四日市大学・健康科学研究室の高島教授から依頼があり、下記の三句を推薦しました。
力石銀杏紅葉をしとねとす (さつき)
力石試す人なく灼けにけり (よしこ)
末枯の野にごと転ぶ力石(雅流)
下記の二句はすでに推薦済みで、うつぎさんの句は既発行の本に載っています。
力石否冬瓜の売れ残る(うつぎ)
力石ひびに触れもす愁思かな(なつき)
高島教授に推薦するためには、吟詠地を連絡する必要がありますので、想像で作った虚構の句はだめです。必ず吟行で詠んだ実景であること、みのる選に入選していることが条件になります。
句の作者には、当該作品が掲載された立派な本が贈呈されるようです。ぜひ、頑張ってみて下さい。
"オフラインでの句会と同じ雰囲気をネット上で実現させる"
これがみのるが意図している毎日句会の仕組みです。実際の句会では投句、選句、披講、講評、閉会後の交わり・・という流れですね。句会場に入るときも互いに挨拶を交わします。
毎日句会の部屋に、ひとこと掲示板を作ったのはそのためです。長いコメントは不要です。ひとことでいいので、あしあとを記すようにして下さい。短いひとことの挨拶で慰められたり勇気を得たりするものです。是非ご協力下さい。
虚子俳話を Tumblrに書き込んでいて、面白い記事を発見。
ある日何かの句会で吟行に行ったとき、あちらこちらと歩きたがる私たちを虚子先生は戒められて、
「誰でも吟行をするとき、吟行の『行』の字に重きをおいて、一ヵ所に落ち着いて物を見ずにとかく歩きたがるものですが、追々と作句の力が進んでくるにつけ、落ち着いて物を見るようになって行の字よりも『吟』の字に重きをおくようになります。」
といわれた。
みのるがいつもみなさんに助言していることと同意なのですが、さすがに虚子先生はユニークな表現ですね。
昨夜からしっとりとした雨が降り続いています。この雨がやむと一気に開花が加速することでしょうね。
秀句鑑賞の原稿を書いていると懐かしい光景が蘇ってきます。 子規、虚子の書を読み、紫峡師の教えを肝に銘じ、青畝師の薫陶を支えに走ってきた30年を思い出すからです。
子規は、一万句詠めば俳人と呼ばれるレベルになれると言いました。つまり多作多捨を説いたのです。紫峡先生からは、写生に徹すること、表現力と季語の本質を学ぶために先人の句を読んで覚えなさいと教えられました。
そして青畝先生からは、本物の俳句のこころと俳句のよろこびを学びました。その答えはまさしく四時随順です。ひいらぎの記念大会のときに青畝師が色紙に書いて下さったのがこの四字熟語です。
正しい意味や解釈についてはわかりません。 四時(四季)の移ろいや自然の営みに心を遊ばせ、そしてその心は、摂理に逆らわず、素直に、いつも喜んでいること。青畝先生は私たちにそう伝えたかったのでないかと、ぼくは思っています。
ところで、虚子俳話を読み直しながらところどころを抽出して、Tumblrの四時随順に書いています。
Feedback でのお励ましを感謝します。反応があると喜び、ないと落ち込んで書かなくなる。意外と単純なんです(^_^)
ところで、管理人みのるへ Feedback する方法は、三種類あります。
管理人としては談話室に書き込んで下さるのが一番嬉しいです。ホームページの活性化にもつながるからです。他の人には見られたくない個人的な内容の場合は、メールフォームかダイレクトメールを使って下さい。メールフォームで送って頂いたものは、内容によっては日記とかで紹介させていただくことがあります。
以上は、あくまで原則論です。あまり神経質になる必要はありません。扱いやすい方法で結構です。
毎日句会の『ひとこと』は、Twitter風にも使えるので、どしどしつぶやいて下さい。
四時随順に虚子俳話を四題ほどアップしました。
高野素十が虚子にこう問いました。
又一つせんべいの蝿五家宝へ 素十
