『俳句のよろこび』という著書を通して、青畝師の俳句作法を学んでいる。
俳句は短いから、簡素を旨として単純な表現をとる。また複雑多岐なることがらをよく整して、その中の要領をつかめば、扇の要のようにこの一点が全体を統一するのだから、そういう工夫を考えてみる。
---中略---
哲学じみたことになり恐縮するが、一ということは一であるとともに全でもあるのである。無茶なことをいったのではない。日本人は古来こうした自在無碍の意味の解し方に慣れている。日本語は確かに不確定といわれる。否定か肯定か、どっちにもとれる。一か全かというのも然り。
"新 米 や 百 万 石 を 一 と 握 り 虚 子"
このような句を見出すと、とても愉快になるのである。人間の手で一と握りとは僅かな量でしかない。それなのに百万石というでっかい大いなるものが手中におさまる。
言葉の魔術ではなく、自在な日本語の長所であると、それゆえに俳句の長所を伸ばせば自由の天地があると説きたい私である。
~阿波野青畝著『俳句のよろこび』より引用
省略という技法によって俳句という文学が醸し出す不思議な一面を説いておられるとぼくは思うのですが、この例句はまた俳句における季語と切れ字の働きの重要さについて示唆しています。
まず掲句の「新米や」を「新米の」に置き換えてみてください。違いが分かるでしょうか。
「新米や」と切ることで、田ごしらえに始まって収穫に至るまでのさまざまなプロセスとそれに携わる人々の生活や姿にまで連想が働きます。さらに心を遊ばせると、無事に収穫できた安堵感、満足感というような感慨をも汲みとれないでしょうか。そうした思いも含めた「一と握り」だと解すると、ぼくは俳句という文学の持つ底知れない魅力に心が躍るのです。
青畝先生の著書『俳句のよろこび』の第一章には、「私の俳句作法」というとても興味深い一文がある。前回は、その俳句作法の一として「素直さ」を学びました。引き続き今日は、「根気」というテーマである。
ここには、俳句を授かるためには、根気よく対象物と対峙するのだという吟行姿勢のありかたが述べられている。そしてその結果として一句が完成するまでのプロセスについても書かれている。自分の吟行スタイル、作句姿勢と比べながらこの一文を読んでみると修正すべき点がよく見えてくると思います。
どんな人でも俳句を作る。五七五に調子がついていたら簡単に俳句らしくできる。あんまり簡単なためにたよりないのか、まもなくやめる。つまりひやかし根性なのである。
しかし、やるからには根性が大事だと思う。じぶんに文才がないときめる人でも根気よく努力してゆくうちに必ず面白くおもうようになる。
---中略---
根気はやはり勇気である。とにかく持続して対象にくいついてゆくことだ。そうすれば対象がはっきりとしてくる。自然の心が感じられる。それを表すのだというひらめきが与えられる。そしてぴったりとした表現がなにであるか、そういうことも天啓をうけた気分になって胸のうちは躍動するであろう。
たとえ完成までたどれなくても、その躍動した心境は至極愉快で、生きがいをおぼえはじめるにちがいない。創るという喜びを獲得する自信が生まれるのである。
~阿波野青畝著『俳句のよろこび』より引用
たとい、吟行で満足するような句が得られなくとも、その時々の感動は記憶という引き出しにしまわれて蓄積されます。 晩年の青畝師は、ご高齢になられ思うように吟行にも出かけられなくなりましたが、テレビやお庭を見ながらでも次々と新鮮な作品を詠まれました。そのことを不思議に思ってお尋ねしたところ、「ぼくの記憶の引き出しには過去の思い出がいっぱい詰まっているんだよ」と仰ったそうです。
根気よく時間をかけて得られた感動の記憶はいつまでも残りますが、そうでないものは直ぐに忘れてしまいます。 幼い頃の記憶のほうが鮮明に残っているというのは、それだけ純真に素直に好奇心を燃やしたからではないでしょうか。
『根気』というこのキーワードをヒントに、今一度正しい吟行姿勢を追求しましょう。 感動を積み重ねた引き出しの懐の深さが、その人の作品の幅となって後に実を結ぶのだとぼくは思います。
