今日は、今年初めての吟行句会で2年ぶりに昆陽池を訪ねました。
厳しい寒波も緩んで春を感じるような絶好の吟行日和(GH日和ともいいます)になり感謝でした(^o^)
ぼくの孫たちにもぜひ見てほしいとのことで豆狸さんから昔懐かしい「きじ車」のおもちゃが届きました。
きじ車は、杉などの材で雉の形を作って彩色し、下に車をつけた郷土玩具で、熊本県・福岡県のものが有名です。
孫たちは不思議そうにながめていましたが、一番喜んでいるのはおじいちゃんかも知れません。(^o^)
豆狸さん、ありがとうございました。
今日の初句会は16名のメンバーの元気な顔が揃い嬉しかったです。
あまりの寒風にぼくは吟行をサボってしまったのですが、みなさんは売布神社や修道院を吟行されたようで申し訳ないことでした。 披講の前にそれぞれが今年の抱負を紹介してくださったのですが、とにかく健康でいることが一番大切だということで意見が一致しました。
来週は昆陽池吟行ですね。頑張ります。
昨日の夜10時頃、近所の方に習字を教えてもらっている娘を歩いて迎えに行きました。
とても星が綺麗に見えていて大好きなオリオン座がいつもより大きく見えました。二人でしばらく眺めていました。
"お父さん、写真撮ろうよ!"
と娘が言いましたが、スマホでは無理です(^o^)
毎日句会のみのる選に新春の秀句が揃いました。GHならではのお正月気分を共有いたしましょう(^o^)
お焚き上げ神事はいろいろありますが、護摩(ごま)の火に札をくべ、その燃えがらの昇り具合で吉兆を占うというのもあるようです。初神楽の題材としてそれに目をつけたところがこの作品の手柄である。
名句だとされる虚子の句に、去年今年貫く棒のごときもの…があるが、揚句のほうが具体的である。GHの長老ならではの作品、わたしたちも健康に留意してあとに続きましょう。
よし女さんは山口県在住なのですぐに瑠璃光寺の景を連想する。寒々とした池鏡に映っていた美しい塔の影が突然僅かに揺らいだ。眠ったようにじっとして動かなかった鯉が少し身じろいだのだと合点した。
温暖で穏やかな雰囲気であった新春の街に突然号外を叫ぶ声が響いた。タイミング的に北朝鮮の水爆実験成功のニュースかと思うが街のあちらこちらに不安なつぶやきが溢れだしてお正月気分どころではないのである。
七草の句は視点を工夫しないと類想や説明になる。二、三草足りないけれども小難しく考えずに、健康かつ平安であることに感謝しつつ我家の流儀で七草粥を祝っているのである。形ではなく心の問題(^o^)v
恵比寿詣の客で電車は満員。吉兆を担ぎつり革を持って立っている客も多い。静かに走っていた電車が入駅のポイント部分に差しかかって少し揺らいだ。その時に虫の音のように破魔矢の鈴があちこちで鳴り車中が和んだのである。
菜々さんは俳句が大好き。嬉しいことや楽しいことを詠んでは仲間と一緒に喜びを分かちあい、苦しいことや悲しいことを俳句に託しては自身を慰め励ますのである。逆境に遭遇して俳句をやめてしまう人がいるのはとても残念だ。
介護に明け暮れた生活も、なんとか少し落ち着きを取り戻して平安なお正月を迎えることができた。今年も希望を持って苦難と戦わねばならない。やつれ顔など見せてはならじとの決意を秘めて初鏡に向かっているのである。
作者は毎日富士山が見えるところで生活しておられるので、初富士だ初御空だといっても特別な感動はないけれど、家族がみな健康でいつもどおりの平安なお正月を迎えられたことに感謝の気分を実感しているのである。
吟行でいくども訪れた浜辺にたって新年初めての海を眺めている。いつもどおりの風景なのであるけれども、作者の心のなかで新しい年への夢や希望が膨らんでいるので打ち返す波音もまた新鮮に響くのである。
タイトルは、阿波野青畝師が晩年によく口に出されていた言葉ですが、七草の頃になるといつも先生のこのことばを思いだします。
平成二年91歳で森田峠師に「かつらぎ」主宰を禅譲されるまで私達を直接指導してくださいました。ひいらぎ主宰の紫峡先生も大正15年生まれなので90歳です。 作者としても指導者としても到底お二人に近づくことはできませんが、長寿記録だけでも追い越したいものです(^o^)
