結社ひいらぎのホームページに毎月のひいらぎ誌に掲載される紫峡主宰の「思うこと」という記事が転載されています。 今月は、「自薦のむつかしさ」についての記事です。
※自薦のむつかしさ
「ひいらぎ集」・「緑樹集」を選句する際に思うことがある。句歴二十年以上の作者が自分の作品に対して正しく評価出来ずに投句していることがある。
作者本人は苦労して作った作品を自ら高く評価して記載している。 瞬間的に頭脳にひらめいた作品や、ものの変化を目で捉えた作品は、苦労せずに生まれたために作者自身の評価が低い。 苦労して作った俳句には、作者の欲が蓄積されており、本人の評価は高くなっている。
欲の深い人や自我の強い人は、客観的に自己の作品を評価することは困難なようである。
立派な(目立つ)俳句を作ろうとする欲がある間は、自選はむつかしいと言える。
ひいらぎ4月号<思うこと>より転載
ぼくは入門から5年ほど紫峡師の添削による特別指導を受けていました。そのとき先生から言われたのは、しばらくは自選せず、詠んだ句は全て見せるようにということでした。
そこでぼくは、添削を受ける作品について自分なりの評価順に並べて原稿を提出するようにしたのです。こうすることで自分の自薦のレベルを具体的に知ることが出来ました。
雨も今日が峠のようで、明日のスワン吟行は、GH日和とまでは行かないようですが何とか持ちなおしそうです。
昨夜、なにげに姉の写真ブログを見てみたら、ちょうど長岡天神と乙訓寺の写真がアップされていました。24日に撮った写真のようです。
この見出しは、ぼくが尊敬する結城浩さんが書かれた「文章を書く心がけ」シリーズの中にある記事のものです。とても興味深い内容なのでぜひ読んでみてみてください。
記事の内容は、漢字とひらがを使い分けることで文章を読みやすく表現するためのポイントが書かれています。記事を読まれた方は、なるほどと合点されたでしょう。 この記事を読んで、文章だけではなく俳句の場合にも共通する要因だなと思いました。
俳句における漢字と仮名との使い分けは、主として句を書にするときの印象を意識して使い分ける場合が多いと思うのですが、確かに仮名よりも漢字の方が目に留まると思います。また俳句では使い方を間違うと全く別の意味に解釈されるケースもあります。
毎日句会で3点しか入らなかった拙作で検証してみましょう。
春光の水かげろふや橋の裏
句意は、春光を弾いた水面の影が橋裏に映って揺らいでいるという情景です。 「水陽炎」を漢字にすると硬い雰囲気なるのを嫌って陽炎の部分をひらがなにしたのですが、後でよく考えてみると、「春光の水」が橋裏に「がぎろっている」という意味不明な句になってしまっていたかも知れません。
春光のみずかろふや橋の裏
このあたりが正解であったかも知れないですね。 どちらにしても、このテーマ(漢字と仮名との使い分け)は、俳句を推敲するケースでも役立つと思うので心して勉強したいと思いました。
先週みのるが毎日句会に投句した成績を調べてみました。括弧内は点数です。
あまり威張れないですね。没がないのが慰めです(^_^)
春光の水かげろふや橋の裏(3)
縺れつつ千木の高みへ春の蝶(2)
谷戸晴れて田ごとに人や雉子鳴く(2)
鶯の声整ひて谷戸日和(5)
母卒寿少女のごとく春眠す(2)
巣立鳥たたら踏みては武者震ひ(6)
花の窓須磨の浦曲を嵌めにけり(5)
桜貝白砂を洗ふ波に消ゆ(3)
墨洗池へひろがる落花かな(1)
続いて頑張ります。
毎日句会に一日一句投句するために、精勤に散歩しています(^_^)
自宅を出て20分ほど歩くとタイムスリップしたような古い里山の田園地帯に出られます。その里路をさらに進むとホームグラウンドの奥須磨公園に着きます。途中、海神社や多井畑厄神などがあります。別ルートになりますが鉢伏山上へも徒歩で小一時間です。いつでも歓迎、案内しますので誘い合ってお越し下さい。ミニ吟行&句会をいたしましょう。
能勢や吉野のような雰囲気ではないのですが、吟行しているとそうした記憶の中にある過去のイメージとダブって句が授かることも少なくありません。 なんだかんだとみなさんに気合いを入れるばかりで、いざ自分で実践するとなると結構きついですが、俳句を始めた頃は、朝昼晩といつも俳句が頭から離れず、寝ていても俳句の夢にうなされるほど俳句づけの日々でした(^_^)
三十年前の懐かしい思い出です。
