2022年6月

目次

素十俳句研究まとめ Feedback 合評を投稿

やまだみのる  

素十俳句研究の作品は、倉田紘文著「高野素十の世界」に掲載されている<高野素十作品二百句抄>から引用させていただきました。この書には「高野素十論」という文章も掲載されていて素十の俳句生涯を詳しくわかりやすく分析されている。素十俳句の本質を理解するためには必読の書と思う。

全文の転載は出来ないのでダイジェストにしてご紹介し、素十俳句研究のまとめとさせていただきます。

1.『初鴉』の世界---愛の凝視

高野素十の処女句集『初鴉』の序に高浜虚子は、「磁石が鉄を吸ふ如く自然は素十君の胸に飛び込んでくる。素十君は画然としてそれを描く。文字の無駄がなく、筆を使うことが少なく、それでゐて筆意は確かである。句に光がある。これは人としての光であろう」と書いている。

中略

この強力なる虚子の推挽の意に叶うものとして次の句があげられる。

朝顔の双葉のどこか濡れゐたる

この句は昭和四年の作。「私が俳句に入ってから、とにかく客観写生と云うことを志して、ただ物を精密に --目や耳を通して精密に-- 観察しようとして歩いた」「修行の道としては初めから大作などを描こうという気を起こさずに、先ず一木一草一虫を正確に見るということが必要」・・・これが当時の素十の俳句に対する処し方であった。

後略

2.『雪片』『野花集』の世界---写生の自在

「よかれ悪しかれ写生といふ事をただ一つの信条として、その時々に一生懸命に作った」

第二句集『雪片』の跋文で素十はこう述べている。これは処女句集『初鴉』の自序「私はただ虚子先生の教ふるところのみに従って句を作ってきた。工夫を凝らすといっても、それは如何にして写生に忠実になり得るかといふことだけの工夫であった」の延長線上にある言葉である。

中略

『野花集』の巻頭小言に、「もっとも大切なのは、写生といふことにしっかりと肝を据ゑることである」とある。この一途でひたすらなる志向が、大いなる俳人を生むのであろう。

後略

3.「芹」の時代---写生の深化

昭和三十二年に俳誌「芹」は創刊された。「俳句の道は ただ これ 写生。これただ 写生」「写生は志向であり実践である」が、その所信表明であった。それは会津八一の、

芸術は論ずべきものではなく、作るべきものなり。作るにしても自分で芸術だなどといふ自覚のない人---あってもその自覚のないときの作に、ほんたうの芸術あるべし。ややもすると、議論や主張が先に立つやうな人に、ほんたうの芸術が出来る筈もなく、また出来たためしなし。それ故に私は芸術家と看板をかけたやうな顔をして居る人を好まず候。芸術はつくるべきよりも見出すべきなりと信じ居る私にとりて最もいとふべきものは『芸術家』の芸術談にて候

の考え方にも同感してのことである。

そして更に、素十は「私は『俳句は花鳥諷詠の文学なり』といふ言葉を肯定し且つ満足してをる人間であり、四十年経った今日でも私はただ写生を、客観写生を信奉する一老学徒として満足する」と述べている。

後略

4.復刊「芹」の時代---命の投影

対象の凝視に徹し、「ホトトギス」客観写生派の宿将として知られた鈴木花蓑の<頂上や淋しき天と秋燕>の句を病床に思い浮かべながら素十は他界した。昭和52年10月4日朝5時であった。

復刊「芹」昭和51年7月号の近詠に、<天の川西へ流れてとどまらず><わが星のいづくにあるや天の川>の句を素十は発表しているが、これはその師虚子の<虚子一人銀河とともに西へ行く><われの星燃えてをるなり星月夜>の句を心に置いての辞世の挨拶であったに違いない。

悲しみのあり枯山に来たりけり

<帷子の膝うすうすと我が身かな>・・・大病の後ろに再び歩み寄ってきた現実世界での一人の人間としての悲しみである。それは揚句の「枯山」にも似た悲しみであり、病後の身の生きることの悲しみである。

だから、<頂上や淋しき天と秋燕>の敬愛する先輩花蓑の句を病床で思い浮かべたのも、<わが星のいづくにありや天の川>と詠んで亡き師へ心を馳せたのも「生」の悲しみを通して「死」への思いを述べたのであろう。

その抑えがたき「生の悲しみ」が、素十の「抒情拒否」の厚い壁を打ち破って、句に表れ、言葉となって出てきたのである。そして、その悲しみについては、「芸というものはうしろに悲しみがなければならない。うしろに悲しみのない芸は本当の芸ということは出来ないだろう」という棟方志功の言葉に強く肯いているのである。悲しみを悲しみとして受け止めつつ、そこに一つの美を見つめようとしているのである。もともと素十は情の俳人であったのである。

蟷螂のとぶ蟷螂をうしろに見

これが素十の絶句である。これまで書いてきたように、晩年においてのその傾向は心情的であった。しかし、この一句はどうだろう。八十三歳のその命の果つる最後の一句の、その最後の一字が「見」なのである。客観写生俳人としての恐るべき執念の、その双眼をギラつかせての凝視であった。