今日も『俳句のよろこび』からの感想の続きを書いています。
二十年前に熟読した本なのに、いま読み返しても新鮮な感動を覚えるのは何故だろうと考えてみました。 おそらくそれは文章の行間に隠された深い深い含蓄を二十年前のぼくは読み取れなかったのだと思うのです。
そしてこれはまた俳句の好みというか鑑賞の深さにも通じることなのだという思いがします。 おなじ青畝師の句集を読んでも、昔は、「何これ?」と思ったような作品がニヤッと笑えるほどに合点できることも少なくないからです。
GHで学ばれるみなさんも多分、みのるの選や添削について「?」マークの付くことも多いのではないかと思います。先生の特訓をうけているときのぼくもそうでしたから(^_^)
閑話休題、本題に入りましょう。
人間はそれぞれに個性をもつことは当然である。そしてその個性は自然にあらわれいずるものだと思っている。
付け焼刃なのはいわばごまかしているのであって、本当の個性とはいえぬ。
で私はあるがままにあるものを見つめようと努力するのである。そのあるものとは自然である。対象である。またそれが自己でもある。自他一体となって謙虚な気分に冷静な目で見つめるとすれば、私の心につたわってくる力をさずけられたような、ホットした陶酔に似たほんとうの喜びというものを発見する。
というものの辛抱がいる。あせろうとするのをぐんと押さえつけるのでつらい。とにかく根気くらべなのだ。
ひらめきを感じるやいなや、それを素直にことばでカチッとうけとめることをやらねばならない。言葉は無尽蔵にあるけれども適当な言葉はまことに少ないので、その言葉を早く探し出して十七音のワクに切りとる、またはあっしゅくするような工作を達者にはたらかさねばいけない。つねに心を労するとはこの辺の苦心をさすのであって、自分の心にないウソがとびだすからそれを警戒して、どこまでも忠実に自分の受け止めた誠を示すことにある。
~阿波野青畝著『俳句のよろこび』より引用
じつはこのお話は、青畝先生から直々にお聞きした内容でもあります。個性は日々の修練から自然に滲み出るもの、自然が心に話しかけてくるまで辛抱して対峙する。ウソに気をつけよ。
これらはみな頭で理解できても実行することは至難、ひたすら努力、継続して得られるものではないでしょうか。とかく表面的な物珍しさをもとめてうろうろ移動しがちな私たちの吟行姿勢もまた反省させられますね。
ことばは大切であるということを私はしみじみと思うのである。
俳句は日本に生まれた詩であり、日本人によって伝統され新しく継がれている詩であった。そこには日本人の感情の通う生きている言葉があるからである。
つまり言葉は生きているということだ。
言葉の並べ方をおろそかにできないのは、そこに心の躍動が音波のように流れて一種の音楽としての効果も協力しているからである。
芭蕉が黄金を打ち伸ばしたようにせよとさとしたのは、『素直に素直にとしてあるがままに』 の姿が基調であるとの教訓だと私は解する。
~阿波野青畝著『俳句のよろこび』より引用
言葉の魔術師と言われた青畝先生のお言葉だけにずっしりとした重みを感じますが、ぼくにとっては、決しておろそかな添削指導をしてはいけないよとおっしゃる先生の叱責にも聞こえます。
そして、『素直さ』というシンプルなテーマに対しても、ここまで深く掘りさげて追求しておられる青畝師の含蓄に頭が上がらないのです。
今日も青畝先生の著書『俳句のよろこび』の感想文を書きます。
俳句は日本の風土に生まれて育ってきた。つまり日本のこの自然環境は、われわれが俳句という短い詩によって挨拶し礼賛するようにあるものである。
日本人は昔から挨拶を好む。挨拶とは自然に呼びかけたり社会の人に挨拶したりして、まろやかな情緒を伝える手段である。
誰も知るとおり、日本の気候風土は四時の変化が規則正しく繰り返している。しぜんに季語という便利なことばが編み出され、それを使うことによって多言は要らぬし、ほんの季語一つで連想の世界をひろげることができる。
--- 中略 ---
季語を見ると愛惜にたえぬ古い季語がきえてゆき、新しく登場する季語がニューフェースで増加する。若い人はこのニューフェースに今日的の意識過剰でとびつく。えてして不消化で失敗する。
