自註・阿波野青畝集によると、「芭蕉の広い葉が窓いっぱいに迫る。その葉のおもては露のながれる筋がきまっていて、その几帳面さを見つけた」とある。季節の露が従で芭蕉が主である。まだ破れることのない芭蕉葉が窓全面を占めている。
草の戸の芭蕉最も幅利かす
「草の戸」は草の庵の戸。転じて簡素なわびしい住居の意であるが、掲出句と同じ眺めの場所。その庵の主人公気取りで羽博っているさまを想像できる。枯芭蕉、破れ芭蕉、は好んで句に詠まれるが、瑞々しい広葉の芭蕉を詠んだ句は少ない。それだけ難しい季題だと言える。
飯尾宗祇は幼時から和歌を学び、連歌に長じ終に室町時代連歌興隆期の代表者となった人である。連歌では忌日にその人の句に付句をすることがあるが、付句をつけることをせずつつしんで忌日を悼むと結ばれた。連句に堪能な青畝師らしい宗祇忌の一句である。
自註・阿波野青畝集に「早く蒔いたのが虫に食われたり何かで大根が育たない。も一度おくれて蒔きなおしたのがよく育って間引きもしてやると緑の直線が頼もしく見えた」とある。虚子編歳時記に専門家の説として「煮食用のものは八月二十日より二十七日までに播種すべし、即ち二百十日に発芽し居る位を可とす。漬物用のものは九月四日より八日までを可とする」との記述がある。どんな作物をそだてるにも適期というものがあるのだろう。
俳諧歳時記(改造社刊)に、「色なき風」の解説がある。「陰暦九月頃に吹く風をいふ。『新古今和歌集』に『ものおもへばいろなき風もなかりけり、身にしむ秋のこころならひに 久我内大臣』とある」と記されている。秋風を色づけせんと…は、「(色なき風)を色づけせんと」なのである。主季語は酔芙蓉である。理屈的な感覚で句を詠むと芙蓉の酔うことばかりに心を向ける。「色づけせんと」とはさすがの着想、擬似法である。
自註・阿波野青畝集によると、「山の上の展望台に立った。西日はいささか衰えたころあちこちからつくつく法師の喊声が起る。リズムに変化を与え、山彦も共に大交響楽となる」とある。六甲山上のシンフォニー。ハイドン調・モーツァルト調・ベートーヴェン調と、聞く人の耳へそれぞれに響く。法師蝉とかなかなは共に秋の蝉、 毎年待たるる鳴き声である。法師蝉は人家近くに来るが、かなかなは山間樹林に鳴く。この本質を踏まえて詠まないといけない。
法師蝉耳に離れし夕餉かな
主婦多忙つくつく法師鳴きはじむ
昭和44年のかつらぎ誌に、「ヨーロッパ土産」と題して発表された十句の中の一句である。その下段に一文がある。「(前略)オベリスクという方尖柱がある。エジプトから伝わってきた高い石柱、何やら象形文字など彫った記念碑だろう。(中略)遠い歴史の都を思ふ。/フオロ、ロマーノは廃墟として見た。赤や白の花壇で荒廃の傷手をいたはってゐる。/西洋は人工が自然よりも優先を認める」と記されている。ジャニコロの丘はテレべ川を隔てた丘である。人工優先の中で自然に散りかかる一葉に殊のほか旅愁を覚えられたのであろう。
唐津湾の海岸に立った青畝師が、夫の大伴狭提比古郎子(おおとものさでひこのいらつこ)が外地へ赴く時、佐用姫が別れを悲しみ、逢い難きを嘆いて領布を振った昔を偲ばれたのである。草桔梗は名の通り、桔梗そっくりの小花で、見落としてしまうことがある。
摘みとれば震へをるなり草桔梗 虚子
草桔梗われがかがめば妻もまた いはほ
満鮮旅行を終えた虚子先生を舞子の万亀楼で歓迎された時、庭の芝に草桔梗を見つけた松尾いはほ博士が虚子先生に示された時の作と聞く。草桔梗の可憐さが詠まれている。
どぶは「溝」下水を流すみぞをいう。下水道の完備していない時代の下町風景であろう。路地路地に地区の地蔵盆が修される。吟行の作者には気になるほどのどぶの悪臭も 地元人たちは馴れていて誰独りそれを口に出す人はおらず、地域の長老は機嫌よろしく鉦を鳴らしている。
自註句集に、「毎年のことだが盆のじぶんに賑わうのは踊りである。都会よりも田舎に行って足元のさだかに見えぬ空き地ではやされる踊りは好ましい。はじめは傍観者となって踊りのさまをよく見ている。踊りやすいしぐさをくり返すのでつい腰を上げ踊の輪へとびこんだ。前の人を見て真似れば何でもないしぐさだ。調子に載って十分踊りぬいた。(中略)この句は素朴な踊のリズムがしぜんに出てくると思う」とある。「手のひらをかへせばすすむ」と一つの動作だけで踊全体を表している。写生と省略との極意を学びたい。
