僕が手ほどきを受けた小路紫峡先生は瞬間写生を得意とされた。瞬間写生というのは、ものの動きを観察しその変化の瞬間を切り取るという写生法です。
動きものの僅かな変化を察知するには、作者が静止していなければいけません。自分が動いていては微妙な変化を見落としてしまいますし、ましてやその瞬間を捉えるという事は至難です。うろうろと移動して吟行するのではなく、一箇所に留まって忍耐強く観察するというのは基本中の基本なのです。
対象物が静止している場合でも、時間をかけて静かに観察していると、やがて風が吹いてきたり、日が射したり翳ったりして何がしかの動きや変化が生じます。心を遊ばせ感性を研ぎ澄ましてその瞬間を捉えるのです。日々の吟行訓練によってこうした吟行スタイルの習慣を身につけることが大事です。
次に瞬間写生の実際についてお話します。
・花筏早瀬の波にをどりゆく(みのるの原句) ・花筏早瀬の波にさしかかり(紫峡師による添削) ・花筏今や早瀬にさしかかり(青畝師による添削)
決して名句ではないのですが、添削や瞬間写生の実例としてとてもわかりやすいので再び引用します。
原句は上流から静かに流れてきた花筏が早瀬の波に呑み込まれ小躍りしながら流れ去っていく様子を写生したものです。瞬間ではなく時間が流れているのがわかりますね。
次に紫峡師による添削を見てみましょう。花筏が早瀬に呑み込まれる直前の瞬間まで情景をシフトさせ、やがて早瀬に呑み込まれるであろうという様子は読者の連想に委ねているのです。先生のこの添削を受けた時、まさに目から鱗が落ちるという実感があったのを今も覚えています。
紫峡師に添削を受けたこの作品を「俳誌かつらぎ」の青畝選に投稿しました。そしてかつらぎに載った青畝選の結果が、「花筏今や早瀬にさしかかり」だったのです。目から鱗どころではなく、ハンマーで頭を打たれたほどの衝撃でした。
よくよく鑑賞すると、紫峡師による添削では、早瀬の波にさしかかるまでの時間が連想されることがわかるでしょうか。青畝師による添削では、前も後ろもカットされ「今や」というまさしく瞬間になっていますね。
実際の吟行中にここまで推敲することは難しいかもしれません。けれども推敲に推敲を重ねることでここまで作品の質を昇華させることができるという事を学びたいですね。
動きものの写生というテーマについてはもう少しお話したいポイントもあるので、また続きを書きましょう。
予想が的中して昨日の夕刻に巣立ちました。
なんとなくそんな気配だったので昨日はカメラを三脚にセットして終日モニターしていました。巣箱から頭が覗くたびに、合計5回ほど撮影した動画をソフトで結合したものを張っておきますのでぜひ見てください。テレビを見ながらだったのでテレビの音声が入っています。
しきりに巣箱の外の様子を伺う所作、勇気を振り絞って穴から出て大慌てでまた戻ります。何度となく躊躇していますが、巣箱の外で、"出なさい、出なさい" と促す親鳥の声に励まされて最後には飛び立ちます。巣箱から飛び立つ姿は一瞬なので見落とさないように(^_^)v
シジュウガラには帰巣するという習性はないそうなので一度巣立ちしたらおしまいのようです。また、来年に期待です。でも念願の動画に収めることができて大満足。可愛いですね(^_^)v
今日は朝は肌寒い感じでしたが良いお天気になり空気が気持ちがいいです。
朝食後、北山緑化植物園で買ってきた花苗を庭に植えました。大きな樹木は植える余地がないのですが、あちこち余白を見つけては小花や山野草を植えて楽しんでいます。
宿根草のつもりで植えても夏の日照りや冬の寒さで命を絶ってしまうものもありますし、逆に一年草なのにこぼれ種で命をつないでいくものもあります。うまく処を得て順応できたものは他の草を席巻するほど元気に増殖していきます。俳句の目を通して草花を観察していると、神様の摂理に文句を言うでもなく健気に生きている姿に教えられますね。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 なぜ着物のことで心配するのですか。 野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 しかし、わたしはあなたがたに言います。 栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、 ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。 信仰の薄い人たち。 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 (マタイの福音書6章27~31節)