この句は先生の選にもれたが、品の悪いところがいけないんですか。
虚子曰く。
品もよくないが、それよりも正しい興味ではないように思われてとらなかった。もっとも一概には申せぬが。
私たちも十分気をつけてチェックしないといけないポイントだと思う。知らない間に意外性とか受け狙いの句を詠もうという意識になっていないでしょうか。 『なかなか俳句がうまくならない』というのは、この正しい興味から脱線しているからです。
正しい興味で詠まれた作品はたとい表現がまずくても添削して採れます。けれども、そうでない場合は添削のしようがないのです。言葉を知らないから・・と諦める方がおられますが、表現力というのはあせらずとも経験を積んでくれば自然に身につきます。それよりも感性を『正しい興味』になるように訓練することの方が大事なのです。
そのためにはまた、正しい鑑賞力を身につけることがなによりも大切です。英会話では、聞き取りがとても大事だと言われます。聞き取りの能力を超えてはしゃべれないからです。俳句も同じで、まぐれのケースをのぞいては鑑賞力以上の句を詠むことは難しいと言えます。
秀句鑑賞、GH四季選集のページ頑張りましょうね(^_^)
今日はスワン吟行で太閤園のお庭を吟行しました。あいにくの雨でしたがとても風情のある見事なお庭に魅せられて時間を忘れました。近詠にアップしましたのご覧下さい。句会では、みのるの句をたくさん採っていただいたのでルンルンです(^_^)
さて、好評の秀句鑑賞ですが、基本的に一日一句のペースでアップしていきたいと思います。ぜひ感想をお寄せ下さい。
GH四季選集のほうは、毎日句会が再開した2011年のみのる選から順に再選していきます。 取り急ぎ、2011年1月度の選を済ませてアップしました。この企画が継続できるようにお祈り下さい。
秀句鑑賞のページの操作性が思いのほかいいので、以前から考えていた GH四季選集のページも同じプログラムを使って作りました。このページも更新情報に反映されます。
当面は、2011年に再開した毎日句会みのる選から再選していこうと思いますが、GH定例句会やスワン吟行句会のみのる選のなからも随時抽出していきます。
レベルアップのためには鑑賞や選句の力がとても大切なことを言い続けていますが、 これまで具体的な事例がなかったので、これからはこのような企画も増やしていきたいと思います。
俳句鑑賞についてみなさんが興味を持って下さるようになったら、鑑賞文の投稿ページも設置したいと思います。
俳句鑑賞のお手本になればとの構想で阿波野青畝師や小路紫峡師の作品を対象に秀句鑑賞のページを公開してあったのですが、その他の作者の作品も含めて一日一句ぐらいのペースで更新していきたいと思って新しくプログラムを作ってみました。
掲示板のような仕組みで管理人だけが書き込みできるものです。ページのフォーマットは、清水哲男氏の 増殖する俳句歳時記 を真似てみました。鑑賞文の最初の一文字を大きく表示させるのに工夫が必要でしたが、何とかうまくいきました。
先にご紹介した紫峡師の Q&A 記事にもあるように先人の作品に学ぶことはとても大切です。更新情報にも反映させていますので、ぜひこのページを愛読して下さい。
また将来このシステムを活用して、GHメンバーが自由に鑑賞文を投稿出来るページも追加できたらと願っています。
ゴスペル俳句のサイトが WEBでどうのように評価されているかを知るために時々検索して調べています。 多くの俳句関連サイトにリンクされていることは既に知っていましたが、 蕪村顕彰俳句大学 というホームページに『俳句入門講座』がリンクされていて驚きました。このテキストはそこそこ利用されているみたいです。
もうひとつの発見ですが、朝日カルチャーで俳句を学んでおられる、 矢田けいさんの日記ブログ に、やまだみのる氏の『ゴスペル俳句』でヒントを得たり・・という記事が見つかりました。 まったくご縁のなかった方ですがうれしい内容でしたのでご本人の了解を得て記事の内容をご紹介します。
