2016年7月
目次
(あみだなにおしまげられしはなすすき)
昭和 53 年の作品であることから、この網棚は電車の網棚だと想像できる。網棚は芒を縦に置くだけの奥行きはないので当然横向きに置くことになる。けれどもそこそこ満員電車で網棚も混んでおり、やむなく少し押し曲げざるをえないのであろう。本当に大切なものならばそんなふうに雑に扱うことはないと思う。持ち主は、生け花教室で使った教材を持ち帰っている若い女性のような気がする。ちょっと花芒がかわいそうだな…という作者の同情も見えてくる。
- Feedback
-
-
お月見に供える芒を想像しました。都会に住む人が芒を苅って電車に乗り込んだものの、やむ無く網棚に載せた芒の意外な長さに驚かれたのでしょう。(さつき)
-
酔客が忘れて行った野の花芒だと思う。月の夜、風流に感じて手折り、そのまま電車の網棚に乗せたものの、寝入ってすっかり忘れ慌てて降りて行った酔客の忘れ物。生け花などに使う立派な芒は、かなりの存在感で幹も太く、なかなか簡単に折れ曲がらないのでは・・・。(まゆ)
(てんそくのひとりぼっちのせがきかな)
纏足(てんそく)とは、幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習をいう。まゆさん、うつぎさんの的確な鑑賞に感心しました。中国旅行の寺院でふとみかけた情景かもしれませんね。
- Feedback
-
-
なんと凄い句だろうと度肝を抜かれました。映画の一大巨編のラストシーンを見ているような・・・。纏足の言葉からはどうしても悲劇的な人生の女性を思い浮かべてしまいます。老女となって、一人ぼっちで、誰の供養をしているのでしょうか。失くした子供、それとも寵愛を受けた男性?果てしなく想像は広がります。また、どういう経緯で詠んだ句なのか、気になるところです。 (まゆ)
-
その年に初盆をむかえられた家は寺で催される施餓鬼法要に身近な人と供養に出向くことが多い。作者はその中の一人の女性に眼が留まったのである。纏足したかのように指先まで曲げ小さく正座されそれも唯一人で来ているのである。さらりと詠まれているが、纏足、ひとりぼっち…の措辞は未だ癒し切れていない悲しみを何倍にも感じさせます。 (うつぎ)
-
大阪の下町で育ったので、子供の頃に纏足の方を見かけたことがあります。子供心に不思議な歩き方をされるので母に聞くと中国の方だと教えられました。たぶんその頃でもお年寄りの方だったと思います。施餓鬼に来られた様子がひとりぼっちの措辞で作者も少し切なく感じられた。(ひかり)
(しゅうとうのゆるむかんぎゅうじゅうとうり)
汗牛充棟というのは四字熟語。「牛が汗をかくほどの重さ、棟までとどくほどの量」の意から蔵書が非常に多いことのたとえとして使われることば。読者の体験によってさまざまなシーンが想像できます。秋灯が揺れている…とあるので微風が通うような場所かもしれませんね。古書漁りで訪ねた古書律の雰囲気もあります。
- Feedback
-
-
秋の夜長の読書はよく詠まれますが、汗牛充棟の字面からは、なにか必死な懸命さが想像されます。受験勉強や一心不乱の研究。前半の涼やかな感じと後半の必死な様子の対比が面白いですね。 (まゆ)
(まつのちりうかめるきんぎょすくいかな)
花の塵はよく使われるが、松の塵という表現は馴染みが少ない。でもたぶん枯れた松葉であったり、その付け根の薄皮の袴の部分であったりそうした類と思う。つまりこの金魚掬いは、浜辺とかお寺の境内とかの松林のなかにあるのである。松の林間に電線を引っ張り裸電球をぶら下げた夏祭りの夜店の雰囲気もある。
(ひしょちよりはがきいちぎょうそのごこず)
避暑の旅先で買った絵はがきの裏に短く、「無事ついたよ〜」と一行だけ。続いて避暑地での愉しい消息の続報が届くかと楽しみにしていたのに、待てど暮らせどまったく音沙汰無し。バカンスを愉しむのに夢中で消息を書くことなどとんでしまっているのであろうと苦笑いしているのである。
