2015年の作品
2015年の作品
魁の一樹に和む探梅行
老遍路賓頭盧尊者撫でまはし
画架たてて万緑の嶺に対しけり
犇めきて万華鏡めく錦鯉
段丘を埋む五彩の濃紫陽花
禅寺の鏡びかりす廊涼し
産土神の鵯騒がしき木の実どき
径曲げて秋草つづる茶庭かな
思慮顔に寒の釣師ら不言
かくれんぼさながら潜る鳰をかし
枯山の馬の背を越ゆ雲の影
落合の波猛々し紅葉川
琴坂の紅葉遅しと虚子偲ぶ
山門の挿頭となりて薄紅葉
天網のごと枝展ぐ大枯木
中島の要の松の色変へず
眼福や池の錦繍パノラマに
子供らの駈けて枯芝まみれかな
浦晴れて波の子もなし鯔の飛ぶ
匕首のごとくに光り鯔跳ねる
浦凪ぎて小春日珠と揉みにけり
ただ無為に沖を見てゐる秋思かな
大風車秋思のごとく止まりけり
浜菊のみな海を向く日和かな
秋濤に溺るるごとき礁かな
交錯すテトラポットの秋日影
玉の日の沖へしりぞく秋の浜
いま下りてきしと秋嶺指されけり
偕老と笑ひとばして蓮根掘る
雲居模すてふ石庭の苔涼し
萩叢を踏んまへ立ちし大鳥居
天狗岩ぬつと顔だす紅葉山
力石抱擁したる小春かな
鉢ならべ迎賓館へ菊の道
水庭の径はさながら石蕗ロード
盆菊の百景競ふ握舎かな
パノラマに翠黛展べて秋澄める
秋嶺を越えゆく雲の遅速かな
入れ代はり立ち代はりして道をしへ
足弱の一歩一歩に道をしへ
風倒木逆立ちて湖澄めりけり
吊橋に山峡の秋聞きにけり
四阿は丸太造りやお花畑
澄む水にでんぐりがへる亀をかし
岩に噴く秋水吾を洗礼す
山路いまみつば躑躅の切通し
庭滝の奏づに佇ちて春惜しむ
高枝をこぼれては啼く四十雀
蘭亭の簷牙に触るる竹の秋
あらぬ辺に出し筍の頭撫づ
若楓瑞々しき日こぼしけり
曲水の庭へ散華す桜かな
碧潭の山湖を包む新樹光
園百花春闌と謳ひけり
眼福や落花打ち敷く大通り
花下微笑せる彼女らは青畝門
白杖の汝と腕組み青き踏む
青畝師を偲びて花下に集ひけり
池鏡落花浄土といひつべし
湖翠へと風の誘ふ落花かな
踏み惑ふ池塘の落花畳かな
春舘百寿の梅といふ大画
白無垢の玉しづく否しだれ桃
泥地獄ほじくり返し蓮を植う
両足のバランス大事蓮を植う
狼藉のごとき足あと蓮植うる
ぬき足しさし足しては蓮植うる
ロボットの歩むに似たり蓮を植う
大股に歩むは危険蓮を植う
蓮植うるたたらを踏めば万事休
風倒木水漬きて苔の花浄土
春愁や閻王と目のあひてより
われよりも若しと思ふ寝釈迦かな
まどろみの如くに涅槃したまへり
虎も威をうち捨てて哭く涅槃変
裾の辺に異な虫の這ふ涅槃絵図
読経いま寝釈迦覚めよと堂に満つ
涅槃変魑魅魍魎も紛るべし
燭ゆれて寝釈迦身じろぐかと見たり
朱の堂の要に金の寝釈迦かな
膝行し大涅槃図に侍りけり
早朝のお堂にはまだ誰も人影なく堂守の所化僧が一人だけでしたのでちょっとお喋りしました。今日は俳句の仲間と一緒に涅槃図を拝観させていただくことをお話すると、絵解きの事が書かれた資料をプレゼントして下さいました。
それを読んでとても興味深かったので、ぜひ皆さんにも読んでいただこうと考えてコピーを作成しました。PDF ファイルになっていますので、印刷してお読みください。
自らの旅(人生)の終わりまで精一杯生きよ、という釈迦の教えやその生涯は、キリスト教のイエス・キリストのそれとよく似ていると感じました。 ただ、死後の世界観が永遠の命が約束されているキリスト教に比べて、死んだらおしまいだとする仏教の無常観はちょっと虚しいと思いました。
涅槃会はお寺によって3月15日に行われるところもあるようですが、中山寺では毎年2月15日に行われます。 ぼくの涅槃、寝釈迦の作品はみなこの中山寺で詠んだものばかりですが、ちょうどよい機会だと思ってまとめてみました。
五大洋描くなぞへのいぬふぐり
いぬふぐりみんな私を見てをりぬ
照れば躁翳れば寡黙いぬふぐり
遠足の子らに句帳を覗かるる
玉の日に髻解けし牡丹の芽
啓蟄の蟻さんかしらこんにちは
啓蟄や水底に吹く泡はなに
蒼天へ賛美してをる芽吹き山
ここもまた猪の狼藉春山路
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