吟行で句を詠むとき、あなたは感動が先かそれとも季語を見つけるのが先かどちらのタイプでしょう。どちらが正解で他方が間違いということではなく、吟行で句が授かるプロセスとしてこの二つのケースがあると覚えておかれたらいいと思います。大切なのは、俳句には感動と季感の二要素が必須だということです。
吟行では、まず季語を見つけなさいと教わりました。次に見つかった季語と対峙して心が動くまでひたすら待つのですが、この段階で上手に心を遊ばせられるか否かが佳句を授かるかどうかの分岐点になります。
心を遊ばせるというのは、漫然と眺めることではなく記憶の引き出しの中を探って瞑想するという感じです。 幼い頃に感動した情景もあるでしょうし、哀しかったこと嬉しかったこと、仕事のこと家事のこと、子育てのこと恋愛のこと等々、数限りなくあるはずです。この記憶の世界を彷徨って眼前の雰囲気とマッチして心が動いたときに一句が授かるはずです。
吟行を重ねて経験を積むと心の遊ばせ方が上手になり、感動の方が先に生まれて句が授かるということも増えてきます。さらに出会ったときの季語ではなくて、その感動にもっとも相応しい別の季語を斡旋して推敲し一句が整うというケースもあります。
いづれのケースであっても、心の遊ばせ方が足りないと大抵は季語の説明句になります。また知識や理屈の目で観察しても陳腐で月並みな句しか授からないのは言うまでもありません。
吟行句の巧拙は素質だと諦めてしまう人が居ますが、そうではなくて吟行は慣れと場数(経験)なのです。とにかく時間を見つけては吟行に行くという姿勢が欲しいです。3~4人でいいので句友と一緒に吟行し、ベンチでも四阿でも喫茶店でもいいので、必ずミニ句会をするのが理想的です。
地域やお仕事の関係で句友との吟行が難しい方もおられます。ご主人や奥様を誘って下さい。家族や身近なお友達に俳句伝道をして下さい。詠んだ句を二人で見せ合いっこするだけでも愉しいものです。俳句は座の文学、成績の虜にならず、そうした俳句ライフそのものを愉しみましょう。
毎日句会を続けることがどれ程しんどいことかを体験する意味でテスト参加中。 当面は、一句選、一句投句です。
なるべく、みのるの句かな?と思う句は避けて選ぶようにして下さいね(^_^)
ぼくの方は、できるだけそうと悟られないような句を詠んで投句するように頑張ってみます。 変な意味ではなくて、何となくみのる風というのが分からないような、新鮮な感覚の句を詠みたいと試行しているのです。選ぶ作品の幅も広げたいですしね。
みのるの句をどなたが選んで下さっているかを見るのが凄く愉しみです。
:句の鑑賞は、ただふつうに読み流すだけでも読まないより遙かに効果がありますが、感じたことを具体的にメモにすることで、自然に鑑賞力が培われていきます。 みのるは昔、鑑賞ノートを作ってそこに書き留めるようにしていました。そうしておくと後日読み返して自分の感覚や感性の変わりようがよくわかるからです。
秀句鑑賞へ日々寄せられる Feedbackを、 秀句鑑賞読者の声 としてまとめました。 秀句鑑賞ページの左上にリンクが張ってあります。ぜひみなさんも挑戦してみて下さい。
投稿者のお名前は伏せて、プライベートな内容は編集してあります。みのるの鑑賞文への感想や作者への賛辞などは必要最小限にします。肝心なのは「あなたがどう感じたのか」なのです。みのるの鑑賞とは違った視点で作者の隠された小主観が感じとれたら、それがあなたの個性・感性です。
今日の定例句会お疲れ様でした。久しぶりに反省会も出来て愉しかったですね(^_^)
さて、今月から始めた秀句鑑賞をみなさんが楽しみに読んで下さっているようで感謝です。
句会で一句評をするときにも、単に句意を直訳するのではなく、連想を膨らませて隠された作者の心の動きなどを探ることが大切です。俳句は短歌のようにたくさんのことが言えません。いかに省略するかがテクニックになります。そして言えないことは、鑑賞する側の連想に委ねるのです。句の鑑賞に絶対正解はありません。鑑賞する人それぞれに異なった解釈があっていいのです。
日頃から連想を膨らませる訓練をすることで鑑賞力が身についていきます。 毎日句会の選句をするときでも、表面的、通り一遍の鑑賞だけで句を選ぶのではなく、より深く鑑賞することで結果が変わってきます。誰がどんな句を選んでいるかという互選結果から学ぶことも有益です。選をおろそかにする人は決して上手にはなりません。
