2022年1月

目次

ひなげしの花びらを吹きかむりたる Feedback

高野素十  

(ひなげしのはなびらをふきかむりたる)

ポピー、虞美人草の名でも知られるひなげしは一年草。うつむきに蕾をつける姿が何とも可憐で開花するとパラボラのように大きく花弁をひろげて太陽を追いかける。ひとつの花の開花期間は短く花壇や野辺に群生して薫風に吹かれている姿が一番親しみやすい。花びらは無疵のままはらりと散る、とても野趣を感じるそんな花ですね。

さて呆けたんぽぽならまだしも、咲いているひなげしをひと吹きに飛ばすには相当な肺活量が必要です。心優しい素十さんがそのような無粋なことはしないと思うので、綺麗なまま散っていた花びらを手のひらに載せて慈しみながら戯れに吹いてみたら蝶のようにくるりと翻って頭の上に乗っかちゃった…という絵かなと思います。一人称の句にとれる詠みっぷりですが「けり」ではなく「たる」なので三人称のようにもとれます。おかっぱ頭の幼い少女の所作などを連想すると可愛いですね。

合評
  • ひなげしの花を吹いたところ、花びらが風に飛んで作者の方へ降りかかってきたのかと思いました。ちょっとした驚きと、子どもの頃にかえったかのような楽しさを感じます。ひんやりとした花びらの感触とあたたかい春の空気も伝わります。 (あひる)
  • ひなげしは風に靡く花。それが分かっていてか薄い花弁を吹いて見た。すると反動で花弁はやさしく自分に返ってきた。愛らしいひなげしとにっこりされている作者が浮かびます。 (うつぎ)
  • 「吹きかむりたる」の措辞が見事です。ひなげしの花を「ふぅー」と吹いたら逆に自分の頭に被ってしまったのですね。「かむり-たる」「ひなげし」と共に平仮名表記にしたこと、また「かぶり」でなく「かむり」とすることで句全体が柔らかくなります。ご自身が童心に返ってひなげしを吹いたのかもしれませんし、お子さんの景かもしれません。とても可愛らしく温かな印象を持ちました。 (更紗)
  • 「ひなげし」は三夏の季語。近所では本家のひなげしに似たナガミヒナゲシをよく見かけます。要注意外来種ながら、洋風で可憐な花容につい見入ってしまいます。想像を掻き立てられますが、花びらは散りやすく吹いたところご自分の顔の方に風で飛んできたということでしょうか。少しユーモアもあり、自然の中にいる作者のリラックスした感じが伝わってきます。 (むべ)
  • ひなげしが夏の季語。いわゆるポピーを想像した。開ききって散るしかないようなひなげしの花びらを吹き飛ばそうとしたら、風の具合で自分の方に飛んできて顔にかかっちゃったよ。ひなげしに逆襲されたようでなかなか愉快である。 (せいじ)
  • かむるは冠るでしょうから、ひなげしの葎に頭を突っ込んでいるほど近づいているのでしょうか。息を吹きかけると花びらが揺れて顔を打っているようです。 (素秀)
  • ひなげしが咲き乱れている草原で、ひなげしに埋もれて寝転がっている情景を思い浮かべました。 (豊実)

小をんなの髪に大きな春の雪 Feedback

高野素十  

(こをんなのかみにおおきなはるのゆき)

句の詠まれた時代背景を念頭に入れず安易に現代版解釈したのでは作品の本意は見えてこない。少なくとも素十俳句は昭和初期の作品として鑑賞することが大前提になる。「小をんな」にはいろんな意味があるようだが、大小の対比だとすると俗的な言葉遊びということになり素十さんに申し訳ない気がする。あひる解、うつぎ解、豊実解にあるように料亭とか湯宿などで下働きをする和服姿の若い仲居さんと捉えるほうが風情があり艶があると思う。牡丹雪が降る中でも機敏に健気に働いている女性の姿を美しいと感じたのである。

「大きな牡丹雪」とするとくどくなるので「大きな春の雪」とあえて平明なことばを選んであるのにも作者の強い意図を感じる。状況さえ伝わればよいのなら単なる報告句、視覚的にも聴覚的にも配慮されたことば選びこそが文学としての俳句の命であることをこの作品から学びたい。

合評
  • 字面を見ると、小と大の取り合わせを楽しんでいるようです。下働きの若い女性と理解してみました。飾り気のない女性の髪に、牡丹雪は美しい髪飾りのようだったことでしょう。 (あひる)
  • 小をんなは年若い女中さんととれば外での動きも見えてきます。艶のある黒髮に白く大きな牡丹雪が掛かっている。美しいと見とれたのでしょう。 (うつき)
  • 子をんなは子女ととらえると、少女と考えたら良いのかなと思います。大きな春の雪は牡丹雪。小柄な少女の黒髪に雪の白が映えます。 (素秀)
  • 春の雪が春の季語。大きな雪片の牡丹雪である。降るそばから消えて行く牡丹雪も、姉さん被りからはみ出した黒髪の上では、なかなか消えずに形を保っていることよ。旧約聖書の雅歌のような趣がある。春の恋の予感がする。 (せいじ)
  • 三春の季語「春の雪」。作者は春浅い頃に外出先(旅館、料理屋など)で、下働きの若い女性を見かけたのでしょうか。思いがけない春の雪に降られ、外で作業していた女性の黒髪に真っ白な雪片が……春の雪は雪片が大きく重い。屋内に戻ったら、すーっと溶けたのかもしれません。「小をんな」という言葉が醸す素朴さ、洒落気のなさと「春の雪」の取り合わせがとてもすてきだと思いました。 (むべ)
  • 小おんなには、旅館などで下働きをする若い女性の意味があるようです。旅館の玄関先を掃除するバイトの女の子の髪に牡丹雪の結晶がついた。雪が降ってきましたね、というような自然な会話も聞こえてきます。 (豊実)

来る人に灯影ふとある雁木かな Feedback

高野素十  

(くるひとにひかげふとあるがんぎかな)

雁木は商店街のアーケードとは違うので、みなさんの合評にあるように長い雁木に吊るされた灯りはかなりの間隔をおいてとびとびであることがこの句の背景にあり、行き交う人もまたまばらなのだと思う。「来る人」は雁木の遠くの方から作者の方へ向かって来る人であろう。その来る人がちょうど灯りの下を通過するときだけ一段としるき影が大きくなり、灯りの下をすぎるとまた人影は薄くなるのである。説明はしていないがそれを繰り返しつつ来る人は近づいてくるのであろう。その来る人が作者の待ち人であるとするとちょっとロマンチックな雰囲気もある。

合評
  • 雁木は写真から想像すると店はあっても通りは暗いようです。所々灯りが吊るされているのかそこを通過するときだけふっと人影が浮かぶ。作者は誰かを待っているのだろうか。幻想的な風景である。 (うつぎ)
  • 雁木は写真で見たぐらいですが、一定間隔にある街灯に人影を見ているようです。商店街なら店の灯もあるでしょうから、民家を繋ぐ雁木なのかなとも思えます。 (素秀)
  • 雪深い夜、雁木の下を通る人の姿が動きにつれて橙色に照らされたり暗くなったりしているのでしょうか。「灯影ふとある」が、この句を生き生きとさせていると思いました。 (あひる)
  • 雁木が冬の季語。小学生の時、日本一雪の深いところの生活習慣として新潟の雁木のことを習った覚えがある。雪国の暮しは厳しいが、人々は知恵を出して図太く生きている。勤務先である大学からの帰路であろうか。夜の雁木道には、街灯やそれぞれの商店から漏れる灯、雪の反射光によって、特別な光の空間がとびとびにできている。向うから来る人は、その光の空間にさしかかると明るく照らし出され、それを繰り返して近づいて来る。そのことにふと気がついた。ちょっと幻想的である。 (せいじ)
  • 雪国の商店街の風景ですね。外灯の人影が雪に映ってぼやけているような気がします。夜なので居酒屋の灯もありそうです。 (豊実)
  • 「雁木」は三冬の季語。雪の多い地方では雪よけのため商店街などで道に張り出した軒をつくり、これを柱で支えて通れるようにするそうです。夜は雁木につけられた電灯がともり、通行人の顔や体が一定の間隔で照らされて明るくなったのを作者は見たのかもしれません。作者は1930年代から約20年新潟市在住だったとか。越後の冬の商店街はきっと寒くて、でも人の営みが暖かく感じられたのではないでしょうか。 (むべ)

柳絮とぶ道の真中に立ちて見る Feedback

高野素十  

(りうじよとぶみちのまなかにたちてみる)

都会の道ではなく素秀解にあるような川堤か車の往来の極めて少ない里山の農道の感じですね。「道の真ん中に立ち止まって」と解するとわかりやすく、突然の出会いに「おお!」とばかり歩みをとめて立ち止まりその行方を見送ったのである。のどかな里山の風情が目に浮かぶが、細かい描写は省略してあるだけに返ってさまざまに連想が広がるのである。

合評
  • 「道の真中に立ちて見る」これだけしか述べられていないのに柳絮を見ている作者の目の動き、姿勢、辺りの情景など映像としてはっきり伝わってきます。 (うつぎ)
  • 「柳絮」は仲春の季語。ふわふわと風に漂う絮は雪のような羽毛のような感じでしょうか。道の真ん中で柳絮に包まれ佇む作者の姿を想像しました。ちなみに北京ではやや季節の進みが早く柳絮は春の終わりを告げる風物詩でした。 (むべ)
  • 花の咲いた後の柳の絮は白くてふわふわで、一斉に舞っていると幻想的なほどです。川辺の遊歩道でしょうか、思わず立ち止まって見てしまう作者がいます。 (素秀)
  • 歩いている時に柳絮が飛ぶのを見かけ、道の真ん中に立ち止まってしまいました。ふわふわと絮の飛ぶさまに心奪われ、見入ってしまったのでしょう。光を反しながら風にのる柳絮があたりに広がり、その前に我を忘れた作者がシルエットのように心にうかびました。 (あひる)
  • 道を歩いていると柳絮が飛んでいるのに気づき、思わず立ち止まった。道の端ではなく真中に立って、体全体で柳絮を受け止めるかのように。 (豊実)
  • 柳絮とぶが春の季語。一陣の風に柳絮が雪のように舞っている。まだ肌寒い早春の日を浴びながら。たまたま通りかかった作者はその光景に息をのみ、しばし足を止めて見入ってしまったのだろう。他の通行人のこともかえりみず、急に立ちどまったことが「道の真中に」によく表れている。倉敷や城崎温泉の水路沿いの柳並木を思い出した。 (せいじ)

