極論的な定義になりますが、季語というのは単なる単語、熟語であり、季感は作品から醸し出される季節感をいいます。 "俳句は季語の有無ではなく季感の有無" という真理はそこにあるわけです。 具体的な説明を進めるためにまず以下の例句を御覧ください。
植え終へし棚田に風の生まれけり きみこ老らくの手習を星御覧ぜよ 阿波野青畝
祇王寺の留守の扉(とぼそ)や推せば開く 高浜虚子
一読、三句とも無季だと感じられた方もおられるでしょうね。
植え終へし棚田に風の生まれけり きみこ
この作品は、"田植えの終わった棚田に…" という句意なので、季語らしい単語は見当たりませんが、「植田」という季感が宿っています。
老らくの手習を星御覧ぜよ 阿波野青畝
鑑賞の難しい作品ですが、"七夕"、"星祭り" の句だと気づかれた方は合格です。 短冊や梶の葉に願い事を書いて、七夕の竹に吊るしますね。
基本季語を分割して新しさへを目指すという手法もあります。ことばの魔術師といわれた青畝先生の作品から学びましょう。
さて例句に揚げた三句目の虚子の句はどうでしょう。
祇王寺の留守の扉や推せば開く 高浜虚子
流石にこれは無季ですね。原句は、"祇王寺の草の扉や推せば開く" だったという説もあります。 もしそうならぎりぎり春の季感を宿しているとも言えます。 でも虚子は、当時祇王寺を庵としていた高岡智照老尼への存問の思いから、どうしても "留守の扉" にしたくてあえて無季にしたというエピソードをどこかで読みました。
20万を超えると言われる虚子の句の中には、揚句も含めて数句の無季の句があるそうですが、いずれも後年になって句集や全集からは削除され、別の句に差し替えられたりしているとのことです。
今回は、簡単に季語のバリエーションを増やせるヒントを書きます。
涼し、温かし、春(秋)惜しむ 爽やか、麗らか等々、感覚的な季語は沢山ありますね。
感覚的な季語は、季語自身に具象性がないので基本的には具体的な事象を写生して取り合わせることが大切です。 なぜなら抽象的な主観と感覚的な季語とを取り合わせても絵画的な連想が働きにくいので、やもすると独りよがりの作品に陥りやすいからです。
さて、五感というのは、聴覚、視覚、味覚、触覚、嗅覚のことですね。わかりやすく「涼し」を例にとって話を進めましょう。
聴覚:耳に涼し、視覚:目に涼し、味覚:のど越し涼し、触覚:手に涼し、臭覚:香の涼し
涼しさを感じるのは視覚や触覚だけでいないということを覚えてください。感性を訓練することで誰でも五感で感じられるようになります。
また感覚的な季語を具体的に表現するために見えるものと組み合わせるというテクニックもあります。
卓涼し、窓涼し、椅子涼し、雲涼し、樹下涼し、声涼し、文涼し、…
揚げれば、切りがないですが、心を遊ばせればいくらでも素材はあるということです。
五感を超える感覚を第六感と言うそうで、私たち詩人は五感のほかに心でも感じる…のです。既成概念やありきたりの常識的な感覚は説明、報告の域を出ることができないので類想が生まれますが、
"五感を働かせ、心を遊ばせて感じる"
という訓練は個性を養ってくれます。誰にも真似のできない個性を目指してがんばりましょう。
握手して以心伝心温かし みのる
テレビのニュースを見ていると台風21号による被害は想像以上です。とくに都市部では台風によるビル風が発生して竜巻に近い減少が起きたようです。
毎日句会でも台風の作品が数多く見られました。実体験をした今の実感を詠むことが大切なのでどんどん詠んでください。 ただ接尾語の用法で曖昧な作品もありましたので復習しておきましょう。
台風 / 颱風
これは特に悩むことはなくどちらでもいいと思います。「野分」は台風の古称です。三文字で済むので便利ですが都市部の写生で用いるとやや違和感が生まれますので上手に使い分けましょう。
台風来:台風が接近している状態です。
台風裡:今まさに強風圏または暴風圏に入っている状態です。
台風禍:台風が去った跡にのこされた災害の様子です。
台風過 / 台風一過:台風が過ぎ去り平穏をとりもどした様子です。
来 / 裡 / 禍 / 過 は台風以外でもよく使われる接尾語です。用法を間違うとちぐはぐな句意になるので注意しましょう。
ハウス栽培や養殖技術の進歩によって花や食材などの季節感が曖昧になりつつありますが、俳句では自然な地球環境で最も美しく、且つ美味である「旬」を季感として詠まれてきました。従ってその季語を取り合わせるだけで、補足説明することなくその旬の季節を舞台設定してくれるわけです。
見たままをそのまま写生せよ…という初学者へのヒントがありますが旬の時期からずれた状態のそれらを見たまま詠むとおかしな俳句になります。梔子の白い花が枯れて錆色になった状態を風情として捉えることもないではないけれど初学のうちはそのような難しい俳句は避けたほうが無難でしょう。
そんな事いわれてもいつもタイムリーな旬の時期に吟行できるとは限らないでしょ!
