素秀:日永になり夕暮れの空の赤さが長く続くようになったころ、ゴルゴダの丘を十字架を背負って歩くキリストの背中も赤く染まったいたのではないかと、作者はふと思ったのでしょう。これは先の道化師の句も含めてみのるさんの代表句のひとつではないでしょうか。

あひる:同じ時間でも楽しいことは短く感じ、苦しいことは長く感じます。ゴルゴダの丘を死刑の道具である十字架を背負って歩くイエス様の苦しみが、如何に長かったかと、そしてそれが私たちを(私を)罪から解き放つためであったと、クリスチャンである作者はもの憂いような永き日に、思い巡らしているのではないでしょうか。悲しみと感謝と喜び、あからさまな言葉を遣わないで表現できるのだと思いました。

せいじ:永き日が三春の季語。イースター(復活祭)は、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日とされている。「ゴルゴダの丘の永き日」はその三日前(日曜日を一日と数えて)の金曜日のこと。作者は十字架の意味を深く考えている。理屈ではない。人々のために苦しんで死なれたことの意味に思いを巡らせている。永き日は昼の長くなった春の日の意味であるから、長い冬からの解放、そして、そこから連想される苦しみからの解放も含意されているに違いない。永き日という季語がぴったりである。

豊実:冬が去り、日永となって春の喜びを感じている。人類の救い主であるイエス・キリストもこの春の喜びを我々とともに感じてくれているのではないでしょうか?

むべ:「永き日」が三春の季語。ゴルゴダの丘はイエスキリストが十字架にかけられたエルサレム郊外の丘の名称で、現在は聖墳墓教会や嘆きの壁などがある観光地となっています。キリストが十字架の上で息を引き取られたのは午後三時ごろと聖書は伝えています。午後の陽射しの中で、キリスト者である作者は深い黙想の時を過ごしているのでしょう。当時最もひどい刑罰の方法であった十字架刑にあえてかかられた神の御子に思いをいたして。この季語でなければ表現できない句意だと感じました。