このように連想を膨らませる訓練はとても大切なことなのです。鑑賞力が身についてくれば必ず作句にも好影響が反映するからです。違う言い方をすると、鑑賞力以上の句を詠むことはできないということですね。
花屑の余白に亀の首のぞく → 花屑の余白にぬっと亀の首
「余白」という措辞がうまい。瞬間写生に表現することでより句が強くなる。
落花ごと掬ひて回る水車かな → 花屑を掬ひて水車回りけり
川面を流れてくる花筏を水車が掬いあげている。水車の羽にも花屑がついている。
舫ひ解く一揺れ花見舟の出る → 青淵へ舫ひ解かれし花見舟
舫いを解かれてゆったりと舟が出て行く様子。嵐峡のような山紫水明の風景を連想する。
白無垢の嫁御乗せたる花見舟 → 白無垢の嫁入り舟や花堤
水郷をゆく嫁入り舟を大勢の人たちが花堤から祝福している。「花見舟」の季語は無理がある。
弁当の箸をタクトに花の宴 → 弁当の箸がタクトや花筵
和やかに盛り上がったお花見の風景。「花筵」のほうが景が鮮明になる。
鞦韆を漕ひでは山を行き来せり → 鞦韆を漕ひでは山を引き寄せる
山に向かって大きくブランコを漕いでいる元気な子供達が見える。「行き来」は、やや説明的。
夜桜や今ひとたびと振り返り → 振り返りては夜桜の辞しがたし
愛しい人との分かれに似た雰囲気ですね。「や」で切らないほうがよい。
論文は書くことも読むことも好きではないのですが、俳句を始めて以来、虚子門下の水原秋櫻子と高野素十との対比にはとても興味があります。そうした興味から、「 昭和の四 Sを探る 」という記事をページにまとめてみました。
少し肩の凝るページかもしれませんが、みのる自身が何を考え、GHをどのように推進しようとしているのかと言うことをみなさまにも理解していただけたら嬉しいです。また、読んで下さった感想も聞かせていただければ今後の道しるべになるかと思います。
GHホームページのイメージ写真を更衣しました。水亭、落椿、水車、鯉幟の四枚です。プラウザ(IEなど)の更新をクリックすると画面が変わると思いますので試して下さい。これで一句出来そうですね。どれがお好みかまた教えて下さい。
新しくはじめた秀句鑑賞や GH四季選集などのページが検索で引っかかるのか、最近アクセスも少し増えていますので、TOPページのリンクなども分かりやすく整理しました。
四時随順の Update への反映がうまく機能しないので止めています。写真の上にあるプロフィールの右に という小さいアイコンがあります。これをクリックすると四時随順のページにリンクしています。
GHには、数え切れないほどページがあります。閲覧したいページが見つからないときは、写真の上の Site Index をクリックしてください。一覧表になったリンクリストがあります。四時随順の更新リストもそこに貼ってあります。
吟行ではなくて心臓手術で入院された先輩のお見舞いです。
自宅からバス、電車を乗り継いで片道3時間、小旅行並の強行軍でしたが、ぽかぽかとお天気もよく車中うとうとしたり、窓越しに沿線の残る桜をみたりとのんびりした一日でした。
バス電車乗りつぎつなぐ春の夢 みのる
あたたかや見舞ひし人に励まされ みのる
今日、みのる庵で NHK神戸放送局の取材がありました。
『 ニュース神戸発 』という番組で、総合テレビ(兵庫県向け)毎週月曜日~金曜日 午後6:10~7:00 で放映されます。今日収録されたものは、4月21日の放映予定ぶんだそうで、残念ながら、みのるの俳句関係ではありません(^_^)
阪神・淡路大震災から来年1月17日で20年になります。復興の歩みを多角的に検証し、教訓を新たな災害への備えに生かすため、被災者や遺族のいま、復興や防災の課題などをリポートする番組だそうです。
家内が参加している 全国友の会 が取り組んでいる防災に備えるための活動が取材の対象となり、今日、みのる庵で最寄会がもたれたのでその様子を取材に来られました。半日の取材でしたが、放映されるのは多分ほんの数カットらしいです。
この時間帯に各地のローカル局から発信される企画番組のようですので、兵庫県エリアでしか見られないと思います。
秀句鑑賞でとりあげた紫峡師の作品について、少し補足したいと思います。
椰子の実とすすむ日あらむ流し雛 小路紫峡
いろんな事情があって、結社「ひいらぎ」を離れましたが、初学の頃から特別研修生として骨身を削って指導、薫陶していただいた紫峡師のご恩は決して忘れることはないでしょう。
