陰暦4月16日より7月15日まで、夏籠りをして行法を修することを夏行、安居、雨安居などという。厳しい僧堂生活の中、四と九の日は頭を剃り、四九日(しくにち)掃除といって内外の掃除をする。夏行に入った若い雲水たちが、髭も頭も剃りたての青々として、背筋を伸ばし瞑目し、端然と坐禅をしている姿はまことに美しくみな立派に見えるよ…と詠んだのである。厳しさに耐えた僧たちの簡素な姿そのものが美しいのである。
瑜伽教は密教の称でもあり、主観と客観が一切のこと。物と相応融合した境地であり解りやすく言えば、常に禅の悟りを開く…というような意味でしょう。西宮市甲山の中腹にある神呪寺の客殿に「常瑜伽」と大書した軸がかけてあって、昭和52年に「常瑜伽と座に掲げある安居かな」を作られている。こちらは全くの客観写生詠である。揚句は、今夏行に入っている僧が、夏書に臨んでいる心を、そのまま「常に瑜伽の心をもって仏に対している」と瑜伽の心をあらわしたよ、という。前作よりもはるかに主観と客観が融合した句になっている。
自解に「繭の字以外は平仮名でつづけた。会津八一の歌のように、調べに関心がないわけではない」とある。青畝師 24 歳の作品である。うすら繭は皮の薄いマユのこと。 森田峠師の註解によると「うすら繭は皮の薄いマユのこと。『薄らかなる繭』の造語だろう」ともある。美しい造語である。蚕が排泄物を皆出して、身を反らせながら、口から糸を吐きつつその中に籠もってゆく。神秘な営みは劇「夕鶴」の羽をもぎつつ機を織る神秘とも工作する。小学生の頃、懸命に世話をして眠い目をこすりながら繭づくりを観察したことを思いだす。
草津温泉の街の真ん中に湯畑と呼ぶ自噴泉がある。旅館の内湯は現在無味無臭無色透明であるが、この湯畑の自噴泉は62、3℃という源泉でその湯煙は硫化水素系のにおいがむっと鼻につく。徳川家康が草津の湯を樽詰めにして江戸に運ばせ入湯したという。何故家康は草津に来なかったのか、草津を統治した湯本一族が豊臣方だったとか、まことしやかな他愛のない、そんな話を聞きながらマッサージでも受けておられる様子が想像できる。白根山の麓、 硫黄の臭う温泉場で昔のことを聞いているうちにもう空が白んできたよ、という感じ。
ありとのみ…と逸らした虚子、伏拝王子まできて進めなくなった和泉式部のことなど一幅の絵巻物に仕立てた青畝師、卯の花明かりにしらじら暁けていたのであろう。自解がなければ味わいづらい作品ですね。
拐(おうご)は素秀解のとおり天秤棒のこと。須磨に鉄拐山という山がある。さて藪の中で旬を過ぎたのっぽの筍があちらにもこちらにも目立つ頃となった。「丈のびて筍ならず竹ならず」という句はもう20数年前には詠まれていている。発想は同じでもそこから一歩も二歩も抜きんでなければ古人の跡を踏むことになる。揚句はそのよきお手本をしめされたように思う。拐にもならない、いわゆる役に立たないというのを拐にもならず…とはいいえて妙と思う。
永沢寺は巨木の茂る幽寂な山中にある禅道場であるが、いつ頃からか寺領の木々を伐り拓き菖蒲田をつくり、年々整備されて名所となった。青畝師が立ち寄られたこのときは少し季節が早かったため菖蒲田はまだただの泥田で今どこからか運んできた菖蒲苗を植えている最中であった。管理を委託されている近所のお百姓さんであろう。屈曲なひとが次々と手際よく植える準備をしていた。田夫という古めかしい呼び方がこの菖蒲田を素朴な雰囲気にしている。広大な寺領がやがて、紫と白の濃淡に彩られる日も近い。いつも心をナイーブにと説かれた青畝師、花菖蒲を見に行って作業中の泥田を見ても深く深く見れば句材となるのである。
水車のある風景は郷愁をそそる。揚句は卯の花の咲く田園の旅であろうか。廃れた水車が折からの連日の雨で思いがけなく回っていたのである。羽がまだ残っていたのであろう。ぎこちなくこっとんこっとんと廃れ水車が回った。雨に意志があるように「廃水車回す」と叙して、連日の雨の強さを出す。青畝師独特の叙法で主観を籠め季語の働きを強調する。動かないはずの水車をも動かす卯の花腐しだという。廃水車を写生しつつも句の焦点は明確に季語に置かれていることを学び取りたい。
