2021年7月

目次

ショベルカーうづめられゐる深雪かな Feedback

南上加代子  

(ショベルカーうづめられゐるみゆきかな)

工事用のショベルカーと見ることもできるが、除雪用のそれと見るのが自然かも知れない。雪国での旅吟であろう。姿が見えなくなるほどすっぽりと埋まっているのではなくて、ショベルの部分や運転台辺りは見えているのであろう。的確な写生から雪の深さを具体的に連想することができる。

合評
  • 時には除雪に使われるショベルカーかも知れません。一晩の雪で埋まってしまったショベルカーに雪の多さが伺えます。 (素秀)
  • 深く積もった雪で大きなショベルカーまでもが埋められていることよ。経験したことはないが、豪雪地帯の冬はこんなにも厳しいものなのだろう。 (せいじ)

射手としてゆらぐ烏帽子や弓始 Feedback

南上加代子  

(いてとしてゆらぐえぼしやゆみはじめ)

烏帽子とあるので、新春の弓始神事でしょう。弓を引いて狙いを定めるときの緊張感で烏帽子が揺らいでいるとみるか、矢を放ったときの反動でそうなったのかの二た通りの解釈があるが、それを断定する必要はない。烏帽子の揺らぐ様子から神事を見ている作者の緊張感も感じられる。

合評
  • 弓を放つ瞬間の描写でしょうか。弓の弦が烏帽子を掠めたのかもしれません。 (素秀)
  • 射手が烏帽子をかぶっているから、新春の弓始神事の情景であろう。矢を放った反動で烏帽子が揺らいだ、その一瞬の動きを見事に捉えている。 (せいじ)
  • 精神集中して弓を引く時、烏帽子がかすかに揺れる。神事で弓を引く時の緊張感が伝わってきます。 (豊実)

双六の上りまぎはにうろうろす Feedback

南上加代子  

(すごろくのあがりまぎはにうろうろす)

数が合わないと逆戻りするというルールもあるが、上りの寸前に逆戻りさせるような落とし穴があったりもする。そのたびに大笑いが生まれる。愉しいお正月の団らん風景の様子が具体的に目に浮かぶ。

合評
  • 数が合わないとゴールできないか、余っても良しかの 2 つのルールがあったように思います。賽の目にゆだねて運まかせ、思うようにいかない事を上手く詠んでいるなと思います。 (素秀)
  • 正月に子どもたちが双六をして遊んでいる。あと数コマで上がるところまで来たのになかなか上がれない。思うようにならないのは人生双六と同じだよ。 (せいじ)
  • 双六で、上がりの時は丁度の目がでないと上がれないルールがありました。オーバーの数だけ逆戻りしなければならない歯がゆさを思い出しました。 (豊実)

初髪の海女乗込んでバス発ちぬ Feedback

南上加代子  

(はつがみのあまのろこんでバスたちぬ)

伊勢神宮への初詣バスに海女たちの一団が乗りこんできたのである。素秀解の通り、日焼けした顔や賑やかな会話の様子から海女らしいと直感した。普段はあまりおしゃれをしない海女たちも今日は髪形を整えて嬉しそうな会話をしている。「海女ら」と複数形にはなっていないので一人だけかも知れないが、雰囲気としては、賑やかに乗込んできた様子のほうが似合うかと思う。

合評
  • 海女さんも髪を結って初詣でしょうか。海女さんと判ったのは焼けた肌のせいでしょうか。集団のようなので会話から判断したのかも知れません。 (素秀)
  • 初髪は新年の季語。伊勢神宮だろうか、初詣のバスに日本髪を結った海女さんたちが乗り込んできた。正月の非日常的な風景がうまく切り取られていると思った。 (せいじ)
  • 今日から昭和54年の作品です。

煙れるは箸の先なり栗を焼く Feedback

南上加代子  

(けむれるははしのさきなりくりをやく)

焼きぐりと云うと大きな鉄鍋をかき回しながらの屋台店を連想するが、揚句のそれは七輪での網焼きの様子だと思う。まんべんなく火を通すためになんども裏返すのだが、箸先が焦げて煙りだしたのである。秋刀魚や焼き茄子の場合でも同じような情景を体験する。程よく焼き進んで殻が割れ始めそろそろ食べごろな栗の美味しそうな姿も見えてくる。おやつ時で子どもたちも一緒に七輪を囲んで焼き上がるのを待っているような情景も想像できる。

合評
  • 芋は焼いても栗焼きはしたことがありません。ひっくり返したりしているうちに箸の方が焼けてしまうのは良くある事かと思います。 (素秀)
  • 栗拾いをしたあと、野外で栗を焼いて食べている。煙が出てきたので焼けたかなと思って見たら箸の方だった。箸が木製か竹製だったのだろう。子どもたちの喚声が聞こえてくる。 (せいじ)
  • 栗拾いでもしたのでしょう。まだかなまだかなとみんなで栗を焼いているうちに箸の先が焦げてしまった。楽しい会話が聞こえてきそうです。 (豊実)

