虎杖の若芽はウドに似、緑色の茎に紅色、微紅の斑点がある。茎の先の二葉の美しい紅色をマニュキュアをしたのだという。この着想には全く驚く。美爪術の漢字を当ててあるもののマニキュアのカタカナ語とさいたずまの古語のとりまぜの表現なのに違和感がないのが不思議で思わず笑ってしまう。まことに天衣無縫、自由自在ぶりである。
ふと目にした銃眼を覗いてみたのは幼子のような好奇心。いつもこうした心持ちで自然と接することが俳句では大事である。案の定景色は霞で見えなかったが覗いた瞬間目に風を感じた。牆壁で遮られてわからなかったがわずかに風が流れていて繊細な感覚の目には隙間風のように強く感じられたのである。その驚きを直感だけで理屈を言わずに詠んだ直感直叙の句である。
求めに応じて詠まれているのでいわゆる贈答句、挨拶句の類となる。「観阿弥創座地」の記念碑の建つ名張市上小波田はゆるやかな山に取り囲まれたしずかな田園地帯。能のもとという田楽、猿楽は、農民たちが田植の時に笛や太鼓で歌い踊った舞から高められた芸であることに併せ、小波田の地を思い合わせると雲雀の季語は動かないと思う。
確かにお悔やみや満中陰で薄墨をつかう習慣はあるがそれでは季語の宗易忌が生きてこない。この場合の「墨うすき」は水墨や俳画、絵手紙でよく使われる青墨かと思う。墨色がうすいということに利休の茶の心を連想されたのではないかと思う。書や俳画を能くされ茶も好まれた青畝師の古格を踏まえた作品である。
虚子は生前椿を愛し、戒名は「虚子庵高吟椿寿居士」。比叡山横川の虚子塔の辺りは弟子の植えた椿が林となっている。帯塚の辺りにも椿の木が数本植わっている。文法的には矛盾と感じるかもしれないが帯塚に佇って詠んだものと考えたい。塚の辺りに落ちている椿を見て、適当の意の「あるのがよい」と得心したのである。
春、北方へ帰る鳥がはるか雲間に消えていく情景を鳥雲に入るという。鳥が雲に入ってしまった…で一たん切れて「と」と柱に倚りながら、尚も遥か彼方を見やっている作者が出てくる。去っていくものと、とどまっているものの対比が面白く詠まれている。また帰る鳥に対する心情も伝わってくる。主客合一の句。
「糸遊」は陽炎のこと。「同行二人」は二人連れであること。西国巡礼者がいつも弘法大師と一緒にあるという意味で笠などに書きつける語である。遍路とか巡礼と言わずに笠だけをクローズアップして写生した。「笠進む」と遠ざかっていく笠に焦点を絞ることで見送る作者の眼差しや心象まで見えてくるのである。
観世音立像には両足を揃えていらっしゃるのが多いが、中には片足の親指の先を少し上げられているものや片足を数センチ前へ踏み出しておられる(遊び足という)のもある。いづれにしても扉が空いた瞬間に厨子から外へ出ようとなさっている感じだと直感したのである。動かれる筈のない仏様が「仏様の方から私の方へと近寄ろうとして下さる」クリスチャンである作者にはそのような信仰心理が潜在的に育まれているのかもと思う。
知恩院での作とある。大法話の「大」は特別の法話なのか、高僧の法話の意味か、或いは大寺の雰囲気を表現するための大かと思われるが大法話と始まるゆったりした調子によって大らかな句柄になっている。俳句は瞬間を捉えるほど力強くなると紫峡師から教わった。瞬間写生とするための「いま」だと私は考える。「なほつづきゐる」とした場合との違いは歴然と思う。季語が彼岸なので彼岸法要であることは言うまでもない。
この作品は『自選自解』に収められていて「水をやって土が沈んだとき、真直に立てた苗札が脚が短かったのか自然に傾いて倒れた。わざと倒したのではなく全く自然に倒れれている。また私は挿し直すが、けだるい春の日が私にささやいた一つの動きだったように眺めた」とある。「苗札が」の「が」が「の」でない点に作者の意図があると思うが難しい。「ありて」の止めは次なる句へ橋渡しする連句の手法であるが余情を醸すのに効果的だと思う。
淀城は鳥羽・伏見の戦いで消失したため現在は石垣と濠の一部を残すのみ。単に古い城跡に対して新しく生いそめた水草の取り合わせを詠んだとするのではなく、淀君のあわれを連想する作者の思いが込められていると鑑賞したい。叙情的なことばで直喩せず「雨の打つ」という写生にその思いが託されている。
註に「小林・聖心女子学院」とあり、お孫さんの小学校卒業の時の作品だそうです。講堂で卒業証書を受けたあと聖堂へ移動してミサが捧げられる。正面に高々と磔像が掲げてあり聖歌を賛美するのである。「磔像のイエスに…」ではなく「痩身のデウスに…」という具体的な写生によって非凡な作品になっている点を学びたい。
青畝師は好んで「天が下」をよく使われた。『太平記』の「天ケ下には隠れ家もなし」の用例のように、本来は、国土、天下、日本全国等の意であるが、大いなるもの(万物を生かされる神の存在)という捉え方もあると思う。眼前の些少な芽立ちを詠んだだけなのに、「天が下」の一語を据えたことで句に広がりが生まれ天地躍動、復活の春を迎える喜びに溢れている。
だるま草は座禅草のこと。ミズバショウに似ているが仏焔苞は紫黒色で形が達磨の座禅の様子に似るところからこの名がある。だるま草のすがれて幌(仏焔苞)の無くなったのを河童に掏られたという随分飛躍した着想であるが、だるま草の生える水場の感じがわかれば、なるほどと頷かされる。初心者には薦められない作法であるが虚を詠んでも虚と思わせないのが青畝俳句の真骨頂である。
田に降りてついばむ鴉に向かって石礫を投げるという子供達の行為は、「古事記」に歌われた闘争性を遺伝的に受けつでいるのかもと思った。そんな久米の子らの礫でさえ利口な鴉はからかうようにしてあしらっている。春の鴉は繁殖期なので活動的、温かくなって子供達もまた賑やかに野に遊んでいるのである。
西行は諸国行脚の末、河内の弘川寺の空寂上人を慕ってそこに住み「願はくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」の願い通りに73歳で入寂した。芭蕉が西行の跡を慕ったように青畝師もまた西行の遺跡を多く訪ねておられる。西行忌にあたって「いくたび同じような春の思い出を重ねてきたことであろうか」と感慨された作品。
この句の春の裏には、花、
桜が存在する。
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