基本的には動詞止よりも体現止のほうが切れ味の良い苦になると言われている。しかし揚句はあえて動詞止にした。「毒ならば美しくあれ芥子の花」では観念的になる。芥子を見る…とすることで写生の効果を出し、あの阿片、モルヒネを採る芥子の花を見ていることを強く具体化したのである。上十二の観念的になりやすいことを避けたのである。
六腑=漢方で六種の内蔵、即ち大腸・小腸・胆・胃・三焦(上、中、下に分かれ上焦は心臓の下、胃の上、中焦は胃の中、下焦は膀胱の上にあって排泄を掌るという)・膀胱の総称。六腑をこう分析してみるとすごい句である。金串を山女魚の口から突き刺し六腑を貫いて尾へ抜くのである。人物は省略し被写体は金串と山女魚だけに絞る。この迫力に圧倒される。兼題句会での作というから更に驚く。過去の経験を想起しながら山女魚の形態を追い、まるで形態学のように叙す。大袈裟のように見えて理にかなった作品である。こうした措辞、とかく言葉の面白さだけで安易に使いがちであるがきちんと調べて矛盾のないことが大切と思う。
揚句は三船祭の日、大堰川を目の前にする料亭の座敷から庭越しに三船祭の模様が展開されるのを眺められる最高の部屋で昼食をし句会をされたときの作とある。その昔、青畝師も俳諧船に参加され扇に一句認めて流されたという。そのことを回想しての句である。おそらく芭蕉句の初案「大井川浪に塵なし夏の月」を心に「名残とどめよ大堰川」となったと思われる。とどめよ、に強い主観があり流扇に対する深い感慨がある。大堰川に対する挨拶句。
甲冑を着て宝棒を持ち、今にもかけだしそうな韋駄天さんは何となく親しみやすい。韋駄天さんは庫裡の物資調達を司る天部で庫裡または庫裡に近いところに祀られていらっしゃる。「法輪の転ずるところ必ず食輪も転ずる」修行に励めば食べることは心配しなくても韋駄天さまが調達してくださるという。その意味で畑にとれた初物、また日々の食事の出来たてを先ず、韋駄天さまに供えて礼を取る。青畝師曰く「韋駄天さんは足が早いので先ずお供えするとあっという間に方方へ運んでくださるのだよ」と。ゆげゆらら…の写実がいかにもほかほかと伝わる。
「五月雨をあつめて早し最上川」の芭蕉翁の句を念頭に置いて詠まれたことは明らかである。「さかのぼる卯浪を見よや芭蕉さん」と語りかけておられるような気がする。青畝師の高弟下村梅子さんは芭蕉の句と衝突しそうな勢い…と評している。然りと思わせられる。酒田の河口近く最上川を見下ろす丸木原公園にこの句碑が建てられている。
日記によると「いよいよはじめて探訪するところは和多津美神社と海神社さらに北進すれば、北海の鰐浦ここまで来ると韓国を遥かに望む展望台がある。海栗島の眺めは絵ハガキになる景色だ。韓はなかなか見定められない 7」とある。素朴そのものの対馬は旅人の心を暖かくしてくれるという。韓が見える丘に立って「さても見ゆると韓の国」と狂言の太郎冠者よろしく、草笛を鳴らし旅情を満喫している様が窺える。
曲(まがり)というひなびた海女部落の海女小屋を訪ねたときの作。海に潜ろうとする海女の髪に文字摺草を結んでやれば可愛いだろう…と、そこここに咲く文字摺草を見て空想する作者である。「海女涼し玉依姫の血あるかや」と詠まれた作品もある。職業としての生活としての海女と見ず、ストーリーのヒロインのように詠む、青畝師のロマンチストとしての一面が窺える。
昭和に出版された自註句集に「ビキニ水爆実験で福竜丸被災以来世論をわかせた死の雨の恐怖はなかなかおさまらなかった。外国が次々と実験するたびに気流に寄せられる日本は掃溜めの場所とならざるを得なかった関係である。梅雨が近づくと最も恐怖されたのは核の塵埃をふくむ雨が野菜などの食物に付着するからだ。赤く美しくなった苺を朝夕の食卓に上がらせると、いままでのように安心して食べられない。雨の日に摘まれた柔らかな苺を疑へばおそろしいのであった」とある。科学や化学が発達したために、さまざまの影響で自然食を害している。地球温暖化の問題もまたしかり。海や山の生物に異変が起きている。本当に住みよい地球でありたいと思う。