~阿波野青畝著『俳句のよろこび』より引用
いつ読んでも青畝師のお話はとても含蓄が深いです。みなさんはこの一文から何を感じられましたか。
"それを使うことによって多言は要らぬし、ほんの季語一つで連想の世界をひろげることができる。"
この言葉が、「季語」の本質をすべていい表してるのではなでしょうか。
季語というのは舞台装置でいうと大道具、芝居でいうと脇役のようなものだとぼくは思うのです。 決して目立たないのですが、どちらもなくてはならない大切な存在です。
初学のうちはどうしても「季語の説明」という感じの作風になりがちですが、俳句でいうところの季語は、説明するものではなくて大景や生活を詠むときの大道具であり、主役がもっとも生き生きとした場面を演じるための脇役として用いるものなんですね。
"若い人はこのニューフェース(の季語)に今日的の意識過剰でとびつく。えてして不消化で失敗する。"
青畝師からご覧になると私たちもまた「若い人」に含まれると思いますが、この短いことばから、もう一つ大切な教訓を見逃してはならないと思います。
つまり、珍しい季語だから、面白い季語だから、といった軽い気持ちで季語を扱ってはいけないということ。季語の本質、その味というものをしっかり覚えて用いないと失敗するよ・・・ということですね。 知識としてではなく、多くの作品を読み、鑑賞し、多作を通して直感的な季語の本質を自身の感性に植え付けるのです。
春泥の轍ぐちゃくちゃ網模様 有香
今日の句会で有香さんの詠まれた「春泥の轍が描く網模様」の原句を少し添削したものですが、「ぐちゃくちゃ」という措辞にやや抵抗を感じられた方もいらっしゃるようです。
「網模様」があるので「描く」は不要なのですが、じつは昨日からご紹介している青畝先生の」『俳句のよろこび』の中に次のようなくだりがあります。
私は、われわれの日本語を正しく、そして美しいしらべを発揮するように用いるべきだと痛感する。 ことばは生きもので、それぞれ生命をもっていると考えるのである。 清音と濁音とでも、その音が耳には違った感情の波をつたえる。
ど で ど で と 雨 の 祭 り の 太 鼓 か な 虚 子
この句は「どでどで」とある濁音のひびきで太鼓の皮が湿ってたるんでいることを直感すると同時に、雨中の祭り風景の気分が眼前する。
音楽をきくように句の味わいがにじみ出てくるのだが、これは日本語を正しく叙しているから美しいのである。 「雪積もる 夜のランプ」というのも日本語が美しいと思う。
--- 中略 ---
日本語にはわれわれの歴史があるので、何から何まで委曲(詳しくの意)に叙述しないでも意を達してくれる。 そういう点では日本語が不完全であるといわれているのだが、俳句のような韻文学においては、その不完全さを逆に面白くさせ、融通無碍の妙味を見せるのである。
~阿波野青畝著『俳句のよろこび』より引用
「ぐちゃくちゃ」の措辞が青畝師の仰る意にかなっているかどうかは、ぼくには自信ありませんが、「網模様」という措辞はあるいみ規則正しい模様というイメージがあるので、そうではない情景を「ぐちゃくちゃ」に託したものです。 青畝師がこの句をどのように評価して下さるか、天国で再会したときに聞いてみたいです(^_^)
青畝先生の著書『俳句のよろこび』を読み直しています。
この著書の第一章に、「実作の周辺」という箇所があって、ここを読むと青畝先生の理念がよく分かります。GHメンバーにもぜひ共有して頂きたい情報なので、今日から何回かに分けてご紹介していこうと思います。
冒頭に「俳句の信念」と言うタイトルで書かれた一文は、正しい伝統俳句のあり方、言いかえれば私たちの俳句に対する姿勢を教え示しています。
例えば自由律の、
"雪 積 も る 夜 の ラ ン プ 放 哉"
でも
"あ す は 元 日 の 爪 で も き ら う 山頭火"
でも、これを口でうたえば対象が目に見え情感がつたわる。つまり日本語が日本語としてしぜんだからである。