実績のないぼくでしたが、様々な事務的な作業にも関わらせて下さったので多くの貴重な経験を積むことが出来ました。表面上には見えない先生のご苦労、ご心労もたくさん見てきました。結社という共同体を牽引し、多くの弟子を育て導いていくことが、どれほど大変なことかということをぼくはよく知っています。
「椰子の実」は、そんな先生が大好きな歌でした。ぼくが世話役をさせていただいた記念大会で、全員でこの歌を合唱したのが懐かしい思い出です。 揚句の作品には、主宰としての孤独な戦いのお気持ちも込められているようにぼくには思えるのです。
ひいらぎは離れましたけれど、紫峡師が自らの姿勢をもって教えて下さった奉仕の精神と指導者としての志を、過ち無く継承したいと願っています。紫峡師の愛唱聖句は、ぼくの愛唱聖句でもあるのです。
信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。 第1テモテ6:12
注文していた句集が届いたのでざっと読んでみました。
少し感想を書いてみます。あくまで、みのるの主観です。
菫摘む祈るが如く跪き
橋おぼろ舟より声を掛けられて
花の駅代はる代はるに嬰を抱き
薫風の高きに結び恋みくじ
円陣の汗の額を寄せ合ひて
初富士を称へて五湖の水明り
哲学の道に拾ひし落し文
全体を通して、オーソドックスな写生句が多いように思いますが、新鮮さを感じる次のような作品もありました。
うさぎ小屋次々覗き入学す
声嗄れて補欠選手の夏終る
日本刀見せられてゐる冬座敷
ひととおり句集を読んでみて、まどかフアンになれそうかというと、みのる的には NOです。
さすがに以下に揚げた作品群は、少なくともぼくには理解できないからです。
猫の恋カクテルに塩ひとつまみ
サーカスの春夕焼をつれて来る
風光りけり戦場に子を生んで
さくらさくらもらふとすればのどぼとけ
行く春の残せしものとして集ふ
夏つばめ顔うつるまで靴磨き
海の日の銀座の角を曲がりけり
花みかんどちらが先に嫁ぐとも
紙漉いて滲み出したる昼の月
靴音の一人逸れたる冬銀河
さうしなければ凍蝶になりさうで
彼女の作品を批判するつもりはありません。 理解できないぼくの感覚が古いということでしょう。
まどかさん、まどかフアンのみなさま、ごめんなさい。
四時随順を読まれたかたは覚えのあるタイトルですね。
この間の家庭俳句会に枇杷という題で、
海近し家皆低し枇杷の花 風 木
いう句がだいぶ高点であったが、先生の選には漏れた。あとで先生にこの句はどこが悪いですかと伺ってみると、
「あまり説明的でいけない。句は、その句を見たとき、その句のできた場所の光景がパッと頭にも胸にも浮かぶようでなければいけません。説明的の句ではそんな感じを起こしません。
(虚子俳話集より)
虚子先生のこのお言葉を踏まえた上で、今週のみのる選から復習してみましょう。
持て余す異人の美脚花筵 → 長き足もてあましをる花筵
手びさしに仰ぐも声の揚雲雀 → 手庇に声聞くばかり揚雲雀
濃淡をなして対岸芽吹く山 → 濃淡の斑に山の芽吹きけり
説明は要らないですね。
黛まどか著・知っておきたい「この一句」という文庫本を興味本位で買ってみました。著名な作家の一句鑑賞と人物評が記されていたからです。阿波野青畝師の作品からは、次の一句がとりあげられていました。
流灯の帯のくづれて海に乗る 青畝
句の鑑賞は、ごくふつうでしたが、青畝先生の生い立ちから有名な虚子先生との手紙のやりとり等々、その生涯を的確な文章で紹介されていたのには敬服しました。もちろんこの著書を書き下ろすにあたってかなりの資料を調べて勉強されたと思います。四時随順に彼女の文章を紹介していますので興味のあるかたはご覧下さい。
彼女の作品について多くを読んだわけではないのですが、「恋する俳句」などマスコミ受けの作風が主体の現代俳句だと侮っていました。けれども著書を読んでみてその文章からは、伝統俳句についてもしっかりと勉強されたと感じられるところも多々ありました。ひょっとするとぼくの偏見であったかも知れないと思って反省しています。 秀句鑑賞でご紹介できるような作品があるかも知れないと思って、「忘れ貝」という彼女の句集を買って読んでみることにしました。
GHのホームページのリンクの色を変えました。