小屋の昆布がんじがらみに積まれけり Feedback

南上加代子  

(こやのこぶがんじがらみにつまれけり)

昆布漁は、水揚げしたその日のうちに天日乾燥させるので天気予報と相談しながら実施するらしい。その意味では、水揚げ後の一時保管のための小屋ではないような気もする。天日乾燥した大量の昆布を昆布小屋へ運び込んで丁寧に切り揃え、小屋の中の保管テントでさらに乾燥させた後、色つや、重量、幅などの基準に沿って一本一本選別して製品となるらしい。昆布漁の最盛期天日干しを終えて次の作業がはじまるまでのものが堆く積まれている様子であろう。手漕ぎ舟で漁していた昔は、日帰りで港へは帰れないので漁場近くの浜に昆布番屋と呼ばれる小屋を建てて生活したという。

合評
  • 収穫して小屋に積み上げられた昆布は絡まってしまっているようです。これからそれを解いて浜に干すのでしょうか。 (素秀)
  • 季語は「昆布刈」であろう。刈り取られた昆布が、浜辺の小屋に、幾重にも巻きつけられ絡みつくようにして積まれている。昆布を干す前にこうしておくのだろうか。うだるような夏の暑さを感じさせる情景であるが、その中にも、ほっとさせるような潮の匂いと風を感じる。「がんじがらみ」という言葉の選択がうまいと思った。 (せいじ)
  • 「がんじがらみ」がこの句のポイントですね。漁師が大量の昆布を小屋に運び込み、無造作にそこに積み上げていく作業の様子を思い浮かべました。 (豊実)

瀬戸物の出店つづきの西日かな Feedback

南上加代子  

(せともののでみせつづきのにしびかな)

野外にテントを張って催される夏の陶器市の写生かと思う。陶器市は広いグラウンドなどで開催されるものもあるが、揚句の場合は、窯場に近い避暑地の自然林などで催されているイベントの感じがする。自然の木立が囲む中に出店のテントが賑わい、そのテントに傾いた夏の日が木々の長い影を落としているのである。

合評
  • 夜が本番かもわかりません。西日が沈みかける頃人出も増すのでしょう。日暮れを待つ心情もありそうです。 (素秀
  • 露店が並ぶの瀬戸物市で、瀬戸物が西日に強く照らされ、一日が終わろうとしている。暑い中がんばったけど、あまり売れなかった感じがします。 (豊実)
  • 夏の陶器市だろうか、夏祭の神社の参道だろうか、瀬戸物の出店が並んでいて、そこに西日がまともに差し込んでいる。西日の堪えがたい暑さの中で瀬戸物のひんやりとした感触を思う。 (せいじ)

粧ひし山の白樺縞もやう Feedback

南上加代子  

(よそほひしやまのしらかばしまもやう)

季語は「山粧ふ」なので、遠景でながめている秋の山である。また、白樺が密集した山なので信州か北海道の風景かと思う。成長した白樺の木立は真直ぐに伸びて幹の中央部から頂部にかけて枝葉がつくので足元の白白とした木立が遠景に縞模様のように見えるのである。素直な写生術によってオレンジ系の独特の紅葉と白い幹とのコントラストをも連想させている。

合評
  • 紅葉の山に白樺の木が縞模様のように浮き立って美しいのでしょう。 (豊実)
  • 紅葉の山に白樺の白が縦縞模様になり良く映えている。少し遠景で山を見ているのかなと思います。 (素秀)
  • 信州あたりの秋の山の景色が見えてくる。錦繍の山から白樺林へ、白樺林の白い幹から幹の黒い横縞へとズームインする手法がうまいと思った。 (せいじ)

開拓の一軒家とて冬構 Feedback

南上加代子  

(かいたくのいつけんやとてふゆがまへ)

開拓の一軒家として遺構になっているのではなく、いまなお生活が営まれていることに感動したのである。季語の「冬構」は、皆さんの合評のとおり北国であることがわかる。まさに「ぽつんと一軒家」の感がある。

合評
  • 「開拓の一軒家」とはそれ程裕福ではない家かなと思いました。それでも、雪よけの設備を作らなければならない雪国の厳しさを感じます。 (豊実)
  • 北海道だろうか。広大な開拓地にぽつんと一軒家がある。厳しい冬を迎えるにあたって、孤立しても大丈夫なように、きちんと防寒、防雪対策を施していることよ。 (せいじ)
  • 一軒家の方がなおさら冬の準備が必要なように思えます。さえぎるものがありません。誰に見られる訳でもないのに見栄え良く冬構えをしていたのかも判りません。 (素秀)