しかし伝統としての俳句は、季語と定型が約束であるから、上掲の句は詩として価値を認めるが俳句ではないと言うことだ。俳句でなくとも新しい名目の詩を生かすことは不名誉でないと思う。芸術の自由な園にはいろいろの詩のジャンルが生まれることはわれわれを楽しくするであろう。
しかし伝統を守りそれを新しく育てようとする者は、あくまでも約束を守らねばならぬ。真に約束の意義に徹すれば、約束は自由を束縛しないのである。節度を持つ美しい表現は約束なる枠があるからだ。そこには表現の自由という魅力をわれわれは発見する。
俗に、苦あれば後に楽ありという。何もかもが自由であることは無情の楽しみではないことの実感は、約束の枠に苦心してそれをマスターしえた人たちに湧いてくるだろう。
~阿波野青畝著『俳句のよろこび』より引用
これが青畝師の俳句に対する信念である。俳句を正しい調子で詠む、推敲して定型に整えるという姿勢が最も重要であることを示唆しておられるのです。さらに簡潔な俳句の重要性について次のように書いておられる。
俳句は誠に短小の詩型で、複雑な事態をとりいれがたい。それは叫びに似た簡潔な要素だけを受け入れ、千万言に匹敵する強靱な力を見せることが出来る。ところが今日の複雑な世態にある人の心は収拾が付かない。簡潔な俳句になじみきれなくて、むりにぎしぎしとつめこむか、あるいは奇形の、たとえばアバンギャルドが現れたりする。そういう現象に向かって、私など理解しようがない。そうなっていく気持ちがわからぬことはないのだが、俳句というユニフォームがほころびたら着て出られなくなるのである。
~阿波野青畝著『俳句のよろこび』より引用
正しい伝統俳句をいかに伝承していくべきかと心を痛められた青畝先生の叫びが聞こえてきそうですね。
つづいて著書の中には、日本語を正しく、美しいしらべを発揮するように用いるべきだと説かれている。 はたして私たちは俳句というものをここまで掘り下げて作句しているでしょうか。考えさせられますね。
さて、次回は、季語について言及しておられる箇所を紹介しましょう。
amazonの検索で掘り出し物を見つけました。興味のある方は是非お求め下さい。 「俳句のこころ」は特別お勧めです。
今週は推敲不足による字余りの句が目立ちました。 5・7・5の正調に推敲して投句するという意識を強く持ちましょう。 これを心がけないと上達は望めません。
また作りすぎの感がある言葉づかい・・・も気になりました。 平明で素直な表現を心がけましょう。 添削された句と原句を並べて復習してくださるとよく分かると思います。
昨日の日記にも書きましたが、「手段としての写生」に真剣に取り組むという覚悟がなければ、日々の修練は逆効果になります。 感じたままを素直に写生する方が遙かに簡単なことなんですが、考えて作る悪癖がそれを邪魔するのです。
一に吟行、二にも吟行、とにかく作って作って黙々と添削に送ってきて下さい。これがスランプ脱出の一番の近道です。
WEB散歩をしていて面白いサイトを見つけました。
群馬県の方の個人ページと思いますが、いろいろと興味深い記事が載っています。 そのなかで、ぼくたち青畝門下生にはあまりにも有名な話なんですが詳しく載っていたので転載します。
俳句の雑学4:虚子から青畝への手紙
青畝が俳句を始めたのは畝傍中学校の頃で、同県の郡山中学の英語教師であった原田浜人の門に入門している。
原田浜人は「ホトトギス」同人であったが、その頃虚子が提唱していた客観写生とは意を異にし、主観尊重の立場を取り、後に虚子と袂を絶っている。
師と仰いだ浜人が主観尊重を説いたので、当然青畝も当時の「ホトトギス」の客観写生には反発を抱いていた。 そして、青畝はその不満を手紙に託し、虚子に送ったのである。 もちろん、地方の一会員の青畝に虚子から返事が来るとは思ってもいなかった。 しかし、大正八年九月二十六日付の虚子からの返書があった。
その時の事を青畝は次のように述懐している。
「俳句は文学である為に低俗な俳句を駆逐することだ。懸賞を付ける月並俳句が腹立たしかった。その一面、逆に文学意識過剰の私でもあった。
