スワン吟行句会の開催されない月(今月は、6月27日)に西宮北口の 市民交流センターで合評会をもっています。いまは、みのるの恩師である小路紫峡先生の第一句集『風の翼』をみなで学んでいます。
あらかじめ25句ほど抜粋したテキストが発表されるので、当日は参加者が輪番に一句ずつ鑑賞していきます。 おおよそ10人前後の参加者なので、二、三句は、鑑賞があたりますが、参加人数や席順によって変わるのでどの作品が自分に回ってくるかは予めわかりません。
ですから、テキストの全句を一通り予習する必要があるのです。 予習した内容は、個々に違いがありますから、担当者の鑑賞が終わったあと「わたしの場合はこう感じた…」というように自由な意見交換をします。そうすることで幅広い鑑賞術が自然に身についていきます。
「そうではなくて、こうでしょう」というように他の人の鑑賞を否定、批判しないというのが唯一のルールです。 俳句の鑑賞に絶対正解はないので、自分の思うままに自由に鑑賞すればいいのです。
合評会が終わってからもういちどテキストを見なおして復習してみると、予習のときとは違った感動が生まれてくるはずです。 そうして、この繰り返しによって個性が育まれていきます。ぜひ勇気を出して参加してみてください。初めての方も大歓迎です。
昨日の北山緑化植物園吟行は、いつもと違ってメンバー全員で同じコースを歩きました。正面玄関から入らずにバス停横の脇道から沢へ降りました。いつもならバス待ちの短い時間に覗く程度でしたがゆったりと時間をかけて吟行するととてもよいところでしたね。
皆さんのヒントになればと思って吟行の道中はなるべくつぶやくようにしています。ただ漫然と歩くのではなくて何かを見つけること、具体的に何かを感じることを強く意識します。対象物に深く心を通わせることで作者の個性や情というものがにじみ出るからです。そのためには青畝先生が言われた愛の目、愛の心を養うことが重要です。
例えば、溺れているかのように四肢をもがいている小亀の所作を見て愚かで滑稽だと詠むのではなく、必死に泳いでいる亀の姿に自分自身を重ねて、頑張れと励ます気持ちをもって写生してほしいのです。そうすれば、やがて蓮の葉とか棒切れとかにたどり着いた瞬間に安堵の気持ちが芽生えるでしょう。そのような励ましや安堵の気持ちを写生する訓練によって作者の個性が培われるのです。
とても有益とは思えない醜草や気持ち悪い小動物であっても決して彼らを見下したり、差別意識で詠んではいけません。生きとし生けるもの全てに命の尊厳があります。むしろ健気に生きている彼らの営みから学びましょう。
悲しいことや苦しいことも宿命だと諦め嘆き恨やむのではなく、神の試練の過程と受けとめて詠むことで勇気が与えられ希望につながります。さらにそれは、その作品に共感してくれるひとをも慰め励ますことになるのです。これが青畝先生から教わった『俳句のこころ』です。
むかし「俳句は究極は信仰である」という虚子先生の一文が俳誌玉藻に掲載されました。この文章に強く感動された紫峡先生(みのるの恩師)は、自身の決意を手紙に書いて虚子先生あてに送られたそうですが、虚子のいうそれと、紫峡師の感動された内容とは少しズレがあるとぼくは感じています。
あれこれと疑念を抱いて、あるいは批判しながら学んでも決して身につかない。伝統を重んじ指導者を信じて進むことが大事だというのが虚子のいう信仰の意味ではないでしょうか。
一方、青畝師や紫峡師のそれは、「愛の目で見、愛の心で詠む」という慈しみの精神を養うこと、つまり神の摂理を信じ、キリストの愛に倣う信仰の精神を言われているのではとぼくは思うのです。
虚子のことは伝え聞く範囲でしか理解できませんが、当時の俳諧における虚子は、いわば神のような存在で師弟関係に於いては、近寄りがたい距離感があったようです。けれどもぼくは、師に慣れることは自戒しつつも青畝師や紫峡師に対して隔たりを感じたことは一度もありません。そして青畝師や紫峡師に教えていただいた奉仕の精神と俳句の心とを大切に伝えていくのが GHの使命だと考えているのです。
一片の病葉宿す瀬石かな みのる