とびとびに浮葉の光る良夜かな Feedback

南上加代子  

(とびとびにうきはのひかるりようやかな)

浮葉の面に月光が反射して光っているということは、風も波もなく真平に澄んだ秋の池の様子が見えてくる。季語の良夜は秋も深まっているので、浮葉も池面を埋め尽くすほどではなく「とびとびに」なのである。疎らとなった浮葉に焦点を絞ることで逆に広々とした池全体に良夜の月光がさしわたっていることも連想できる。

合評
  • 浮葉に月の光が反射してきらきらと光る。月夜の明るさと水の昏さの対比も美しくあります。 (素秀)
  • 季重なりだが「良夜」がメインの季語であると思う。蓮池の上に出た名月に照らされて浮葉が池のあちらこちらで光っている。まるで浮葉に月が宿っているかのように。 (せいじ)
  • 葉(夏)と良夜(秋)の季重なりですが、良夜の句と取りました。まばらな蓮の浮葉が月光で浮かび上がる静かな夜ですね。 (豊実)

月出づと竜頭の舟うごきけり Feedback

南上加代子  

(つきいづとりゆうとうのふねうごきけり)

舟を浮かべて池を回遊する催しは、唐の国(現在の中国)の洞庭湖などで皇帝たちが架空の動物の首を船首に付け、水上で異世界を楽しむ、としたものです。洞庭湖を模した大沢池で嵯峨天皇が本格的に宮庭遊びとして定着させ、現在でも「華道祭」「観月の夕べ」といった催しので使われている。月の出の時間に合わせて舟が岸を離れて動き出すのである。この句を鑑賞していて、GH 発足期に協力してくださった志乃さんの名句を思い出した。

月の出に舫ひ解かれし小舟かな 志乃

合評
  • 月の出に合わせて竜頭の舟が動き出す。雅な雰囲気です。 (素秀)
  • 京都嵯峨野の大沢池で催される観月の会であろう。名月が出て龍頭鷁首の舟が動き始めたときの人々のうきうきとした素振りが目に浮かぶ。 (せいじ)

湯の花に染まりしケルン積みにけり Feedback

南上加代子  

(ゆのはなにそまりしケルンつみにけり)

ケルンは、本来はアイルランド語で石で築いた塚をいうが、登山用語では登頂記念、あるいは登降路を示すためにつくられる積み石をさす。俳句では夏山登山の派生季語として扱われている。また、湯の花と言われると当然温泉なので、この句が詠まれたのは登山もできて温泉もある場所ということになる。ネットで検索すると日本でも何箇所かは該当しそうなところはありそうだが、断定はできなかった。登山の句ではあるがどこか避暑の感じも漂う。

合評
  • 火山を登山しているのかと思ってしまいました。間欠泉のようなものがあって時折温泉が噴くのかもわかりません。 (素秀)
  • 再投稿します。落葉積むと同じように、積むは自動詞で、ケルンを積みましたよではなく、ケルンが高く積み重なっていますよと読むことはできないだろうか。そうすると、温泉が激しく噴出しているので、ケルンが湯の花に染まっていますよ、ということになると思うが。 (せいじ)
  • 夏の登山の句。硫黄華のこびりついた石をケルンに積み足した。他の人たちも同じようにしているのであろう。硫黄の匂いもしてくる。 (せいじ)
  • 温泉が湧いている山道を登っているのでしょうね。湯の花がたっぷりとついた石をケルンとして積み上げ、登山の達成感を味わっているようです。 (豊実)

ねずこ下駄揃ひて鳴らす踊かな Feedback

南上加代子  

(ねずこげたそろひてならすをどりかな)

下駄を鳴らす踊といわれると土のグラウンドなどの盆踊りではなく舗装路とか石畳ということになる。加えて「ねずこ下駄」なので、せいじ解にある郡上おどりだと私も思う。確かに打ち鳴らす下駄の音が涼し気ですね。

合評
  • 下駄と言えば桐材かと思っていました。ねずこで作った下駄は軽くて吸湿性が良いとか。木曽ねずこ踊りも初めて知りましたが、揃った下駄の音がさぞ涼し気なのでしょう。 (素秀)
  • 岐阜県の郡上踊を見に行ったのであろう。郡上踊は木曽銘木の一つである「ねずこ」で作った下駄を履き下駄を鳴らして踊ることで有名らしいが、作者も皆と同じようにねずこ下駄を鳴らして踊ったのであろう。お盆の夜、下駄の音が涼しげに聞こえる。 (せいじ)

遠泳やオイルフェンスのさへぎりて Feedback

南上加代子  

(えんえいやオイルフェンスのさへぎりて)

