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昆陽池吟行の折、昆虫館へ向かう森の小径で出会った遠足子たちである。列が途切れがちになる最後尾へ幾度となくやさしく注意は促されていたのだけれど効なく、ついに先生の一喝が飛んだのである。昔ならどうということのない言動でもパワハラだなんだと大仰に騒がれる昨今、揚句のような一会にはもう出会えなくなった。
極めて初学時代、六甲森林植物園吟行での作。「あれ?いま確かにゴロ!と鳴ったよな」と思ったけれど続く気配なく、ひょっとしたら空耳だったのかも…と授かった一句。でもまだ、季語を文字としてしか認識できていなかった私は、「これって季語動くよなぁ〜」と。
歳時記を繰って調べてみると、「雨の降っていない曇天のどこか遠くで、低く、一つ二つ鳴る趣があり…」を見つけ、合点!…と膝を打ったのである。季語には本質というものがある のだということを認識させてくれた懐かしい作品なので残すことにした。
明石浦漁港のイカナゴ運搬船です。イカナゴは鮮度が命、網引船は外海で漁をつづけますが運搬船が網揚げの都度港へ戻って水揚げし、即糴にかけられます。そののち運搬船は、おこぼれ頂戴のカモメの群れを引き連れて再び全速力で漁場へ戻るのです。その景は実に壮観で播磨灘の早春の風物詩です。
一般に漁港の構造は沖に向かって一文字の防波堤があり、漁船はその脇の方から出で入りします。港内はスロー運転ですが波止内を出るや否や一気に舵を切ってフルスロットルで外海の漁場を目指すのです。真向く…には「正しい方向に向くこと」の意もあるようです。
私達夫婦の仲人さんが雪深い丹波の山裾の施設に入所されたと聞き、春を待って訪ねました。あれこれ繰言の聞き役を果たして辞しましたが心が曇りました。その帰路、鄙びた一末寺の門前に建つ「一隅を照らす…」の碑にであったのでした。刻まれた碑の文字に対峙していると何となく塞いでいた胸の内に光がさしたような不思議な平安を覚えたのを思い出します。
中山寺梅林観音池の菖蒲の芽です。池塘は、水際+径のことですが、水際は水に浸っている際、同じようで違うので使い分けるといいでしょう。複数の芽が競うように1センチほど水面から顔をだし、表面張力の水面を押し貫いたようにも見えたので「切先」を感じました。3月の吟行時なら似た状況に出会えるかも知れません。