2016年8月
目次
(うつむけしぼうえんきょうにねむるやま)
展望台に設置されている台座付きの大きな望遠鏡であろう。通常はレンズの先端の太い部分は重いので俯いていて遠くを見るときにレンズの筒先をもち上げて使用するタイプのものが多い。望遠したあとふと手元が緩んでレンズが下を向いた瞬間に大きく冬山の襞のあたりが見えたのである。「山眠る」という用法ではなくて「眠る山」とすることで、ズームアップされたような効果を得ている点に着目したい。
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遠くを見るためにある望遠鏡ですが、なぜか近くの景色もズームアップして見たくなる時があります。そこに枯れ木に覆われた冬山が実景として目に飛び込んできた様子が伝わってきます。「眠る山」が「山眠る」の副題の季語だということを初めて知りました。(さつき)
(おこるほたくろきけむりをはきにけり)
掘り起こした木の根や樹木の切れはしを榾という。榾は冬の季語として扱われるが、榾火、もしくは炉辺の榾とわかるように詠むのが基本である。特に木の根の榾は、火つきは悪いが火持ちが良いので炉にくべるのに適している。揚句の榾は、中心部が湿っていたのだろうか炎を揺るがせならも突然黒い煙をあげる。プスプス煙を吐く様子を見て不機嫌な榾が怒っている…という感興を得たのである。
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日頃から焚き火を経験している身としては、なぜ「黒い」煙なのか腑に落ちない。確かに節があったり太かったりの木切れにようやく火がつこうとする時は、もくもくと「白い」煙が噴煙のように盛り上がる。その勢いが最高潮に達してぽっと火がつくのだが・・・。黒い煙とは、何か別の燃えにくいものを一緒にくべたのだろうか。(まゆ)
(しゅをたたえくひのじょまくのさむからず)
主を讃えたる句碑…ではないので、教会の敷地内に建立された句碑の除幕式で賛美歌が歌われていると解するのが妥当と思う。紫峡師の故郷宇部にあるプレテスタントの教会での句碑除幕に出席したことがあり、おそらくその時に詠まれたものだろう。寒風の吹く野外での式は寒かったが、賛美歌を歌いながら当該教会との縁を得て句碑の建てられた幸いを感謝していると寒さも忘れるのである。
(ひちりきのごときはずれやあしかるる)
篳篥(ひちりき)は、雅楽や神楽などで使う管楽器のひとつ。枯れ蘆が風に吹かれて騒ぐ葉ずれの音なら、「さわさわ、ざわざわ」という感じだと思うのでちょっと連想しにくい句である。葉ずれの音というより、ひゅうひゅうと鳴る川風の音なら納得できなくもない。ひちりきにも色んな種類があるのかもしれないが…
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篳篥の音色のどこが蘆の葉ずれに似ているのか改めて調べてみると・・・何と篳篥の吹き口(リード)は蘆で出来ていると判りました!蘆舌といい、琵琶湖や淀川周辺の鵜殿が有名。江戸時代から昭和20年頃まで宮内庁に献上されていたとのこと。それを知って詠んだ句と思われるので、音色が似ているかどうかはもはや問題ではなく、蘆の葉ずれから篳篥が偲ばれたのでしょう。(まゆ)
(いねがてのことばをかわしちどりきく)
「寝ねがてに」の措辞は、寝られずに。寝にくくて。などの意で、短歌や俳句でよく使われる。旅宿の寝床に入ったけれど、なかなか寝付けないので何やかやとおしゃべりしているうちに夜も更けてきた。「明日の予定もあるからそろそろ寝ましょう」…とことばを交わして目をつぶったのである。静まり返った寝耳に磯千鳥のなく声が間遠に聞こえている。
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旅について一切触れずして満ち足りた一日だった心境が伝わってきます。海辺の宿に泊まったならどんなところを旅して廻られたのか想像がふくらみます。千鳥の声を聞きつついつしか眠りにつく旅のロマンが感じられます。(さつき)
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旅の枕は直ぐには寝付きにくい。暫くは喋っていたがやがて夜も更け耳を澄ませば千鳥の鳴き声がする。「淡路島通う千鳥の・・・須磨の関守」と詠まれた古歌に思いを馳せながら眠りに落ちていったに違いない。(うつぎ)
(ちどりきくおとこをさそうおんなかな)
千鳥は候鳥で春秋二季で見かけるが、古来、詩歌に詠まれてきた千鳥は、その鳴き声を哀れとして冬のものものとされた。一人称の句とも三人称の句ともとれるが、磯際に戯れてなく千鳥の声を少し離れて聞いている男女を写生した。男は、千鳥の鳴き声に詩心をあそばせてじっと聞き入っているのだが、女の方はすぐに飽きて、「早く行きましょう」と男の腕を引っ張っている。そんな感じだと思うが、この男女の関係をいろいろ連想すると一編の小説にもなりうる。