オイルフェンスは、石油類などが事故等によって河川、湖沼、海などの水面上に漏洩・流出した場合にその拡散を防止する目的で水域に展張する浮体のことをいうのであるが、近年では外洋から沿岸の海水浴場指定エリア内へ浮遊ゴミなどが流入しないように設けられることもある。揚句のオイルフェンスは後者のそれである。また、ある区域を超えると急激に水深が深くなったり潮流が早くなって遊泳には危険なので安全対策を兼ねて海開きの間だけ設置されるというものもある。「遠泳や」と切れ字を使っているので作者は岸にいて沖へ泳ぎだす人たちを遥かに眺めていて、オイルフェンス近くまで泳ぎ着いた人たちがその付近で立泳ぎしながら屯している様子かと思う。

句の鑑賞は、理屈で理解しようとせず一幅の絵として浮かぶように具体的な情景を連想することがポイントであり、それが可能なように工夫して詠むことが作句のポイントでもある。

合評
  • オイルフェンスが必要な海で遠泳をしている生徒たちでしょうか。一応守られてはいますが、できればフェンスなど必要ない海で泳がせてやりたいという作者の思いかと。 (素秀)
  • 泳者はオイルフェンスがあることは泳ぐ前から知っていると思うので、オイルフェンスがさえぎったのは見る人の視線かもしれません。 (豊実)
  • 遠泳をしている子どもたちを見ているのであろう。「さへぎりて」に残念な思いがにじみ出ている。「オイルフェンス」によって何かを言いたげであるが、その何かはこの句を解釈する人に委ねられている。 (せいじ)

海風に舞ふ扇風機操舵室 Feedback

南上加代子  

(うみかぜにまふせんぷうきそうだしつ)

みなさんの合評にあるように、エアコンが装備されているようなクルーザーや客船ではなくて漁船の感じです。漁場に出て停泊状態のときには扇風機を使うのであるが、揚句の場合は、窓を全開して漁場へ疾駆している様子かと思う。操舵室の扇風機は近代的なものではなくごくオーソドックなタイプなので停めてあっても風を受けると回りだすのである。勢い良く回るのではなく「舞ふ」なので、「くるりくるり」とスローモーションで動いている様子かと思う。

合評
  • 船の種類を考えてしまいます。操舵室が見える、あるいは入れる船だとするとそれほど大きい船ではなさそうです。扇風機が回っているのですが、窓も開いていて海風なのか扇風機の風なのかわからない状態のようです。 (素秀)
  • 作者は操舵室にいる。たまたま見せてもらったのであろう。エアコンではなく扇風機が使われているから、かなり古い船か小さな漁船かもしれない。理由は分からないが、扇風機を使わずに海の風を入れて涼をとっている。扇風機は作者自身でもあろう。夏の海の開放感を強く感じる。 (せいじ)
  • この扇風機は電源が入ってないと思います。扇風機が役に立たないぐらい暑い海上の操舵室で、扇風機が風車のように回っています。 (豊実)

母老いて菩薩顔なる昼寝かな Feedback

南上加代子  

(ははおいてぼさつがほなるひるねかな)

鑑賞する人がそれぞれの母親像のイメージと重なる句ですね。この句の詠まれた時代(昭和53年)の老い母といえば、戦中戦後の厳しい時代を耐え抜いて子育てをされた年代だと思う。若い頃は気丈で逞しいお母さんであったに違いない。深い苦労皺をたたえながらも安らかな仏顔で昼寝している様子に母親へのねぎらいと感謝の気持が溢れていると思う。

合評
  • 昼寝している母の穏やかな顔をみて、これまでに母から受けた愛情に感謝しているように思います。 (豊実)
  • 老いた母の昼寝顔をみてしみじみ愛おしく思っている作者の気持ちが良く判ります。この時が長く続くように祈っているようでもあります。 (素秀)
  • 慈悲に溢れた仏のような顔つきで昼寝をする老母、昔は厳しかったがなあと思いつつ、見ている作者も菩薩顔になっているに違いない。 (せいじ)

廊涼し竜虎花鳥の間がつづき Feedback

南上加代子  

(ろうすずしりゆうこくわてうのまがつづき)

せいじ解にあるように、以前 GH で吟行した二条城の二の丸御殿を連想しました。結界があって部屋内には入れないのだと思うが塵一つなく磨かれた廊下が見学順路になっていて部屋ごとに描かれた見事な襖絵を見ることができる。それぞれの部屋はその廊下に向けて全開されているので、広々とした開放感に視覚的な涼しさを覚え「廊涼し」になったのであろう。