- Feedback
-
-
一行だけの葉書、しかもその後来ずと恨みがましくも聞こえるが作者は充分に満足しているのである。葉書を出した側の人にも想像が広がります。簡潔で調べの良い句に惹かれます。(うつぎ)
-
葉書一行其の後来ず…から想像するに気のおけぬ親友からの葉書なのでしょう。昨今ならスマホのメールとかラインですまします。きっと避暑地で楽しく過ごしているのだろう…と想像しながら、暑い都会で仕事している作者にとってはうらやましい限りなのである。(ひかり)
-
絵葉書の一行には、「またゆっくりお便りします。」と結んであったのでしょう。でも改めての便りは来ず、やはり、と苦笑い。言葉に拘る人なら決して書かない一行に、無頓着な人もいて、さらにそれを句に読んでしまうユーモアに拍手です。 (まゆ)
(あげはなびのうてんうちてひらきけり)
かなり近い場所で花火見物をしている。序章の小さな花火がちょろちょろと打ちあげられ、つづいて本格的な花火が連発して揚がる。その後、一瞬だけ間が空いたのでもうお終いかなと訝っていると、突然想像以上の巨大な花火が音とともに頭上に花を咲かせたので度肝をぬかれたのである。揚花火の序破急の最後の瞬間だけを写生しているが、前後の様子や人の賑わいなどにも十分連想が広がる。時間の経緯を詠むと句が弱くなるが、瞬間写生はとても力強い作品となる。「出来るだけ瞬間写生に…」というのが紫峡先生の教えであった。
(しおひけばてんぐさとりにくるわくるわ)
Web 検索すると以下の情報が見つかる。
てんぐさは海藻だが、“テングサ”という名前の海藻はなく、紅藻類テングサ目、テングサ科に属するマクサ、ヒラクサなどを“てんぐさ”と呼ぶ。 初夏の岩場に着生している。 主な生産地は伊豆、高知。てんぐさは煮るとドロドロに溶け、冷えると凝固する性質があり、ところてんの原料として利用されてきた。
来るは来るは…によって、海藻とりを職業とする人たちではないことがわかる。収穫したてんぐさは、それぞれ工夫され家庭の味になるのである。
- Feedback
-
-
有明海沿岸育ちの私にとって海は格好の遊び場で、潮が満ちていても引いていても暑くても寒くても一日中遊んでいたものでした。特に五月の連休の日の大潮の時などは、まさにこの句のように老若男女が磯遊びに来るは来るは…でした。今は里山住まいですが、郷愁がつのる作品です。(豆狸)
-
「天草とる」は夏の季語。歳時記には、海女が海中に潜って採る…とありますが、揚句の場合は潮が引いた岩場で自家用の天草を採っている人達だと思います。来るは来るはの表現が面白く、地元の人達の平和で楽しそうな生活風景が想像できます。来るは来るは…は、みのるさんがいつも仰ってる意図的な字余りで、こんなふうに使うのだと感心しました。(ひかり)
(たいかいやふんすいはたのごとくちる)
季語は噴水。大会やと言っているので、噴水のある広い屋外での何かのイベントであろう。日の丸とか大会旗が掲げられている情景も連想できる。高々と吹き上げている噴水が風に煽られ腰折れ状態となって散ったのであるが、その様子が風にはためく旗のようだという。やや無理な比喩のようにも思えるが、かなり巨きな噴水なのかもしれない。
- Feedback
-
-
大きなイベントのショー的な噴水ではないかと思います。風に煽られたというより、仕掛けとして何本もの噴水が斜めに一斉に揺れて噴き出して散る瞬間を「旗」がなびいていると捉えたのでしょう。 (さつき)
(しものごとほどうのらっかくれなんと)
比喩俳句を軽視する向きもあるが偏見である。あまりに俗に流れすぎたそれは、陳腐に陥りやすいが、ピタッと決まった時には絶妙の効果となる。巧拙の秘訣はコロンブスの卵的発想、つまりは個性でと思う。歩道と舗道の違いも考察してみると風景が変わってくると思う。
- Feedback