自選自解に、「松江に山陰俳句大会開催の秋に虚子師に随行、このときはじめて大山にもあそんだ印象が深い。出雲大社にも参拝した。しかし松江城をめぐる濠に添うて士族屋敷が並んであって、その中の古ぼけた一軒を訪ねた。八雲旧居である。虚子師の『食われもす八雲旧居の秋の蚊に』には頭が下がった。この遺跡を守る忠実らしい老人は親切に八雲旧居をありありと偲ばせるように説明してくれるのだった。(中略)この老人は中学生であった旧弟子という関係で、心情のよく表れる説明をしてくれた」とある。老人との一期一会がなかったらこの句は生まれていない。作者からにじみでている何かが、この老人を縷々語らせたのだろうと思う。ヘルンは松江の寒さに辟易し、六ヶ月住んだだけで熊本の人になったとか。
自選自解より引用する。「酷熱の土用が終り、夜毎にしのぎやすさがはっきり意識される。畑いちめんの里芋の葉っぱが露を噴き、それらを揺らして吹く風の触感がひややかだ。幅ひろく銀河が出ている。西洋ではミルキーウエイと呼ぶごとく、ほの白い夜空になっている。すると流星がしきりにとびまわる。一つはどのへんかに確かに落ちたであろう、その隕石が赤く燃えていることを錯覚する」作者は耳の障害もあって音響に対して頗る鈍感と言っておられるが、それ故に空想が果てしなく広がり、幽玄の世界に遊ばれる。その境地で生まれた句がわたしたちを虜にするのである。
自註・阿波野青畝集に、「蒲郡の宿で伊良虞の話が出た。翌日舟で伊良虞に渡った。島ではなく陸続きである。万葉集で島になっているのは地勢の変化である」とある。 素秀解で揚げられたほかにも、「うつせみの命を惜しみ波にぬれ伊良胡の島の玉藻刈り食む」があり、「天武天皇の四年四月十八日、三位麻績王が罪あって因幡に流され、一子は伊豆の島に、一子は血鹿の島(五島列島)に流された」との記録もあるようで、何れにせよ配流だから当時は島であったのであろう。天の川がくっきり垂れて詩情をそそる。「万葉集」をふまえて自註どおり「島ならず」と収められた。
自註・阿波野青畝集に「いつまでも暑いと、ふと朝や夕ぐれの凌ぎ易さを知った。秋がはっきり感じられる喜びである」と結んでいる。『青畝風土記』によると、三重県名張の項に出ているので、伊賀盆地での作であろう。「どかとよろしき」という俗語がこの句の臍である。そのような頃になると挨拶代わりに口をついて出るのがこの句である。ホトトギスの雑詠会で、虚子が「青畝君の句はその用ふる字句に非常に腐心するところが見える」と評されたそうだ。「腐心」とは(ある事を実現しようとして)心をいため悩ますこと、苦心、と辞書にあるが、腐心と苦心とは紙一重の違いがあるように思う。この句は案外すらすら出来たと話されたという。関西弁というか俗語をつかった句に、
まん中にごそりとへこむ足の原
がある。違和感なく中七字に納まって見事である。舌頭千転、ことばを選ぶことの大切さを改めて思う。
自選自解には、「住吉神社や公園からわずか離れている北畠に病む妻とともに仮寓しておった。ある夜しきりに音がする。花火と合点して物干台に二階の窓を抜けてのぼった。(中略)物干台に花茣蓙を一枚敷いただけで結構な気分に陶酔しつつ、花火の饗宴にあずかりえた。(中略)このように花火の翼下となった住吉に居住しているということを思えば、その一瞬が夢ごこちであった」とある。住吉に仮寓されたのは、厳しい二代目が亡くなられて後のことのようで、転地療養中ながら二人きりの一時を楽しまれ、夢ごこちとの自註に苦しい時代の切り取りと思われ心打たれる。スみよしにスみなスソらは花火かな、とサ行の音が重なっていて妙である。
自註・阿波野青畝集には、「みずすまし」とルビがあり、「夏も終わった感じが新涼にあらわれる。よく澄んだ水をふまえた水馬は大きく成長したようで、おっとりかまえてこせこせしない」とある。「新涼は」秋になって初めて覚える涼しさで、残暑の頃の一雨のあとなどの涼風に秋を感じることである。その頃の水に水馬の動きが鈍くなーているのを、年をとるの意の老けたと詠まれたのである。水馬とあめんぼうは昔は逆だったような記憶がある。私は区別するために「まひまひ」「あめんぼう」と詠むことが多い。油虫とゴキブリも同様、俳句的には、油虫のほうが好みであるけれど、緑色で小さいあぶら虫と紛らわしいので、昨今ではゴキブリと詠むほうがいいのかも知れない。