合評
  • 廊下に続く竜虎や花鳥の襖に涼しさを感じています。大きな建物ならではの涼しさもあるようです。 (素秀)
  • 竜虎や花鳥の障壁画で飾られた広間がいくつも続く建物と言えば、京都の大寺院や二条城の二の丸御殿が思い出される。大建造物なので中に入ると夏でも涼しいが、美しい絵をながめながら鶯張りの廊下を行くと涼しさがさらに増し加わるであろう。 (せいじ)
  • 御殿の廊下を歩いて、重要文化財級の屏風や襖などを鑑賞しているのでしょう。そういう涼の取り方も素敵ですね。 (豊実)

舗装路をよろこび落花はしりけり Feedback

南上加代子  

(ほそうろをよろこびらつかはしりけり)

素秀解にあるように舗装路に散り敷いた落花が一塵の風に煽られて一斉に走り出したのである。そのさまはあたかも幼子たちが喜んで駈けだす様子のようだと感じたので、「よろこび」と擬人化して詠んだのであろう。この舗装路は道路というよりはカラー舗装された遊歩道のような感じがある。

合評
  • 散った桜の花びらが舗装路にきたとたん走るように滑っていった。舗装路で増した勢いを落花が喜んでいるようだと作者は見たわけです。風は出てきませんが一陣の風が見えるようです。 (素秀)
  • 散り落ちた桜の花びらが喜んで走るという擬人化が面白いです。 (豊実)
  • 人の気配を感じないので、人が来ないような舗装された農道のような道路を想像した。近くに桜の木が一本あって花が散り始めている。舗装路には何の障害物もなく、一陣の風に舞い上がった落花が舗装路を気持ちよさそうに駆け抜けていった、ということではないだろうか。 (せいじ)

丈余なる牙は華厳の氷柱かな Feedback

南上加代子  

(ぢやうよなるきばはけごんのつららかな)

私も写真で見るだけですが、華厳の滝の氷柱はまさに丈余なる牙そのものです。ひょっとすると昨日の雪をまとった菩薩石も同じタイミングの吟旅での連作かもと思いました。華厳の滝と同じ栃木県に大谷磨崖仏というのがあるようです。氷滝というふうに滝全体を詠まずに「華厳の氷柱」という焦点を絞った表現によって荘厳な華厳の滝の全体像を連想させているところが上手いです。

合評
  • 丈余は 3 メートル強といったところだろうか。凍結した華厳の滝の写真を見ると、中心から少し外れた中ほどのところに、それくらいの長さの牙のようなつららが何本も垂れ下がっている。これかと思った。氷瀑を一度見てみたい。 (せいじ)
  • 華厳の滝が凍って数えきれないほどの氷柱となっている。荘厳な冬の景色です。 (素秀)
  • 「丈余なる牙」とは何かと思うと、下五でそれが華厳の滝の巨大な氷柱だとわかる。迫力のある一句だと思います。 (豊実)

菩薩石雪まとはぬはなかりけり Feedback

南上加代子  

(ぼさついしゆきまとはぬはなかりけり)

菩薩石をキワードに検索すると中国四川省のものがヒットした。断定はできないが、路傍の石仏や石仏群ではなく、素秀解にあるように磨崖仏ではないかと思う。「磨崖仏群、雪」で検索すると各地の写真がヒットした。断崖状の岩肌に磨崖仏が並び彫られていて、庇のようにせり出した岩の頂部がことごとく雪を被づいている様子を連想してみた。荘厳な感じがある。

合評
  • 菩薩石は石に彫った菩薩像かと思うのですが、どの石の菩薩像も雪をかぶっていないものは無いと言い切り、雪景色を強調していいます。 (素秀)
  • 菩薩石というのは六地蔵とか二十五菩薩のような石仏群のことだろうか。すべてが雪で覆われた美しい銀世界であるが、雪には人々の暮らしを困難にする側面もある。衆生を救おうとする菩薩の慈愛に思いを馳せるとき、厳しい寒さの中、菩薩石すべてが自らの意志で雪という人々の苦悩を身にまとってくれているようにも感じられる。 (せいじ)
  • たくさんの菩薩の石像が並んでいて、全てに雪がかぶっている。奥深い寺院を思い浮かべました。 (豊実)

浮く鯉のかしらを叩く冬の雨 Feedback

南上加代子  

(うくこいのかしらをたたくふゆのあめ)

素秀解が素晴らしく感服しました。冬の鯉の習性は豊実解のとおり、また「冬の雨」の季語は動くのではと疑いそうです。でも、秀句鑑賞で取り上げている加代子さんの句は、青畝選という関所をパスしているので、なにか学ぶべきポイントがあるはずとして観察してみることが大切です。動きのない冬の鯉が浮いてくるということは、水が温みかけているということ。つまりこの句の季感は、「春隣」なのである。