やまだみのる氏の「ゴスペル俳句」でヒントを得たり
俳句が上手になる方法はないかと WEBを探していたところ、ゴスペル俳句なるホームページを発見しました。 教会でボランティアをされている「やまだみのる」さんが主宰で、阿波野青畝先生に師事されていたようです。同氏のブログ中に、なるほどと思った記事があるのでリンクしておきたいと思います。
http://www.gospel-haiku.com/hl/spirit.htm#i4
「作ろうという意識を捨て心を無にして自然に対していると、必ず自然のほうから語りかけてきます。この感動をことばに写すのが俳句なのです。」 同氏のブログの他の個所も拝見したところ、自然の景からの刺激を助けにして、その感動をことばに表すということだそうです。
さまざまな入門書で、俳句は自然の客観描写であると言われ、また、心の動き・感動が詠いこまれているとも解説されています。形容詞を使用すると説明的になってしまうとも指摘されています。 どうやって、これらのポイントをまとめたらよいのだろうと考えていたところ、上記のホームページの記事を拝見して、腑に落ちました。
やまださんはキリスト教信者のようで、自然との接し方として、聖書を活用されているようにお見受けします。 私は特定の宗教に関心がありません(高分子生物学の信奉者)が、同氏の解説はとてもわかりやすいと思うので、今後も参考にさせていただこうと思います。
結社ひいらぎのホームページに紫峡主宰へのインタビューのページがあります。その中で興味深い Q&A が掲載されていたのでご紹介しておきます。GHメンバーには耳慣れた内容だと思いますが・・・(^_^)
「実感の的」の手ごたえ
Q:実感で作ったと思う句でも、後から振り返ると感動の表されていない説明の句になっていることがあります。最近時々、自身のいわば「実感の的」の手ごたえを忘れそうになることもあります。そのような時、どんなことを心がければよいでしょうか。A:やはり基本は「発見や驚きなど、実感を具体的に、わかりやすく表現すること」です。そのためには、本当によく見ること、深く見ることが欠かせません。そうすれば感動は対象からあなたの中に飛び込んできます。二、三十分はしっかり物を見ること、この基本姿勢を貫くうちに、自分の「的」は自ずと見えてきます。そうすることにより「的」に当たるようになります。 以上は私自身の歩みを振り返ってもわかることです。 俳句を作る者は、進む度に壁に当たるものです。あせってはなりません。基本姿勢を崩さず実作を続け、一歩ずつ進んでいってください。
(ひいらぎのホームページより転載)
「具体的な表現」法
Q:俳句を作る上で先生はよく、「物を見て実感を具体的に表現すること」と教えられます。以前も「具体的な表現」についてうかがったことがありますが、多作と同時に「具体的な表現」法を身につけるためにはどのような勉強が必要でしょうか。A:先達に学ぶ事は大切です。高浜虚子・阿波野青畝先生の句集、ホトトギス四季選集を熟読することです。虚 子先生が「写生」を唱えられたとするなら、青畝先生は「実感」を唱えられました。また近年、具体的な表現を実践し、かつ指導できる人が少なくなってきています。本で学ぶだけでなく、やはり自分の実作に対して指導してもらうことが不可欠と言えましょう。
(ひいらぎのホームページより転載)
メンバーの Tさんは、よく日記のフィードバックを書いて下さるのでいつも感謝です。文章を書くことも好きなのでフィードバックでの反応があるととても励みになります。
日記記事の末尾右端に、「Feedback」というリンクがあります。そのリンクをクリックすると Feedbackの投稿フォームがでますので何度でもお気軽に投稿して下さい。"読んだよ" というひと言でも OKですし、内緒の質問などでも構いません。