客観写生真骨頂漢素十の全生命が「見」を以て幕を閉じたのである。

素十の成功した句は他の誰よりも俳句という文学ジャンルの固有の方法をつかんでおり、いわばその俳句そのものと言うべきであって、現代俳句の大高峰をなしている

これは山本健吉の「現代俳句」の中の高野素十に対する一節である。

合評の学びを終えて(読者の感想)

蟷螂のとぶ蟷螂をうしろに見 Feedback 合評を投稿

高野素十  

(たうらうのとぶたうらうをうしろにみ)

句意としてはみなさんの合評のとおりだと私も思います。素十の蟷螂はいわば枯蟷螂なのでとぶことはなく、元気に活動している弟子達を「とぶ蟷螂」だとするうつぎ解が正解かもしれないですね。紘文氏の鑑賞文があるので明日のまとめの記事で転載します。

素十俳句合評は、本句をもって終了とします。おつかれさまでした。ご協力心から感謝します。素十俳句合評の学びを通して得たことなどの感想文を短くまとめて明日の記事に投稿してください。

合評

わが星のいづくにあるや天の川 Feedback 合評を投稿

高野素十  

(わがほしのいづくにあるやあまのがわ)

死期を悟った作者は夜な夜な空を仰いでは亡き死虚子に思いを馳せたのだと思う。辞世の句として詠まれたと思われる作品なので、実景写生であるか否かを問う必要はないと思う。「西へ流れてとどまらず」は虚子のもとへと旅立つ日が近づいているという素十自身の気持ちであろう。「わが星の」の句には、虚子の星の近くであることを切望する気持ちが溢れています。

合評

天の川西へ流れてとゞまらず Feedback 合評を投稿

高野素十  

(あまのがはにしへながれてとどまらず)

揚句は、上記の句とともに素十の辞世の句と称されるものですので併せて鑑賞してください。

寺清浄僧等清浄夏めきぬ Feedback 合評を投稿

高野素十  

(てらしやうじやうそうらしやうじやうなつめきぬ)

「しょうじょう」とるびが振ってあったわけではなく私が勝手に書きました。実際はどうなんだろうと調べたのですがよく分かりませんでした。禅寺の夏行風景かもしれないですね。羅仕立ての法衣はより清浄な感じがします。

素十俳句も残すところ3句になりました。辞世の句といわれているものが2句と絶筆句です。

合評

蝌蚪二三をりをり水の深きより Feedback 合評を投稿

高野素十  

(くわとにさんをりをりみずのふかきより)

みなさんの合評通り、おたまじゃくしは成長とともにえら呼吸ができなくなって酸素補給のために水底から浮き上がってくるのですね。雨も降っていないのに隠沼に水輪が発生しているのを不思議だなと思った幼い頃を思い出しました。

合評

右にとけ左にとけて花芒 Feedback 合評を投稿

高野素十  

(みぎにとけひだりにとけてはなすすき)

右にとけたり左にとけたりという表現からすると穂芒の葎が気まぐれな秋風に揺れている様子が見えるようですね。

合評

袂にもとまりて蛍放ちの夜 Feedback 合評を投稿

高野素十  

(たもとにもとまりてほたるはなちのよ)

昭和45年5月19日に京都で発病した素十(77歳)は7月下旬に退院、その後は南知多病院にて療養していた。その後昭和47年10月に神奈川県相模原市に移り住んでいるので、この句は、せいじ解にある鶴岡八幡宮での蛍放生祭の写生と思われる。ネット情報によると、夕刻より舞殿で神事が行われ巫女の舞が披露されたのち神職たちによって柳原神池に蛍が放たれます。放たれる蛍は、ゲンジボタルで神池の森一帯に、星みたいに飛び交う光景は、まさに神秘的だとありました。

合評

立待の月の芒の正しさよ Feedback

高野素十  

(たちまちのつきのすすきのただしさよ)

立待月を待っている素十の前に、まっすぐに活けられた芒が美しく穂を解いている。その揺らぎのない姿が「正しさよ」であり、それはそのまま素十自身の高潔な心のあり方をも象徴している。

合評

帷子の膝うすうすと我身かな Feedback

高野素十  

(かたびらのひざうすうすとわがみかな)

脳血栓としか紹介されていないので直接的な原因などは不明だけれど、お酒が好きだったので食生活の不摂生もその要因を作っていたのではないだろうか。その食生活も病後は厳しく管理されていたのかもしれないし体調がすぐれないと食も進まないのでやせ細ってしまったのでしょう。帷子は麻などで仕立てられた単衣なので特にそう実感したのです。「我身かな」と客観視した表現に素十らしさが表れていて、うつぎ解にあるように頑張ればまた元気になれるのではないかという希望もいただきつつ、病後の身の不安も払拭できないという葛藤が感じられる。

合評

一日の行夏川を見て戻る Feedback

高野素十  

(いちじつのぎやうなつかはをみてもどる)