野に出れば人みなやさし桃の花 Feedback

高野素十  

(のにでればひとみなやさしもものはな)

句意は明解ですが季語の「桃の花」が動くか動かないかがこの句の鑑賞のポイントになります。その意味で、あひる解は この句において桃の花が不動であることを実に的確に分析していると感心した。この場合の「野に」は、野良仕事の「野」で野原の意味ではないと思う。ふつう桜は畑には植えないが、梅や桃は収穫目当ても兼ねて畑隅に植えられていた。野良仕事に一区切りがつくと花のもとで一服し世間話にも花が咲くのである。吟行中の作者もそうした人々と声を交わし談笑の輪に加わっているという状況であろう。素十の人柄を偲ばせる一句である。

合評
  • 冬を乗り越え漸く春になり桃の花も咲いている。野に出ている人達の挨拶も明るい。桃の花は何と言っても女の子の節句です。誰もが優しい気持ちになれる花ではないでしょうか。 (うつぎ)
  • 「桃の花」は春の季語。上五「野に出れば」で、果樹園の桃の花ではなく、山に自生する桃の花を鑑賞していることがわかります。春の訪れに、道行く人との会釈にも笑顔が出るのではないでしょうか。なぜ杏や李ではなく桃の花なのか考えてみました。やはり濃いピンク色の花色のインパクトでしょうか。素十さんはこのような句も詠まれたのだと少々驚きながら味わいました。 (むべ)
  • 客観写生ではない「みなやさし」という措辞を桃の花に合わせたのは見事かと思いました。野に出ても梅ではまだ寒さ厳しく、人々は口を結んでいるかも知れません。桜では「しず心なく花の散るらむ」「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」などの心境にもなります。桜の木の下で酔客が喧嘩している場面を何度か見もしました。けれども桃の持つ雰囲気は、人の心をのんびりとやさしくさせる気がします。 (あひる)
  • 暖かい日差しの野に出れば桃の花も迎えてくれ、人々もみな優しい心持になる。 (素秀)
  • 桃の花が春の季語。3月の初めごろだろうか。踏青や野遊の趣も感じられる。春の野の明るい日差しのなかに桃の花が咲いており、そこに人々が集まって談笑している。太陽と北風ではないが、やさしい自然の中にいると人はみなやさしくなる。厳しい冬を越してくればなおさらであろう。ひらがな表記がやさしさを増し加えている。 (せいじ)
  • 野原を散歩する人たちが桃の花に癒やされている。桃の木のそばに自然に人が集まり、見知らぬ人の間にも会話が生まれ、和やかな時間です。 (豊実)

雪片のつれ立ちてくる深空かな Feedback

高野素十  

(せつぺんのつれだちてくるみそらかな)

深空のさらにその奥から躍るように現れいでて仲良しこよしと連れ立ちながら雪が降ってくる。幼い頃に首が痛くなるほどうち仰いだこの不思議な情景は実に神秘的でした。この句を鑑賞しながら連想をひろげていると、「雪やこんこん」の歌のようにはしゃぎながら雪の中をかけまわったころが懐かしいです。面白い動画を見つけました。素十さんの句に心を遊ばせながら観ると楽しいです。

合評
  • 冬の季語「雪片」が次々に一緒に降ってくる様子を「つれ立ちてくる」という擬人化がこの句の肝のような気がします。出発地の空を見上げれば、奥が見通せない雪雲が厚い層になって見えるのでしょう。空を見上げている作者もホワイトアウトしていくようです。 (むべ)
  • 雪片は結晶化した雪かもしれない。ひらひらと空のはてしなく深いところから降ってきているようだと雪空を眺めている作者。つれ立ちての擬人化がよく効いていると思う。 (うつぎ)
  • 一片の雪に空を見上げたら次々と降りてくるものが、雪雲まで続いている。空の高さを深さと見ています。 (素秀)
  • 舞い落ちる一片の雪を見つけると、あれよあれよと言う間にたくさん降ってきます。少し風に舞いながら、まるで仲間が連れ立って来るようです。雨では「つれ立ちて」とは言えませんよね。 (あひる)
  • 雪片が冬の季語。みそらを深空としているところが素晴らしい。雪片が仲間と連れだってどんどんと降ってくる。こんなに沢山! はてさて、その源はどこだろうか。深い深い空なのである。人は及びもつかない。 (せいじ)
  • 「つれ立ちてくる」という措辞が生きていると思います。ひとひらの雪が落ちてきたので空を見上げた。この雪は空のどこから落ちてくるのだろう。ひとひらの雪が天空に想像を広げる。 (豊実)

翅わつててんとう虫の飛びいづる Feedback

高野素十  

(はねわつててんとうむしのとびいづる)

かぶと虫、てんとう虫、金亀子のたぐいは、甲虫目とか鞘翅目(しょうしもく)とか言われるようで、硬い鞘翅の下に薄いうしろ翅を畳み込んでいるのですね。飛翔力を生むのはうしろ翅で、鞘翅は左右のバランスとか傾きをコントロールしている感じです。幼い頃になんどもなんども観察したのを思い出します。みなさんの合評どおり「翅わつて」の措辞がこの句の命ですね。てんとう虫を観察していると、尖った葉先の方へ早足で歩きだし先端に行きつくとしばらく躊躇してからやおら翅を割り飛び立つ…というシーンをよく見ました。誰もがその情景を見た体験があるので、なんでもないこの句に共感を覚えるのです。素十代表句の一ですね。

合評
  • 「てんとう虫」は夏の季語。「翅わって」の上五からパカッと音が聞こえてきそうです。下五の「飛びいづる」も飛んでいく様子が手に取るように想像できます。十七音でここまで表現できるのかと驚かされました。飛び立った先は、ちょっと湿り気のある空か、入道雲のある青空か…… (むべ)
  • 素十のこの句を知った時私なら翅開け、翅立ててにしてしまっただろうなと思い「翅わって」の措辞に衝撃を受けました。ぱかっと割れた翅の質感、飛び立つ瞬間の力まで見せています。 (うつぎ)
  • 素十は虫好きです。じっと観察して飽きないのでしょう。翅がわれるというか、背中がわれて折り畳まれた翅が開くのですが、翅わってという表現は適格だと思います。 (素秀)
  • てんとう虫が夏の季語。「翅わって」が斬新である。言われれば本当にそうだよなと思う。「飛びいづる」とあるから、翅はてんとう虫本体とは別物で、門がパカッと開くような感じに見えたのではないだろうか。いつもながらよく見ている。そしてそれをうまく言葉にしていると思う。 (せいじ)
  • てんとう虫がパカッと翅を割って飛び立つ姿は、幼い頃の私の驚きでした。その見事な割れっぷりに、大人になってもやっぱり驚いています。広がるでもなく、まさに割れています。季語は夏です。 (あひる)
  • てんとう虫が飛び立つ時、背中がパカッと割れます。飛び立つ前の、背中が割れた状態の瞬間をうまく描写していると思います。 (豊実)

夕月に甚だ長し馭者の鞭 Feedback

高野素十  

(ゆうづきにはなはだながしぎよしやのむち)

なんとなくメルヘンの雰囲気を感じる俳句ですね。シンデレラが12時を過ぎて大慌てでカボチャの馬車を飛ばしている様子が目に浮かびました。一読わかるようで実際にどのような情景なのかを連想するのは難しいです。馬の脚を早めようと鞭を振っているのだ思うので速度も出ているようです。「甚だ長し」は、振り上げた鞭を打ち返そうとするときに鞭の先が三日月を捉えようとするかのように絡みついているのかなと思いました。作者は馬車の中から鞭ふる馭者の様子が見えているのです。

合評
  • 夕月が秋の季語。上弦の月の出ている秋の夕暮れ、作者は馬車に乗ろうとしているか、乗って家路を急いでいるかしている。「夕月や/甚だ長き馭者の鞭」ではなく「夕月に甚だ長し/馭者の鞭」なので、夕月と鞭が直接的に絡んでいると思われる。上弦の月はまだ低い空にあるから、馭者の使う棒の鞭が、月に届いているのではないかと思わせるほどに長く見えたのであろう。「甚だ」に驚きと感動が込められている。 (せいじ)
  • 馬車と馭者という組み合わせがすでにロマンいっぱいなのですが、秋の季語「夕月」に馭者の振るう鞭がかかっているように見えたなら、なんとも絵になる光景だったことと思います。満月ではなく、2日から上弦くらいまでの月とのこと。月の出も没も早い時間帯なので、完全には暮れていない空、そしてひた走る馬車の影も伸びて見えるようです。 (むべ)
  • 作者は何頭立ての馬車に乗っているのでしょうか。走っているのを見たのでしょうか。4頭ぐらいだと確かに長い鞭でないと届かないかも知れません。そろそろ薄暗くなりかけた頃夕月に鞭のシルエットが撓る景かと思われます。 (素秀)
  • 青みを残した暮れかけの空に、上弦の月が爽やかに昇り、馬車と馭者と鞭がシルエットのように浮かびあがりました。見る角度によっては、鞭の先は月より上にあったかもしれません。短い鞭では様になりません。 (あひる)
  • 夕月は秋の季語で陰暦2日〜7.8日の月のこと、三日月と書いてあるのもありました。弧を描いた月に対して振り上げた馭者の鞭は棒の直線、同時に見える位置に作者はいて曲と直、長と短の対比を感じられての句ではないでしょうか (うつぎ)
  • 鞭が長くしなりながら馬を打つ。馬車が走る道の背景に夕月が浮かんでいる。この馬車は急ぎ何処へ行くのだろうか。 (豊実)

放屁虫あとしざりにも歩むかな Feedback

高野素十  

(へひりむしあとしざりにもあゆむかな)

