2024年1月27日 09:51 コメントを書く Feedback
北風が窓をうちつける寒い日は下戸の私のために家内が甘酒を作ってくれます。
フーフーと口を尖らせて息を吹きつけながらそれをのむとき、何げに童心に返って身も心も温まる感じがするのです。
ところが、それを句に詠もうとしても季語としての甘酒が邪魔をします。
歳時記の多くは「甘酒」を夏の季語として分類しているからです。
現代の生活習慣では寒い冬に熱い甘酒で温まる…という感覚が身についているので、
暑い時に熱い甘酒を吹き吹き飲むのは、かえって暑さを忘れさせるので、夏に愛用される。
という歳時記の説明を読んでもさっぱり実感がわかないのです。
歳時記に従うのが俳句のルールなので、こうした矛盾感とも付き合っていくしかないのですが、さて次の句はどうでしょう…
寒風が吹きすさび間遠に虎落笛の聞こえる底冷えの日にあつあつの甘酒をコップに入れ、割り箸の片割れでかき混ぜながら呑んでいる…そんな情景が目に浮かびます。
厳密にいうと季重なりですが、主季語は虎落笛でありこの句における甘酒は虎落笛に呑み込まれてしまって完全に冬の季語に変化しているのです。
このような作品づくりに青畝師の俳句信念がうかがえます。季語の概念にとらわれずに誰もが納得できるように句を仕立てるという高度な写生力ですね。
2024年1月26日 14:05 コメントを書く Feedback
今日、とあるメンバーとのメールのやり取りで標題のことをおしゃべりしました。
まったく相反するそれを融合させて詠む…という課題のお話です。
俳句も詩ですから叙情は大切な要素です。でも、具体的に客観写生せよ…と言われる。
どうすりゃいいのさ… ♫
藤圭子の歌にそんな一節があったと思いますが言葉で説明するのは実に難しいです。
有名なミレーの晩鐘、実に叙情的ですね。
もしこの絵に農夫の姿が無く牧歌的な夕景だけだったらどうでしょう。
写真と大差のないただの写生画ですね。
祈る農夫の姿が描かれていることで間遠にひびくチャペルの鐘の音も聞こえてきます。
具体的に…というのは、こういうことではないかと私は思うのです。
曖昧なことばで写生しても、なんとなく解る…という共感しか得られず、具体的な景は見えてきません。
その種の句を好む人には支持されるかもわかりませんが、上級者は決して採りません。
たとい叙情の句であっても、「一枚の絵」として連想できるように詠め、というのが紫峡師の教えでした。
日々客観写生の訓練に励むのは、ミレーの晩鐘のような句を詠みたいがための鍛錬だと私は思うのです。
2024年1月24日 09:12 コメントを書く Feedback
昨日今日の寒波、まさに大寒を実感します。青畝俳句研究に下記の句がありました。
俳句は愛の心で詠め…と教えられた。
揶揄的な視線で写生しても、それを好む人どうしは共感しあえても万人に感動を与えることは出来ません。
苦しさの見える句であっても、そこに救いが得られるような気持ちを与えなくてはいかんと思う。
青畝先生のこのお言葉は、 の俳句理念の根底をなすものです。
俳句は斯く詠みたいですね。
2024年1月21日 19:16 コメントを書く Feedback
みのる選は私のライフワークでありよろこびです。
新鮮かつ躍動するような作品に触れると心がおどります。
思いがけない視覚や、いのちあることばの斡旋、その逞しい足取りに圧倒されるのです。
と同時に相変わらず観念に縛られたテレビ俳句や虚構俳句が横行するのを止められないもどかしさも感じています。
初学者にとって最も大事なのは客観写生の修練、必ず「実景を見て実感を詠む」こと。
これを実践しない限り、本物の俳句のよろこびと出会うことはありません。
2024年1月17日 10:39 コメントを書く Feedback
合評記事を読むだけでも参考になる…
と考えるのは大きな勘違いです。
確かに俳句鑑賞は簡単なようで骨の折れる作業です。
自分で調べ、思い巡らせて連想する…
この地道な日々の努力が論理としてではなく感覚として右脳に蓄積されます。
読んで得た知識は実作では役に立ちません。
実感として身につけた鑑賞力こそが、やがて作句力に転じて報われるのです。
休み休みでもいいのです。勇気を出して合評に参加しましょう!