その通りですね。どはどうしたらいいでしょう。
私の場合はそんなときは旬の季節にタイムスリップして詠みます。過去の体験を記憶の引き出しから呼び覚まして連想を働かせて詠むのは虚構ではありません。どれだけ多くの体験が記憶の引き出しに入っているかによって連想力は違ってきますから、足腰の健康が守られている間は貪欲に吟行して旬の体験を蓄えましょう。
連想力を働かせることによって 「枯木に花を咲かせる」 という訓練もまた勉強です。
ごくまれにですが、 というような用例の作品が出現します。
歳時記にも例句はあるようですが、季語の本質を考えたときにはとても扱いにくい季語だと思います。
うららかな春やさわやかな秋を惜しむという感興はわかりますが、暑い夏や寒い冬の季節を惜しむというのは普通の感覚では共感を得にくいですね。 という季語であればありだと思いますが "惜しむ" という季感とは少し違うと思います。
という風情も同じですね。暑い夏や寒い冬の到来を楽しみに待つという感覚は、特殊な地域を除いては通常ありません。
季語を文字や言い回しだけで安易に使うと正しく季感を伝えることが難しいです。季語のもつ本質をよく勉強して使うようにしましょう。
この類の季語も間違った用法がよくあります。
という基本季語があって、夏に見たから夏の蝶、秋に見たから秋の蝶なのだと覚えるのは大間違いです。歳時記の例句などを参考にそれぞれ全く風情が異なる個別の季語であることを学びましょう。
季語(季感)は伝統俳句の生命と言われます。
その意味で正しい季語の知識を学ぶことが上達への近道であるとも言えるのです。この講座は、俳句入門者を対象に書いていますが、ベテランの方ももう一度初心に帰ってお読みいただけると嬉しいです。
歳時記に掲載されているか否かは一応の判断基準になりますが、特定の歳時記にしか掲載されていない季語もあります。歳時記に載っているから無条件に季語だとも言い切れませんし、載っていないから無季だと決めつけてしまうのも乱暴です。
"つるべ落とし" だけでも季語として載せている歳時記は多いですが、青畝先生は、必ず「日」を入れて詠むようにと繰り返し教えられました。 17文字の中で「日」が連想できるような構成で詠むことができていれば、「つるべ落とし」だけでもいいと思いますが、そうでなければそれはただの物理現象にすぎないからです。
私の知る限りにおいて、【森林浴:夏の森や林の緑に浸り、涼気と新鮮な空気を楽しむこと】 を季語として載せているのは、角川書店編の季寄せだけです。おそらく春の新緑や初秋の頃でも同じ気分があるので季語として認定しづらいことから他の歳時記からは外れているのだと思います。
つまり非常に曖昧な季語だと言えます。ではどうすれば季語として使えるでしょうか?
夏の季語として使いたい場合、涼しさを連想できるように句を構成すればいいですね。春や秋に【森林浴】を使いたいときは、春や秋の季語と組み合わせて使うようにすれば問題ありません。
このように季語の中にも明確に季感を有するものとそうでないものとがあります。どうしても季感が弱いという場合、テクニックとして同季の季語を脇役として使うことは許されます。但し安易に使うと句の焦点が分かれる危険がありますから、初学の間は、【一句の中に季語は一つ】 という約束を厳守したほうが無難です。
この節の理屈が理解できれば、俳句は季語の有無ではなく季感の有無である…ということも納得できるでしょう。
はじめての兼題句会いかがでしたか?
季語の説明をしないで句を詠む…というのは難しい面も多いですが楽しいでしょ。憑かず離れずの微妙な感覚の季語を取り合わせるためには季語の本質を十二分に知ることが必要ですが、ピタリとハマった時は実に快感ですね。
テクニックのツボはいくつかありますが、私が気をつけているのは次の二点です。
添削を加えた作品から具体的に学びましょう。
農小屋の小声はラジオ葛の花 うつぎ
農小屋の声はラジオや葛の花
農小屋から人声が漏れているので近づいてみたらラジオだった…というのが主題、葛の花は脇役である。「や」で明確に切ることでより主役を活かします。
鉄道草高架化すすむ廃線路 なつき
鉄道草高架の脇の廃線路
高架化がすすみ廃線となって残った旧線路を鉄道草が覆っている…着眼はいいのですが説明に文字を使いすぎたために具体的な景がボケています。廃線路と高架との位置関係を明確に写生して絵画的にすると佳句になる。
湿原の水路に迷ふ花野径 わかば
湿原の水路に沿ひし花野径
迷ふ…は主観になるし水路に迷ったのか花野道に迷ったのかが曖昧で焦点が二分されいます。具体的に写生して焦点を花野道に絞り大景にすると佳句になる。
崖を打つ波音が好き葛の花 よし女
崖を打つ波の飛沫や葛の花
音が好き(聴覚・主観)…だと季語の葛の花(視覚)が離れすぎて動いてしまう。岬鼻の葛の花が飛沫に濡れている…近づいて観察するとそれは懸崖に打ち付ける波飛沫であった。
桜蓼何と可愛いい花ならん はく子
桜蓼なんと可愛と屈み見る
可愛いと思う秋草はいくらでもあるので季語が動く。動作を加えることでより桜蓼の特徴が活かされ作者の姿も見えてくるので絵画的になる。
野点席裳裾揺らすや萩の風 満天
野点席裳裾を揺らす萩の風
野点床几に座っている和服女子の裾を繰るかのように時折萩の風が通ってくる。萩の高さが感じられる素晴らしい写生である。ただこの場合「や」の切れが効きすぎて焦点が分かれてしまう。
吟行して詠めれば一番いいのですが、大抵の場合は頭の中で考えて組み立てることになります。
考えて作ったな…と気づかせないで、あたかも吟行で詠んだかのように表現して共感を得る。
これが兼題句の面白さであり醍醐味なのですが、そのテクニックを駆使するために日々写生の訓練に励むことが大切なのです。 またそのような視点を養って兼題句の選ができるようになると、より深い趣を愉しむことができます。 続いて切磋琢磨しましょう。