-
-
「霜のごと」の比喩によって、ほの白く舗道に散り敷いた桜は積むほどの嵩ではなく薄くまだらに続いていることがわかる。桜並木が続く公園か大阪なら桜の宮辺りの大川沿いを思いうかべます。暮れなんと…の措辞によって春宵の雰囲気も醸しだしていて、うまいなぁ〜と感じました。(ひかり)
-
辺りの暮色に霜のように白く浮かび上がっていた舗道の落花も愈々暮れが深まるにつれて色を失おうとしている。春宵の淡い感覚の時間帯を逃さず詠まれている。日が暮れるとはいえても、落花が暮れようとしているという表現は、とても真似できない巧みな言い方です。霜は温度が上がれば消えてしまう儚い存在、霜に見立てた落花も深い夜の帷に包まれると闇に消えてしまう。霜のごとの比喩はここまで含んでいるように鑑賞しました。 (うつぎ)
(だいてんとしょうこんさいのいすならぶ)
季語は、招魂祭(靖国祭)。4月21日から3日間、東京九段の靖国神社で行われる春の例大祭のこと。来賓の人たちを迎えるためにテントが張られ、沢山の椅子が整然と並べられているのである。椅子の多いことを説明せず、「大テント」の措辞によってそれらを連想させている。
- Feedback
-
-
さまざまな場面で目にするテントと椅子の光景。厳かな招魂の儀式とあれば規模も大きく格別だったのでしょう。ともすれば見逃しがちな情景をとらえて句に詠まれる着眼力にうなります。花鳥風月だけではなく、生活身辺にも沢山の句材があることを再認識させられました。(まゆ)
(こころざししょうせつにあるきょしきかな)
日本伝統俳句協会のホームページに、「高浜虚子の紹介」という記事がある。
明治35年9月の子規の死去を境に碧梧桐との間に、 すこしづつ対立の構図があらわれはじめる。そして碧梧桐の「温泉100句」を、 虚子が批判したことによる碧梧桐の実景主義と虚子の古典的情感主義とのせめぎあいがはじまる。 このころより虚子は写生文に惹かれ各種文章を「ホトトギス」に掲載し、 夏目漱石の「吾輩は猫である」を明治38年より連載することとなる。 その他には「野分」「坊ちゃん」や寺田寅彦「竜舌蘭」伊藤左千夫「野菊の墓」 など多彩な執筆陣をはることになった。 虚子自身も、写生文として「東本願寺」「由比ヶ浜」「湯河原日記」「幻住庵の跡」 「影法師」「屠蘇に酔うて」「玉川の秋」「蝋燭」「京のおもひで」「欠び」 そして明治40年になると小説「風流懺法」「斑鳩物語」などを次々と発表した。
この記事から、客観写生という虚子の俳句理念が、小説の世界でいう写生文とも共通しているのだと思う。特別研修生として特訓を受けていた頃、紫峡先生から写生の勉強に川端康成の小説「古都」を読むようにと言われたことがある。
志小説にある…のことばの本意は、紫峡先生ご自身も虚子から同じような意味のことを諭されたご経験があるのではないだろうか。虚子を悼みながら、ふとそれを思い出されたのだと思う。
(きょうをずしとりのこされしへんろかな)
遍路道の途中で小祠とか石龕に出会うと、みな合掌一礼して通り過ぎていくのだが、ひとりだけ経を誦しはじめた熱心な遍路がいる。同行の仲間から遅れてしまった…という風にもとれなくはないが、横断歩道を渡る人波のように、ある程度ひとかたまりに進んでいた遍路の人波が通りすぎて見えなくなってしまったという感じがする。それでもなお懸命に経を誦している遍路の姿を見て、大丈夫なのかな? と案じているのである。
- Feedback
-
-
道の辺の小さな祠で一人のお遍路さんが経を誦している。そこへ数人のお遍路さんがやって来て、合掌一礼して通り過ぎていく。それでもまだ、経を誦し続けているお遍路さんの姿が目に浮かびました。
「けふもいちにち風をあるいてきた」という山頭火の句を思い出しました。
今日一日の感謝と明日も無事札所がまわれます様にと願っていらしゃるんではないでしょうか。(豆狸)
-