ネット検索すると、下記の記述がありました。

ヘッピリムシとへこきむしは…「違う虫」で、名前は似ていますけど全然別の虫のことだそうです。ヘッピリムシは「ミイデラゴミムシ」、へこきむしは「カメムシ」のことを指します。ただし、地域によってはカメムシの事をヘッピリムシと呼んでいたり、ミイデラゴミムシをへこきむしと呼んでいたりもします。

危険が迫ると身を守るために放屁するそうで、蟷螂や蛙との対決実験動画もありました。得意は早足、動画でもわかるように結構ウロウロして器用に後じさりもするようです。素十さん、この動画のような状況をじっと観察していて「後しざり」の発見に遭遇したのでしょう。名前と習性の面白さから俳句でもよく詠まれるようになったと思うが理屈っぽい句が多いようです。

合評
  • 「放屁虫」は秋の季語。素十さんはファーブルみたいな方だなぁと常々感じます。カメムシへの観察眼の鋭さと優しい眼差しが句からにじみ出るといいますか……ここでは、前を向いたまま後退している姿をユーモラスに切り取って見せてくれました。ベランダでよく出会うので今度観察してみます。臭いのもとは高濃度のアルデヒドを含み人間の皮膚に炎症を起こすので、要注意ですが…… (むべ)
  • カメムシのことを「へひりむし」と言っただけで、途端に面白くなります。何だかニヤリとしたくなるような・・。多くの昆虫は前進のみらしいですが、中には後退りしたり、回ったりする種もあるとのこと。へひりむしは人の手を見て後退りしたりもするようです。因みに私はへひりむしを見たことはあるものの、放屁されたことはありません。 (あひる)
  • 素十は虫の句も有名な句が沢山あります。これはカメムシが後退りしただけですが、てんとう虫が翅を開いたり、かぶと虫が糸を引っ張ったり、蜘蛛の糸が前をよぎったり。 (素秀)
  • 放屁虫が秋の季語。放屁虫をじっと見ていたのであろう。後じさりもするんだという小さな驚きが感じられる。 (せいじ)
  • 放屁虫は嫌な臭いのカメムシのことらしい。飛んでびっくりしたことがある。バックでも進むのか。したたかな奴である (うつぎ)
  • 放屁虫の正面に手を近づけると、後ずさりはしたものの、その後、前に進んだ。それ以上刺激すると臭い屁をこくので、そのまま見送ったのだと思う。 (豊実)

ゆれ合へる甘茶の杓をとりにけり Feedback

高野素十  

(ゆれあへるあまちやのしやくをとりにけり)

花御堂を見たことのある人には直感的に伝わってくる情景ですね。甘茶の盥の真ん中に誕生仏が立っておられて盥の縁に柄の部分を凭れさせた真鍮製の軽くて小さい杓が沈めてあるのです。揚句のそれを甘茶掛けをする人が入れ替わり立ち代わりあるので、数本ある杓が落ち着くひまがないのです。それらの人の賑わいに混じって作者も甘茶かけに臨んでいるのです。わかりやすい句ですが、杓に焦点を絞って花御堂の賑わいを連想させているところが非凡です。

合評
  • 「甘茶」は春の季語。花御堂の句で、お釈迦様の像に甘茶をかけることを知りました。かける時に用いる杓は複数置いてあり、次々にかけるので甘茶のプールが波立ち、杓が揺れてふれあっている、ということかなと思いました。 (むべ)
  • 一人かけ終わったら、またすぐ次の人が柄杓を取るのでしょう。甘茶に浮かんでゆらゆら揺れる柄杓の動きと人の手の動きがズームアップされています。真似できないと思いました。 (あひる)
  • 花御堂の周りに何人もいるようです。次々と誕生仏に掛けられる甘茶に盥の中は波立ち添えてある柄杓か揺れ合っている。この柄杓に目がいったとは驚きです。 (うつぎ)
  • 甘茶が春の季語。誕生仏に甘茶を注ごうとして柄杓をとるのであるが、多くの人が絶え間なく甘茶を注ぎ続けるので甘茶の海に波が立っている。そのため、柄は縁にかかっているものの空の杓は波に揺れて軽く触れ合っているのであろう。よく見ているものである。 (せいじ)
  • 灌仏会で杓の揺れが止まらないほど賑わっている。ふらふら動く杓、取ろうとする人の手。 (素秀)
  • 人と人が触れ合う程混雑していて、お互いの杓を持つ手が揺れてしまうのでしょう。花まつりでかなり賑わっているようです。 (豊実)

探梅や枝の先なる梅の花 Feedback

高野素十  

(たんばいやえだのさきなるうめのはな)

探梅は冬の季語ですが、春隣の雰囲気を感じますね。「探梅行」とも詠まれるように早咲きの梅との出会いを求めて里山路を散策することをいいます。 もしみのるが素十と同じ情景に出くわしたら、次のように詠んだと思うのです。

探梅や指呼の枝先に梅の花

真っ先に見つけて、"ほら、あそこに咲いてるよ!" と叫んでいたと思うからです。多分素十も同じような感動を覚えてこの句が授かったと思います。 句の雰囲気からは、one of themではなくて、ようやく出会えたうれしい一花であったように感じます。まず枝先の蕾から咲き始めるというのは梅の特徴だと思うので「枝の先なる」というだけで魁のそれであることがよく分かります。昔カメラの師匠から「梅は枝先の花を撮れ」と言われたことを思い出しました。

合評

猫柳四五歩離れて暮れてをり Feedback

高野素十  

(ねこやなぎしごほはなれてくれてをり)

合評でも意見が別れているように、「しばらく猫柳に佇んでいた作者が四五歩離れて振り返るとはや暮色を帯びていた」の意と、「四五歩の距離をおいて咲き並んでいる猫柳がいま昏れなんとしている」とのどちらなんだろうかと私も悩みました。「四五歩離れて」の措辞がその選択を惑わせるが、十歩二十歩ならともかく四五歩の距離で振り返って前者のようか感興が得られるかどうかと考えるとやや無理な気がする。

季語の本質からして、猫柳であるがゆえに池畔や湖畔の風景と共に連想が広がるのだとするならば、後者のほうが詩情があるように思える。春宵という季語がある。また、「春宵一刻値千金」ということばもあるように、この時間帯の春の風情は格別の趣がある。

合評

大いなる蒲の穂わたの通るなり Feedback

高野素十  

(おほいなるがまのほわたのとほるなり)

詳しくは知らなかったので調べてみると、雌花が結実後に綿クズのような冠毛を持つ微小な果実になり、この果実が風によって飛散する。そして水面に落ちると速やかに種子が実から放出されて水底に沈みそこで発芽するそうだ。「通るなり」の措辞からは大空を飛んでいるのではなく目線の高さでゆっくりと移動しているのが見えているのだと思う。私は見たことはないが、大いなると言っているのでかなり大きな塊状で飛んでいるのだろう。

子供頃わたしは、蒲の穂をみるといつもフランクフルトを連想していた記憶がある。

合評

甘草の芽のとびとびのひとならび Feedback

高野素十  

(かんぞうのめのとぼとびのひとならび)

野萱草の若芽を「芽甘草」というらしく、検索するとパック入りの「芽甘草」が売られていました。素秀解にあるように、写生の模範と賞賛される一方、他派からは草の芽俳句と侮蔑を込めてよばれた有名な句である。虚子は「かういふ句の面白さが分らない人たちは気の毒な人たちです」といってこの句を絶賛支持した。ポイントは「とびとびに」ではなく「とびとびの」で、その違いについて素十自身が解説している。

早春の地上にはやばやと現れた甘草の明るい淡い緑の芽の姿は、地下にある長い宿根の故であろうがこのような姿であった。一つのいとけなきものの宿命の姿が、<とびとびのひとならび>であったのである。それを私はかなしきものと感じ、美しきものと感じたのであった。<甘草の芽のとびとびにひとならび>ではないのである。

この一文を引いて倉田紘文氏いわく

素十のあふれるような情感というものを十分に汲み取ることができる。そしてその「情感」のこの作品への観入は、<とびとびのひとならび>の「の」の一字に託しているというのである。つまり<とびとびの [ 生命の ] ひとならび>ということなのである。(後略)

即座に肯定も否定もできない私には、ただ唸るしかない。もう一つ逸話を見つけたので引用しておく。素十のこの句が詠まれた同年、素十より先に虚子が詠んだ作品に下記がある。

茨の芽のとげの間に一つづつ 虚子

この句が素十の揚句の下敷きになったのでは?と記している記事が見つかった。そんな気がしないでもない。

合評
  • 今まで萱草(カンゾウ)のことだと勘違いをしていました。野に芽吹いている葉をとびとびのひとならびは全くその通りで衒いなく詠まれ写生の手本だと毎年ながめていました。甘草は違う物と分かってよかったです。合評になっていなくてすみません。 (うつぎ)
  • 「甘草の芽」は初春の季語。「とびとびのひとならび」という中七下五は、耳に聞いても目で読んでも「と」と「ひ(び)」が目立ち、作者の春の弾む心を感じます。甘草の発芽を見たことがないのですが、漢方材料として育てるには生長が遅く手間のかかる植物のようです。やっと芽が出たという気分なのでしょうか。 (むべ)
  • 甘草は漢方薬として知られています。この句の場合は野生のものかなと思います。群生する芽をとびとびのひとならびと表現して、写生の模範のような句です。好まない人からは草の芽俳句と揶揄されたそうですが。 (素秀)
  • 生薬として需要の多い甘草は、栽培されているのだと思います。土から出た芽がとびとびにに並んでいる、それだけを忠実に描いたのでしょう。「甘草の芽」以外は全部ひらがなで・・の、と、び・・が不揃いにとびとびに並んでいるのは、耳にも目にも明るくリズミカルです。この句にも作者の慈しみを感じました。 (あひる)
  • 甘草の芽=草の芽が春の季語。草の芽ではなく甘草の芽なので具体的でイメージしやすい。「とびとびに」ではなく「とびとびの」なので「ひとならび」が名詞となり、体言止めの引き締まった句になっている。口に出して読むと「・・の・・の・・の・・」のリズム感が心地よい。造化の神の美的センスを讃えるかのようでもあり、草の芽俳句、揶揄する向きもあるようだが、私には最高のお手本である。 (せいじ)
  • 正に写生句ですね。私は甘草を見たことありませんが、素十は芽の並び方に甘草の個性を感じたのでしょう。 (豊実)