十七文字、この短小詩型は小説の代理にはならぬ。若い客気の私はそのことが合点できずに、ひとりよがりの難解俳句を作った。 虚子師はそれを喜びはしない。詰問に似た私の陳情に師は懇ろに答えた。
『御不平の御手紙を拝見しました。浜人君からも似よつた御手紙をもらひました。しかし私は写生を習練しておくといふことはあなたの芸術を大成する上に大事なことと考へます。 今の俳句はすべて未成品でそのうち大成するものだと考へたら腹は立たないでせう。さう考えて暫く手段として写生の練磨を試みられたらあなたは他日成程と合点の行く時が来ると思ひます。不取敢其だけを御返事と致し置きます。』
これが思い上がりの私を諭した全文である。 良き師を選んだ。良き師との奇しき恵まれた出合を得たことに心から掌をあわせている。」
それからの青畝は「手段としての写生」を習練し、後に4S(秋桜子・誓子・素十・青畝)の一人に数えられ、正反対の立場にいた高柳重信にして「四Sの中で一番新しかったのは青畝ではなかったか」と言わせている。
ぼくが紫峡先生や青畝先生の指導に従っていこうと決心したのは、この事実を知ったからです。 そして、この志を正しく継承していくことが、恩師青畝先生から託されたぼくの使命だと信じています。
青畝先生は、句集「正編・青畝風土記」の序文にも次のように書いておられる。
芭蕉のことばを借りて月日は旅人である。
六十何年の私の俳歴を顧みたときの実感もそうである。 あわただしいがまさにそうである。
人は生命をもっている。心−主観−を忘れるなよと浜人は叱った。 大成するには写生の修練が要ると、私の指針を修正させた壮年の虚子先生は、更にこわい人だった。 紙魚が匂う古本から猿蓑を漁った。芭蕉を知りたいためだが読めぬ字がゴロゴロしていた。 それよりも蕪村は分り易かった。絵を見るように具体的である。
作法は蕪村流に精神は芭蕉追及、写生を旨とする花鳥諷詠は虚子である。 そうと決めたのがわが生涯となった。
~ 句集「正編・青畝風土記」”監修の辞に代えて”より引用
GHの教本として新入会の方にお渡しできるよう、「みのるの四季別の作品」を PDF化するための作業を進めています。
書式は毎日句会のみのる選の PDF書式を少しアレンジすることになると思います。 A4横方向の用紙を真ん中で二つ折りにして二ページにします。つまり A5縦サイズと言うことですね。
縦書き二段組、一段10句にしますので一ページで20句、A4一枚に40句です。春夏秋冬の見出しと仕切りを兼ねて一ページを割くと、一季100句なので丁度6ページ(A4用紙3枚分)になり、四季で24ページ、A4用紙でいうと12枚になります。
表裏の表紙は、少し厚めのカラー用紙を使います。 A4用紙を二つ折りにして、24ページの中身をサンドイッチのように挟んでホッチキス止めにすればできあがりという計画ですが、もう少しスマートでできばえの良い手法をご存じでしたら教えて下さい。
PDFの中身原稿はみのるが作ります。外注するほどの代物ではないので手作りで十分だと思います。ダウンロードして頂いて個人個人で自作して頂くか、有志に手伝って頂いてある程度の部数をまとめて作るかなどの具体的なことは未検討です。
入門レッスンのテキスト類も内容を見直し再編集して PDF化しようと考えています。
楽しかった俳句作りが、どうも最近は苦しくなってきたというあなたへの手紙を書いてみました。
*****作句が苦しいというあなたへ*****
最近のあなたは毎日欠かさず投句を続けることが苦しいと悩んでおられるようですね。
投句を続けることがなぜそんなに苦しいのでしょうか。
それは結果を気にするあまり良い句を作ろうと頭で考えて創作しているからではないかと思います。
毎日句会は、野球の練習法 ティーバッティング に似ていると思います。 ティーバッティングは強振しないでコツコツとひたすらボールの芯をとらえることを訓練します。 繰り返して練習することで頭からの命令ではなくて体が反射的に対応するように記憶させることが目的です。 これが野球のバッティングの基本だからですね。
では作句の基本は何でしょうか。