ツアーで観光化されたお遍路さんもありますが、一人で黙々と歩いて遍路される方の孤独な後ろ姿に心を動かされます。とりのこされし遍路かな…に、このお遍路さんの 思いの深さが感じられます。(ひかり)
(はうごとくさかにつらなるへんろかな)
遍路寺を次々と巡拝するためには多くの坂道を越えていかねばならない。急坂で有名な遍路道に「柏坂へんろ道」があるが、そうした坂道を粛々と登っていく遍路の
屯を坂の下から遠景として見上げた情景だと思う。「這ふごとく」の比喩が適格で具体的なイメージと連想を広げてくれる。
(いよびとにかすりのはるぎおおきかな)
伊予絣(いよかすり)は、愛媛県松山市で製造されている絣で松山絣とも呼ばれる。久留米絣、備後絣とともに日本三大絣の一つともされるそうだ。
句の詠まれた状況にまで連想をひろげないと、伊予だから絣が多い…という憑きすぎで月並な句になってしまう。おそらく初旅で伊予の地を訪ね、当地の友人(俳人)たちと交流したのであろう。彼らはみな珍しい絣の春着を着ている。さすが絣で有名なご当地なんだなと合点したのである。
- Feedback
-
-
伊予絣は木綿で作られています。それを春着にとあるので、質素で丈夫な地元の素材に誇りをもって着ておられることに、感服されたのでしょう。(ひかり)
(つきとひをみまちがいせしはつゆかな)
この初湯殿、状況から想像すると旅先の露天湯の感じがありますね。眼前に海が開けてるような場所だと方向音痴になることはないと思うので、山峡にある秘境の湯宿のような感じがします。太陽と見まちがうということは満月ですね。「月を日と」ではなくて「月と日を」なので、一瞬、蕪村の句が頭をよぎりました。
菜の花や月は東に日は西に 与謝蕪村
けれども、お正月のこの時期にはそういう状況にはならないと思うので、おそらくは月を夕日と間違ったということだと思います。夕餉のお酒に酔ってごろりと一眠りした。そのあと酔から覚めて湯殿に出向いたときに露天湯で仰いだ月を夕日だと錯覚したのではないだろうか。まだ少し酔が残っている状況かもしれない。
- Feedback
-
-
見まちがえたのは満月、山の端にかかっているぐらいの刻でしょう。季語が初湯なので、湯宿での楽しいひとときが連想できます。いいお正月を迎えられた、そんな気分が伝わってきます。(ひかり)
(ねどこしくまでおしゃべりのとしわすれ)
季語が、「年忘」なので、具体的なシチュエーションを連想したうえで鑑賞したい。昨今は、旅行に出て異国や旅先のホテルでお正月を迎えるという人もいるが、帰省して故郷でお正月を迎えようとしているようなシーンを連想してみた。都会での生活のことや、様変わりした故郷の様子、はたまた誰彼がどうしたこうしたなどと話題は尽きず、懐かしく愉しいおしゃべりに時を(年を)忘れるのである。旅先での句だとすればまた違う鑑賞もできよう。ただ自分たちで寝床を敷くというのだから、ホテルとかではなくて民宿のようなところかもしれない。
- Feedback
-
-
仲のよい友人や久しぶりの兄弟姉妹、よくある幸せな情景ですね。ただ女性同士だと、布団を敷いてからも、さらに布団に入ってからも延々と話は尽きず、いつの間にか一人眠りに落ち、また一人・・・となりますから、これはやはり男性の句ですね。(まゆ)
(うえになりしたになりかもあまがくる)
鴨は渡り鳥なので当然ながら空を飛ぶときも群れを作る。雁のような美しい竿ではないが、への字になりくの字になり、ときには離合集散常を繰り返して飛んでゆく。
そのさまを、「上になり下になり」と写生した。単に一瞥して得られる感興ではなく、時間をかけて対象物を観察したがゆえに授かった句であることを学びとりたい。また、天駈くる…の措辞によって高さや様態がより具体的となる。
- Feedback
-
-
普段、水辺の鴨しか観察する機会がなく、お尻が重くて飛立つ時も着水もスマートな印象はありませんでしたが、こんな勇壮な景をはじめて知りました。「天駈くる」に作者の感動が感じられます。群れを成して渡る時の鴨をぜひ一度見てみたいと思います。(ひかり)
