2015年5月の日記

2015年05月17日(日)

ペンステモン

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みのる庵に咲き始めたペンステモン

お腹にくる風邪だと侮って四日間苦しみました。今日はじめて家内と一緒にポストまで散歩することができてホッとしています。

四日ぶりにお庭に出てみるとペンステモンが咲き始めていました。この花は倉本聰さんが脚本を書かれた北海道富良野三部作のテレビドラマ「風のガーデン」の中で名前を知り、興味があったので植えていました。今年で3年目です。

2015年05月04日(月)

佳句鑑賞

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毎日句会みのる選の中から佳句を抽出して鑑賞してみました。

新鮮味のある佳句を詠むためにはボツを恐れないで常に新しい視点を模索して冒険する心がけが必要です。焦点が絞りこまれ斡旋した季語が的確であることも大切です。

今週はなつきさんが好調でした。

蕗広葉右に左に風いなす  さつき
蕗の広葉に意識があるわけではないけれど、風に翻る様子から渡世人風のお兄ちゃんたちが肩をいなしながら歩く姿を連想した。フウテンの虎さん(^^)
桜鯛魚拓に残し春惜しむ  宏虎
桜鯛は花見鯛とも言って晩春、産卵のために内海に群れ集まるので釣り人たちの竿にもかかる。季語が二つになるが同季の場合は気にならない。桜鯛故に春惜しむの季語が生きる。
腹さすり吹く胎教の草の笛  なつき
妊婦はとかく運動不足になりがちなので、お天気の良い今日はひととき野に出て散歩してみた。幼い頃を懐かしみながら草笛を吹いてみる。胎の子が足を蹴ったような気がしたので「聞こえたの?」とお腹をさすりながら聞いてみたのである。
身に入むや没地を記す兵の墓  なつき
南溟(なんめい)に散った人の墓かも知れない。外地で戦死した兵士の多くは遺骨のない人も多いという。過日も天皇陛下が彼の地を訪ねられたというニュースが放映されたが、戦後60年経過した今も遺族の悲しみはなお癒やされないのである。
胎の子の画像に目鼻春うらら  なつき
近年は産院の定期診断でエコー画像が見れるので、ある程度の月数が経てば赤ちゃんの性別もわかる。臨月近くになると目鼻立ちまでわかるのだろう。母子とも順調で安心した気分がある。
春昼や花街にある書道塾  なつき
この書道塾は子どもたちのためだけではない。花街で生活を営む女性にとって三味や唄、踊りの修練は必須であるが、書もまた必要なたしなみ。彼女たちは夜が仕事なので昼間に稽古事をするのだ。花街に書道塾を見つけたのがこの句の手柄である。
通院す紫雲英浄土の道選び  はく子
病院通いは本人はもちろん付き添う家族にとってもなんとなく物憂いものである。今日はお天気も良いので少し遠回りにはなるけれども紫雲英の咲き誇るあぜ道を通って元気をもらったのである。
賀茂川の飛び石渡る日傘かな  ひかり
五月に入って京都賀茂川の川床料理も解禁になった。ご馳走で満腹したので少し河原を散策しながら飛び石に遊んでいる日傘。薄ものをまとった和服の女性を連想するとより涼しげだ。

2015年05月03日(日)

句集『風の翼』とわたし(2)

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今日は千原草之先生の跋文を紹介します。

ぼくが紫峡師に師事してまもなく、神戸新人会(今の万両句会)という句会にも参加するようになりました。そうそうたるメンバーであったのですが、当時のぼくはそんな知識すらなかったので怖い物知らずで先生に勧められるままに気軽に出席し、あとで現実を知ってビビりました(^^)

草之先生はそのメンバーのお一人でした。句会の他に月に一度、紫峡先生の職場に集まって青畝師の作品の合評会があり、そこにも草子先生がおられました。ご自宅が拙宅に近かったので合評会のあと先生の車に乗せていただき送っていただくのですが、車中でも貴重なお話をたくさんお聞きしました。

草之先生は優秀な医学博士でもあられ、奥さまは虚子の小説、椿子物語に出てくる安積叡子さん、ホトトギス幹部同人の千原叡子さんです。物静かな草之先生と活動的な紫峡先生は、まさしく静と動という対照的なイメージでしたが互いに支えあい尊敬しあっておられました。十数年前の春、残念ながら一足先に天国に凱旋されたのですが、その葬儀の折、紫峡師は、次のような弔句を詠んでおられます。

 野遊びのつなぎたる手の切れしごと  小路紫峡

互いに助け合いながら切磋琢磨した親友とのお別れの悲しくて悔しい思いがひしと感じられますね。 草之先生の書かれた跋文からもそのようなお二人の関係がよく汲み取れます。