正しい日本語を使う、平明な言葉づかい、季感、などのチェックポイントの他に基本中の基本があります。 それは、作りっぱなしにしないで 5・7・5 の正しい調子に推敲するということです。 このことを日々意識して向き合うことで、正調のリズムを右脳に記憶させてしまうことが重要なのです。
もう一点、自分自身に律して守るべき事は、[必ず吟行で詠む] と言うことです。
つい横着して頭で考えた句を毎日投句していると、知らず知らずのうちに感性が鈍化し、吟行にでかけても中々句が詠めない・・・吟行が苦手、という状態に陥ってスランプを招くのです。
毎日吟行に出掛けるのは無理・・・という声が聞こえてきそうですね。
でも、日々の生活のなかで10分でもいいですから気分転換して心を遊ばせることを心がけて下さい。 少し早く家を出て通勤途中で寄り道するとか、散歩や買い物の途中、お昼休みとかでもいいのです。 そうした日々の努力の積み重ねが吟行の力となって身についていくのです。
継続は力。肩の力を抜いて、普通に呼吸をするごとく俳句ライフを楽しもうではありませんか。
うつぎさんから、お誘いのあった黒川の里山紹介の動画を貼っておきます。真ん中にある 三角印をクリックして下さい。
寒いですが頑張って挑戦しましょう(^_^)
黒川のパンフレットをネットで拾いましたので貼っておきます。画像をクリックすると PDFが表示されます。 PDFの方が鮮明ですのでこちらをダウンロードされるといいです。炭焼き以外にも興味津々(^_^)
参考:乗り換え案内 ■阪急三宮 | 阪急神戸線通勤特急(阪急梅田行) 16.7km 中央 | 08:08-08:23[15分] | 310円 ◇西宮北口 [4分待ち] | 阪急今津線(宝塚行) 7.7km 中前 | 08:27-08:42[15分] | ↓ ◇宝塚 [4分待ち] | 阪急宝塚線急行(阪急梅田行) 7.3km 前〜中 | 08:46-08:59[13分] | ↓ ◇川西能勢口 [3分待ち] | 能勢電鉄妙見線(妙見口行) 12.2km | 09:02-09:30[28分] | 320円 ■妙見口 ■香里園 | 京阪本線通勤快急(中之島行) 14.6km 後 | 07:55-08:11[16分] | 300円 ◇京橋(大阪) 3番線発 [6分待ち] | 大阪環状線大阪方面 4.2km 後 | 08:17-08:24[7分] | 160円 ◇大阪/阪急梅田 1番線着 [10分待ち] | 阪急宝塚線通勤急行(宝塚行) 17.2km やや前・やや後 | 08:34-08:56[22分] | 260円 ◇川西能勢口 [6分待ち] | 能勢電鉄妙見線(妙見口行) 12.2km | 09:02-09:30[28分] | 320円 ■妙見口
居酒屋の灯に佇める雪達磨 青畝
今朝の神戸は氷点下になりました。日記を書いているいまも温度計は 0℃度、みのる庵のバードバスには薄氷がはっていてブルーベリーの赤い落葉が虜になっています。不要になった大きな味噌瓶を広島の実家から持って帰ってメダカ鉢にしているんですが、これにも氷が張っていました。メダカさんたちは大丈夫か心配。
ところでここ数日、GHへのアクセスが少しずつ増えています。理由はよく分からないのですが、リニューアルしたことが影響しているのであれば嬉しいですし感謝です。
着膨れて夜半の余震に怯えけり みのる
今日は、1.17 あれからもう18年になるんですね。
当時、鉄道会社に勤務していた僕は、震災復旧に追われる日々となり、俳句どころではなくなりました。 やむなく結社を離脱、GHを開設するまでに7年ほどのブランクがありました。
けれども結果的にこの 1.17 が、僕の俳句人生を大きく変えることになるのです。
メンバーの皆様に支えられて、今日まで GHの運営を続けてこられたことを感慨深く思います。 開設後10余年、紆余曲折いろいろありましたが、振り返って全ての行程で神様が導いて下さったとしか思えない体験も多くありました。
今年の誕生日には、70才を迎えます。健康に留意して一日でも長く GHを運営できるようにと祈ります。
吟行で詠むときのポイントとして、あちこち移動しないで一カ所で頑張ってみることをお勧めしています。