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仲の良い男女でも、趣味となると全く違うことも多い。一緒に浜辺を散歩していて男性は千鳥の鳴き声にしばらく耳を澄ませていたいが、女性は先を急ごうとする。しぶしぶ女性に従ったのか、「ちょっと待って」と女性を制したのか、想像がふくらみました。(さつき)
(ひをはねてなみにまぎるるちどりかな)
波打ち際の浜に遊ぶ千鳥の群れを写生した。打ち返しては白砂に畳む白波は、日をはねて綺羅綺羅と輝いている。波がよせ来るたびに千鳥たちも翔びはねるので波と同じように日をはねて紛らわしく見えるのである。近景ではなく、潮が遠く引いた遠景の渚風景と見た。
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冬のよく晴れた日に遠くから海を見下ろし波にまぎれて遊ぶ千鳥に気付いたのでしょう。人影のない汀で無邪気に波にたわむれる千鳥。若さへの静かな憧れや幼い日への郷愁を感じます。(まゆ)
(はなにおしつけるせんべいこばむしか)
奈良公園では、鹿たちに与える餌として鹿せんべいが観光客に売られている。飽食になった鹿がせんべいに飽きて拒んでいるとも解せるが、せんべいを持つ指も一緒に、ぱくりと食べられるのが怖いので、口ではなく鹿の鼻面に押し付けている幼子か女性の所作のようにも思える。迷惑そうに拒む鹿の顔も想像できて滑稽である。
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人懐っこい目をした奈良の鹿、煎餅を持っていると貰えるまでついてくる。一寸からかってやろうと口ではなく鼻に押し当てた。嫌々をする鹿。鹿と人とのユーモラスな関わりが見えて楽しい句である。こんな光景も見逃さない作者の目に感心します。(うつぎ)
(もえあがるほのおりゅうとうおしすすむ)
流灯は、盂蘭盆 の 16 日の夜、灯火をともした灯籠を川などに浮かべて死者の霊を送る行事。犇めきながらながれていく流灯は、互いにぶつかったり、風や波に煽られて火が倒れ炎を上げて燃え出すものもある。その中の一燈が勢い良く燃えあがり、その炎が次々と燃え広がりながら風の威をえて推進力を増し一気に押し進んでいく様子であろう。死者の霊が名残を惜しんで燃え上がっているようにも思えたのである。
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享保の大飢饉」で亡くなられた人々を供養する地蔵祭で、博多川に流される灯籠流しを今年初めて見に行きました。小さな灯籠は一気に炎が立ち、燃え尽きてしまいますが、台座は流れていきました。燃える方が供養になるのだそうです。客観写生の中にこめられた作者の深い思いが伝わってきます。(さつき)
(かまかなやゆうひとどまるみきのあい)
山深い杉美林の奈落道を歩いている感じがします。手入のよい植林は適度に間伐され木立を縫うように夕日が差し込んでいる。やがてその日矢は失せてしまったが木立の幹に名残の夕日が仄かに映えているのである。落つる秋日を急かせるように夕かなかなの輪唱が山にこだましている。
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お気に入りだった霊峰英彦山の杉林の登山道を思い起こしました。人気のない静かな夕暮れに悲しげなひぐらしの声が谺する様子が具体的に思い浮かびます。「夕日に染まる」といった表現でなく、「夕日とどまる」という措辞が非凡だと思いました。(さつき)
(へいせんをへたるはしらかありじごく)
戦国時代を生き延びた古刹の堂を連想する。蟻地獄を観察しようと縁の下を覗き込んだとき巨大な礎石と柱とが見えたのであろう。季語を説明すると月並み且つ類想句に陥りやすい。蟻地獄のことは何も説明しないで、戦禍の傷痕の残る柱を写生することで新鮮な作品になっているのである。
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秀吉の根来寺攻めの火縄銃の弾痕を思い出した。激しい戦禍の跡をよそに平然と構えている蟻地獄、取り合わせの妙とはこのような句をいうのでしょうか。(うつぎ)
明日思ひわずらふなかれビール干す Feedback
(あすおもいわずらうなかれビールほす)
『あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その一日だけで十分である』新訳聖書「マタイによる福音書」より
作者はクリスチャンなので、この聖書のことばを踏まえて詠まれた作品かと思う。日々の生活の中で、さまざまな戦いがあるのは人生の常、明日に希望をつないで頑張ろうとビールを飲み干しながらプラス思考にリセットしているのである。事業のトラブルかもしれない、あるいは結社運営の問題かもしれない、いろいろと連想は広がる。サラリーマンの仲間が高架下のおでん屋で互いに慰め励まし合っているシーンとも思える。