風吹いて蝶々迅く飛びにけり Feedback

高野素十  

(かぜふいててふてふはやくとびにけり)

春風に乗って蝶が飛んでいる。その春風のせいか速く飛んでいるように見える。眼に見えない風に蝶を配することによってあたかも風が見えるようにしたところがこの句の眼目ではないかと私は思う。ところがこの作品も例によって「そのままで、ただの報告」という評価が多く、かの日野草城でさえ、「平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。(中略)けだし天下の愚作と断定して憚りません。」とまで酷評しているのです。

言い訳は一切しない素十さんですが、ホトトギスに掲載された素十俳句論を引用しておきたい。

俳句とは四季の変化によって起る吾等の感情を詠ずるものである。などと、とんでもない事を云ふ人がおります。感情を詠ずるとは、どんな事になるのか、想像もつかぬのであります。現代は科学の発達した時代で科学を究める人の態度は、素直に自然に接し、忠実に之を観察する点にあらふかと存じます。俳句も亦結論はありませぬ。それで結構です。忠実に自然を観察し写生する。それだけで宜しいかと考へます。

いかにも素十らしい論ですね。「俳句とは自然に寄り添うこと、そして自分に嘘をつかないこと。」つまり、自然、生命に対して誠実にあることなのだと。何となく耳のいたい思いがするのは私だけだろうか…。

合評
  • 蝶々と重ねた言い方に羽のひらひら感が出ている。はやくは迅の字を当てているので吹いてきた風にすぐさま乗り飛んで行ったともとれるし、すぐさま抗いながら飛んでいるとも、どちらなのだろう。 (うつぎ)
  • 蝶でも良いのに何故蝶々なのか。単純な音数合わせでは無いと思えるだけに、考えてみましたがどうにも結論は出ませんでした。気になるところです。 (素秀)
  • 蝶々は飛ばされて戸惑っていたのかも知れませんが、私は何となくうれしい気持ちになりました。蝶々が春の風に押されてか乗ってか、迅く迅く翅を動かし、迅く迅く前へ進んで、楽しんでいるようです。運動が苦手でマラソンでびりになるような私は、「迅く」という字にかっこよさを感じました。 (あひる)
  • 一陣の風に蝶が飛んでいるというより飛ばされているように見えたのでしょうか。それとも、自主的にスピードをあげ風をよけたたように見えたのでしょうか。いずれにしてもひらひらと一定のリズムではなくおや、と思わせる飛び方をしているところを捉えての一句でしょう。「蝶々」は春の季語ですが、穏やかに吹く風ではなく気象のまだ不安定な春を思わせるやや強い風も、名バイプレーヤーとして描かれているように感じました。 (むべ)
  • 蝶が自分の意思と関係なく、強い風に飛ばされるように速く飛んでいるように思いました。早く風のないところに隠れて止まってほしいような気がしました。 (豊実)
  • 蝶々が春の季語。蝶ではなく蝶々と言ったところに作者の蝶に対する親しみを感じる。一陣の風に煽られて飛び去ってしまったのであろう。もっとそばにいてくれたらいいのにという思いを隠しているように思った。 (せいじ)

朝顔の双葉のどこか濡れゐたる Feedback

高野素十  

(あさがほのふたばのどこかねれゐたる)

季語の朝顔は初秋。本来は花を意味するが、揚句は芽を出したばかりの双葉を詠んでいる。朝露に湿った黒土を押しのけるように顔をだしてひらいた双葉である。うつぎ解にもあるが如露で撒かれた水滴がついているのではなく双葉のありようそのものに濡れた感触を覚えたというのである。

「どこか」というのは、はっきりとそこ…というのではなく、どことなく…というような意味である。このような曖昧さもまた素十俳句の特徴の一であるが、それが素十の抒情的な一面とみることができる。素十句は全く主観のない単純な写生句だする評価も少なくないが、決してそうではないと思うのである。徹底して焦点を絞ることで、描写していない他の要素を読者に想像させるというのが素十俳句の特徴だと思う。

合評
  • 如露で水をやったり雨の後なら余りにも当たり前で「のどこか」は目には見えてないけれど双葉は濡れている程に生気があるよと作者は感じられたのでしょう。 (うつぎ)
  • 双葉が春の季語。双葉の例句としてよく載っている句である。春先に朝顔の種をまき、毎日水をやっていると、ある日双葉が土から顔を出す。はっきりとどこそこが濡れていると明確にいうことはできないが、どことなく濡れているのである。産子のように感じているのではなかろうか。 (せいじ)
  • 双葉が仲春だそうです。どこか濡れゐたる・・ですから、全体的にびしょ濡れというわけではないようです。昨夜の雨の粒が残っていたのか、葉っぱの水分が溢れているのか、散水の水の粒か・・・あっちの双葉もこっちの双葉も、産毛に水の粒をくっつけていたのでしょう。水を含んだ黒い土まで見えてくるようです。 (あひる)
  • 新芽の双葉が濡れているように見える。生まれたばかりの生命の瑞々しさでしょうか。 (素秀)
  • 「朝顔」は初秋の季語ですが、ここでは花ではなく双葉が主役です。中七の「双葉のどこか」に味わいを感じました。どことはっきり言わないのだけれども、かえってリアリティを感じます。作者は水やりをしながら発芽して間もない朝顔の双葉の初々しさ・瑞々しさを喜んでいるのではないでしょうか。 (むべ)
  • この句の場合、朝顔はまだ咲いていないので、双葉が季語ですね。双葉が何故濡れているのかよくわかりませんが、土の湿り気を持ち上げてでできた雰囲気が感じられます。 (豊実)

真青な葉も二三枚帰り花 Feedback

高野素十  

(まつさおなはも二三まひかへりばな)

うつぎ解にあるように俳句の場合、「何々の帰り花」といわないときは原則さくらをさすという暗黙の約束のようなものがあります。でも絶対的なものではないようです。「真青な葉」といわれると違うかもと自信ないのですが大島桜かなと思いました。大島桜はソメイヨシノとは違って花とほぼ同じタイミングで葉がでてくるからです。でもその花と同時に出はじめる葉はやや茶色っぽい眠り葉なので「真青」ではないです。でもほどなく無垢で綺麗な緑になる美しい葉で桜餅の材料になります。

勿論ですが「真青な葉」というのは、青色の葉の意ではなく芭蕉の句にある「あらたふと青葉若葉の日の光」と同意です。冬晴の蒼天に透けるような瑞々しさを感じます。

合評
  • 帰り花は見つけただけで嬉しく幸せを感じます。青い葉も有ったかもわからないが花に有頂天になり気付かない人が多いと思う。ここでも作者の観察眼の凄さが読み取れます。何何の帰り花と言われてないので桜でしょうか。 (うつぎ)
  • 帰り花の木に青い葉っぱがでているのはめずらしいと思いました。何の花でしょうね? (豊実)
  • 帰り花かと思えば葉も青く、それも何枚も開いている。冬のひと日の思いがけない暖かさを感じさせます。 (素秀)
  • 「帰り花」は初冬の季語。花は、暖かい気温に休眠のタイミングを逃し、一部が冬に咲いてしまった桜と想像しました。花だけでなく青葉も一緒に愛でている作者の視線が優しく、桜の木に降り注ぐ日差しの暖かさに重なります。花芽と葉芽とが同時に出ているので、きっとソメイヨシノではないのでしょう。 (むべ)
  • 初冬、つつじや桜の帰り花をたまに見かけます。葉っぱも二三枚ということで、桜の帰り花をイメージしました。裸木に花だけでは寂しかろうと、葉っぱも付き添って帰ってきたようです。 (あひる)
  • 帰り花が冬の季語。土手でたんぽぽの帰り花を見つけたよ、よく見ると帰り葉ともいうべき真青な葉っぱも二三枚出ているよ、といった感じだろうか。この句にも作者の慈父のようなやさしいまなざしを感じる。 (せいじ)

揚羽蝶おいらん草にぶら下る Feedback

高野素十  

(あげはてふぴらんさうにぶらさがる)

植物図鑑では花魁草は二種類あるようです。洋名クレオメ(和名:花魁草)というのと夾竹桃に似たような花魁草(別名:草夾竹桃)です。花魁の艶やかな長かんざしのイメージからすると、俳句で詠まれるのは前者ではないかと思います。素秀解にあるように揚羽は普通の蝶に比べると大振りなので、アクロバットのような姿勢で密を吸っているのです。うつぎ解にあるように「ぶら下る」の措辞によって翅を煽りながらバランスをとっているかのようななシーンも連想できます。花の花魁と花魁風な蝶との絡みと見るのもよ、花魁と戯れている武将の姿とみるのもまた面白いです。黒揚羽が似合いますかね。

何度も書いていますが、鑑賞に正解、不正解というものはありません。どのように感じとるかはまた鑑賞者の個性なので、「なるほど、そんなふうにも見れるな」と互いに共有しあうことで感性の幅も広がるわけです。

合評
  • 「揚羽蝶」は三夏、「おいらん草」は晩夏の季語ですが、揚羽蝶が主季語ととりました。おいらん草の名の由来は花姿の華やかさ、また白粉のような香りなど諸説あるようです。揚羽蝶もまた、大振りで黄色と黒のコントラストが美しい種類。下五の「ぶら下る」によって、蝶の翅は閉じているのではなく開いているのではないかと想像します。美しい花に蝶が最も美しく見える姿勢で止まっています。終わりに向かう夏の美しさを感じました。 (むべ)
  • 風蝶草とも言われる花魁草は長く伸びた雄蕊が花魁の簪を連想させよく付いた名前だと思う。揚羽蝶は黒くて武士のようなイメージをもつ。ぶら下がるの措辞も具体的で句の圧倒的なリアリティに驚かされました。 (うつぎ)
  • おいらん草は7~9月に咲く花で、花の香りが花魁のおしろいに似ているそうです。円錐状にたくさんの花をつけるので、揚羽蝶がとまったら、重さで少し傾いだりしなったりするのでしょう。とまると言うよりも、まさにぶら下がっている様子が目にうかびます。蝶は蜜を吸い、花は受粉してもらう・・自然の営みの一部ですが、作者は愛しいような思いで見ていたのではないでしょうか。 (あひる)
  • アゲハ蝶は当然、蜜を吸いに来ています。花魁草は花がたくさんついて頭が重そうな花ですから、アゲハ蝶のような大型の蝶が取りつくとますます頭を下げてしまいそうです。アゲハ蝶はぶら下がったまま蜜を吸っているのでしょう。 (素秀)
  • 揚羽蝶とおいらん草が夏の季語。おいらん草の花言葉は「合意」「一致」「同意」「協調」だそうである。おいらん草にぶら下がって翅を休めている揚羽蝶、揚羽蝶をぶら下げさせているおいらん草、揚羽蝶とおいらん草の仲の良さが感じられる。 (せいじ)
  • 素十は季重なりが多いですね。ぶら下がっている揚羽蝶が主季語だと思います。蝶は少し揺れているかもしれない。きれいな映像が目に浮かびます。 (豊実)