青畝師の作品のなかでぼくが一番好きな句です。
俳句でいうところの写生は絵画のデッサンに似ています。そして、『写生力=デッサン力』だと思うのです。
絵画の道を志す人が、初学のうちは明けても暮れてもデッサンの訓練をさせられる…という話を聞いたことがあります。それは大成するためにはデッサン力を培うことがとても大切だということですね。ネット検索でこんなページを見つけました。
「デッサンとは本質を捉えること」という説明に大いに納得しました。
そうです俳句の写生も全く同じことが言えるのです。写生というのは対象物を写真のように忠実に写しとることではなくて、その本質を見いだして捉えることだといえます。 デッサン力はなぜ必要か? という事にも触れられていますので引用してみましょう。
デッサン力を培っている人とそうでない人の絵を見ると一目瞭然で、それがあると無しではデッサンの狂いがすぐに見て取れてしまいます。
例えば、人物を描く際にも筋肉の付き方であったり、全体のバランスから顔の表情など、不自然に見えてしまったりしてしまいます。
デッサンの教養がある事によって、その「不自然さ」という箇所を認識して修正を加えていく事が出来ます。ここで理解が出来ていないと、指摘されない分には自分で分かり得なくなってしまうので、そうでなければ第三者的な立場から指摘してもらう必要性が出てきます。
デッサン力がある事で、より「自然」な表現をする事が出来、かつ多くの人の支持、納得を得られるような絵作りをする事が出来てくるのです。
「絵」というところを「俳句」におきかえても十分納得できる説明ですね。
青畝先生の俳話の中にもつぎのような文章があります。
写真で見たその人よりも、漫画のように省筆して描かれたその人のほうが、格段とその人の真が伝わって感じられるという場合が多い。 これは道理に合わぬようで、むしろ真に迫るからふしぎである。 このようなことは俳句にも行なわれていて、こうした俳句に現われる変容は、作者の直感が最もよく正直に写しこなした描写である。
省筆というのも大切なデッサン力の一ですね。
季感が命である俳句では、本質を捉えるために季語の助けを借ります。季語には伝統で培われた本質があるので、たとい同義の季語であってもそれぞれ微妙に異なる本質があるということを学ばなければいけません。それを感覚として培うために吟行を重ね、ひたすら多作して訓練するのです。
デッサンされた俳句(原句)から余分な線を消し、本質となる部分を強調して命を吹き込みます。上級者は推敲という手段によってこれを行います。まだ十分な推敲力が身についていない作者のお手伝いをするのが添削なのです。
GHの無料添削は、「デッサン力を培う」ためのお手伝いです。心象をあらわに詠んだ句や理屈の句を添削の対象から除外しているのは、少なくともこれらの作品はデッサンではないと考えるからです。個性的なデッサン力によって作者の主観を包み込む…そのような作品づくりを目指しましょう。
今朝は机辺の掃除をしてお正月モードをリセットしました(^o^)
昨年の1月度定例句会は、みなで廣田神社へ初詣吟行にいきましたね。 今年は趣向を変えて、当日吟行はしないで一週間前になるのですが11日(月)に西宮神社の残り福に行こうかと考えています。
先に白鶴酒造資料館(阪神住吉駅下車徒歩約5分)によって利酒を頂き、お土産に美味しい酒粕を買ってそのあと西宮神社へ戻って残り福を頂く…という計画をしています。 15日の左義長も計画したかったのですが、あいにく家庭集会の予定と重なるため残念ながら叶いません。
1月、2月という厳寒期の吟行は、「△△池の鴨を詠む」「◎◎神社の臘梅を詠む」「☓☓寺の寒牡丹を詠む」というように明確な句材に的を絞って出かけたほうが詠みやすいと思います。枯野、枯木立、落葉踏む…など使いやすい季語もありますが、漫然とした点景描写は得てして類想となりやすく、冬の川、冬の山、冬の…などと苦し紛れに季語をつけると季語の動く作品になりやすいです。
左義長は、それぞれのローカルでも見られると思いますのであらかじめ調べておいてぜひ事前に吟行にでかけてください。
あけましておめでとうございます。
今年もゴスペル俳句をよろしくお願いいたします。