はじめて GHを訪問して下さる方のために少しずつですが関連ページの内容を見直しています。
初心に帰る・・・という意味でメンバーのみなさんも是非もう一度お読み下さって感想をお寄せ下さい。忘れていたものを思い出していただけるかも知れません。タイプミスなどが見つかったら教えて下さると助かります。
上達への近道 / 作句の壺 / 心がけ のページなどもときどき読みかえして下さるとスランプ脱出の一助になると思います。
一口に推敲といってもなかなか難しいですね。詠んだばかりの句を推敲するのはさらに困難ですが、少し日にちをおいてから見直してみると案外句の欠点がよく見えるものです。
ぼくはいまでも夜ベッドに入って眠りにつくときにその日一日の出会いを思い出しながらふと名句?が浮かぶときがあり、記憶が消えてしまわないうちにとメモしておきます。ところが翌朝になってそのメモを読み返してみるとなんと言うことはない駄作に変わっている・・・という体験が少なくありません。
一方で何でもないような平凡な一句がひとことの措辞を見直すだけで実に味のある作品に変身することもあります。極端な場合、一文字を変えるだけでも見違えるような句になるという経験は誰にもありますよね。推敲するということは駄作を名作に変える裏技のようなもので、上手だと言われる作者はみなこの推敲作業を大切にしているのです。
上手に推敲する秘訣は、いろんな言葉や佳句のリズムを覚えることです。辞書を見て難しい言葉を記憶することではなく、どのようなシチュエイションでその措辞が使われているかということを学ぶことが大事なのです。その学びのためには、如何にたくさんの作品を句を覚えているかということで、好きな作家や著名な作者の作品をできるだけたくさん鑑賞することで言葉の引き出しが増えていくのです。
昨日の吟行でみのるが詠んだ作品を例にちょっと説明してみましょう。
ものの芽を励ます雨と思ひけり
はじめは、『ものの芽を促す雨と思ひけり』でした。『促す』と『励ます』との微妙な雰囲気の違いがわかるでしょうか。
川幅に春光展べて洗ひ堰
この作品、たくさんの方に採って頂きましたが、最初は、『大川の堰一文字風光る』でした。客観写生としてはこちらの方が忠実ですが、『川幅に春光展べて』によって作者の小主観が感じ取れる表現になったのではないかと思います。選者の感覚によって好みが分かれると思うのでどちらが良いとか悪いとかはいえませんが、みなさんはどう感じられましたか。
作品の巧拙はともかく、推敲によって随分作品の味わいが変わると言うことはわかって頂けると思います。 つまり、推敲することでより作者の個性が滲み出ると言うことでしょうかね。
吟行で作句するときに陥りやすいトラウマがあります。
『今日は○○梅林へ行く』『今日は○○寺の涅槃図を見に行く』『今日は奈良へ行く』『今日は○○の桜名所へ行く』『雛人形を見に行く』等々、吟行には、おおよそ対象となるメインテーマがありますね。じつはここに落とし穴があるのです。』
句を詠む対象への関心がテーマのみに支配されて、無意識のうちにテーマ以外のものには目が開かれていないことが多いです。せっかくよい句材と出会っているのに見過ごしている・・・もったいないですよね。
移動中の電車やバスからの窓景色や目的地まで歩いて行く道中にも句材は沢山あります。この時間帯にも心を研ぎ澄まして俳句モードにしている人と、油断してぺちゃくちゃお喋りしている人とでは自ずから結果が変わてきます。
吟行のメインテーマとなる句材は、どうしても佳句を詠みたい・・・という意識が強く働くために得てして理屈の句になりやすいです。つまり心で感じる前に頭で考えてしまうという弊害に陥るのです。
俳句は、一期一会の出会いによって授かるもの