松蝉や二つ三つづゝ鳴き揃ふ Feedback

高野素十  

(まつせみやふたつみつづゝなきそうろふ)

もともと生息数の少ない蝉で開発や松枯れが進み近隣の里山では聞くことも減りました。いまひとつ状況がつかめずネット検索していると「松蝉や二つ三つづとりついて 素十」の句を見つけました。原句かもしれません。

松蝉は黒くて小さく翅は透明なので松の幹に取り付いているのは見つけにくい…と思うのですが、「とりついて」と詠んでいるので、松林を散策しながら素十さんは目ざとく見つけていたのかも知れない。ここに二つ、おやあっちには三つ…と。しばらく林中に佇んでいると黙していた彼らが連鎖反応のように鳴き始めたのである。

春蝉が最初に鳴き始める(初蝉)ころは、空耳だったかな?と思うくらいで長鳴きはしない。むべ解にあるように、初めはぎこちなく不調和に鳴きだしたのが、やがてセションするように調和しだした。これが「鳴き揃う」という感興になったのかなと思う。 私も YouTubeで鳴き声を聞いてみたが流石に声だけでは二つ三つとは断定しにくく、やっぱり素十さんには見えていたのかなと思いました。

合評

ある寺の障子ほそめに花御堂 Feedback

高野素十  

(あるてらのしやうじほそめにはなみどう)

句意は明解で、細めに明けられた障子窓の隙間から堂内の花御堂の様子がちらっと見えたよ…ということです。「障子ほそめに」のあとの「開けて」が省略されていることに全く違和を感じないですね。多分目的があって開けられているのでしょう。その意図はうつぎ解のとおり内、外両方考えられますが、誕生仏にも境内の花明りが届くようにとの心遣いだとするほうがほのぼの感があります。でも作者はそのおかげで花御堂に気づいて一句授かったわけですから、これも一期一会ですね。ほそい隙間越しに甘茶かけをしている人々の動きも見えてきます。

みなさんが指摘しておられるようにこの作品の肝は、なんと言っても「ある寺」という趣のある措辞でしょう。寺の名前はすぐに分かったと思うが、固有名詞にせず「ある寺」の措辞を配したことで偶然通りがかったお寺であるという演出と、鄙びた古寺の雰囲気を醸しています。「ある寺」に落ちついた推敲の過程を知りたいものです。

合評
  • 今日は4月8日の灌仏会だが作者は意図せずにたまたま行き合った寺でそれを知ったようです。本堂の障子が花御堂の巾程開けられている。花御堂を飾ってますよと来た人にわかるようにか、誕生仏に外を見せるためかお寺の心遣いを「ほそめ」に込められたように思う (うつぎ)
  • ある寺・・というのは、素敵な言い方です。名もない寺だったかも知れませんが・・。ネットで見ると花御堂は私が思ったよりも小さいもので、屋内に置かれているのが多く見られました。もしかしたらこの句の花御堂は本堂の中に置かれていたのかも知れません。4月上旬は障子を閉めておきたいくらい寒い日もありますが、閉めると花御堂が見えません。仏像に甘茶をかけに来る人のために、細めに開けておいたのではないでしょうか? (あひる)
  • 障子と花御堂が季重なりですが、花御堂が主でしょうね。障子が少し開いていて、外から花御堂が見えてたのでしょう。ある寺なので、通りがかりかもしれません。 (豊実)
  • ある寺と敢えて書いているのは作者の良く知らない、あるいはたまたま行き会った寺という事でしょうか。少し開いていた障子から花御堂が見えたので、あぁそういえばそんな時期なのだなあとの感慨かと。 (素秀)
  • 花御堂が主たる季語で春の句である。「ある寺」という表現が面白い。「ある寺」とは「とある寺」の意、たまたま行きあったお寺、あっ、こんなところにお寺がある、というようなはじめてお参りするお寺なのではないかと思った。花御堂はお寺の本堂の中に飾ってあるのではないだろうか。風が強いからか、花冷えだからか、それが普通なのか、理由は定かではないが、本堂の障子は細めに(少しだけ)開けてあった。勝手な想像だが、このお寺はいま花吹雪の中にあるような気がした。 (せいじ)
  • 季語「花御堂」は灌仏会のためにしつらえた小さな御堂だそうです。(本物を見たことがないのですが)四阿のような形で、春の花々で屋根が葺かれ、屋根の下には誕生仏が安置されているとのこと。お釈迦様の誕生を祝う晴れがましい気持ち、春の訪れに対する喜ばしい気持ちがこの一語から推測できます。「ある寺」はどこのお寺なのだろう?と興味を惹かれました。作者は本堂かどこか別の建物内にいて、少し障子の開いた窓から外にある花御堂が見えるのでしょうか。作者が今いる場所は暗いけれども、外の花御堂はとても明るく春の雰囲気が漂っている、そんなコントラストも感じました。 (むべ)

鴨渡る明らかにまた明らかに Feedback

高野素十  

(かもわたるあきらかにまたあきらかに)

「また」の句が三句続いていたのには驚きました。「鴨渡る」は初鴨の傍題、秋になると鴨だけでなく白鳥、鷹、雁、鶴など大小さまざまの鳥が北方から渡って来ます。だとすると雁渡るでも鶴渡るでもよさそうですがなぜ鴨なのでしよう。たまたま鴨だったから…そんなことはないはずですね。鑑賞のポイントはそこにあると思いました。

白鳥や鷹、雁、鶴といった鳥たちの渡りを見るためには、特定の地へ足を運ばなくてはいけません。でも鴨なら近所の水辺でも出会えますから、私たちの暮しに最も馴染み深い渡り鳥と言えます。ネットでいろいろ勉強すると、鴨は大群をなすことはなく、4、5羽ずつ渡ってくること、山を越すときは峰すれすれに越えてくるということでした。

大群で高空を渡ってくるのではなく、数羽ずつ尾根をこえて…ということならより見つけやすいので、「明らかに」の意も納得できます。山湖へ降りる鴨が、尾根をすれすれに越しその道も一定しているので「尾越の鴨(おごしのかも)」という季語があることもはじめて知りました。こうして鴨の渡りの特徴がわかると、「明らかにまた明らかに」のリフレインによって、むべ解にあるように「大挙しての飛来ではなくゆったりと継続的に複数が飛来する様子」が一幅の絵としても具体的に見えてきます。

合評
  • 青空を飛んでくる鳥は鴨に間違いない、この群れも次の群れも。かなり高い空を飛んでいるのでしょうが、作者は鴨の渡りだと確信しているようです。 (素秀)
  • 明らかは光が明るく物がはっきりしているさまとある。明らかにを重ねているこの句は空の青さや澄んだ空気を感じさせ、初鴨の姿もはっきりと間を置きながら次々に飛んできている「おぉ来たか」の喜びを詠んだ句だと思う。 (うつぎ)
  • 「明らかにまた明らかに」という表現の理解に悩みましたが、句全体の感じから、光が満ちて、明るく物を照らしているさま・・と受け取りました。「また」は強調でもあり「明らかに」という言葉をリズミカルに繫いでいるようです。言葉の繰り返しによって鴨の羽根の動きや群れの動きを清々しく思い出させます。明るい空をへの字を描いて鴨の群れが渡っています。 (あひる)
  • 「鴨渡る」は秋の季語。一羽また一羽と北方から渡って来た鴨の姿が映像として浮かびました。「明らかにまた明らかに」という措辞によって、大挙しての飛来ではなくゆったりと継続的に複数が飛来する様子、また、雲がなく明るい光に満ちた空の色・高さがわかります。『ニルスの不思議な旅』に登場するスウェーデンの秋の空の描写を思い出しました。 (むべ)
  • 鴨渡るが秋の季語。「また」はこの上に、さらに、かつの意味にとってみた。鴨が渡ってきた、澄み切ったその空は明るいうえにさらに明るい、非常に明るいことよ。初鴨を見た作者の心も明るいのだと思う。 (せいじ)
  • 「また」なのでいくつかの鴨の群が順次到着したのだと思います。段々と鴨が増えてきて冬間近を感じています。 (豊実)

摘草の人また立ちて歩きけり Feedback

高野素十  

(つみくさのひとまたたちてあるきけり)

歳時記では三春に分類されているが、本来「摘み草」は初春、山野に出かけて食用とする野草を摘み取ることです。ヨモギ、セリ、ナズナなどで草もちを作ったっり、いわゆる春の七草として親しまれたのです。近年は開発が進んですっかり影を潜め身近な風景ではなくなりましたが、能勢あたりではまだ残っているのではと思います。揚句が詠まれた当時としては、ごく一般的な行為であったのでしょう。

バイオテクノロジーによるハウス栽培とは違って自然が相手でなので生えているところを根こそぎ摘み取ると消えてなくなってしまいます。「来年も収穫できるように少しずつ間引くようにして移動しながら摘むのだよ…」というふうなことを幼いころ田舎のおばあちゃんが教えてくれた記憶が微かに残っています。

うつぎ解にあるように「また」で何度も繰り返しの動作であることが分かります。作者は少し離れたところでその様子を見ているのですが、作者もその所作の理由を知っていて合点しながら見ているのだと思う。素十さんの作句スタイルちょっと見えてきましたね。