2024年1月16日 10:48 コメントを書く Feedback
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
誰もが知っている川端康成の小説「雪国」の書き出しです。
これって俳句だわ…と思いませんか。
小説家の写生表現から学ぶことも多いのだよ…
川端康成の「古都」を読んでみなさい、と紫峡師から勧められたことがある。
破竹の勢いだった結社での私の成績が頭打ちになって苦闘しているタイミングであったように思います。
「古都」は二度、三度と映画化されていて知っている人も多いと思います。
物語はともかく、京都各地の名所や史蹟、年中行事が盛り込まれ、ガイドブックさながらの情景描写が京都ブームの起爆剤になったとされる人気作品です。
俳句を詠んで、選句して投句して、そのうえ合評まで…と四六時中俳句頭でいると疲れるでしょ(^o^)
みのるに気遣って常に優等生でいる必要はありませんよ。たまには息抜きして小説でも読みましょう。
2024年1月14日 13:59 コメントを書く Feedback
そもそも人格ってなんでしょう。
性質、性格、人柄、品性、個性、人となり…
哲学者マルセルによれば、自律的な判断、決断ができ、責任をもつ固有な「人」を「人格」と呼ぶ…と。
私はシンプルに「信仰」だと考えています。
神仏信仰というよりもっと広義に、「信じて進むべき道」というべきでしょうか。その意味では「俳句と信仰」と表現するのと同意かも知れないですね。
俳句修行3年を過ぎたら、そろそろ自分はどのような俳句道を目指すのか…
ということを明確に決めて励むべし…と言いたいのです。
現代俳句主流となった昨今、道は千差万別、混沌としていますが、その源流は虚子が称揚した昭和の四Sにあると私は考えます。
いづれも虚子が提唱した写生を基点としてはいます。
しかしながら素十道は徹底した客観、青畝道は隠された小主観、秋桜子道は加工による美化、誓子道には新興傾向が匂います。
これらを見比べて、おおよそ自分の嗜好はどの道なのかを見極めるのです。
それが見つかったなら徹底してその道を追求して励むのがホームラン打者への近道だと私は思います。
道を定めずふらふらとジブシーしていたのでは個性は開花しません。
みのるの作風はいうまでもなく青畝道です。
けれども選者としては上記四道を分け隔てなく選ぶべく日々精進しているつもりです。
数ある結社誌の当月集(主宰選)を見比べてみてください。
主宰好みの句が長屋をなしている結社と百花繚乱の匂うそれとでは、全く違うのです。
主宰好みに迎合せず個性ある自らの道を拓いていく、これがあなたの進むべき道だと思います。
わかったようでわからない結論になりました。ごめんなさい。
2024年1月12日 10:07 コメントを書く Feedback
クラーク博士の有名な言葉、
Boys, be ambitious は、実際は、
Boys, be ambitious in Christ!
とおっしゃったことをご存知でしたか?
紫峡師は、敬虔なクリスチャンでした。
… 人格の陶冶を目指す。
恩師が示してくださったこの遺志にも、
…人格の陶冶を目指し、キリストの愛に倣って奉仕せよ。
の言葉が隠されていると私は信じています。
一見平和に見える の運営にも日々の葛藤があります。
それでもこの指針が私の立ち返るべき原点なのです。
互いに思いやりと奉仕の心を忘れなければ、他所では得られない信頼と安息がここにあると思うからです。
今日も少し脱線しました。ごめんなさい。
ホームランを打つ秘訣は、Vol.3で…
2024年1月11日 13:10 コメントを書く Feedback
俳句は人格だと教わりました。
捉え方、感じ方、表現などに作者の人格が現れるからです。
高濱虚子・阿波野青畝師の精神を継承して写生の修練に励み、互いに切磋琢磨して人格の陶冶を目指す。
私が学んでいた頃の紫峡主宰が結社の指針として掲げられた標語です。
故に「人格の陶冶を目指せ!」ということなんだと思う。
俳句をやりはじめて3年くらいまでは誰もがただ無我夢中です。
けれどもそこからの進むべき道をきちんと見極めることが、個性が開花するか否かの分かれ道だと言えます。
誰にでも詠めそうな80点俳句をいくら貯えても財産にはなりません。
アベレージ打者ではなくホームラン打者を目指せ
紫峡師から何度となく注意された言葉です。
成績を気にするからアベレージ打者になってしまう。没を恐れずやぶれかぶれでホームランを狙うのだ!とも。
でも闇雲に無茶振りしていたのでは確率が下がりますよね。
野球なら、球種をしぼり、コースに山をはって振れ…ということになるでしょう。
俳句も又然りなのです。??