復刊「芹」で発表された作品なのでリハビリ中の日常を詠んだのだろうということは理解されやすい。けれども夏川を見たというだけだと春川でも秋川でもいいことになるので季語が動く。そこで素十はひと工夫して「行」と表現したのかな考えました。つまりはリハビリを自分自身の「夏行」だと見立てたということではないかと想像しました。うまいですよね。

倉田紘文氏の著書によると素十の発病とリハビリについて次のような記述がある。

昭和45年5月12日、素十は山科の自宅で突然発病した。脳血栓。19日京都日赤病院入院、7月27日からは門下田中緑風子の南知多病院の離室に迎えられ、ここで2ヶ月余り療養する。主としてリハビリテーションであるが、緑風子の課した習字をはじめとするメニューをきちんと消化し、模範的な患者であったと言う。

病状は順調に回復し、翌46年に「芹」復刊の議が起こったそうだ。先の春風の句といいこの句といい、いずれも復刊を目指して真剣にリハビリに取り組んでいる素十の熱意が伝わってくる。

合評

桑庫のがらんとしたる二人かな Feedback

高野素十  

(くわぐらのがらんとしたるふたりかな)

この句の鑑賞に関しては季語から入るのではなく一句全体から季感を探ってほしいです。養蚕ができる季節は、桑が生えている5月〜10月。春に育てる蚕を「春蚕」といい、夏期の夏蚕を経て晩秋の秋蚕まで続きます。したがって桑庫が空っぽになったということは、この句の季感は秋蚕がすべて繭となった晩秋だということになりそうですね。今年の養蚕もようやく無事に終わり、安堵と云うかその生業としての達成感の余韻に浸っている二人の姿でしょう。年齢までは見えてきませんが、大規模ではなくて本業である農業の傍らにほそぼそと養蚕を営んでいる清貧な夫婦という感じがします。

合評

春風に家を出でたる数歩かな Feedback

高野素十  

(はるかぜにいえをいでたるすうほかな)

家を出て数歩歩いたところで立ち止まったときの感興だとする意見が多いようですね。そうともとれますが私は、はじめから試歩として数歩だけという約束ではなかったかと思いました。まだまだ冷たい早春の風は予後の身体にはよくないので家人から「数歩だけにしてくださいね」と忠告されていたのではないでしょうか。少しづつ回復に向かっているという喜びも感じますね。

合評

悉く繭となりたる静けさよ Feedback

高野素十  

(ことごとくまゆとなりたるしづけさよ)

うつぎ解にあるように毎日かいがいしく蚕の世話をするのは、子育てのような心理に似ていますね。ひとつ二つと繭となりやがてすべての蚕が繭となって籠もっています。ようやく子育てが終わってやれやれという安堵感が伝わってきますね。この句の詠まれた時代はまだまだ養蚕も盛んであったと思います。小学生の頃学習として好奇心いっぱいに蚕を育てやことが懐かしいです。むかし紫峡先生に誘っていただいて吉野の山でアマゴの養殖と天蚕を育てておられる方を訪ねたことがあります。確かに「愛おしい」とおっしゃっていました。

合評

雨だれの棒の如しや秋の雨 Feedback

高野素十  

(あまだれのばうぼごとしやあきのあめ)

「去年今年貫く棒の如きもの 虚子」の句を踏まえて詠まれたような気もします。句の意味としては「何の変哲もない棒のようなもの、それが去年と今年を貫いている」ということになりますが、この句に詠まれている「棒」は、虚子の中にある「信念」のようなものではないかと思うのです。 確かに「棒の如し」と言われればもはや雨だれではないのですが、蕭条と降りつづく秋の長雨に虚子の教えを信じて貫いてきた素十自身の俳句人生に思いを馳せているようにも感じます。

合評

ばらの虻響きをたてゝ我にとぶ Feedback

高野素十  

(ばらのあぶひびきをたててわれにとぶ)

虻や花虻のたぐいは春に季語としても存在します。したがって「花虻の薔薇に・・・」と詠むと季語が分散されてどちらに焦点があるのかが曖昧になるので「ばらの虻」というふうに詠むというのが俳句づくりの常套手段なのです。一見蜂とよく似ているので怖いですが、虻と分かれば刺激しないようにしていれば刺されることはあありません。虻といえば大きな翅音が特徴ですね。「翅音をたてて」とせず「響きを立てて」と詠んだところが非凡で、大きな翅音であることがわかりますね。自分に向かって飛んでくる虻を静かに立ち止まってやり過ごしている作者の姿見見えてきます。

合評

春昼のみ仏に人現はるゝ Feedback

高野素十  

(しゆんちうのみほとけにひとあらはるる)

春昼の季語がどう働くのかを考えるとちょっと難しい句ですね。むべ解、せいじ解にあるように白日夢のようにも思える。一度は死を覚悟した作者は、闘病中にも同様の体験をしたかもしれないが、情に厚い作者は、自分の人生に関わった故人への思いは常にあったと思う。春昼のみ仏の前の座していると瞑想裡に懐かしい故人が現れたという感じに捉えてみた。

合評

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