先の西宮神社や多田神社での吟行を例に取るなら、どんど焼きをじっと睨みながらそこで5句、10句と多作する訓練をされるといいですね。 具体的にどうするかというと、視点や焦点をいろいろと変えてみるのです。
写真では、映した全体像から一部分を切り取ることをトリミングするといいます。
GHの TOPページに6~7枚のイメージ写真がでてきますね。これらはあらかじめワイドに撮影されたものではなく、タテヨコ比=4:6のものから1:4になる部分をトリミングしてあるのです。どの部分をどのように切り取ったら自分が気に入った感じになるのかを何度も試します。 つまりこの切り取り方次第で個性・感性が現れてくるのです。
どんど・吉書揚・左義長を詠む場合でも、全体像を写生する・火守役の人を写生する・燃えているものを写生する・くべようとしている人を写生する・煙を写生する・炎を写生する・・・人物写生であっても更にズームアップして、その所作・顔つき・頬・目つきなどなど、切り取り方によって無限に写生できるはずです。一カ所で時間を割くことで思わぬ情景に遭遇できることも少なくありません。
このようにどんどん多作して、並べてみると駄作も多いのですがいくつか輝きの見える作品もあるはずです。その作品をさらに推敲して磨きをかけるのです。Aの上五+ Bの中七+ Cの下五と合成して素晴らしい Dという新作が生まれる・・・ということもあり得ます。一句一句完成品の句を詠んでいくというのはプロの俳人でも出来ないのです。
文章書きの人が400字の原稿を完成させようとするとき、まずはその数倍のボリュームの草稿を起こし、それを削って削って最終的に400字に仕上げるという話を聞いたことがあります。俳句の場合でも、一句の中にたくさんのことを詠み込もうとせず、推敲に推敲を重ねて明確に焦点を絞ることが最も重要です。
石塔の傾ぐは震禍初戎 みのる
2013年の初句会は、18名の参加で久しぶりに賑やかな句会になりました。
特に能勢チームは(泰三さん改め)かかしさんとよう子さん が、体調も回復されて今年からフル参加を目指されるという嬉しいお話し、今日はお休みだったうつぎさんを加えると総勢6名になり GH軍団の最大勢力に躍進です(^_^)
近々、臨時開催で能勢の炭焼き吟行を計画して下さっています。頑張ってみなで行きましょう。 タイムリーに窯出しのタイミングと合うかどうかが分からないので・・・と案じておられるのですが、その場の雰囲気やお話を聞きながら想像たくましく詠めばいいので、そんな心配は全く無用です。
定例句会の後の二次会では、新生 GHのページの話題で盛り上がりました。
携帯端末の iPad や iPhone で閲覧するのに最適化してあるので、PC画面ではやや使いづらいとの意見もありました。 その携帯端末だとどんな風に見えているのかをみなさんに写真でご紹介しておきますね。 写真をクリックすると拡大になります。
普通に GHを開くと左側の表示です。indexをクリックすると右側の表示になります。
鉄瓶の湯を凍飯の上にそゝぐ 青畝
日記一覧が壊れていたので修復しました。
毎日句会の成績一覧で左右の余白が出なかったのも原因が分かり修正しました。 ほぼこれで全体の修正が終わったと思います。 いろいろ混乱させてごめんなさい。
他に気になる部分があれば遠慮無く教えて下さい。
TOPページの「今日の一句」如何ですか? IEでは角張った囲みになっていると思いますが、 それ以外のプラウザでご覧になっている場合は、角の丸い囲みになっていると思います。 毎日ここをクリックして合評記事を復習して下さいね(^_^)
明日の初句会、天候が守られるようにお祈りします。
蝋涙をこそげたる手の胼を見よ 青畝
リニューアルに伴うトラブルでご迷惑をおかけしました。 ようやく落ち着いたかと思います。
IE GoogleChrome Firefox Sfari Opera iPhone 等々、全ての環境で目的通りの表示をさせるのは至難で、IEでの表示だけがうまく動作せず苦労しました。
やろうとしたことの一番の目的は、携帯端末への対応でした。