いままではデザイン優先でしたが、ユーザビリティーを優先して青色にしました。 一度見たページ(訪問済み)は紫色です。これはインターネットでは一般的に認識されていることで、はじめて訪問して下さったユーザーに、青色の文字はリンクだと認識しやすいのです。
訪問済みの色も迷いましたが、基本に忠実にしてみました。GHの各頁を見直してみて下さい。まだ訪問したことのないリンクは全て青色になっているはずなので、ぜひ開いてみて下さい(^_^)
TOPページの更新情報(Update)は、ちょっと仕掛けをしていて、更新される度に青色に戻るようになっています。
※ お詫び
GH四季選集の2011年4月の選ですが、一年間違っていました。チェックしたら2012年4月のものでした。申しわけありません。 改めて2011年4月から選び直しています。2011年度分と2012年度分は、ペースアップして再選作業を進めるようにします。
今日は、姉の所属しているクラブの写真展に招かれたので阪急電車に乗って高槻駅まで行ってきました。
作品を観ながら写真の感性と俳句のそれとはよく似ているなぁと関心しきり。切り取り方やとらえかたなどあらゆる面で共通点が多くあると思いました。
ばたばたしていてゆっくりお花見に行けてなかったのですが、電車の窓から沿線の桜を満喫できて幸せでした。
電車いま花の夙川駅通過 みのる
今日は、ホームページのプログラミングを試行錯誤して遊びました(^_^)
GHの TOPページにある Update(更新情報)は、GHの運用しているサーバー内のページしか判別できないので、Tumblrという SNSで書いている "四時随順" は反映できないのです。でもそこを何とか、不可能を可能にするためにいろいろ考えるのがプログラミングの愉しいところなんです。
まず、RSSという仕組みで四時随順の更新情報を取り込んで、TOPページ最下段に取り込むようにしました。TOPページの写真の上にいくつかのページへのリンクがありますが、そこの "四時随順" をクリックすると四時随順の更新情報を見ることが出来ます。読みたい記事のタイトルをクリックすると Tumblr の当該頁へジャンプします。
次に RSSで取り込んだキャッシュフォルダを監視することで Update に反映させることが出来ました。Update の四時随順をクリックすると Tumblr のページが開きます。
四時随順(Tumblr)は日記のような用途ではなくて、読んだ本や新聞雑誌などの記事、ネットサーフをして気に入ったページや写真、調べた地図や情報など無差別に貼り付けるための、電子スクラップブックとして使っているのです。とりあえず四時随順に貼っておいて、あとで日記に引用したりとかします。
見て愉しいかどうかは、何とも言えません。俳句と無関係の記事もあると思いますのでご寛容下さい。
今朝の神戸は快晴。絶好の花見日和です。
いまから20年ほど前、紫峡師ご夫妻も出席されるひいらぎの吟行句会が須磨浦公園でありました。 当時は家内もつき合ってくれていましたので一緒に出かけました。 家内には、佳い句を詠みたいというような野心は全くなく、 お供する代わりにレストランでご馳走をたべさせる、というのが条件でした。
"レストラン花見弁当ありますと 澄恵"
こんなんできた・・と句帳を見せてくれました。 レストランの入り口に可愛いいイラスト入りの看板がぶら下げてあったのを詠んだようです。 "空腹にひびく太鼓や秋祭り 澄恵" という作品もあるのですが、家内の興味はいつも食に関係していることが多かったです(^_^)
"レストラン花見弁当ありと札"
と添削してあげた作品が、その日の句会で紫峡選特選に入るというハプニング?があって大喜びでした。
一方ぼくは、ちょうど職場で人事異動があり何となく物憂い日々が続いていたので、つい家内に愚痴を洩らすと、 "そんなこと私に言われてもね・・・" とつれない返事。今ひとつ作句に集中できずなかなか出句の数が揃いません。
"春憂しと妻の私にいはれても みのる"
数あわせのように詠んだこの句が、はたまた紫峡選特選に入ったのです。
句会の最後の講評で、 "みのるさんの句だとわかっていたら採らなかった。" と紫峡先生が言われ会場のみなが大笑いになりました。もちろん冗談なのですが、 俳句は、芸術作品なのでときにはこうした詠み方もまた許されると言うことなんですね。
二人揃って紫峡選特選に入ったのは、あとにも先にもこの日だけ。なつかしい思い出です。