やまだみのる

(青畝先生の俳話 No.4)

見た情景を写真を撮るように写生するのではなく、心を虚しくし想像を逞しくして感じるところを写生する。青畝先生が説いておられる写生の基本姿勢というのは、そうゆうことだと思います。

(2001年12月5日)

個性と写生 阿波野青畝(昭和30年10月)

私は時折に個性のにじみでている句がほしいという。しかしそれは芸術の高さを高めるためにいうことであって、俳句を作りはじめて日の浅い人に対しては誤解を招くことになろうと思うので、個性について少し説明してみよう。

個性を目的として私らは俳句を作っているのではない。 個性を目的として作ろうといかに努力してみても、たやすく自分の個性が光りでてくるものではない。私らはただ良い俳句を作ることを願いとするのである。目的はそれである。良い俳句である。 立派な芸術作品といわれる俳句を作らんがために一生けんめいになればよいのである。それは自然に没頭することだと私は考える。

ある人の説を借れば、個性は汗のようなものである。 汗を出そうと思っても出てくるものではない。 けれども激しく運動すれば、汗を出すまいと思っても勝手に流れ出てくる。汗が運動の目的でもなければ汗を出すことを目的ともしないのに、しぜんに出てくるのである。 ちょうどそれと同様に、個性は俳句を作るのに一生けんめいになればおのずからにじみ出てくるのであって、個性を出そう出そうと思っても直接にあらわれてくるものではない。 個性を忘れていても、それは俳句をはげんでいるうちにおのずからあらわれてくるのである。

個性の強さはどうしてあらわれるか。 それはただ自然に没頭する強さである。 芭蕉が「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と教えたように、対象と一体に成りきろうとする努力や覚悟の程度が、個性の強さを示してくれるであろう。 松の事は松に習い、また竹の事は竹に習うとは自然によく学ぶということである。 かりそめにも自然を軽侮する態度があってはならない。 いわゆる捨身没頭の意気ごみをもって自然に肉迫してゆく、これを写生の道と私は呼びたい。

写生という意味は今日区々に解釈されて、初心の人も古参の人も迷わされていることは事実である。 自然の形相が俳句化された後の自然の形相と相似の場合は問題がない。写真が写生になるような場合である。 題材となった自然と、俳句化された後の自然とが別種のものであるかに見える場合に問題となるのである。このように別種のものに見えるような場合も写生といえるかどうか。

写真で見たその人よりも、漫画のように省筆して描かれたその人のほうが、格段とその人の真が伝わって感じられるという場合が多い。 これは道理に合わぬようで、むしろ真に迫るからふしぎである。 このようなことは俳句にも行なわれていて、こうした俳句に現われる変容は、作者の直感が最もよく正直に写しこなした描写である。

たとえば、作者は屋根の瓦の一枚一枚をとうてい意識に捉えることはできないがために、全体の形の中に不完全のままで見、その中から意味を直感的に把握して屋根の形の面白いところを印象させてくれる。 つまりこの作者は不必要な夾雑物をふりおとして純粋のものばかりを簡潔に感得しようとしているのである。それがゆえに行なわれた変容であるから、もちろん作品として意味を持っている。 対象の生命をつかみとって描写していることが、対象そのままの形相と比較して歪があろうとも欠けておろうとも、私は写生に外ならないのだと考えたい。

写生とはこのように大切な芸術活動である。片々たる単なる撮影家や報道班のような仕事と同等視されて甘んじてはならないと思うのである。

 

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