合評
  • むかし、よく土筆を摘みました。同じ所に固まっているわけではないので、しゃがんでは摘み立っては歩きの動作が続きます。あまりにも当たり前に思えるこの動作を、俳句に詠みあげたことに驚きます。作者が、ずーっと長い時間、遠くから眺め続けていたことが分かります。 (あひる)
  • この句も「また」の使い方が絶妙です。一場面を切り取っているだけですが踞んでは摘み摘んでは歩き場所を変えながら芹か蓬かを摘んでいることがよく伝わってきます。 (うつぎ)
  • 目当ての草を探している人です。見つかればしゃがみこんで摘み、また探すために立ち上がる。作者は座っている人よりうろうろ歩き回っている人が目に付いているようです。少し離れたところから見ているような気もします。 (素秀)
  • 摘草が春の季語。春の野や土手を目に浮かべて見る。目的とする若菜などの野の草花を探し回っている人々がいる。じっと眺めていると、摘んでいるときよりも立ち上がって歩き回っているときの方が目に付くのかもしれない。摘んでは歩き摘んでは歩きしている人々の動的な描写がうまいと思った。 (せいじ)
  • 「摘草」は三春の季語。摘んでは立ち別の場所に移動してまた摘む……いう動作を少し遠くから眺めているところを想像しました。まだ春浅く一面に生えていないからか、一か所で取り尽くさないよう気遣ってか、場所を変えているのですね。『ホトトギス季寄せ第三版』では「摘草(草摘む)」と「蓬摘む」は別季語として立てられています。ここでの草とは食用のものなのか花を活けて楽しむものなのか……なんとなく後者の気もします。春の到来と野に出る喜び、自然を守りつつ恵みにあずかる日本人の営みを感じました。 (むべ)
  • 野原で蓬、土筆などの春の草を腰を低くして摘んでいる。その内に腰が痛くなり、時々立ち上がっては腰を伸ばして歩いている。春の長閑な風景ですね。 (豊実)

また一人遠くの芦を刈りはじむ Feedback

高野素十  

(またひとりとおくのあしをかりはじむ)

素十俳句の真髄といっても過言ではいくらい素晴らしい作品…だと私は昂ぶるのですが、「ただの報告俳句ではないの?」という人もいるかも知れません。そのような雑音には委細構わず、信じる道を貫き通したのが素十さんです。季語や点景の解釈はみなさんの合評で言い尽くされている思うので、ここではうつぎ解にある「無駄の無い効果的な言葉」というのを少し分析してみましょう。

まず「また一人」の措辞によって複数の人たちが既に散らばっていることが分かります。次に「遠くの芦を」と表現することで広々と展けた芦原の景が見えてきます。そして最後に「刈りはじむ」として、遠くの一人に焦点を絞っているのです。動画でいうと、まず広角アングルで葦原の全体とそこでいま作業中の人々の様子を捉えます。やがて画面は一変し、望遠レンズでいま刈り始めたばかりの遠くの一人をスーとズームアップして捉えたのです。

こうして素十俳句を学んでくると、いづれもぱっと見てぱっと詠むという作風ではなくて、両足を踏んまえてじっくりと一と処に佇ち時間をかけて響いてくる感興を捉えるというスタイルですね。できそうでいてなかなかできない作句姿勢です。

さて、合評ついでに「葦火」という関連季語についても復習しておきましょう。「葦刈」は、晩秋の水辺で蘆・葦を刈ることをいいますが、腰までのゴム長を履いていても濡れてしまいます。一日の作業を終え、その濡れた体を乾かしたり暖めるために刈った蘆の一部で焚火をします。その火が「蘆火」なのです。

うつくしき蘆火一つや暮の原 青畝

合評
    -滋賀県の近江八幡で百人もの人が芦刈の作業に出ているという様子を動画で見ました。大勢の人となるとつい「大勢で・・」と詠みたくなると思いますが、「また一人・・」と一人の人に焦点を当てています。広大な芦原で一人一人が違う動きをしていることへの気付きが新鮮でした。 (あひる)
  • 芦刈は晩秋の季語。一斉にここからと決められているのではなく一人来、二人来して遠くの方から刈り始めている人もいる。広い芦原を地域の共同作業で刈り取り守らている様子が無駄の無い効果的な言葉で現されています。共同作業の活気まで想像できます。 (うつぎ)
  • 広い芦原に大勢の人が働いているようです。次々と人が増えて遠くの芦が刈り倒されています。 (素秀)
  • 歳時記を開きますと、「芦」は三秋ですが「芦刈」は晩秋の季語。季語とはグラデーションを持ちとても細やかなものだと感じます。芦刈は晩秋から冬へ移ろう季節に湖畔や河畔で見られる風景で、広い範囲を大勢で刈る作業にまた一人加わったことがわかります。芦刈という共同作業をする喜びや、人の手が入って保全されていく自然に対する愛情を感じました。素十さんの「芦刈のそこらさまよふ一人かな」という句もあるようです。 (むべ)
  • 芦刈が秋の季語。琵琶湖畔を想像する。手分けして芦を刈っているのではないだろうか。村の共同作業かもしれない。芦は屋根を葺いたり葭簀の材料にする。あっ、また一人加わってくれたよ、の思いが感じられる。 (せいじ)
  • 刈りとった芦を売って細々と生計を立てていた人がいた。まずは、遠くの人目につきにくい芦原から刈り始めた。 (豊実)

翠黛の時雨いよいよはなやかに Feedback

高野素十  

(すいたいのしぐれいよいよはなやかに)

むべ解にあるように「翠黛」は本来みどりのまゆずみ。転じてみどりに霞む尾根の曲線をもいう。平家物語の大原御幸のくだりには、寂光院の周辺を描いて「緑羅の垣、翠黛の山、絵にかくとも筆も及び難し」とある。

季題は時雨で初冬。揚句は上空に青空が見えているのに山にさしかかった雲が雨を降らし日照雨のように陽当たりながらきらきらと注ぐさまであろう。京都北部や吉野の山々のようにスギやヒノキ、マツ類などの常緑樹が多いそれは季節を問わず緑を保っている。

この作品を秋桜子が褒めたとされる記述があるので引いてみよう。

古来時雨と云うと私の嫌いな寂びだとか侘びだとか云うものに作者も読者も結びつけたがるのであるが、此句はその俳句初まって以来の趣味を破った……穏当に云えば趣味をひろげた句であって甚だ異色のあるものと云いたい。

「寂び侘びが嫌い」と言い切るあたりが如何にも秋桜子らしい評価ですね。でも秋桜子の目には異色に映ったかもしれないが素十からすれば何のわだかまりもない素直な表現であったのだと思う。

確かに、私達の思考には常識とか理屈というフィルターが存在し、「時雨」という季語に「はなやかに」という措辞に結びつけることを阻みます。でも、素十俳句を理解するには私達も又常識の世界から脱皮する必要があるということではないでしょうか。

合評
  • 片時雨の言葉があるように此処は晴れているのに翠黛の山当たりは時雨れている。はなやかには山の時雨に差している太陽光のなせる景色だと思う。まもなくこの辺が時雨れるかもと能勢と重ね合わせて鑑賞しました。 (うつぎ)
  • 以前、生駒山系を眺めて「遠山の青く寝そべる・・」と投句したところ、「遠山の翠黛見ゆる・・」と添削して頂いたことがあり、あの時の山の色を思い浮かべました。そこへ冷たい時雨が降り始めています。山を背景にした雨は白っぽく見えることがあります。その白がいよいよ密に美しく降り注ぎはじめたのではないでしょうか? (あひる)
  • 山が霞んできてどうやら時雨が近づいているようです。緑の残っている山に華やかさをもたらしたように見えたのでしょう。 (素秀)
  • 時雨が冬の季語。石清水八幡宮の山頂からは京都の山々が遠望できるが、冬になると北山あたりが時雨れているように見えるときがある。遠い山は枯れた山でも青っぽく見えるので、それを翠黛と言ったのか、あるいは、もっと近距離の常緑の山のことなのか、いずれにしても、「はなやかに」は勢力が盛んという意味にとってみた。緑にかすむ山が、いまが時とばかりに時雨れていることよ。 (せいじ)
  • 「時雨」は冬の季語。「翠黛」がわからず調べたところ、原意は緑色の黛で引いた美しい眉、そこから緑にかすむ山、柳の葉などの意に転じたようです。ここでは雨にけぶる常緑樹に覆われた山でしょうか。時雨と聞くと物寂しい蕭条としたイメージなのですが、「いよいよはなやかに」という表現に驚きました。大きな山がやや遠景で広がり、自然現象のひとつひとつが美しく華やいで見えるようです。そこには人の手によるものはひとつもないのですが…… (むべ)
  • 緑色にかすんだ遠方の山を見ている。すぐに止むかと思った時雨が、ますます降ってきた。凡人はうっとうしい雨と感じてしまうが、そこには、はなやかと捕らえる風情がある。 (豊実)

まつすぐの道に出でけり秋の暮 Feedback

高野素十  

(まつすぐのみちにいでけりあきのくれ)

暮の秋(晩秋)と秋の暮(秋の夕方)は間違いやすいので注意しましょう。「秋の暮」は、人の世の淋しさ、あわれさをしみじみ感じさせる季語の代表格だといわれる。さすれば、「紆余曲折あったがようやく先を見通せる真っ直ぐな道へ出たよ…」という心象句にもとれるけれど文脈はあくまで写生句。嫌いな句ではないけれどこの句のどこがいいの?と問われるとはたと困ります。

芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」は、誰も行こうとしない未知なる俳諧の道を私は行くのだ…という覚悟を表明した句ですが、むべ解のように素十がこの句を踏まえて詠んだのではという推量もできなくはないですね。でも…難しい。いろいろ検索していると『究極の俳句』(高柳克弘著)のチラ見記事がヒットした。全てを詠むには有料とかで約半分だけですが転載します。

季語を疑うこと。既成の美意識や価値観を疑うこと。それでも疑いきれないものとして俳人は自分の肉体を持つ。その肉体が動き景色に触れる。人に出会う。そこで感じたことが句に結実する。