合評
  • 春はまだかなと浮いてくる鯉を、いやまだまだと頭を抑えるのですから冬の雨でなければいけません。冬の寒さ厳しさも良く感じられます。 (素秀)
  • 冬の鯉は動きが鈍く餌もとらないとのことであるが、ふと水面に浮上してきたのであろう。おりしも冷たい冬の雨が静かに降っている。まるで眠たげな鯉の目を覚まさんとするかのように雨が鯉の頭をやさしく叩いていることよ。寒さの中に暖かさを感じる。この句は好きです。 (せいじ)
  • 冬の鯉は水底であまり動かないと思うのですが、たまに水面に上がってきたところ、頭を冬の雨に叩かれている。しばらくは、厳しい冬の寒さが続きそうです。 (豊実)
  • 浮く鯉と冬の雨、繋がりや詩情がどこにあるのか、他の季節の雨でも繋がらないのか凡人には分かりづらいです。餌を求めあるいは酸素不足を補うのにせっかく浮いたのに無情にも冷たい雨が打ち叩くという風情か、世知辛い人の世にも繋げているのか。 (隆松)

雪吊をねんごろにせる武家屋敷 Feedback

南上加代子  

(ゆきつりをねんごろにせるぶけやしき)

武家屋敷といわれると、せいじ解にあるようにすぐに金沢の加賀百万石の城下町を連想します。揚句の鑑賞において場所を限定することは必須ではないが、代々守り継がれてきた武家屋敷の家宝のようなみごとな松を連想します。「ねんごろ」の措辞は、親切で丁寧なさまを表す。また「せる」は、「している」の意になるので、最新の注意をはらいながら丁寧に雪吊り作業が進められている様子である。武家屋敷の措辞によっていろいろと連想が広がるところが巧みである。

合評
  • 冬支度の雪吊りを施した庭が並ぶ武家屋敷、雪吊りそのものが装飾のように思えます。 (素秀)
  • 金沢あたりを想像する。北国の昔の武家屋敷が公開されているのであろう。冬を迎え、庭木の一つ一つに雪吊が施されている。庭を含めて屋敷全体が大切に保存されていることが分かる。 (せいじ)
  • 「せる」の意味がよくわかりませんでした。 (豊実)
  • 今日から昭和53年の作品になります。

黄落のメタセコイアに画廊あり Feedback

南上加代子  

(こうらくのメタセコイアにがろうあり)

セコイア並木の先に画廊がある…という解釈もありかもしれませんね。でも、揚句の場合は、画廊の脇にシンボルツリーのような巨木のメタセコイアがあるという設定だろうと思います。二年前になりますが GH の忘年句会で枚方の五兵衛農園を吟行したときの本館入口がちょうどそんな感じでした。セコイアの黄落は公孫樹のそれとは風情が異なり、さほどカラフルではなくてどちらかというと茶色っぽく、散る様もひらひらではなくて序破急の風に促されるように時雨れのような感じでしょうか。新緑のセコイアのほうが遥かに美しいのですが、「芸術の秋」という雰囲気としては「黄落の・・・」のほうが似合うような気もします。

合評
  • 黄落のメタセコイアの並木道に画廊があったら、どんなきれいな絵が飾ってあるのかなあと入ってみたくなります。でも、やっぱりメタセコイアが美しい。 (豊実)
  • この句は難しい。あえて冒険して、黄落のメタセコイアの並木はまるで画廊のようだ、切り取った景色の一つ一つが画廊に並ぶ作品のようであることよ、と解釈することは出来ないだろうか。 (せいじ)
  • 晩秋、葉を落とすメタセコイアの巨木の下に画廊を見つけた。秋の終わりの寂しさもあるが、画廊に立ち寄り気分を変えてみようかと思ってたのかも。 (素秀)

美しき苔をいたはり紅葉掃く Feedback

南上加代子  

(うつくしきこけをいたはりもみぢはく)

美しい苔庭といえば、世界遺産にもなっている "苔寺" こと西芳寺のお庭が有名です。苔寺は観光施設ではないため、予約が必要で且つちゃんと写経してからでないとお庭を見せていただけないという。書を趣味とする加代子さんなので苔寺の句ではないかと想像する。竹箒で無神経に掃くのではなく、苔を傷つけないようにやさしく撫でるように履いている若い沙彌の姿が見えてくるようである。そんな苔寺に勝るとも劣らない見事な苔の庭が三千院にある。GH の吟行でも訪ねたが、苔むした庭園の真ん中に国宝の往生極楽院を配した風景は絶品であった。

合評
  • 上五、中七で美しき苔がパッと目に浮かびますが、下五で実は主役である紅葉の美しさがグッと浮かび上がる。技法を学びました。 (豊実)
  • 苔の青と紅葉の赤の対比が美しい句です。 (素秀)
  • 緑苔の上に紅葉が散り敷いた情景そのものも美しいが、苔が傷つかないように優しく紅葉を掃いている人の心もまた美しい。 (せいじ)