葵は糺の森に自生していて、一名賀茂葵とも呼ばれている。その霊草を白丁たちが踏んだというのである。薄暑の中、蜿蜒と練り歩いた行列の、殊に白丁たちの疲れたさまが窺える句である。くたびれて、と口語にしたことで疲れ果ててしまって、と実感される。また「白丁どち」の古語扱いが平安の絵巻にふさわしい。人々の挿頭葵などが落ちていたのであろう。
自解に「乙女峠のみちは狭い。卯の花に触れないでは登れない。殉教のマリア堂は峠に建っていたが、やがてたどり着いて礼拝したのである」と。浦上の切支丹宗徒が津和野に送られ当時ここにあった光琳寺に収容された。そして日夜過酷な拷問を加えられ多くの人が悲惨な殉教をしたのである。とかく殉教ということに捉われて句を作ってしまいがちであるが、悲惨をストレートに詠むのではなく、このように側面から悼むという手法を学びたい。卯の花の白は、出現の聖母マリアにあい通じる点も憎い選択である。みのるも家内を伴って乙女峠を訪ねたことがある。青畝師の句を思い浮かべながらに詠んだ拙句がある「な踏みそ乙女峠の落椿」
牡丹の句といえば「牡丹百二百三百門一つ」という青畝師の代表句中の代表句がある。この句は今も語り継がれ金剛峰寺に近い増福院の表に句碑として優美な姿を見せており、門一つの唐門はいまもある。蜂に愛される牡丹のむせ返るような香りがしてくるようだ。「一の蜂ニの蜂と」の「と」が省略されている。句調というかリズムを大切にすることがいかに大切かを学びたい。一の蜂ニの蜂とたてつづけに愛される牡丹である。
衣川古戦場あたりの土堤には摘んで帰りたいような瑞々しい蕗が自生しているという。さて何故蕗なのだろうか。芭蕉がたずねて泪したように平泉の旅は藤原三代を悼み義経を悼む旅である。奥州藤原三代を思い義経主従を思って、ちぎっては、ちぎっては、口もきかずに蕗の葉を飛ばし感慨に更ける老詩人の自画像かと思う。
高館は藤原秀衡が義経のために築いた居館のあったところで義経最後の地となった。判官館とも衣川館ともいう。義経堂に義経の像がまつられている。注目すべきは「高館の義経と逢ふ」ではなく、幼名の「牛若と逢ふ」である。ときは五月、端午の節句である。みちのくのそここに幟が立っていた。「さてもそののち御曹子は、十五と申す春野比(ころ)鞍馬の寺を忍び出で、東下りの旅衣、はるけき四国西国も高館の土となりて」云々の高館詞書などもご覧になったので、思わず「牛若」と呼びかけたのであろう。
四大不調を忘れれているということは四大不調なのである。カトリック信者は五月を聖母マリアの月として賛美し、燦々と輝く五月の明るい日を崇高なものとしてマリアを希望の念をつのらせるのである。母恋いの念の一段と強い青畝師にとってマリア様に強い母性を感じられるのではないだろうか。「青畝日記」にも「うるわしい五月が待たれる」と記しておらられることから、青畝師にとっては特別の五月なのである。
季節季節の風物を楽しむのは俳人としての特権である。かつらぎ庵の広い庭には季節の植物が植えられている。この芍薬もそうである。庭の芍薬を剪って丹波の壺に挿した…と叙すだけではつまらない。「丹波の壺のざらざらと」これで丹波焼の特徴がいい表されている。洗練された形ではないが、力強さ、堅実さがもつあたたかさ、丹波ならではの味が濃い。見ごたえのある古丹波かと思う。ざらざらと、でその壺の手触りを愉しみ、花と壺の調和に納得しているさまがいいつくされている。