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自分自身への戒めの心情を詠んだのだろうと思う。先のことはその時になってみないとわからない、なのに人間だけはついつい不安の先取りをしてしまう。小心で打たれ弱い性格ならなおのこと。たかが生きているうちの、他人から見たら小さな煩い事。どーんと構えていようじゃないか! (まゆ)
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一日ベストを尽くして仕事を終えた後に飲むビールの味は格別です。明日は明日で難題は山積みだけれども、今日は乗り切ったぞという爽やかな充足感が感じられます。(さつき)
(ふんけいのごときほのおのつばきかな)
焚刑とは、火あぶりの刑の意。日差しに照らされた椿や落椿を炎に見立てる作品は多く、やや新鮮味にかけるようにも思うが、焚刑という措辞が効いている。わたしなら、「焚刑の炎のごとき椿かな」と詠んだかもしれず、その違いについて鑑賞してみて欲しい。落椿ではなく椿なので咲き満ちて春光に輝いている一木の椿を写生したものである。
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生花として用の済んだ椿を火にくべているのではないでしょうか。真冬の花のない時期には、挿し花には向かないとわかっていながら、部屋に彩りが欲しくて椿を飾ることもある。すぐに色が傷むので差し替えるのだが、それを焚火の中にくべたら・・・まさに焚刑のごとき。(まゆ)
(とぎれたるしばにとどまるほのおみゆ)
一見季語がない? と思うかもしれないが、野焼く、芝焼くという早春の季語を踏まえた句である。ゴルフ場の芝は焼かないが、庭園の芝は、野焼きと同じ目的で焼かれる。放たれた火は駈けるように広がっていく。火の放たれた手前の方は既に火が消えているのであるが、芝の端っこまで到達した火が「行き止まり」の感じで見えているのである。芝焼きシーンの最終章だけを写生することで焦点を絞り、それに至るまでの経緯は作者の連想に委ねているのである。
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炎見ゆで夜の若草山の山焼きと思ったのですが、とぎれたると言われているのでもう少し規模の小さな野焼きかもしれません。芝が途切れた地点の炎がより明るく強く見え炎に意志があるかのように感じます。(ひかり)
(くしのはのごとくにのびしひがたかな)
紫峡氏の作品の中には、「櫛の歯のごとく」という比喩の句が何句かある。一読具体的に連想できそうでいてむずかしい作品である。風紋ではなく波紋とでもいふべきか、波を打ち返しつつ潮が引いていくので干潟に櫛の歯のような紋様が広がっているのであろう。夕日に染まっていたりするととても幻想的である。干潟は、一年中で一番干満の差が大きい春の季語とされる。
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遠いところから一望して詠んだのでしょう。春の夕日が落ちる汀。干潟には人の姿もなく、行く春のもの哀しさをも感じる句です。(まゆ)
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櫛の歯のごとくの比喩がよくわからなくてネットで画像を探して納得しました。まったくその通りです。たぶん高台から見た干潟の景色ですね。残り潮の部分が日に耀いているという対比が素晴らしいと感じました。(ひかり)
(ながしびなあたまをたかくすすみけり)
流し雛は、形代のように作られたものを寝かせた状態のものが多いが、この雛は舟渡御のような形に作られたものではないかと思う。波に揺られながらも倒れることなく威儀を保って沖へと遠ざかってゆく姿に尊厳を感じたのであろう。
(ながしびなへいけのごとくなみのまに)
栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱「壇ノ浦の戦い」を念頭に置いて詠まれたのであろう。その情景は絵図などにも残されているので鑑賞者にも具体的にイメージが湧く。この流し雛は、海に直接流されたのかもしくは河口から海に流れ出て波に揉まれながら沖へ漂っていく様子を見ての写生だと思う。比喩俳句はピタッと決まると佳句になるが、観念的な感興で喩えたそれは月並みに陥りやすい。幼子の発見のような純真な感性に習いたいものだ。
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二位の尼は波の下にめでたい都があると言って、安徳天皇と共に海の水屑となり海底の都に行かれましたが、この流し雛も無事平家の公達や女官の住む海底の都に行きついたことでしょうね。(豆狸)
(いろたまごそめるゴッホのきをときぬ)