具体的にどうするのよ!
長くなるので、続き(Vol.2)はまた後日、いまはまず「俳句は人格」と覚えて作句に励みましょう。
PS:いま、 俳誌「ひいらぎ」 のホームページを確認したら、標語から「互いに切磋琢磨して人格の…」が消えていた。無念!
2024年1月8日 11:29 コメントを書く Feedback
新年から故臼井菜々さんの句集の合評が始まっています。
新入生のみなさんがこぞって協力してくださっていて大感謝です。
今回は合評の欄外でミニレッスンを書くという仕組みにしています。
さながら俳句教室になっていますが、それはそれで良いことだと思っています。
もし時間が許されるなら、合評のページを訪ねられたついでにぜひ「青畝俳句研究」のページも覗いてみて下さい。
表示されている句の下に「この作品の合評を読む」というボタンがあります。
それをタップすると当該作品の合評が読める仕組みです。
当時のそうそうたる顔ぶれなのでレベルも高いですがとても参考になると思います。
PS:[合評を書く]の右に ボタンを付けました。玉手箱です(^o^)
2024年1月6日 11:47 コメントを書く Feedback
須磨観光ホテルの蝋梅(撮影:みのる)
みのる庵の庭には恩師紫峡先生を偲ぶために数年前に植えた蝋梅があります。
紫峡師との関わりのなかで、みのるの一大転機となった思い出があるからです。
その時のことをエッセイブログに残してありますのでご紹介します。
今から三十年ほどまえ四六時中俳句脳だったころの話である。
週末の朝、いつものように須磨浦公園へ吟行に出かけた。
その日は温かい玉日和で須磨の海は眩しい日差しを弾きながら穏やかに縮緬波を畳んでいた。
そろそろ観光ホテルの庭の蝋梅が咲いているころだと足を運ぶと既に先客があった。
その人はじっと蝋梅と対峙して微動だに身じろがない。
それが恩師の紫峡先生だとすぐに気づいたけれど、真剣な眼差しに近寄りがたいものを直感したので声をかけずにそっとその場を離れた。
その時に見た先生のお姿はいまも瞼の裏に鮮烈に焼きついている。
先生はキリスト教の牧師のご子息。訳あって牧師の道は選ばれなかったがその信仰はゆるぎがない。
対象物に心を通わせていると神様からのメッセージのように語りかけてくるのだよ。
何度も何度も教えられた言葉である。
先生の真摯なお姿を遠目に見たとき、思わず武者震いしそうなインスピレーションを感じた。
衝撃のその日以降、それがわたしの俳句スタイルとなった。
蝋梅は満開のときも綺麗だけれど、こぼれ落ちそうな蕾の玉がたくさんついて、その中の幾つかが日に透けてほころびはじめている…そんな雰囲気のタイミングがいちばん好きだ。
ほっこりと緩みはじめた蝋梅をじっと観察していると何だか恩師の温顔に見えてくるのです。
毎年阪神忌のころにはほころび始めるですが今年はまだ固いです。
2024年1月5日 13:20 コメントを書く Feedback
袋回しという席題句会の方法があります。
俳句のお遊びとして知られていますが、考えすぎない…ための稽古としても有効です。
吟旅のときにフェリーの二等船室や JR二等席の4人がけボックスでよくやりました。
タイムキーパー役を兼ねる人が必要ですが、4、5人というのが丁度いいのです。
兼題句会のように時間をかけて想を練ることはできません。
予告なしで示されたお題で5分以内に数句を詠むというものなので瞬間のひらめきが求められるのです。
「ん〜む」と考えこんでしまうと、あっという間にタイムアップです。
ひねくりまわさず素直な句が多いからでしょうか、意外と佳句が授かるんですよ。
いま、これをオンラインできないものかと想を練っています。
こんな感じになります。
投句のスタート時間は任意ですが、25分間は連続して座についておかねばなりません。
というあたりがプログラミングの肝になりそうです。
みのるの痴呆予防を兼ねてゆっくり作業していくので、いつ完成し(挫折するかも)試運転できるかはわかりません。
もし運用が軌道にのるようなら兼題句会に代わるシステムにしたいです。
2024年1月4日 09:43 コメントを書く Feedback
信仰という概念と俳句とがどう結びつくのか、つまりゴスペル俳句とはなんぞや…と感じていらっしゃる方は多いと思います。
過去の日記でも何度か触れてきたテーマですが、新しいメンバーも増えてきているので、新たなる2024年へ踏み出すにあたり、改めて の信念をみなさんと共有しておきたいと思いました。