この道や行く人なしに秋の暮  芭蕉
門を出ればわれも行人秋のくれ 蕪村
まつすぐの道に出でけり秋の暮 素十

「秋の暮」の句のリレーに、芸道のみならず、つねに外界にみずからの身体をさらしつづけるための「道」を読み取る。

『究極の俳句』という捉え方は面白いですね。俳句は自分をさらけ出す文学、そこを越えられないと本物にはなれない…と紫峡師からも教えられた。うつぎ解のいう隠された作者の意思は、『究極の省略』を追求する暗闇との戦いの中でようやく進むべき道を見つけたよ…という素十のメッセージということでどうでしょうか。

合評
  • 迷路に入り込んでいたのか、険しい道だったのか、やっと真っ直ぐな道に出られたなぁ、もう暮れかかろうとしているがと安堵している句だと思うがそれだけだろうか。裏側に何か作者の意思が隠されている気がするが考え過ぎだろうか。 (うつぎ)
  • 曲がりくねった山道を長い時間、夕暮れまで歩いていた。ようやく街のまっすぐの道に辿り着きホットした。 (豊実)
  • 町中なのか郊外の野道なのか迷うところです。そろそろ薄暗くなったころ町に続く一本道に出たという事でしょうか。夕暮れの早さに秋の深まりを感じさせます。 (素秀)
  • みなさまの秀句合評を拝見していると、ああそうか・・と気付かされることが多いです。この句については、方向音痴の私はどこかの路地で道に迷った自分をイメージしてしまいました。しばらくするとやっと大通りに出ることができ、まっすぐな並木道にホッとしています。でも、もう夕方、秋風が吹き釣瓶落としの日もしずみ、大通りも薄暗くなっていくことでしょう。 (あひる)
  • 「まつすぐの道」がとても面白いと思いました。本来ならまっすぐゆえに見通しがきくのですが、季語「秋の暮」のため辺りは暗く先が見通せず、そこに秋の深まりを作者は感じているのではないでしょうか。空間の奥行きを感じる句ですね。「この道や行人なしに秋の暮」という句を想起させ、まっすぐだけれども人通りが少ないのかな、と思いました。 (むべ)
  • 秋の野山を徘徊して真直ぐな道に出たら、目の前に釣瓶落としの日が沈むところであった。秋の暮の美しさに疲れも吹っ飛んだことであろう。 (せいじ)

菊の香の夜の扉に合掌す Feedback

高野素十  

(きくのかのよるのとぼそにがつしやうす)

検索すると前書き情報があったみたいでごめんなさい。「菊の香の夜の扉に合掌す」「菊の香やともしびもるゝ観世音」等と共に『重陽 観音菊供養』と前書きして浅草寺の菊供養をテーマとした連作五句を『ホトトギス』に発表しているとのこと。でも前書情報がなくてもみなさんが的確に合評してくださっていて脱帽です。

仏前に菊を供え、代りに加持を済ませた菊をもらって帰る信者で賑わう寺。「材料を抹殺するだけ抹殺し、抹殺しきれない力強い光った材料をただ一つ残すと言うが如き句作法」と虚子が絶賛しています。多分この頃から秋桜子との関係が怪しくなり始めたのでしょう。

句意としては、「今日は浅草の観音重陽の節句、観音堂では菊供養が催されている。夜におまいりしたらもう扉が閉ざされていたが、あたりには菊のよい香りがただよっている。その扉に向かって合掌したよ。」ということでしょう。

合評
  • 沢山の菊が供えられているのでしょう。扉は閉まっているが外まで菊の香りがする。夜の方が香は強く感じるようだ。閉ざされた扉に向かって深く合掌している作者がいます。合掌だからお寺でしょう。 (うつぎ)
  • 夜の闇の中から思いがけずかぐわしい菊の香が漂って来て、その感動を詠んだのだと思いました。合掌すとあるので、扉はお寺かもしれませんが、民家の門扉かもしれませんし、夜の闇を夜の扉と表現したかもしれません。菊の香に出合った作者が思わず喜びと感謝の念に満たされて合掌したのではないでしょうか。 (あひる)
  • 夜のお寺かお堂は閉じられいるが、お供えの菊の香りがしたので扉に向かって合掌した。おもわず頭を下げてしまう菊の強い香りを感じさせます。 (素秀)
  • 夜の静けさの中に菊の香りが漂ってくる句。秋の季語「菊」から始まり、「の」が三つ使われた句切れのない型がとても効果的で、「合掌す」という下五まで一気に読ませます。祖母の住んでいた浅草では、浅草寺で毎年秋に菊供養会が行われていました。夜まで行われていたか微妙ですが……合掌とあるので、仏教の施設での写生なのかな、と想像しました。 (むべ) (むべ)
  • 菊の香が秋の季語。扉を「とぼそ」と読むことをはじめて知った。夜の帳が下りると菊の香がより強く感じられる。夜の闇のおかげで菊の香をより深く味わうことができた。夜の帳を夜の扉と表現し、夜の扉に感謝の合掌をしたということではないだろうか。合掌という言葉があるので、この句も芭蕉の「菊の香や奈良には古き仏達」を踏まえているとすれば、この合掌は芭蕉に対するものであるのかもしれない。 (せいじ)
  • 夜にお寺の前を通りかかると菊の香りが寺の中から漂ってきた。扉は閉まっているので参拝はできないが、ありがたく扉の外から合掌した。 (豊実)

草の戸を立ち出づるより道をしへ Feedback

高野素十  

(くさのとをたちいづるよりみちをしへ)

草の戸というのは、草ぶきの庵(草木や竹などを材料としてつくった質素な小屋)の戸という意味です。うつぎ解にある芭蕉の句「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」--旅立ちを前に引き払った庵には、すでにほかの家族が住み、ひな人形が飾られ華やいでいる--があまりに有名なので俳諧的な韻を醸します。草庵の戸を開けるやいなやご主人様の出かけるのを待っていた下僕のように現れた斑猫が、道行きを先導しては振り返ったのでしょう。頼んだわけでもないのに健気に道案内してくれる斑猫に親しみを込めた作者の心が伝わってきます。

斑猫をまだ見たことがない人は、ぜひこの夏探してみてほしい。斑猫との出会いを体験すると道をしへの句ががぜん楽しくなります。俳諧の道も教えてくれるのです。初学時代の青年みのるがはじめて斑猫と出会って詠んだ句を紹介しておきましょう。

道をしへ俳句の虫を導きぬ みのる

合評
  • 草の戸とくればまず奥の細道の冒頭句です。自分の家を謙遜して草の戸というだろうか。どこかの草庵を訪ねている時ふと現れた道おしえに道祖神に招かれた芭蕉の旅を重ね合わせた句に思える。 (うつぎ)
  • 草の戸は自分の家を粗末だと表現したのでしょう。街中の家ではなく草深い田舎の家が似合います。戸を開けて外へ出ると、待ち構えていたかのように道をしへがいて、「こっちですよ!」と道案内を始めます。「駅まで行きたいんだけど・・、分かってる??」と可笑しく思いながらついて行きます。小さな生き物に対する作者の愛情を感じました。 (あひる)
  • 旅の途中、立ち寄った草の戸を出ると、ハンミョウが飛び出してきた。しばらく、ハンミョウの後を追いかけるように、長閑な田舎道を歩いている。 (豊実)
  • 草の戸は自分の家を謙遜して粗末な家だと言っているのでしょう。外出しようとしたら道おしえに出会った。お前は行く先を知っているのか、知っているなら案内せよと言っているようです。 (素秀)
  • 道をしへが夏の季語。草の戸は、どこかの草庵だろうか、それとも、自分の住まいだろうか。そこを出たら道をしへがいて自分を先導するかのようであったよ。道をしへを見て、芭蕉の「草の戸も住み替はる代ぞひなの家」(奥の細道への旅の最初の句)を連想したのかもしれない。 (せいじ)
  • 「道をしへ」は夏の季語でハンミョウのこと。2cmくらいの赤、青、緑に輝く美しい甲虫だそうで、数 m飛んですぐに着地し、ときどき後ろを振り返る特徴から道をしへと呼ばれるとありました。立ち出づるよりの「より」は接続助詞の「…やいなや」「…するとすぐに」という即時の意味にとりました。夏に、緑豊かな閑静・質素な暮らし向きの家を出たとたん、美しいハンミョウに出会ったよ、という一期一会を喜ぶ句だと思いました。 (むべ)

塵とりに凌霄の花と塵すこし Feedback

高野素十  

(ちりとりにのうぜんのはなとちりすこし)

最初は、掃き終わって庭隅におかれてある塵取りを連想しました。何の花でもよければ季語が動くので凌霄でなければいけない理由はと思い巡らして、凌霄の花は錆びてから散るのではなく無垢なままぽとりぽとりと落ちるので掃いてすぐゴミ箱直行というのはちょっと可愛そうだという心理なのかなと…。

合評のうつぎ解、せいじ解を読んで、いままさに掃かれている塵取りの写生と見ることもできることに気づきましたが、塵取りを手にしている庭主の姿も見えてくるのがちょっと邪魔な気もします。いづれにしても「塵少し」の措辞が頻繁に花屑を掃いているということに繋がるのでこれも凌霄の季感を応援しています。

普通なら見逃してしまいそうな点景を一句に切り取る素十さんの観察力がすごいですね。凌霄は「のうぜん」と4音でよむと字余りになるので「のぉぜ ん」と3音の感じに発生します。字余りの句を字余りを感じさせずに朗詠するのは被講子のテクニックになります。

合評
  • 塵取り、塵少しの措辞が掃き立ての凌霄花の量感や花の色を際立たせています。掃くという語は使われてないのに一連の動作や情景を想像させる句です。 (うつぎ)
  • 夏の青空を背景に、明るく鮮やかに咲く凌霄花、散るときもぽたりぽたりと花の形のままに落ちます。履き込まれたちりとりの中でも、凌霄花は他の塵を圧倒するオーラを放っています。 (あひる)
  • 凌霄の花は少し大きいので塵取りに掬うと花でいっぱいになるのでしょう。花の盛りも終わり掛けているようです。 (素秀)
  • 晩夏の季語「凌霄の花」は比較的花期が長い品種という印象があります。咲いている凌霄花ではなく、散った凌霄花を詠むセンスがすごいと思いました。落花の美しさが、すこしの塵と対比されているのではないでしょうか。 (むべ)
  • 凌霄の花が夏の季語。散り敷いた凌霄の花屑の掃除をしている。塵とりという道具を使ってはいるが、凌霄の花は決して塵ではないんだよという気持ちがよく出ている。「塵すこし」がうまい。たくさんの花屑を優しくすくい取っている様子がうかがわれる。 (せいじ)
  • 庭に散った凌霄花を塵とりに掃き集めた。鮮やかなオレンジ色の凌霄花がコロコロとしている。塵すこしという措辞で凌霄花がたくさんあることが対比的に伝わる。 (豊実)