心を無にして興味の湧く対象との出会いを待ち、具体的に感動が湧いてくるまで時間を掛けてその対象物と対峙します。見たままをいきなり写生するのではなく、心が動くのを待ってその思いを17文字で表現するのです。
ぼくは結社時代の吟行句会では、あえてメインテーマを避けて句を詠むようにしていました。メインテーマの句材は誰もが詠むので、よほど佳い句でないと選者の興味を引きません。みなが見落としているような句材を見つけて詠むと、多少稚拙な句であっても選者の目にとまることが多いと考えたからです。
誰もが気がつかない句材を探すには、幼子のような単純で素朴で且つ奇抜な好奇心を働かせます。例えば大涅槃図を前にしてその絵柄の中から句材を探すというのは常識です。 常識的な視点からはありふれた月並みな作品しか生まれず、知らず知らずのうちに類想句を詠むことになります。
涅槃図の裏側へ回ってみたり、丸太のような芯棒に興味を注いだり、吊り下げている天井や梁を仰いでみたり、絵解きをしている僧の所作や表情を観察したり・・・というような視点で心を遊ばせると必ず新鮮な発見があると思います。
徒らに奇をてらってみたり、日本語としてちょっと疑われそうなちぐはぐした措辞を得意としてみたりして、俳句を俗人には判らぬようにして、仲間の少数人にとっては非常に斬新極まるスタイルと構想であるかのように装う俳句というものがあるけれども、私はそうした難解な俳句に一向頭を下げようとは思わない。
大言壮語は素人をおどかすのに都合がよい。しかし真に人の生命をゆりうごかすものではない。 私らは人の生命をゆりうごかそうと念願する。それには表現という問題が一番大事になってきて、いいかげんなことで大言壮語を放ち、瞞着してはいけないのであって、ほんとうによくこなれた言葉が生まれるまで、自分を責める、自分の工夫をあくまでもやりとおす覚悟である。これは実に地味な仕事で、しんぼうの要することと思う。
上記はいづれも青畝師のお言葉ですが、正しい吟行の姿勢さえ見失わなければ、こうした悪癖に惑わされることはないはずです。
あなたは、土を割って出ようとするものの芽や啓蟄の穴、蟻さんが巣穴を出入りする様子などを、鼻がぶつかりそうなくらい咫尺に観察したことがありますか。子供達ならきっとそうするでしょうね。 動物園のなまけものが動くまでじっと待つ忍耐力がありますか。人の生命をゆりうごかすほどに共感を与えるような句を詠む秘訣はそのあたりにあるのです。
来週はスワン吟行ですね。ぜひ新しいスタイルに挑戦して下さい。
今年から、GH定例句会とスワン吟行句会との位置づけを明確にするために GH定例での呼びかけ吟行はなしにします。 別の日に吟行して詠まれた句を出句されてもいいですし、グループでミニ吟行をされても構いません。そのあたりに制約はなく、単にみのるが言いだした吟行先にみなさんをお誘いするという感じでの吟行はなしという意味です。
みのる選に関して言うと共に吟行された方とそうでない方の作品とでどうしても不公平が生じやすいからです。もちろん意図しているわけではないのですが、結果としてやむを得ない傾向だと思います。
以前からも変わらないのですが、GH定例の場合は欠席投句も OKにしています。句会を休まない方がいいので不参加の方は欠席投句するようにして下さい。一方、スワン吟行句会の場合は、吟行で詠んで句会をするという訓練ですから欠席投句はありません。 このへんもよく理解して頂いて使い分けて下さい。
勿論、無料添削は何時でも、何句でも OKです。 句会での成績が振るわなかった方は、句帳に残っている句を全て添削用紙に書いて送ってきて下さい。
吟行した作品は句帳に残さず、全てみのる選(添削)を受ける。
ぜひともこれを実行して下さい。
吟行句会の時によく手もちの作品をもってくる方がいらっしゃいます。(俗に保険を掛ける・・といいます) この場合、吟行当日に必死さが生まれず集中できないので大抵の場合、吟行句が詠めません。 このパターンを繰り返しているとまず上達は望めません。