幻想的な画家シャガールを知る詩人は「シャガールは陰気なロシアから大股でやってきた(中略)その頭陀袋の中にはヴァイオリンと薔薇と(下略)」と語る。薔薇を好んだのであろう。彼の自画像の一つにパレットを手に横の画布には薔薇が描かれている。その自画像を写生して、恰も今そこでシャガールに似た誰かが写生している風に詠まれたのではと鑑賞すると天国の先生に叱られるかな。晩年の青畝師はそのような作り方であった。
同時作に「伊賀の壺八女の新茶を封じけり。武士好みと言われた伊賀焼の茶壺であろう。今まで古茶が壺中にあったが、今からは新茶が壺中を占めたよという。「壺中の天」の故事が閃いたと思う。壺の中で俗世を忘れ、別世界の仙境を楽しんだ故事である。僧栄西が宋から仙薬として茶の種を持ち帰ったことなどを思い合わせると、不思議に壺中の天の故事と新茶が納得いくように思え茶の世界にあそぶ心地がする。「新茶」を兼題に模様された句会の折に「とかく新茶という季題は常識で詠まれれて、独創性が乏しい傾向がある」と青畝師の選後評があった。心すべきと思う。
当時の「青畝日記」に「自嘲と前書きしたらという思いもする」とあり、九十歳にしてなお青畝師がいかにお洒落であったかと思う。俳諧のあやめ結ばむ…と古典的に叙して、いきなり禿頭とくるとその意外な写実に驚かされる。俳諧のと断って禿頭の自画像を強調し、諧謔をあらわす面白い手法だと思う。芭蕉に「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」の句がある。芭蕉に倣って青畝師も昔風に「あやめ結ばむ」とされたのかも知れない。
丈のながい太刀を真っ直ぐに飾ったのであるという。青畝師米寿のこの年曾孫の正史が生まれている。青畝師から三代養嗣子がつづいた阿波野家に青畝師から四代目にして男児が誕生したのである。長い太刀を垂直に飾りたり、と喜びを隠しきれない作者である。垂直に…に喜びの感情移入が見られる。真っ直ぐに元気に大きくなれといっているようでもある。
吉野での作。吉野は行宮があり南朝の所在地として史跡に富み、吉野時代といえば南北朝の別称ともなっている。学者たちの研究により今、歴史感は大きく変わっている。それはさておき吉野に住む人たちにとって、南朝は変わらず南朝であり南朝を賛え、敬い、南朝贔屓には違いない。その吉野人の血を受けつぐ人達の子孫のまたその子孫として生まれてきた男の子を賛え、吉野にたくさん鯉幟の掲げられるのを喜ぶのである。
当時の俳誌「かつらぎ」に掲載された青畝日記に「軽暖というのは衣服であろうが軽やかな気分がある。家内と恭子を連れ歌川山黛の茶事の招きにあずかる。私は作法知らずの上に初経験である。珍しいので面白く、口に入れるものみなおいしかった。出された短冊に次の句を即吟したたむ。」つまり招いてくれた主への感謝を込めた挨拶句なのである。一句をなすのに季語の斡旋などと軽々しく言えないが、季語の選び方、自然体のまま季語が浮かぶような叙し方、その場の雰囲気を伝える即吟の妙を思う。
「孫弥生聖バルナバ病院に生る」と脚注にある。青畝-健次と養子が続いた阿波野家での三人目の孫誕生である。長女、次女と女児がつづいた。三人目は男子かも知れない、今度こそと思いながら周囲も待ち望む。生まれた子は女児であった。「女児安産」とまあまあ五体が揃っていて母子共に健康であればそれで何より、上五に祝福の意を表し、「やや不平あり」で本音を漏らす。下五の柏餅の季語の斡旋が抜群である。柏餅でお茶に寛ぎながらの青畝師の述懐である。この柏餅の季語を見るといかに季語が大切かが解る。
初案は「補聴器がピーピー衣更ふるときも」である。これだと「衣を更えているときでさえもまあピーピーとやかましいことよ」となり、金属音のピーピーが強調されて季感も弱い。揚句では更衣の季感に重点がおかれている。衣を更えているとぴいぴいと鳴ったよ、と軽く更衣のさっぱりした気分を大切にしているのがわかる。また「補聴器の」ではなく「補聴器が」の「が」は、この補聴器がまあ!と補聴器の存在を強調しているのである。
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