 跋
                                                                   千 原 草 之

 春菜会の「青」という雑誌の創刊の頃、私はその編集発行を一手にひきうけていた。ホ q
トトギスの若い人達を結集するという旗印であった。その購読者の中に、神戸の小路紫峡
という人がいた。非常に熱心で、しっかりした句を作る人であった。やがて私は神戸へ転
勤することになり、神戸へ来たなら一度会ってみようと、購読者名簿を頼りに彼に出会っ
た。そんなことから神戸に緑樹会という句会が生まれた。そして新人会へと発展した。

 紫峡氏の句歴は私とほぼ同じである。戦争中は水田のぶほ博士とともに宇部で俳句を作
っていたという。当時の私は京都で松尾いはほ博士の指導を受けていた。また当時、彼に
は美しい恋物語があったという。私にはない。神戸での彼は経済界の仕事の上でも活動家
であるが、俳句の上でもたいへん活発で、ことに若い人達に俳句を教えることがうまい。
うまいというより天賦の才というべきか。私は彼をよきライバルと思っているが、前記の
点では私は完全に脱帽する。

 彼とつき合って、もう二十数年になる。句会、吟行、俳句大会、句集発行、いろいろな
ことで協力しあって来た。その間、彼と争ったことも少くないが、大喧嘩になったことは
ない。いまこの句集『風の翼』を詠んで、さまざまの想い出がよみがえってくる。好漢小
路紫峡氏のいつまでも若々しく呵々大笑しながら元気いっぱいであることを祈る。

2015年05月02日(土)

句集『風の翼』とわたし(1)

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風の翼は、俳誌「ひいらぎ」主宰小路紫峡師の第一句集のタイトルです。

この句集は、ぼくの俳句理念の原点でありバイブルのような存在で、編纂されている360句の全てを覚えています。暗記したのではなく何度も何度も繰り返し通読したので覚えてしまったのです。

できることなら、GHで全句鑑賞を実現したいと願っているのですが、先生のお許しを得る必要があるかと考えてまだ実現に至っていません。この句集は現在古本でもプレミア価格になっていて容易には入手できません。もし図書館などで閲覧することが可能であればぜひお読み下さい。

またこの句集には、青畝師の序文、千原草之師の跋文、紫峡師のあとがきが掲載されています。づれも含蓄のある内容ですので三回に分けてご紹介しようと思います。

 序

 わが愛する小路紫峡君も又句集を出すことになった。
 水田のぶほに師事してから句歴は三十五年の永きに亘り、彼の熱心なること火のごとく
とも云わるるほどであった。従って既に作品は多く溜っているのが当然で、早く世に句集
が出されても不思議でないのであるが、彼は隠忍して今日に至ったのである。

 彼が先ず自選した句稿の再選を託された私は、牧羊社のシリーズ句集とするために規定
の三六○句に厳選せざるをえないのであった。ほんとうに之は厳選である。未練など云え
ないのである。

 紫峡君の作品は即物写生主義である。虚構したものは彼の好まぬところである。すべて
物を見て感ずるところを有りのままに客観して成功している。

 印象を的確にし強調するには焦点を捉えるのである。しぜん省略ということが行われる。
そして字句を選択したときに物と心とが一致すると思えるようになる。
 例えば

 枯 蔓 の 放 物 線 の ゆ ら ゆ ら す

 放物線なる無粋すぎた字句を用いながら、この字句は枯蔓のゆらゆらする不安定なとこ
ろを的中して本質をねらいえたことばとなるのである。

 ある日紫峡君と語ったことがある。
 それはシャワーを詠んだ句でシャワーは今日の普及によって季語の資格がなくなったネ
といって笑った。

 止 ま り た る シ ャ ワ ー の 太 き 雫 落 つ

 この句は詠まれたその当時では海水浴場の設備として充分夏季を感じたのである。から
だじゅうの塩分を洗いながすシャワー、その蛇口に興味を寄せると、こういう句の面白さ
がうけとれる。こういうことが理解してくれるかどうか。

 最近季語の変動がいちじるしくおそうてきて若い人たちに戸まどいを与えるのである。
 これからの若い人たちの覚悟を思うときに季語の研究がおろそかにされないであろう。
といって無季を容認するわけにゆかない。角を矯めて牛を殺すの譬もあるので、若い人た
ちのために紫峡君頑張っていただきたいものである。

 君の句集の序を借りて場違いのことを書いたことを許してくれたまえ。

  1977年2月20日
                                                       かつらぎ庵にて
                                                               阿 波 野 青 畝

昔、ある句会の席で隣り合った先輩の女流作家にこんなことを言われました。

 "みのるさんの句は紫峡先生の句の雰囲気によく似てるのでときどき騙される"

先生の添削で訓練されたぼくの作風は、知らず知らずのうちに「紫峡調」になっているのかもしれません。そして青畝先生の書かれた句集「風の翼」の序文を読み返すたびに、「若い人たちのために紫峡君頑張っていただきたいものである」の箇所は、「みのる君頑張っていただきたいものである」という風にもぼくには聞こえるのです。

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