バブル崩壊後、死語同然になってしまった感がある季題であるだけに懐かしい。ほかのことは一切言わず、腕に巻かれた腕章に焦点を絞ることで、かえって連想が広がっていくから不思議である。愛想よく接客しながらも内に秘めた闘志が窺える。景気が回復し再び実感のある季題として復活して欲しいと願う。
谿を流れる春水が瀬石に堰かれて白く激っている。ふと観察すると瀬石の上になにやら花屑が乗っている。あたりにそれらしい主は見当たらないのでもしやと切り立つ崖を仰ぐと岩頭の巨木が谿にせり出すように枝を張りだしている。そしてその枝から見事な懸かり藤が垂れているのを見て全てを納得した。単なる懸かり藤ではなく「天つ藤」と形容したことで高さが感じられ具体的に連想が広がるのである。
春秋の彼岸の頃は干満の差が大きく波の動きも印象的。揚句はゆったりとした上げ潮の感じがある。空瓶に命があり波に抗って首を振っているようだと擬人的に見たのが作者の小主観である。異国語のラベルが貼られている空瓶ならなお感興が深くなる。
梢の春禽たちが競って囀っている。思い思いに求愛の歌を唄っているのだけれど、不思議に調和してリズムを為している。しばらくその余韻にひたっていたが突然鴉がきてぶちこわしてしまった。憎々しく思う気持ちではなく、「もう少し調和の取れた啼き方が出来ないものか」と鴉の無粋さを哀れんでいる気分なのである。
笊に入った産みたて卵の上に蠅叩きが置いてあるという。当然ながら卵に止まった蝿を撃つわけではない。蝿を撃った蠅叩きはとても新鮮とは言えないので、作者はその対比に感興を得た。具体的な状況としてはいろいろ連想がひろがるが、「産みたて」という札をつけて売られている何でも屋の店先のような気がする。
舗装されていない農道であろう。田畔から少し道路へはみ出して可憐な春草が花を挙げている。そして道に残った轍がそれを避けるように曲がっているのに気づいた。踏むまいと避けた運転手のやさしい心意気とそのことに気づいた作者の心とが通いあって一句となった。ふつうの乗用車ではなくて農耕用の耕耘機の雰囲気である。
なぞえに咲くつばきであろうか。日差しに映えて赤く燃えている。と見る間に突然落ちてころころと坂を転がり隠れるように木陰にとどまった。当然ながら日陰の落椿には日面に咲いていたときのような輝きは失せてない。明暗の対比がうまく詠まれている。
弊衣破帽(へいいはぼう)の意味を調べると、ぼろぼろの衣服と破れた帽子。特に、旧制高等学校の生徒の間に流行した蛮カラな服装とある。種を採るために畑に残されて坊主とは言いがたいほどザンバラ頭になった葱坊主である。なにげない『これこそは』の措辞が小さい驚きを感じさせ、数ある葱坊主の中で何とこの一本は・・という情景が具体化に見えてきます。
長崎県有明海に面した日本最大の干潟「諫早湾」はムツゴロウの国内最大の生息地。ムツゴロウの喧嘩はとてもユーモラス。泥をはね飛ばしながら喧嘩しているムツゴロウの様子ををみて、仇討ちで有名な蘇我兄弟(五郎、十郎)を連想した青畝師の感覚がいかにも柔軟である。「泥試合」の措辞が憎いですね。
神事の神官がお祓いのために降神の儀式をするときの声で、「オ〜〜〜」と言う唸り声に似た発声です。屋外での安全祈願祭のような雰囲気があり、紅白の四方幕の上は筒抜けによく晴れた青天井なのです。『長閑』という季語は基本的に屋外の感興ですので、そんなふうに連想がひろがります。神官の発声にのみ長閑さを覚えたのではなく、まず好天の中での神事の進捗にのどけさを覚え、降神の声によってその余韻に心を遊ばせているのです。
端渓は「中国四大名硯」の一つで、良い端渓硯は、「赤子の肌のように」しっとりとして滑らかで、まるで吸い付くようだと言われます。作者は頼まれていた揮毫を済ませてホッとひと息お茶で喉を潤しながら、ゆったりとした気分を味わっているのである。『遅日』には長閑なゆったりした気分と共に美しい一日が終わるという満足感が伴うので、何とかうまく書き終えたという満足感に通じる感興もある。