青畝師は、世捨人は僧の意で作ったといわれている。のんびりと、ながめがたりを楽しんでいるわけで、調子ののびやかさが、悠長さを感じさせる。世捨人とは何の欲もない老人のことかとも思ったが、そうなると眺めがたりの内容も変わってくる。
自註・阿波野青畝集に、「江口から淀川へ灯籠流しをした。川は曲がっていたので続く灯籠が帯状に曲がるのであった。その涯は見えないが海へ流れてしまうはず」とある。青田の中にぽつんとあった君堂辺りもすっかり変わって風情がなくなった。江口に変わらないものは、虚子、青畝、素十、年尾、夜半、木国、若沙書の俳諧の鐘と、この流灯の句碑である。
実はこの句、青畝師の創作である。この句の生まれる二年前に、次の句を詠まれている。
生身魂こゝろしづかに端居かな
青畝師は12歳のとき母親を失っておられ、この句は父がモデルだそうだ。「こゝろしづかに」で片親を詠まれ、その二年後に「ふたりそろひて」とあるのは、作者のそうであればいいのにという願望がこの句になったのではないだろうか。青畝師には母恋の句が多く、命日には大和への墓参を欠かされなかったという。
「花葛の戸」は「草の戸」と類似で、葛の花の咲いているわびしい住居で、山住の人たちが門火を焚いている様子である。季語が対等に二つある場合は先に出たほうが主なる季語という説もあるが、この句の場合は門火が主季語であることに誰も疑わないと思う。焦点が呆けないようにきちんと「主」と「従」とが詠み分けられている。山賤という言葉も雅趣があり昔の歌人がよく使った。和歌的な古語を使ってわびしさを味わわせてくれる作品である。
自註句集より引用。「広島被爆は1945年8月6日であった。あの日から十年経て私は原爆ドームを仰いだ。ノグチ、イサムのデザインに和る橋の手摺を見などして一面の石碑の前で感無量の涙がにじみでるのを知った。碑には過ちを再びくりかへしませんから安らかに眠って下さい、そんな意味の簡単な語を刻みつけ、香煙が低迷するばかり。盆であったためか、金銀に彩る花輪と灯籠とを置きならべ西日は照り返しが烈しかったのである。住友銀行の壁にある人物の影(当時に生じた)を指されたときには悚然としてしまった」。過ちはくりかへさぬの碑の前に立っての感慨がにじみ出ていて、下五文字に爆心地を弔う思いが籠もっている。
中国紀行句文集では「左手以て」になっているが、あえて字余りの「左手をもて」されている。不本意ながら…というような気分を表すための手法かと思う。同句文集には「ああ白居易、白楽天よ。芭蕉が特に好んだ詩人である。日本人は杜甫や李白と併べて白居易を尊敬していた。この詩人が晩年より仏道になじみ、独りこの香山寺にこもったといわれている。香山寺に月を賞した詩を思い出すことは能わないけれど私はただ碑面をそぞろにさすり続けていた。右の手が痛むので左手に代えてするのであった」とある。当時何度目かの五十肩が長引いておられたらしい。
ここにおるぞという風な顔つきで、物乞いが門茶のほどこしの見える付近に休んでいる。辞書には、「したり顔」はあっても「居り顔」はない。青畝師の造語かも知れない。「門茶」は「摂待」ともいう。湯茶の施しであるから往来のものは誰でも頂けるのだが、乞食は身なりから遠慮して一寸離れたところに腰している。一向気がつかず声をかけてくれそうもない。そうなると余計に喉の乾きを覚え、此処に居りますよと、上目を使いつつ少々いらだっている図々しさが「居り顔」なのである。
虚子編『新歳時記』によると「解夏」、「陰暦七月十六日、一夏九句の安居を解く。夏明(げあき)ともいふ。この日、安居中の夏書の聖経を仏寺に納める。これを夏書納(げがきおさめ)といふ。安居が終つて僧東西に分かれ去る。これが送行(そうあん)」と解説されている。『自註・阿波野青畝集』には、「妙心寺の夏明に殆どの僧侶は自寺へと帰ったのである。しかしまだ居残りのものがいてぼそぼそと何かしていた。いつまでも居る容子ではない」とある。
窓の下解夏の山山たたなはり
解夏の門斯くも大きく開かれし
送行の跫音(あしおと)槙の落葉より
送行の挨拶に鐘二つ撞き
高野山真別所では安居を終わって自坊へ帰る時、山門にある吊鐘をいろいろお世話になりましたという心をこめて、二つ撞く定めがあるそうである。