方丈の大庇より春の蝶 Feedback

高野素十  

(はうぢやうのおおひさしよりはるのてふ)

竜安寺と前書きがある。素十の代表作の一なのでネットでも多くの鑑賞文がヒットするが、無季無彩色な石庭が静としての脇役を果たすのでいづれの鑑賞も大同小異だ。意見が別れるのは「蝶」は春の季語なのになぜあえて「春の蝶」なのか…という見解である。

素秀解は「春」の季感の強調と捉え、うつぎ解、せいじ解は春が来た喜びと捉えた。また、むべ解、あひる解、豊実解は復活の命だとしている。いづれも的確で私も同意見だが、陰から陽に転じた蝶に春光の眩しさをも感じる。集約すれば春の到来を告げ知らせる福音の使いとしての「春の蝶」であり「初蝶来」に近い季感かと思う。

おおらかな素十さんの性格から考えるとあれこれ小難しく考えて推敲したのではなく単に体現止めにしただけ…という気がしないでもないが、様々な連想が広がるのは、素十俳句の省略の力だと思う。

合評
  • 大きい庇と小さい春の蝶、石庭と蝶の色を対比させています。嬉しい驚きも持たれたのでしょう。また敢えて春の蝶と詠んで春がきた喜びを伝えています。動かない季語だと思います。 (うつぎ)
  • 竜安寺と前書きがあるとのことなので、竜安寺の石庭を頭に浮かべてみる。座している方丈は大庇のせいで薄暗いが、外の石庭はまぶしいほどに春の日差しが溢れて明るい。そこに突然、大庇の陰から蝶が現れた。この蝶は揚羽のような派手な大型の蝶ではない。白か黄色の小さな蝶、まさに春の蝶であり、春の到来を駄目押しするかのようである。「春の蝶」とはなかなか言えないが、そこがこの句のポイントであろう。 (せいじ)
  • 龍安寺は京都にある禅寺で、方丈庭園が有名とのこと。縁側に座って石庭を眺めていた作者の視界に、縁側の屋根にあたる大きな庇から、ひらりと蝶が入ってきました。枯山水にはいのちがないように感じられるのに、その静寂の中に突如現れたいのちの輝き。「春の蝶」という季語がきいています。 (むべ)
  • 竜安寺は石庭が有名です。蝶は大庇から石庭に降りて来るようです。わざわざ春の蝶と言うのも春を強調したいためかと思われます。 (素秀)
  • 小さなものに向ける、作者の慈しみを感じます。しんとして寒々とした大庇の陰から、ひらひらと懸命に羽を動かし飛び出してきた春の蝶。大庇に比べてあまりの小ささ、でも、その命の力強さに感動します。 (あひる)
  • 冬も終わりお寺で春の蝶に出会った。方丈の大庇の方からひらひらと飛んできた蝶に静かな魂の動きを感じた。 (豊実)

水馬流るる黄楊の花を追ふ Feedback

高野素十  

(みずすましながるるつげのはなをおふ)

水馬(みずすまし、すいば、あめんぼう)はあめんぼうのことで、梅鉢紋を描いてくるくる回るミズスマシは「水澄し、鼓虫(まいまい)」と詠まれる。よみがなの表記が不親切であったかも知れずごめんなさい。

この作品の鑑賞ポイントは何ゆえに黄楊なのかという点になるかと思う。それを推察しないと何の花屑でもよいことになる。黄楊は山地に自生するが園芸種としては目隠しの生垣として使われることが多いと思う。と考えてみると生垣の外にある門川(かどがわ)の風景ではないかと想像するのである。津和野の町に流れる水路のようなものをイメージするとわかりやすいかも知れない。

流れのある場所では遡る方向に進むことが多く、F1カーがレースしているかのように走るあめんぼうの泳ぎは見ていても楽しい。うつぎ解にあるようにあめんぼは肉食昆虫、揚句は生垣からこぼれ落ちて流れてゆく花屑を追いかけているので獲物かもと一瞬翻って馳せ寄った動作ではないかというふうに連想すれば映像として見えてくる。

黄楊は、晩春に淡黄色の細かな花が群がって咲く。むべ解にあるように季語としての水馬は夏であるが揚句の場合は晩春から初夏にかけての季感として捉えたい。

合評
  • 言葉の調べが美しい句です。水馬、「あめんぼう」でなく「みずすまし」。印象ががらりと変わります。みずすましの黒い甲虫が黄楊の花を餌の虫だと思って追いかけているのでしょうか?「水馬」の動詞は「追ふ」ですが、「流るる」を「水馬」のあとに置くことで「黄楊の花」も「水馬」も水に流されているかのようにも捉えることができます。黒と黄色と清らかな水の動きと色の対比が素晴らしいですね。 (更紗)
  • 最近はあまり見掛けなくなりましたが、みずすましの様にと言われるぐらいクルクル泳ぐ虫です。たまたま流れてきた黄楊の花に纏わりつく様子が追っているように見えています。 (素秀)
  • 水馬は水面に散った黄楊の花と一緒に流れに身を任せているようです。。「まるで黄楊の花を追っているかに見えるじゃないか」と作者。黄楊の花は小さい粒々で餌のように見えるが水馬は肉食です。作者はそれも知っていての句だと思う。水馬はあめんぼのこととして鑑賞しました。 (うつぎ)
  • みずすましは水面に落ちた小さな虫を食べて生活しているそうです。黄楊の花を虫と間違えて追いかけたのでしょう。「ちょっとちょっと、それは虫じゃないよ!」と教えてやりたくなるような気がします。小さな生き物に対する愛おしみを感じます。 (あひる)
  • 季節は黄楊の花が咲く4月ごろだろうか。水馬は「あめんぼう」ではなく「みずすまし」、甲虫である。水面に落ちた黄楊の花に、まだ動きの鈍い甲虫が纏わりつくようにして小流れを流れて行く。黒と黄のコントラストが美しい。いつもながら、作者の優しいまなざしが小さな生き物に注がれている。 (せいじ)
  • 「水馬」は三夏、「黄楊の花」は晩春の季語なので、4月〜5月くらいの写生かなぁと思いました。黄楊の淡い黄色の花がほろほろと水面に落ち流れていくのを、水馬がスーッと音もなく追いかけていく。春から夏への移ろいが美しく描かれていると感じました。 (むべ)
  • 黄楊の花が水に落ちて流れた瞬間に、水馬がそれを追いかけた。水馬は黄楊の花を獲物と間違えたのかもしれない。 (豊実)

蟻地獄松風を聞くばかりなり Feedback

高野素十  

(ありじごくまつかぜをきくばかりなり)

下五は「ばかりかな」ではなく「ばかりなり」です。私の大チョンボでした。ごめんなさい。句集も訂正しておきました。

蟻地獄は夏の季語で、蟻などの小さな昆虫を捕らまえて食べることからこの名がついた。薄羽蜉蝣の幼虫であるが幼虫期間が数年に及ぶという。地上を這わせると後退りするので、別名「あとずさり」とも言う。蟻地獄は直接雨の当たらない堂縁の下など乾いた土に巣穴を彫るので揚句のそれは松の樹下ではなく堂縁の下にあって境内の松風の音が間遠に聞こえているという意になろう。

夏と言うよりはむしろ秋風が吹き始めるころ、ときおり通う強い風に煽られて巣穴のほとりの砂がほろほろと滑り落ちてくる。蟻地獄に音の聞き分けができるは思えないので松風を聞いているのは作者であるが、あたかも蟻地獄が聞いているという雰囲気に詠まれているところが面白い。通りすがる獲物も少なくなり無聊そうだなと心を通わせているのである。推量の「かな」にせず、「なり」と断定しているところが素十らしいと私は思う。

合評
  • 蟻地獄は神社や寺の乾いた土の縁下とか古民家でもよく見かける。でも不思議と擂鉢状の地獄に嵌ってもがいている蟻の刹那を目にしたことがない。蟻が這っていても避けて通っている。修羅場だが何も起こらなければ只々静寂、松風の音があるばかりだ。 (うつぎ)
  • したたかに、獲物を待っている蟻地獄。周りは松に吹く風の音しかなく静かである。作者も蟻地獄のすり鉢をじっと見つめている。 (豊実)
  • 子どもの頃、蟻地獄の穴をよく見ていた記憶があります。蟻地獄という虫そのものは砂に隠れているのか、見えませんでした。砂粒は音を発することもなくずるずると蟻を引き込み、蟻は叫ぶこともなく必死にもがいていました。幼かった私はただぼーっと見ていたのですが、蟻にとっては生きるか死ぬかの瀬戸際だったのです。静かな小さな何とも言いようのない世界です。ふと気付けば松風の音がしていたのでしょう。言葉にできない気持ちを、松風に託して表現したのだと思いました。 (あひる)
  • 蟻地獄と言う恐ろしい名前を付けられていますが、成虫は優雅な姿のウスバカゲロウです。卵を産むだけに生きる消化器官もない成虫もなかなか不気味です。砂の穴に潜って松風を聞きながら獲物を待つ。蟻の身になるとこれは静かなる恐怖です。 (素秀)
  • 蟻地獄が夏の季語。海に近いお寺を想像した。涼を求めてお寺のお堂の縁側に座る。ふと下を見ると、縁の下にたくさんの蟻地獄があった。蟻がかかるのかどうか、飽かずにじっと眺める。人っ子一人来ない。ただ防風林の松風だけが聞こえる。 (せいじ)
  • 本物の蟻地獄を見たことがないのですが、すり鉢状の穴をつくり、その穴の奥に潜んで、落ちて這い上がれない虫を獲るとのこと。作者は今目の前に蟻地獄を見ているのか、穴の奥に潜んでいるだろうと穴だけを見ているのか……聞こえるのはただ松の梢を渡る風の音だけ、静かな時間が流れているように感じました。 (むべ)

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