何故に頬のみ火照る夜寒かな Feedback

南上加代子  

(なにゆえにほほのみほてるよさむかな)

季語の「夜寒」は、秋が深まって夜の寒さが強く感じられることで「あはれ子の夜寒の床を引けば寄る/汀女」は余りにも有名である。顔面紅潮は更年期障害などの病的な原因もあるが、怒り、不安、興奮等で交換神経が刺激されて生じることもある。継続的な症状なら既に気づいて治療を受けるはずなので揚句の状況は何らかの神経作用で、恋慕の感情が高揚したり昼間の感動的な出会いの余韻ということではないだろうか。その原因について心当たりがないと作者は詠んでいるのであるが、ほんとうは気づいていてあえて斯く詠んだように思えてならない。

合評
  • 秋も深けて夜は冷えるようになったころの感傷でしょうか。涼しさも通り越して寒さを感じる季節になったと。 (素秀)
  • 晩秋は夜になると寒さを強く感じる。手足はじんと冷えているのになぜか頬のみ火照る。何故にと疑問を呈してはいるが、答えを求めているのではなく、頬の火照りからごく自然に季節の移り変わりをしみじみと感じているのだと思う。 (せいじ)

曝涼の大方丈を狭しとす Feedback

南上加代子  

(ばくりようのだいほうじょうをせましとす)

方丈というのは1丈(約3m)四方の部屋の意で、禅寺寺院の住持や長老の居室をさす。故に大方丈は、それよりも大きいと云う意味になるかと思う。戸や窓を全開して風を入れ、桐箱に納められていた古文書などを虫干しているのであろう。虫干しは、夏の土用のころ書籍や衣類、調度などを箱から取り出し、これに風を通して黴や虫の害を防ぎ、かつその害があるときはこれを補修することで「虫払い」ともいう。また古くは「曝涼」といっていた。「狭しとす」は、広い部屋に所狭しとばかりに打ち広げられている様子が具体的に見えてくる。

合評
  • お寺の座敷に多くの書籍が並べられている。重要文化財の書籍がありそうな気がします。 (豊実)
  • 曝涼が虫干しとは知りませんでした。一見、瀑布が思い浮かんで滝かななどと思いましたが字が違います。涼しさに曝すので虫干しですか。 (素秀)
  • 風通しの良いお寺の方丈で書画や調度品を陰干ししているのだが、ものが多すぎてさしもの大方丈も狭いほどであるなあ。「曝涼」が勉強になった。

印籠の腰をたたきし踊かな Feedback

南上加代子  

(いんろうのこしをたたきしをどりかな)

阿波おどりグッズとしての印籠は有名です。検索では女性がつけている写真もヒットしましたので男性のみとは限らないようですが、裾からげして踊る男踊り方が腰の動きも激しいので、「腰をたたきし」の実感が強いように思います。普通の盆踊りとして鑑賞することもできますが、ここはやはり「阿波おどり」の男踊りと見るほうが趣があると思います。

合評
  • これはせいじさんの解が正しいような気がします。少し激しめの盆踊りで印籠が揺れて腰を打っているようにしか読めなくなりました。 (素秀)
  • 再投稿をお許しください。素秀さんの投稿から、阿波踊りでも印籠をつけて踊ることをはじめて知りました。そこであらためて鑑賞してみたのですが、作者は、印籠が腰を叩いていると見たのではないでしょうか。見ている踊りの如何に激しいかが、印籠の動きによってうまく表現されていると思いました。 (せいじ)
  • 阿波踊りでも男踊りが腰にぶら下げています。装飾のひとつとして蜂須賀の家紋が入ったり、連によってさまざまかと思います。ひと踊りして腰を伸ばしている仕草でしょうか。 (素秀)
  • お年寄りが盆踊りに参加している。印籠をぶら下げた腰が痛いのか、その動きはゆっくりではあるが楽しそう。 (豊実)
  • あたっているかどうかわからないが、鳥取県の東郷浪人踊りを句材にしたのではないだろうか。黒装束に白足袋、腰には印籠と短刀、お盆の時期に、命を落とした戦友の供養として踊るとのこと。腰をたたくところに目を付けたところが素晴らしい。無念さを表す仕草なのだろう。 (せいじ)

質草になりし日もある秋袷 Feedback

南上加代子  

(しちくさになりしひもあるあきあわせ)