句会で没になっても恥ずかしいことではありません。毎回、ごく平凡な平均点の入選作品を得るよりも、3回に1回でもいいからホームランの句を目指して励む方が遙かに価値があります。俳句は個性が勝負です。自分にしか詠めないという豊かな感性の句を目標にして下さい。
解禁のいかなごを買ふ番号札 → 整理札貰ひいかなご買ふ列に
原句だと番号札が主役になる。出来るだけ一人称になるように推敲しましょう。
隆隆の幹より芽吹き糸柳 → 隆々の瘤より芽吹く柳かな
『隆々の幹』はやや無理な措辞。芽吹いて糸柳になったというのは理屈になる。
春の雨傘もささずに百度石 → 春雨や傘もささずに百度踏む
百度石は傘をささないですね。
堰落つる音軽やかに水温む → 堰落つる水音もまた春の声
水音に心が動かされたと思うので水温むの季語は不適切。
添削指導の意味、意義を勘違いされているケースが多いので説明しておきます。
添削というのは写生表現のテクニックを補助する作業です。そのために、その作品が添削するに値するか否かをまず最初に判断します。季感と感動とをしっかりとらえている作品であれば、それをより具体的な表現にするために添削して手を加えます。
理屈の句や頭で考えたと思われる虚構の作品からは感動や実態が見えてこないので添削できません。添削というのは作者の代わりに感動してあげることではないからです。もし指導者がそうした作品にまで手を加えると、それは作者の作品ではなく指導者自身の作品になってしまいます。
GHの無料添削指導は客観写生の訓練が目的なので、心象句もまた添削対象外になります。初心者が心象句を詠んでも季語の斡旋が的確でないケースが多く、大抵は自己満足の未熟な作品になりがちです。 繰り返し客観写生を訓練し、季語の持つ本質をしっかりと身につけた上級者となってはじめて、写生表現と季語のはたらきを通して深みのある心象を表現することができるのです。初学の訓練の間は。決して心象の句を詠まないということを僕は先生から厳しく指導されました。
すでに GHで学ばれている方も、初心に帰って、 無料添削 のページを読み直して下さい。また青畝先生の俳話 『わかる俳句を』 は、正しい俳句修業の心がけを教えて下さっています。 ぜひとも熟読していただきたいので 、以下に転載しておきます。
俳句は三尺の童子にみせても大意がわかるような表現を用いたほうがよいと思う。俳句の内部に潜んだ思想とか象徴とかいった奥行の深さについては、とうてい三尺の童子では理解できるはずはないが、表面に現れた事柄は、誰が見ても日本語が分かるように同じようにわかるものにしたいものである。
徒らに奇をてらってみたり、日本語としてちょっと疑われそうなちぐはぐした措辞を得意としてみたりして、俳句を俗人には判らぬようにして、仲間の少数人にとっては非常に斬新極まるスタイルと構想であるかのように装う俳句というものがあるけれども、私はそうした難解な俳句に一向頭を下げようとは思わない。
その代りに意味が誰にも判り、誰にも作れそうに感じられるくらい親しさをこめた俳句のうちで、よく味わえば味わうほど句のひろがりが無限につづくように思われ、その対象が自分の前にありありと立っており、それこそこの大宇宙の生命がこもっていると言わねばならぬ奥の深さをそれとなく汲みとられる俳句があると、私は逆上して嬉しくなるのである。
そして私らの俳句修行は、どんなにむつかしい思想でも素材でも構成でも、ほんとうに自家薬籠のものとなるまで自分の身の内で燃焼させてしまって、どんな鋳型へでもつぎこんだらその通りの形のものを造ることのできるような具合に、三尺童子を相手にしてうなづかせてみせる平易さのところまで表現の工夫をくりかえす----俳句修行はすなわちかくの如くあるべしものと考えている。