(おれているつららはこぶをつくりけり)
一滴の軒雫が時間をかけて成長し、切っ先の尖った氷柱となって連なっている。その中に何かにぶつかったのか途中でポッキリ折れているのもがあるのに気づいた。
先細りになっていない氷柱は尖りながら成長することができないので瘤状に膨らんでいる。瘤をなせりけり…ではなく、つくりけり…の措辞によって氷柱に命が宿っているかのように感じる。
(せつれいにひれふすはやまゆきをきず)
抽んでた主峰だけが神々しく冠雪していて、あたかもそれにひれ伏しているかのように重畳と低い端山がたたなづいているという大景です。ひれ伏す…の措辞によって主峰と端山との高さの違いを具体的にイメージできますし、同時に月山などのような山岳信仰の山を連想させます。じつは、今年の 3 月 15 日、定例吟行で岡本梅林へ出向く阪急電車の窓から六甲最高峰に積もった昨夜雪が春日に輝いているのをみました。枚方から参加された菜々さん、満天さんも同じ景色を見たと互いに昂ぶりを覚えつつ話したのを思い出しました。
天辺に銀嶺見えて山笑ふ みのる
その時に上記の一句を得ましたが、紫峡先生のこの句のほうが先に詠まれていますから、みのるの句は類想になるかもしれません。
(せいひんをたのしみとしてろをひらく)
清貧といえば、生涯自分の寺を持たず、托鉢の乞食僧として生涯を過ごした良寛が浮かびますが、人生も後半を迎えて誰にも迷惑かけず質素な余生を送りたい、少ないお金で生活を工夫して楽しみたい…そんな里山ぐらしをと願っている人も少なくないそうだ。粗末で小さな庵を訪ねてくれた客人をもてなすために炉を開いたのである。粗茶一杯のもてなしながら活き活きとして生活を楽しんでいる庵主の様子が何にもましてあたたかい。人間、欲得や野心を捨てされば、斯くも平安に暮らせるのだという実感が伝わってくる。
- Feedback
-
-
清々しい老境を詠んだ句として感じるところ大です。人生には限りがあることを知れば、自身にとって大切なこととそうでないことが見えてきます。潔く諦めるべきは諦め、確かな何かを心の軸に生きれば、老後は不安ではなく静かに落ち着いた境地に至るのでしょう。こんなふうに生きられたら、と切実に思います。(まゆ)
-
清貧に甘んじるのでなく、「楽しみとして」いるところが含蓄のある表現だと思いました。こういう人物に出会えることも俳句ライフの醍醐味だと感じました。(さつき)
(もののふのたまをしずめのかみむかえ)
神迎えは、11 月に、出雲大社から帰ってこられる神を迎える神事のことであるが、もののふの鎮魂に謂れの深い神社を訪れたところ、ちょうど鎮魂神事が神迎えのじきであったので、このように詠まれたのだと思う。神社の場所は特定できないが、奈良県天理市の石神神社の鎮魂祭などを連想する。神の留守中、落ち着かなかったもののふたちの霊もさぞ安堵していることだろう…という作者の小主観も秘められている。
(いぬふんでとぎれとぎれやかわれな)
簡単なようで悩ましい作品。貝割菜は、スーパで安く買えますが家庭でも小さなトレーで簡単に栽培できるのでその写生ではないかと思う。
基本的に日にあてないで屋内で栽培すると思うので、「犬踏んで」の犬は室内犬ということになる。ただ、そうなら「猫踏んで」でもいいことになるので、他に意図があるのかも…と悩む。楽しみにしていたのに犬の狼藉によって隙間ができてしまった。詮無しと苦笑しているのである。
- Feedback
-
-
昭和 52 年の作品ですからやはり室内ではなく、畑か菜園の貝割菜ではないでしょうか。蕪や大根などのアブラナ科の蔬菜類の芽が出て間もなくの二葉とあります。 大量生産の現在ではぴんときませんが、せっかくの芽が出た貝割菜を犬に踏まれた残念感が、「途切れ途切れ」の措辞によく表れています。(ひかり)
