やまだみのる

(青畝先生の俳話 No.2)

機会あるごとに、「温故知新」のこころを説かれまたご自身も常に挑戦者の気構えで新しさを求めて止まない。そんな先生のお人柄がよく現れている一文だと思います。

(2001年12月3日)

わかる俳句を 阿波野青畝(昭和22年8月)

俳句は三尺の童子にみせても大意がわかるような表現を用いたほうがよいと思う。俳句の内部に潜んだ思想とか象徴とかいった奥行の深さについては、とうてい三尺の童子では理解できるはずはないが、表面に現れた事柄は、誰が見ても日本語が分かるように同じようにわかるものにしたいものである。

徒らに奇をてらってみたり、日本語としてちょっと疑われそうなちぐはぐした措辞を得意としてみたりして、俳句を俗人には判らぬようにして、仲間の少数人にとっては非常に斬新極まるスタイルと構想であるかのように装う俳句というものがあるけれども、私はそうした難解な俳句に一向頭を下げようとは思わない。

その代りに意味が誰にも判り、誰にも作れそうに感じられるくらい親しさをこめた俳句のうちで、よく味わえば味わうほど句のひろがりが無限につづくように思われ、その対象が自分の前にありありと立っており、それこそこの大宇宙の生命がこもっていると言わねばならぬ奥の深さをそれとなく汲みとられる俳句があると、私は逆上して嬉しくなるのである。

そして私らの俳句修行は、どんなにむつかしい思想でも素材でも構成でも、ほんとうに自家薬籠のものとなるまで自分の身の内で燃焼させてしまって、どんな鋳型へでもつぎこんだらその通りの形のものを造ることのできるような具合に、三尺童子を相手にしてうなづかせてみせる平易さのところまで表現の工夫をくりかえす----俳句修行はすなわちかくの如くあるべしものと考えている。

大言壮語は素人をおどかすのに都合がよい。しかし真に人の生命をゆりうごかすものではない。私らは人の生命をゆりうごかそうと念願する。それには表現という問題が一番大事になってきて、いいかげんなことで大言壮語を放ち、瞞着してはいけないのであって、ほんとうによくこなれた言葉が生まれるまで、自分を責める、自分の工夫をあくまでもやりとおす覚悟である。これは実に地味な仕事で、しんぼうの要することと思う。

けれども俳句においても流行がある。流行をはばむことがあってはならない。うまく流行を善導する用意を怠けてはならないと考えるのである。杓子定規を持っていてはならぬという一語を付け加えたいのである。

 

 Search  Feedback  Twitter About Me About This Site