従来の画面でも見えることは見えていたのですが、PC画面で見やすいように横方向両サイドに余白を取っていましたので、そのままだと携帯端末ではとても小さい表示になってしまいます。今回のリニューアルでは、PC環境の時は従来通りに見えて、携帯端末で見たときは横幅いっぱいに表示させるという仕組みです。
携帯端末で見ることが出来る方はぜひ確認してレポートして下さい。
もう一つの工夫は、PC環境の場合でも環境に応じて横方向の表示幅を自動的に調整してくれるようになっています。
満天さんの場合、画面の左サイドにお気に入りのリンクを常時表示させておられるそうです。 このケースの場合、当然右サイドの画面幅が小さくなりますが、自動調整によって左右の余白を小さくしてできる限り大きく表示できるようにしています。
デザイン的な評価は何ともいえませんが、リニューアル後、初めての方からの feedback が増えたように思うので、少しは解りやすくなったのかもと喜んでいます。
さて、今週は GH初句会ですね。全員が元気で揃うようにお祈りしています。
もの問へば寒釣きげんわるかりき 阿波野青畝
TOPページに今日の一句として青畝先生の作品を日替わりで自動表示するようにしました。
場所は句会予定カレンダーの下です。 句全体に薄緑の背景カラーがついているいると思いますが、句全体がリンクになっておりクリックすると合評記事を読むことが出来ます。
敬虔なクリスチャンの習慣として「聖書通読」というのがあります。あらかじめカリキュラムされた箇所を毎日一節づつ読み、一年をかけて聖書一冊を通読するというものです。
今日の一句が、俳句バイブルとして GHでの日々の学びの一助になることを祈っています。
石川遼くんがでているこのコマーシャルをご覧になった方は多いと思います。
ひたすらテープの英会話を聞いているだけで英語が話せるようになるというのですが、案外理にかなっていると思いませんか。 日本の英語教育は文法に縛られ、英語を一度日本語に翻訳してからその内容を理解するというプロセスです。実はこの勉強法が英会話の上達には逆効果になっているではと僕は考えています。話すときにも一度日本語の文章を考えて、それを頭のなかで英訳してから口に出してしゃべる、と言うことですよね。
この弊害を俳句の学びに置き換えてみると・・・もうおわかりですよね。 難しい理論や理屈で俳句を勉強すると、作句する課程でそのことを頭の中で復習することになり、直感的で素直な作品が詠めなくなります。 理屈抜きで黙々と多作し添削で学ぶこと、これが俳句のスピードラーニングではないかと思います。
ようやく TOPページリニューアルが終わりました。まだ不具合があるかもし得ませんのでレポートよろしくお願いします。
イメージ写真はフリーの素材をワイドにトリミングして使っています。ページを開く度に四季のイメージがランダムに切り替わるようにしています。画面の横幅が変わると表示される写真のサイズも自動的に調整されます。
昨年からの積み残し課題:毎日句会の清記印刷フォームを更新しました。
今のところプラウザの機能に依存した仕組みなので、残念ながら Firefox をお使いの場合は縦書きにはなりません。 InternetExplorer GoogleChrome Sfari(MAC OS X) 等では縦書きが可能です。
基本的には、一段に25句で三段まで表示する仕様ですが、プラウザの設定、お使いのプリンターの機種など環境によって変わってしまうので、一度試してみて談話室へレポートを書いて下さい。文字間のスペース、行間なども調整可能です。
初湯殿卒寿のふぐり伸ばしけり 阿波野青畝
あけましておめでとうございます。
おかげさまで家族みな元気に新年を迎えることが出来ました。お昼前には初孫の亮ちゃんもやってくる予定で、みなでお節を頂きます。
みなさまは、どのようなお正月を迎えられたでしょうか。談話室で年賀を交わしましょう。
先ほど初風呂に浸りながら、青畝先生のこの句を口ずさみました。ぼくも今年の誕生日には70才です。神様が生かして下さったら卒寿まで頑張りたいです。(^_^)