えを探しえない。新月を初月とする解釈もあるが、全く光のないものを月夜とは言い難い。陰暦八月の二日月・三日月あたりから」、月が夕方西の空に出ていて」、やがて山の端に沈んでいく頃の、月のある夜を気分的に「初月夜」と言ったものであろう。中秋の名月を待ち焦がれる気分がにじみ出ているように思う。場所は近江、琵琶湖の水辺である。「渚は近江」という言葉の斡旋といい、「初月夜」に配するに「ほのぼのと渚は近江」という夢見るごとき言葉の組み合わせといい、まことにはんなりと美しい。このとき青畝師の脳裏には芭蕉の「行く春を近江に人とをしみける」があったものと思われる。ただ読むだけで、うま酒に酔った気分にさせる秀句である。
九月一日は「防災の日」である。関東大震災当時、24歳であった青畝師の脳裏には災害のことが生々しく刻み込まれていたのであろう。「あらば」は文法的には順接仮定条件を表し、口語の「あったなら」にあたる。地震があったならばどうだと具体的には言っていないが、それが却っていつ起るかも分からない、大自然の図り知れぬ力に対する恐怖感を思わせる。事実、平成7年1月17日には、かの阪神淡路大震災が発生、かつらぎ庵のあった西宮にも大きな災害をもたらしたが、青畝師は平成4年12月に既に帰天されている。その後も東日本大震災(平成23年3月11日)をはじめ、異常気象による大雨洪水被害や昨今のコロナ禍等々、予想だにしない恐ろしいことがつぎつぎと襲ってくる。
感想やお問合せはお気軽にどうぞ。