毎日句会の参加資格を得るには、無料添削で学んでくださることが必須になっています。その理由について誤解されている方も多いので、 入会案内のページに補足説明を追加しました。
添削の学びをお願いしているのは、一定レベルに上達されることを見極めるためではなく、正しく学ぶ姿勢に気づかれたか否かを判断しています。
"心象句、理屈の句に封印して写生に徹する"
実に簡単な約束なのに、実践するとなると難しいものです。
克服する秘訣は、机上で句をひねることをやめること、できるだけ外に出て実際に見て感じて詠む習慣を身につけることです。吟行で詠む習慣が身につくと机上で考えて詠むということができなくなり、逆に出かければなんとかなる…という感じに変わってきます。
この感覚を実感されたらあなたはもう一人前の俳人だと言えるでしょう。俳句のある生活、親しい仲間との交流は人生を豊かにしてくれます。俳句が生涯の伴侶と思えるようになるためにもぜひ克服していただきたいと願っています。
過日の明石吟行は、BS朝日のテレビにも取り上げられたりして、良い思い出になりましたね。歳晩の魚の棚や冬、春の糶場もよい句材が揃います。交通費は嵩みますが時間的には案外プランしやすいと思うので年に1回くらいは季節を選んで企画しようかなと思います。
明石句会では、漁港と糶場に限定して皆さん佳句を詠まれていました。広々とした吟行地はどうしても移動に時間をとられて句がまとめにくいです。
むかし、紫峡先生と一緒に数人で冬の六甲山を吟行しましたが、あまりに寒いのでウロウロするのをやめて YMCAのキャンプ場でキャンプファイヤーに使う薪を一括り買って焚き火をし、それを囲んで句を作りました。小一時間、薪の火とにらめっこしながら句を詠むのですが全員結構良い句を授かったのを覚えています。
一箇所にとどまって心を遊ばせる訓練はとても忍耐が要りますが、一度そのコツを会得すると俄然吟行が楽しくなります。ぜひ挑戦してみてください。
尾上聖愛教会で行われている落穂句会は、毎回みのる選を整理されて教会の掲示板に掲出してくださる。教会員の方への PRと俳句の楽しさを伝えるためである。過日世話役の方から、メンバーの作品と併せて当日詠んだみのるの作品も載せたいのですが…という要望がありましたが、やんわりお断りしました。
選者の作品を併列してもつまらぬ比較論を生むだけで句会の楽しさは伝わりません。偉そうなことをいうようですが、みのるの作品よりも、みのる選全体から醸し出される味わいをぜひ感じてほしいと願っています。虚子先生が「選は創作なり」と言われたのは有名なお話ですが、ぼくもまたみのる選についての感想をお聞きするほうがはるかにうれしいです。
自分の好みや気分で選ぶのではなく、作者との真剣勝負という感覚で取り組んでいます。
みのるは今、どの結社にも属していませんので、自身の作品について評価を受ける場所はありません。けれどもホームページでみのる選を発表することで、声としては聞こえてきませんが多くの方がそれを受け入れてくださっていることは事実です。
青畝先生、紫峡先生が教えて下った俳句の心を正しく伝えるという使命を果たすべく、これからも精進を重ねていきますので応援よろしくお願いします。
昨日は、6月度の落穂句会吟行でした。夜半からの激しい雷雨でどうなることかと案じられましたが一夜明けるとうそのような快晴、いつもの事ながら GH日和のジンクスは生きています。
発足して3年目、基本的に毎月変わらず市ノ池公園で吟行しています。けれども毎回なにかしらの出会いがあるから不思議です。新しいメンバーもお二人与えられて賑やかになりました。過日の明石吟行にゲスト参加された、せつ子さんとみきえさんは、とても刺激的な体験だったそうで、やる気満々嬉しい誤算です。
句会場の尾上聖愛教会は、有名な石の宝殿の近くで、所々の山肌には奇岩の壁が露出しています。市ノ池公園の近くに石工小屋があって、布袋さんや兵馬俑、たぬきなどが看板代わりに並べてあります。毎月通るたびに無表情な石人たちに心を通わせては、いつかこの情景を句にしたい…と温めていたのですが、この日ふと授かりました。俳句って楽しいですね。
片陰に石人並ぶ石工小屋 みのる
近詠にも載せましたので、またご感想をお待ちしています。