教会学校の子供達がイースターエッグにそれぞれ好きな絵を描いている。最近はマジックペンで書くことが多いが特に約束事があるわけではないので、大抵はそれぞれ好きな漫画のキャラクターや、両親の顔など思い思いに自由に絵を描く。もっと幼い子は落書きの同然のアブストラクトである。そんな子供達の様子を一人ひとり声をかけながら見て回る先生のやさしいまなざしなのである。
夙川の花堤から甲山を望む見慣れた景である。うっかりすると落花している高枝の下に甲山が見えていると解しやすいが、それでは景が窮屈になるし平凡。そうではなくて、落花の一片が川風に煽られて高く舞い上がり遠く見えている甲山の高さを超えた瞬間の感興、「高舞へる落花に低し甲山」のほうが分かりやすくていいように思うが、揚句は一片に拘った。それだけ印象鮮明だったのである。甲山は 1200 万年前に噴火したとされている。標高は 309mと低いが、六甲連山よりはかなり手前にあるためくっきりと独立して見える。
平凡な一句と思うかも知れないが、「春眠といふ」の言い回しが巧みである。単に語調を整えるためだけではなく必死に睡魔と戦ったけれどもとうとう負けてしまった・・・という経緯が見えるからである。「春眠の誘惑に負けにけり」というだけでは、そのストーリーが見えにくい。春は仕事や遊びで疲れやすい。家事が待っているのに花疲れで・・・というケースかも知れない。
砂を吐かせるために塩水に浸してある浅蜊である。厨仕事の途中ちょっと小休止と浅蜊を覗くとすっかり箍を緩めて機嫌良く長い舌を出している。酒蒸しでいただけそうな大ぶりの浅蜊かも知れない。『安心しきって』の措辞は心を遊ばせることで感動が生まれ授かったもので、決して頭で考えて浮かぶことばではない。
句仲間と吟行中に誰かが口笛で真似たか、あるいは「うぐいす笛」というのもあるのでそれを吹いたのかも知れません。一行の和やかな雰囲気を感じます。品女さんが、青畝師選の「かつらぎ四季選集」に初入選された作品で、技巧も狙いも何も見えない素直さに惹かれる。彼女の作品はこうした生活身辺の句が多く、GH の女流にも大いに参考になると思うので、できるだけたくさん紹介しようと思う。
潅仏会に甘茶を用いるのは釈尊誕生のさい、八大竜王が歓喜して甘露の雨を降らせお釈迦様を湯浴みさせたとの故事によるもの。明治の頃までは各寺で参詣の人々に甘茶を盛んにふるまった。『腹へこむ』の措辞を単なる滑稽と解してはいけない。このことばによって昔ながらのまあるい容で、且つ大容量の薬缶であることを連想させる。この薬缶は、何かとこの寺の諸事に使い回しされるのでボコボコに凹んで古びているのである。
父兄席の後列にくぐもるように小さく口をうごかしている母親の姿がある。生徒たちが唄うのにあわせて卒業歌を口ずさんでいるのである。華やかに着装った前列のお母さんたちとは違ってシックないでたち、明らかに年代が違うようだ。詳しい事情は、推し量るべくもないが、目立たないようにと気遣っている控えめな母親の姿が印象的に映ったのである。連想を広げていくと一編の小説になりそうな作品。教職出身のたかしさんらしい視点である。
バーカウンターの隅で独り飲みながら指に煙草を挟んで物思いにふけっている女性の姿が見えてくる。まだ吸い始めたばかりなので時々はむせて咳こむ。健康によくないということは分かっているけれど吸っている間は少しは憂さが紛れる。実際は他人を写生されたのかも知れないが一人称に詠まれているのが巧みである。
島崎藤村作詞・大中寅二作曲「椰子の実」の歌詞を踏まえた句である。"名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ. 故郷の岸を離れて. 汝はそも波に幾月" という歌詞。「椰子の実と一緒になって進む日もあるだろう」と解釈するだけでは浅く、故郷の岸を離れて汝はそも波に幾月・・・「椰子の実」の歌にある椰子の実と同じように君たちもまた波にさすらいながら流離の旅をするんだろうな・・という感慨なのである。
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