皆さんのヒントになればと思って吟行の道中はなるべくつぶやくようにしています。
ただ漫然と歩くのではなくて何かを見つけること、具体的に何かを感じることを強く意識します。
対象物に深く心を通わせることで作者の個性や情というものがにじみ出るからです。
例えば、溺れているかのように四肢をもがいている小亀の所作を見て「愚かで滑稽」だと詠むのではなく、必死に泳いでいる亀の姿に自分自身を重ねて、「頑張れ!」と励ます気持ちをもって写生してほしいのです。
そうすれば、やがて蓮の葉とか棒切れとかにたどり着いた瞬間に安堵の気持ちが芽生えるでしょう。
そうした励ましや安堵感を写生する訓練によって愛の目、愛の心が培われるのです。
とても有益とは思えない醜草や気持ち悪い小動物であっても、決して彼らを見下したり差別意識で詠んではいけません。
生きとし生けるもの全てに命の尊厳があるからです。
むしろ健気に生きている彼らの営みから学びましょう。
悲しいことや苦しいことも宿命だと諦め、嘆き、恨やむのではなく、神の試練の過程と受けとめて詠むことで勇気が与えられ希望につながります。
さらにそれは、その作品に共感してくれるひとをも慰め励ますことになるのです。
互いに共有することで喜びは倍になり、悲しみは半減する。
これが青畝先生から教わった『俳句のこころ』です。
むかし「究極は信仰」という虚子先生の一文が俳誌玉藻に掲載されました。
この文章に強く感動された紫峡先生は、自身の志と決意を手紙に書いて虚子先生あてに送られたそうです。
けれども私は、虚子の言われたそれと紫峡師の感動された内容とは少しズレがあるのではと感じています。
敬虔かつ謙虚な姿勢で対象と向き合うこと、伝統を重んじ指導者を信じて進むことが大事だ…
というのが虚子のいう信仰の意味ではないかと思うのです。
一方、キリスト者であられた青畝師や紫峡師のそれは、
愛の目で見、愛の心で詠む
という慈しみの精神を養うこと、つまり神の摂理を信じ、キリストの愛に倣う信仰の精神を言われているのではと私は思うのです。
当時の俳諧における虚子は、いわば神のような存在で師弟関係に於いては、近寄りがたい距離感があったようです。
けれども私は、師に慣れることは自戒しつつも青畝師や紫峡師に対して隔たりを感じたことは一度もありません。
そして青畝師や紫峡師に教えていただいた奉仕の精神と俳句の心とを大切に伝えていくのが の使命だと考えているのです。
2024年1月3日 07:51 コメントを書く Feedback
新年早々悲惨なニュースが続いています。
けれどもタイムリーな題材だと安易にとびついて句に詠むのは控えるべきです。
実体験の事象として詠むならならともかく、野次馬視線で写生することは良識な俳人のすることではないからです。
お正月というタイミングで災害や事故が発生したことも驚きではありますが、それは偶然であって、季語(季感)とは無関係です。
私は読者に愛を感じさせなければいけないと思っています。どんなことを詠んでも、不愉快な感じを与えるのではよくない。苦しさの見える句であっても、そこに救いが得られるような気持ちを与えなくてはいかんと思う。
これが青畝師の教えであり、正しい俳人のありかたです。
SNSでの心無い発信が尊い人の命までも奪ってしまうような時代です。
たかが俳句といえどもその発信内容には責任が伴うのです。俳句は人格でもあることを忘れてはいけません。
愛の目で見、愛の心で感じ、それを伝えられるような作品づくりを心がけましょう。
2024年1月2日 12:08 コメントを書く Feedback
昨日は、長男一家が御慶にやってきました。
お節を食べ、お雑煮を食べして賑やかで幸いなお正月を楽しみました。
年末のお泊りでおねだりされていたので、密かに買っておいたアメイジング・デジタル・サーカスの積木を下の孫にプレゼントすると大はしゃぎ。
2023年に公開されたオーストラリアの Webアニメで海外で超人気だそううです。
国産はまだなく購入したのは海外製の積木。
国産のおもちゃに比べると精度も悪く、うまく組めないので「おじいちゃん助けて…」。
ヤスリで削ったりしながら悪戦苦闘で久しぶりに童心に帰りました。
2024年1月1日 08:26 コメントを書く Feedback
あけましておめでとうございます。
今年もみなさまにとって良い年でありますように、お祈りします。