-
踏まれて生え揃わなかった貝割菜、残念ではあるが愛犬の仕業とあれば「しょうがないなあ〜」と言ったところ。職業としての農家ならそうもいかないだろうが、犬も含めて幸せな家庭を感じさせる句である。(うつぎ)
-
田舎に住む強み・・・これは地植えの貝割菜の景と断言致します!種まきで夥しい芽が出ると、間引いてサラダやお浸しにします。その後、まただんだんに間引いて白和えなどに。そうやって残した大根葉が、間隔よろしく立派な(根を食す)大根に成長するんです。確かに犬に踏まれるとこんな感じになりますね。幼いころ一度だけ経験した麦踏みまで思い出してしまいました。(まゆ)
(あきかぜにならすライターひのつかず)
昨今は電子ライターが主流だが、揚句のそれは、昭和時代のオイルライターである。カチカチと発火石を擦って芯に着火させる。屋外では手のひらで覆って風を避けないとついた火がすぐに消えてしまう。秋風に…なので主人公の立ち位置は野外、鳴らす…の措辞が言い得て妙である。風にあおられてなかなか火のつかないライターをカチカチと何度も鳴らしながら煙草を吸おうとしている秋の人の様子が見えてくる。秋思の季感もある。
- Feedback
-
-
主人は現在肩身の狭い喫煙者です。電子ライターではなくオイルライターが好きなので、この作者の状況がよくわかります。みのるさんが書いておられるように手で覆って火を付けます。「秋風に鳴らす」の的確な写生にライターの音が聞こえるようです。男の人が外でタバコを吸うのは、何か考え事がある時なのでしょうから確かに秋思の雰囲気も感じられます。(ひかり)
-
煙草を吸ったことがないけれど、気持ちを鎮める効果があるといいます。人気のない野外で一人煙草を吸おうとするがなかなか火のつかず、秋思のつのる情景が伝わってきます。(さつき)
(そでのみずつばさににたりくだりやな)
梁には、遡上する魚を捕らえる「上り梁」と、落鮎など下る魚を捕える「下り梁」とがあり、単に梁、あるいは上り梁といえば夏、下り簗は秋の季語となる。川の水量が豊富で勢いがあるため梁の端(袖と表現した)にはみ出した水が円弧状に盛り上がり、躍動するようすがあたかも翼のように見えるというのである。晩秋になりその梁が崩れかかっているのを崩れ梁という。
(あきのひのかげをなげこむかこうかな)
句意は明解、夕日影が徐々に火口へと伸びて行く様子と思う。阿蘇のような巨大なカルデラの大景が見えてくるが、西日でも落日でもあるいは単に夕日でも意味は通る。なぜ秋の日なのかを見逃してはいけないのである。秋の夕日はつるべ落とし…であるがゆえに、投げこむ…の興感を得たのである。理屈や頭で考えたのではこうは詠めない。実景を見、実感で写生することの大切さを学びたい。
(しゅうてんかねざめのとこにてをふれる)
寝覚の床は、木曽川の激流が花崗岩の岩盤を長い年月にわたって浸食してできたもので、国の史跡名勝天然記念物。JR 中央本線では通過前にアナウンスがあり、絶景区間で減速がある。おそらくその車窓風景ではないかと思う。なぜなら、秋天下の措辞によってかなり高所からの俯瞰景であることを連想できるからである。目を凝らすと寝覚の床に立って通過する列車に向かって手を降っている観光客たちの姿が見えたのである。
- Feedback
-
-
秋天下の季語がとても効いています。青空そして周囲の山は紅葉がはじまっている。空気も澄み景色も鮮やか、観光客の気安さで手を振りあう。四季のある日本の良さが一句の中に溢れています。(ひかり)
(いちのみやにみやとすぎあきまつり)
江戸三大祭の一つ「深川八幡まつり」は、三年ごとに本祭りがあり、一の宮神輿と二の宮神輿との連合渡御が見られるという。人垣越しに巨大な神輿の通過していく賑々しい情景を見送ったのである。初心者は、祭りの人出や賑わい神輿の大きさ等々をあれこれ説明したくなるが、省略し焦点を絞ることで句に力強さがあることを学びたい。