季語は染卵。イースターのときに復活の象徴として着色した卵を食べるという習慣がある。茹でた卵の殻を染めるわけで、そんな色に染まった卵でも殻を向けばみな真っ白である。この風習の由来は諸説あって定かではないがキリスト教の文化の一として捉えれば良い。教会学校では子どもたちが思い思いの絵をその殻に描いて、それを長老たちにプレゼントしたりもする。
染卵ちらと画才の見られけり 紫峡
溶かれた絵の具の極彩の黄色からゴッホを思い浮かべたところがユニークである。
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イースターエッグといえば思春期の頃読んだスヌーピーの漫画を思い出します。ライナスやルーシー、ペパミント・パティが一生懸命卵に絵をかいているそばで、スヌーピーが籠に入れた卵をあちこちに隠してる。そして、イースターのうさちゃん。仏教徒の花まつりのようなものかなと思ったものでした。子供たちが色々な絵をかいているのを見つめる長老のやさしいまなざしも感じられました。(豆狸)
(ほんどみゆとてつえあぐるへんろかな)
山中にある遍路寺境内の見晴らしのきく高見どころから、うっすらと本州の山並みが見えた。感動的なその風景に思わず金剛杖をかざして歓声があがったのである。
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この句の詠まれた時代はまだ橋のかかっていない時代、船で四国に渡り八十八か所を歩いて巡礼するのが主でした。たぶん無事に巡礼を終え帰る船のデッキで本土が見えた時に安堵と達成感に思わず杖を振られたのでしょう。(ひかり)
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四国遍路でしょう。杖上ぐるの措辞から男性であること、晴れていること、幾つか巡って来たが眺望のきく札所は初めてだと感動している様子、何所其処あたりだと会話も聞こえそうです。具体的に詠むことの大切さを学びました。(うつぎ)
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古き佳き時代のお遍路の感じがとてもよく表わされていますね。今の時代は、立派な白装束に身を包んだ人が、新幹線から降りてきたりします。杖には同行二人と記されていますが、新幹線から降りてくるとやはり違和感を覚えてしまいます。本土が見える!と叫ぶ感慨は、残念ながらもう失われてしまいました。(まゆ)
(くひじょまくふっかつさいもとおからず)
俳句鑑賞において状況を断定してしまうのはよくないが、揚句の場合は、青畝先生の句碑除幕ではないかと思う。季語は復活祭、イエス・キリストが十字架上の死後三日目に復活したことを記念する祝日でイースターともいう。春分後の最初の満月の後の第一日曜日がそれにあたる。
紫峡先生も青畝先生もクリスチャンで、教会敷地に建立された句碑もいくつか存在する。カトリック玉造教会には、「天の虹仰ぎて右近ここにあり」(昭和63年)があり、高槻カトリック教会には、「磔像の全身春の光あり」(昭和54年)がある。タイミング的に後者の除幕式を詠まれたものと思う。クリスチャンにとって復活祭は年に一度のけじめとして、信仰の「初心に返る」というようなそんな思いがある。
(フレームのくうきのあぶらくさきかな)
冬の季語として使われるフレームというのは温室のことである。温室は年中存在するのだけれど、暖房をする冬季の季感として扱われている。魚介類も養殖が盛んとなり、また野菜なども温室栽培やバイオテクノロジーによって年中いつでも供給される時代となり季感の薄れていくのは哀しいが、自然環境の中で最も美味とされる、いわゆる旬が季語として継承されているのである。
住居や建物の暖房エネルギーは、電気や都市ガスが主流であるが、ローコストが要求される温室暖房には、いまも石油温風機が使われる。機器が経年劣化してくると不完全燃焼になった排気ガスが洩れたりすることもある。揚句のフレームは小規模で古びた施設なのであろう。
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私の故郷淡路島ではカーネーション、菊、トマト、蕗などこの句の詠まれた時代から温室栽培が盛んで入った途端にムッと来る匂いはよく経験した。灯油であったり、ビニールハウスではそれ自体が石油製品なので空気が温められると独特の匂いが有る。揚句はこの美味しい物がこの綺麗なものがこうして作られているという驚きが裏にあるようだ。 (うつぎ)
(やなくずれたんばさんけいすでにゆき)
丹波の山並みが見える簗場だとすると由良川ではないかと思う。主季語は崩れ梁、晩秋の景である。賑やかだった簗場も、すっかり崩れ果てていて季節の移ろいを思わせる。山国の秋は短くすぐに厳しい冬がやってくる。山頂の稜線に目をやると薄っすらと初冠雪しているのである。雪(冬)と崩れ簗(晩秋)と季語が二つ使われているが、季感としては、冬隣である。
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