欧州聖蹟めぐりの折の作。「かつらぎ」(昭和 44 年 10 月号)に「ヨーロッパ土産Ⅰ」と八句発表された中の一句である。ガイドブックによると、レマン湖は水面の標高372m、三日月形でアルプス山系中最大の湖。ローヌ氷河に発したローヌ川がシヨンの近くでレマン湖に流れ入り、ジュネーブから流れ出て南下、地中海に入るとある。同時発表の三句を引く。
レマン湖は初秋風に波見せず
レマン湖もヨット天国風は秋
レマン湖の高厦(こうか)に避暑の客を泊む
『自註・阿波野青畝集』によると、「八月の欧州旅行でもスイスはさすがに立秋を満喫した。120mの噴水を見ながらレマン湖を舟遊した。老旅人の私は古希である」。客観的に自分を写生された句である。
虚子編『新歳時記』に「星祭の、七枚の梶の葉に歌を書いて星に手向ける。昔は七夕の前日に市中を売り歩いたものである」とある。徽州黄山は松又松の山で有名、この山の松から「徽墨」という墨を作るという。中国の名産案内によると、「徽墨は歙県(きゅうけん)で産する。すでに千年の歴史を持ち、種類も多く、かたくて、しかも軽い」と評判も高い。ちなみに歙硯は端渓についで品質がいいとも。中国名産の墨がある。これでもって、わが国の梶の葉に一筆染めて見ようと、徽墨を手にされたのである。
梶の葉にみよわたくしの十七字
一室に淑気を放つ徽墨かな
森田峠著『青畝句集「万両」全釈』によると、「一読して狭い町筋を想像できる。作者の郷里高取町には、今もこんな道が残っている。星の手向には、きゅうりやそうめんなどを端近に置いて供えたと作者は言っているが、今の我々には狭い町筋の両側に七夕竹の立ててある情景を想像する。(中略)景よりも情に重きを置いた表現で、『星の手向や』ではなく『星の手向は』と言ったところに情が生ずると作者の説明があった」と鑑賞されている。今日であればその町筋に園児や子供達の作った七夕竹が向かいあい、短冊ならぬ漫画の主人公でも吊るされていることだろう。
昭和54年「奥の細道」越路の旅・出雲崎にての作である。かつらぎ近詠欄に次の三句と共に発表された。
風除のあなたや母の国の佐渡
雁木より佐渡が島根の晴れにけり
浜焼の灰のほとほる雁木かな
良寛堂から良寛の母の国佐渡が見える。良寛の身になって母恋いを詠まれた。お供のれん衆との吟旅の途次、佐渡が一番近く望まれるところで一行に指し示された。紫紺の朝顔の上に横たわる佐渡も又紫紺か。
まだまだこれからという真夏の時期に半分くらいの丈に刈り込まれて驚いた。今年の花を打ち止めにして来年に備えるのが木槿のためなのだろうか。容赦なく刈り込むところを見せつけられて、とがめることも出来ず呆然と見守る外なかった作者が偲ばれる。初案は「橐駝師の鋏酷しや木槿垣」だったが、推敲された。酷し(むごし)は、残酷と同意だが、耳から受ける感じ、目で見るニ文字にきびしく無慈悲なむごたらしさが迫る。垣ではなく花木槿に心を寄せておられるのだ。
枠を内外二重に、内側に貼った切り抜き絵が、外枠に貼った紙または布に回りながら映るように仕掛けた灯籠、内枠は軸の上部に設けた風車が蝋燭の熱による上昇気流を受けて回転する。その回転を良くするために、芯棒を小貝に乗るようにしてある。それを「からくりは貝一枚」と詠んでいる。他の仕掛けにはふれず、貝一枚にしぼった面白さはさすがである。
煙草の葉は7月中旬から8月中旬頃までに摘む。これを縄に掛けて干し、茶色になるまで乾かし、伸ばして専売局に収納する。今は民営化されている。近頃ではビニールハウスの中で干し、ぐるりは黒い布で覆って、あまり覗き込めないようになっている。「霧ながれゐるをかまはず」とあれば屋外のようにもとれるが、私が知る限りではみな屋内で信濃あたりでは家の階下も階上も干し連ね、寝処も煙草に占領されているようなところもあるという。揚句は、おそらく軒端ではないかと思うが庭先かも知れない。いづれにしても繁忙期であることが窺える。
自解句集に、「伯耆大山にかつらぎ吟旅をおこなった。(中略)この日、夜になってから天候急変、風雨強く霧の動揺がものすごい。たまたま白鷺一羽が灯る玻璃戸に衝突して、可哀想に頓死した。ますます電光走り、すごい雷鳴を繰り返して夜が更けていった。(後略)」とある。土地の人の言い伝えで、昔から大山の牛馬市の糞流しといって時化模様の雨がよく降るという。この句をよむと、素秀解にもあるように雷光に照らし出された崇高な大山が目に浮かぶようである。
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