大言壮語は素人をおどかすのに都合がよい。しかし真に人の生命をゆりうごかすものではない。 私らは人の生命をゆりうごかそうと念願する。それには表現という問題が一番大事になってきて、いいかげんなことで大言壮語を放ち、瞞着してはいけないのであって、ほんとうによくこなれた言葉が生まれるまで、自分を責める、自分の工夫をあくまでもやりとおす覚悟である。これは実に地味な仕事で、しんぼうの要することと思う。
けれども俳句においても流行がある。流行をはばむことがあってはならない。うまく流行を善導する用意を怠けてはならないと考えるのである。杓子定規を持っていてはならぬという一語を付け加えたいのである。
(阿波野青畝著『俳句のこころ』より転載)
暖かい一日でしたね。テレビのニュースによると大阪城の梅も満開だということでした。明日は子午線句会なので JR須磨駅の近くにある綱敷天満宮へ吟行に行ってみようと思います。
ところで、今日は、朝から家内と二人で兵庫にある鐘紡百年記念病院の人間ドック一日コースに行ってきました。 詳しいことは検査結果待ちなのですが概ね致命的な所見はなく一安心です。
TOPページのキャッチコピー部分を少し変えてみました。
昨日今日とテレビでは、東北大震災関連の特集が放送されています。
震災後3年を経て、復興しているエリアもあるようですが、大部分はまだまだという感じです。瓦礫は片付いて更地にはなっていてもその後の復興は遅々たる感じで虚しさが募りますね。特に原発周辺の立ち入り禁止エリアは、全くの手つかずで3年前の様子と何ら変わらないようなところもあって身につまされます。
1.17のときもそうでしたが衣食住の環境は支援できても、家族を亡くされた方々の心の痛みは容易に癒やしがたく、私たちに出来ることはただただ祈るばかりです。
ところで今年は、3月6日が啓蟄でしたね。昨年末からなんとなく体調がすっきりせず、厳しい寒さも続いたのですっかり冬眠状態でした。でもそろそろ穴を出なければいけません。GHのホームページもあちこちほころびが出ているようなので修復しています。なっとく出来るような作品もなかったので近詠のページも途絶えていたのですが取り急ぎまとめて発表しましたのでご覧下さい。メールフォームの不具合は修正できました。
無料添削の申込やお問い合わせ用のメールフォームから送られたメールが GMAILのフィルタ機能で全て迷惑メールになっていました。 明日にでもプログラムを修正します。ご迷惑をおかけした方がいらっしゃると思います。ごめんなさい。
お急ぎの場合は、直接メールを送って下さい。
今週のみのる選より
代々の箪笥の上の雛かな → 古箪笥高御座とす雛かな
『代々の箪笥』とまでいうと箪笥と雛とに焦点が分かれる。
屋根にまだ残雪とどめ峽の駅 → 屋根落つる雪解雫や峽の駅
峡の駅に残雪では材料が揃いすぎて月並み。
造成地幕は紅白春の風 → 紅白の神事の幕に東風強し
紅白の幕に春風がはらんでいるように写生して欲しい。
霾りてゴーストタウンめきし町 → 霾るやゴーストタウンさながらに
タウン=町なので『町』は消した方がすっきりする。
堰音の野川のことに春めきぬ → 堰音の高鳴りてより春めきぬ
堰音だけに焦点をしぼる。『野川』までいうと焦点がぼける。
雛見せて開け放ちたる勝手口 → 雛の客へと開け放つ勝手口
道行く人に見えるように勝手口の戸を開放している・・という意図だと思うがやや無理がある。
カラカラとペットボトルの風車 → 機嫌よきペットボトルの風車
もう一歩突っ込んで・・・
竹筒に納まる子らの紙雛 → 竹筒に勢揃ひせし豆雛
竹筒に収まるほの豆雛ということが焦点かと思う。『子らの』『紙雛』と欲張ると焦点がどこか見えなくなる。
農道の轍に続く春の泥 → 農道の轍ぐちゃくちゃ春の泥
轍の部分も春泥なのではないでしょうか?
公園に凧の名残の千切れ糸 → 高枝に絡むは凧の千切れ糸
公園の何処かをいわないと伝わらない。『名残の』は不要。