(みなおいてはげあたまなるしききかな)
正岡子規は明治 35 年、享年 36 歳でなくなっている。現在では、生前の子規を知る人はまずいないと思うが、揚句は昭和 52 年の作。子規没後おおよそ 74 年にあたるので長老の中には数人は子規を知る人もいたあであろう。子規虚子の伝統俳句を継承し一時代の俳諧リーダーとして活躍したであろう長老たちがつどって子規忌を修しているのである。次代への伝統の継承を怠ってはいけない…という作者の覚悟のような気概も感じられる作品である。
- Feedback
-
-
一読とても平和な時代感がします。禿頭の措辞がそう思わせるのでしょう。若くして亡くなくった子規を悼む長老の方々の姿が見えてきますが、その方たちの労によって今日の俳句隆盛があると思います。私達もまた受け継いで行かないといけないですね。(ひかり)
(つゆのひぬかわらにすずりあらいけり)
季語は硯洗、七夕の前日に、文筆に携わる人や児童、生徒が硯や筆を洗い、文学や文筆の上達を願う。磧石をしとどに濡らした露がまだ乾き切らない水際で硯を洗う。朝まだきの刻である。
- Feedback
-
-
磧に出て硯を洗う。その景を浮かべただけでとても清々しい気持ちになります。
書の上達を願う作者の気持ちがひしと伝わってきます。「露の干ぬ」素敵な表現です。引き出しにしまっておいてどこかで使わせていただきたいと思いました。(ひかり)
(はこにわにほんもののつきあがりけり)
箱庭は、底の浅い箱に土を盛り、山や川や池を作り草木を植えて橋をかけたり、陶製の小さい人形を置いたりして自然の山水を模して涼を愉しむ遊び。そもそもは盆景が始まりらしいので、それを詠んでも良い。句意は明快、あたりまえといえばあたりまえだが、本物の月光によって草木や人形の影がくっきりと写しだされて、よりリアルな景になったことに、庭あるじは満足しているのである。「月」は秋の季語であるが、揚句では当然、夏の月(月涼し…の季感)である。
- Feedback
-
-
箱庭が夏の季語とは知りませんでした。見た目の涼しさを演出するものだからでしょうね。窓辺においてある箱庭のように思います。「ほんものの月」の措辞によってより涼しさを共感します。(ひかり)
(たまむしをふりはなしたるえださわぐ)
幸運の吉兆ともいわれ、玉虫を紙に包んで箪笥に入れると衣装が増えるという。
枝先で動いていた玉虫がふいと飛び翔ち、その反動で枝が大揺れているのあるが、あたかも枝が玉虫を振り放ったのだと感じた。常識的な視点で観察したのではこうは詠めない。玉虫でなくてもよいのでは?とも思うが、飛びたった瞬間に玉虫色の羽が光ったことで「ふりはなした」という印象を得たのであろう。
- Feedback
-
-
小高い丘から眼下の枝を飛び立つ玉虫を捕虫しているのを見たことがあります。玉虫は暑い日中、高い枝から枝へ直線的に飛び移るといいます。まさにこの句にぴったりの情景でした。風に揺れる高枝から瞬間的に飛び立つ玉虫をじっと観察して、「ふりはなしたる」という措辞が生まれたのでしょう。(さつき)
過去記事一覧
2024年|
01|
02|
03|
04|
05|
06|
07|
08|
09|
10|
11|
12|
2023年|01|
02|
03|
04|
05|
06|
07|
08|
09|
10|
11|
12|
2022年|
01|
02|
03|
04|
05|
06|07|08|09|10|11|12|
2021年|
01|
02|
03|
04|
05|
06|
07|
08|
09|
10|
11|
12|
2020年|
03|
04|
05|
06|
07|
08|
09|
10|
11|
12|
2016年|
06|
07|
08>|09|
2015年|
07|
08|
2014年|
03|
04|
05|
06|
07|
08|
感想やお問合せはお気軽にどうぞ。