2021年度の秀句合評は、故南上加代子句集の作品を鑑賞しようと思います。加代子さんは、みのるが「俳句結社ひいらぎ」に在籍していた頃から、広島の波出石品女さんとともに、何かと背後にあって支え励ましてくださった恩人です。

座右に金文字で刻印された「南上加代子句集」があります。加代子さんの親友である波出石品女さんの句集と共に私の宝物です。

画像は、句集の見返しに直筆で書いてくださった加代子さんの代表句。句集のサブタイトルも「流扇」です。著名な作家の句集は、書籍として出版されていますが、加代子さんらの句集は、ごく親しい仲間にしか頒布されていない限定本だからです。

私が「ひいらぎ」に入会したのは昭和60年、加代子さんや品女さんの句集は、既に他の人の手に行き渡り、お二人の手元には残っていなかったのですが、みのるさんの為にという思いで、ご家族とかに渡っていたのを無理やり調達してくださったのです。

加代子作品は、身辺句が中心でとてもわかりやすいので、女性メンバーの多い の教材として最適だと考えました。合評を始めるにあたり、加代子さんの人となりについて参加者の皆さんに伝えたいと願い、このページを作成しました。

加代子さんとの思い出

敬愛する南上加代子さんは、2016年4月8日に逝去(享年95歳)されました。

南上加代子さんとのお交わりは、かけだしの結社時代にはじまり、その後の私の俳句人生に大きく関わりのある大切な存在でした。最愛のご主人(北人さん)が亡くなられてからのお付き合いになるのですが、冷やし半分で入門した俳句にどっぷりと足を突っ込むようになったのも、加代子さんとのご縁があったからです。

加代子さんは、ご自身がお世話されていたミモザ句会に私を誘ってくださり、毎月のように西宮界隈を吟行しました。一緒に吟行をしながら即吟の得意な加代子んから多くの事を吸収できたのは本当に幸いでした。

お正月には、ごく親しい俳句仲間をご自宅に招いて下さいました。手作りのお節をいただいたあと、歌留多や双六で遊び、300円以内というプレゼント交換をして楽しく賑やかに過ごすのが恒例行事でした。宴の最後には、その日に出会った題材をもとにして即吟句会をするのですが、錚々たる先輩たちに混じって、新米の私はタジタジでした。でも、この新年会で授かった作品が懐かしく残っています。

双六の出世街道まつしぐら
初便り一筆箋に二三行
十田久のひと筆富士や床の春

ニ句目は、プレゼントに一筆箋が当ったときの句、三句目の十田久(そだひさ)というのは、青畝先生の雅号の一で、揮毫などによく使われたそうです。青畝の「畝」という字を分解してよく眺めると??…そう、正解です。青畝師が一筆で描かれた富士山の絵の大皿が床に飾られていたのを写生しました。親しい交わりの座に誘ってくださることで、結社事務のお手伝いや大会準備などの奉仕をしていた私の労をねぎらってくださったのです。

加代子さんのお人柄について書き出せば、枚挙にいとまがありませんが、句集の序文、跋文に青畝先生、紫峡先生が的確に述べてくださっているので、後述する記事をぜひお読みください。

最後に私の好きな加代子さんの句を紹介しておきます。女性ならではの視点、感性に脱帽です。

女にはなき栄転やビール注ぐ

凍て雑巾バケツの中に立ちにけり

パジャマ着てそれから食べる苺かな

遠ころげするはするまま豌豆むく

このへんの落下畳は掃かでほし

著者略歴

加代子さんの略歴は、句集の序文、跋文にも詳しく紹介されていますので、ここでは簡単に纏めておきます。

南上加代子(なんじょうかよこ)略歴
  • 大正10年 神戸市に生まれる
  • 昭和32年 かつらぎ入門
  • 経歴 かつらぎ同人、ひいらぎ幹部同人、俳人協会会員、西宮俳句協会副会長など
  • 昭和61年8月 南上加代子句集 -流扇- 上梓
  • 平成28年4月8日 逝去