袷とは、素地と裏地を二枚合わせて仕立てられた冬用の訪問着のことで着物の中では高級品の位置づけになろうかと思います。揚句の場合は、「秋袷」となって居るので秋冷を肌に感ずるころに取り出して着る袷ということであって、着物の種類として袷と秋袷とがあるという意味ではない。お母さんの形見というような高級品であったと思うが、戦中か終戦後の貧しい時代にやむを得ず一度質草になったけれど、その後やりくりしてまた手元に戻すことができたという代物なのである。苦しかった昔を偲びながらしみじみとした感興に浸っているのである。季語としては秋袷であるが、秋思のような句意として鑑賞できる。

合評
  • 思い入れのある袷かも知れません。昔の苦労を偲んで手に取っているようです。 (素秀)
  • 「なりし」なので過去ですね。苦労した時に質に入れたこともある秋袷が手元にある。今は落ち着き秋をしみじみと感じている。 (豊実)
  • この袷を見ると、質屋通いをしていたあの頃が思い出されることよ。「秋袷」にしんみりとした趣きがある。 (せいじ)

玉石をあまごひらめく泉かな Feedback

南上加代子  

(たまいしをあまごひらめくいづみかな)

夏の渓流釣として「あまご」も季語になるかと思うが何故か例句は少なく歳時記には「山女」のみが記されている。揚句の場合は、「泉」を主季語としている。あまごは渓流魚なので、通常、池や泉には生息しない。おそらく山中で営まれている養殖の写生ではないかと想像する。大きな水槽に渓流の底石に見立てて玉石を敷き詰め、渓流から清冽な水を引いているのを泉と見立てたのではないかと思う。立地によっては渓流からの伏流水で泉を形成することもできると思うのでそうした状況なのかも知れない。あまごの魚体は美しく独特の縞模様がある。その魚体を玉石にひらめかしながら元気に泳いでいる。水の透明感も感じられる。

合評
  • 透きとおった泉に玉石が良く見える。時折アマゴが泳いできて翻る尾びれ背びれも美しいではないか。 (素秀)
  • 清らかな泉に丸い石が散らばっていて美しい。その静寂を楽しんでいると、あまごが突然飛び跳ねた。躍動するあまごが発する閃光と水の音、静かな泉に衝撃が走る。 (せいじ)
  • 底には玉石がある清流の泉。そこにアマゴがきらりと光る。心癒やされる風景ですね。 (豊実)

さへぎりしガードレールや蛍狩 Feedback

南上加代子  

(さへぎりしガードレールやほたるがり)

解りやすくて共感しやすい句ですね。道路に沿った谷川べりを歩きながら蛍狩に興じている状況である。ひとところ密に群れている場所を見つけたけれど、ガードレールを越えて闇の中を近づくのは危険なので同行した人たちがみな横並びになっりガードレールにかぶりついて眺めている様子が見えてくる。

合評
  • 蛍狩りで山道を歩いている。蛍が群生している谷が見えるがガードレールが邪魔で降りられない。ここで見るしかないかなと。 (素秀)
  • ガードレールの向こうに蛍が見え隠れしている。ガードレールがなかったらもっと良く見えるのになあ。 (豊実)
  • 道の端を流れる小川で点滅している蛍をもっと近くで見たいと思うのだがガードレールが邪魔をして下りて行くことが出来ない。能勢の蛍狩はまさにこのような情景だったことを思い出す。 (せいじ)

避暑の客皇后さまに手を振りて Feedback

南上加代子  

(ひしよのきやくこうごうさまにてをふりて)

この句が詠まれたのは昭和52年なので、昭和天皇の皇后であられた香淳皇后のことである。当時の避暑地としてはおそらく那須御用邸ではないだろうか。2016年には、御用邸倍の敷地の一部が「那須平成の森」として一般公開されている。戦前は、国民は皆お辞儀をしてお召し列車が通過するのをみおくったという。私が小学生であった戦後でさえ、遠く離れて日の丸を振るというのがせいぜいであった。やがて皇室は徐々に身近な存在として国民に親しまれるようになった。昭和天皇の表情も随分と柔和になられ、歓迎の国民に手を振られることもあったが笑みを浮かべられることはなく、ふくよかな香淳皇后の満面の笑みは、激動の昭和を共有した人々にとって何よりの慰めであったと思う。何気ない一シーンの切り取りであるが、戦前、戦中、戦後という時代の変遷を連想させる句である。

合評
  • まだ皇太子妃の頃記念植樹で来県されたときに国道に立って手を振ったのを覚えています。手を振りながら思いっきり笑顔でした。 (素秀)
  • 天皇、皇后両陛下が軽井沢に静養に来られたのかなと思いました。避暑に来て、皇后様に遭遇できた喜びを感じます。 (豊実)
  • 御用邸のある葉山か那須の地で両陛下のお出ましに出くわした避暑客が手を振って挨拶をしている情景が目に浮かぶ。「皇后さま」の人気の程がよくわかる。 (せいじ)

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