序文・阿波野青畝師

青畝先生の深い深い弟子愛がひしと伝わってきて、涙なくしては読めない文章です。

ある日、窯元を訪ねて吟行された。一枚の陶皿をえらんで、それに染筆して焼きあがった作品を私に見せてくれた加代子さんを顧みて、何と亡き夫北人おもいを忘れない女性だと感じ入ったのである。

このたび、一冊にまとめて自分の句集をだされることになった。約四半世紀間の作品が多いので、どうしても多くの数を省かねばならぬ。結局最後になると私に原潜を乞われたので、お手伝いをして四00句と限定した。

加代子さんは、書道に携わった経験をもっているので、夏書という季語をよく用いて詠まれている。だいぶ夏書の類句があるので、思いきった鉈を振るってあることを想像してもらいたい。又さきにも述べた北人さん思いの作品もかずかず散見するであろう。その中の一つを借りて、加代子さんの心中を推量してみよう。

栗供ふ北人さんと呼びかけん 昭和55年

とあった。北人さんは吟行が好きでよい仲間が多かった。勿論加代子さんは終始一緒の行動をとっていた。忘れることのできない場面に浮かんでくるのは夫の面影であり、そのときの言葉である。ついに友だちのような呼び方の「北人さん」が平気で連発するくせとなり、それが何よりも夫思いの親密を現していた。不幸にして夫と死別しても、恋情がよみがえり、栗狩に拾ってきた少しばかりのものを茹ででお供えをする。チンチンと鉦を叩いては思わず北人さん、とのどから声が飛び出してしまうという心情がよく吐露されている。

姓替ることを告げんと墓参 昭和45年

再婚の時からまだ年月は浅いのにと思うと、これからの至福を祈るほかはない。

1986年3月16日 かつらぎ庵にて 阿波野 青畝

跋文・小路紫峡

加代子さんは、俳誌ひいらぎ(小路紫峡主宰)の幹部同人、課題句選者として結社の運営に貢献されました。また、新人作家への気配りにも労を惜しまず、私も又、大いに励まされ支えられたうちの一人です。

安田火災海上保険株式会社の俳句会に唐津加代子という熱心な若い女性が勉強していることを知ったのは、昭和28年頃のことである。私達に名前が知らされたことは既に或程度の力量を認められていたものと思われる。

三年ほど経って或る文芸誌の俳句会の指導に出席したところ、偶然に加代子さんと会い私との俳縁が生まれた。以後かつらぎ神戸新人句会に誘い、毎週月曜日の研究会の常連として作句に専念されるようになった。

虚子先生の在世中のことであり、玉藻誌上に発表される虚子選評の中に加代子さんの作品も数句入選している。当時、二十代・三十代の女性が多数勉強しており、吟行に句会に加代子さんの顔を見ぬことは珍しく、控え目ながら大らかな人柄は誰にも愛されていた。

昭和四十九年、南上北人さんと結婚されてより加代子さんの作句意欲は一層高まり、かつらぎ当月集(青畝選)に立派な成績を残されている。この句集には人事を詠んだ作品が八十パーセント近く占めていることも、身辺即時を詠むことを得意とする家庭的な性格であることを示している。

北人さんの逝かれた後は残された学文俳句会の指導に力をそそぎ、会員のよき相談相手として尊敬されている。加代子さんの作品を通じて、一緒に勉強してきた人達も又、思い出をなつかしむことであろう。陰になり日向となってグループに協力して下さった心づかいを深く感謝し、今後のご活躍を期待したいと思う。

昭和61年5月20日 小路 紫峡

さいごに

新しい年の秀句鑑賞は、南上加代子句集から選んで一日一句をアップし、読者のみなさまと一緒に合評していきます。今年の教材「青畝俳句365日」とは違って、赤本(虎の巻)はありませんから、私もひとりの合評者としての鑑賞になります。

少し落ち着いたら、品女さんの句集と同様にPDFにまとめて電子データーで頒布できるようにしたいと考えていますのでご期待下さい。たくさんのメンバーが合評に参加してくださることを切に祈っています。おわり…

 

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