昨日の吟行句を近詠にアップしましたので、またご感想を教えてください。
ひいらぎのホームページに掲載された主宰の巻頭言を転載しておきます。
※ 再び実感について 本誌一月号の「思うこと」欄にて、高濱虚子・阿波野青畝師の例句を引用して、実感を詠む俳句について述べた。 俳句とは、事実の報告や説明をすることと考えている人が多い。 上手に表現されているが、作者の実感が見られず、事実の報告の句が多い。 吟行した際は、物を見ていて、感じるまでの忍耐が大切である。 先般も句歴の長い作者と、実感について話をしたが、事実を具体的に表現して良し、という考え方であった。 実感のある俳句であれば、表現方法が巧みでなくても添削することは出来る。 単に事実を述べた俳句を添削することはむつかしい。 実感を詠んでない俳句は魂のない人形と同じである。 読者の心に伝えられるのは、作者の実感であると言っても過言ではない。 実感を詠む作句態度を会得して欲しい。 ひいらぎ4月号 <思うこと 連載400>転載
実感と主観とはどう違うのだろうか…などと考えだすと難しいですね。
実感というのは眼前の事実から授かった素朴な感動とでも説明出来るでしょうか。一方主観は、自然が伝えようとしているメッセージを直視せず、知識や先入観などによって自分好みに解釈し、独自の連想を飛躍させる…という観察法でしょうか。とかく考えて作るという手法は主観が勝ちすぎるように思います。
どちらにしても、この違いは議論を尽くして了解できるものではなくて、ひたすら吟行し添削の学びを続けることによって感覚として会得できるものだという事を僕は繰り返し言いたいのです。
どの道の修練も同じだと思いますが、上達するためには日々の努力の積み重ねが大切だと思います。
平凡で月並みな作品を量産する惰性的な俳句ライフでは決して満足感は得られず進化も望めませんから、日々正しい心がけを持って継続することが大切だと思います。みのるが心がけているポイントを皆さんにご紹介しますので、なるほど…と納得できるところは採用してみてください。
1. 常に新鮮な視点、感覚を求める(類想句は絶対に詠まない) 2. 可能なかぎり具体的に表現する(一枚の絵が連想できるように推敲する) 3. 原則として固有名詞は使わない(固有名詞に使う字数を具体化に使うほうが得策) 4. 必ず五七五の正調になるように推敲する(安易に妥協しない) 5. プラス思考で感じ、捉え、表現すること(悲惨な状況であっても希望につながるように詠む)
新鮮な視点で詠むためには吟行が必須です。また絶対に他人の句を真似ないという覚悟も大事です。具体的に連想できるか否かをチェックするためには芭蕉翁の教えにある舌頭千転です。固有名詞に凭れた詠み方は、その場所を知っている人にしか理解できないので共感が得にくく月並な報告の句になりがちです。
字足らずや字余りの表現はテクニックとしては存在しますが、推敲不足によるそれは褒められた行為ではありません。悪癖になると直らないので心して推敲しましょう。
プラス思考というのは性格というか個性に関わるメンタル的な要素なので難しいです。読む人に慰めや勇気を与えるような作品を詠むためには、人格の陶冶も必要になるという事でしょうね。もちろん僕にとっても永遠の課題です。
これらの事をより具体的に理解するために、ぜひ青畝先生の俳話を再読してください。みのる選もまたこの青畝師の教えに沿って取捨し、添削しています。
添削というのは表現力を補うものなので、句意が変わってしまうほど添削することは本来は避けるべきです。なぜならそれは、原作者の作品ではなくて指導者自身の作品になってしまうからです。けれども GHでは、批判は承知の上であえて大きく添削する場合もあります。
必ずしも初心者に限らないのですが、根本的に興味を持つべき方向や感じ方、捉え方が間違っている場合は、それを軌道修正していただくために、イエローカードとして大きく添削しているのです。入門者の場合、一年間無心に添削で学べばおおよその方向は会得できるようになってきます。一番難しいのは、すでに長年の経験によって身に染み付いている方のそれを修正することです。
毎日句会の投句控とみのる選の結果とを比べながら復習されている方はたくさんいらっしゃるでしょう。その場合、表現方法というのはテクニックですからあえて覚えようとしなくても大丈夫です。経験を積み重ねていけば自然に身についてくるからです。それよりも大事なのは何故このような方向に修正されたのかという点をよく考えて納得してほしいのです。
季語はそれ自身が最も輝きを放つタイミング(旬)を捉えなければ季語が動いてしまします。季語には伝統で培われた本質というものがあるからです。
ところが季語の持つ本質と異なる情景に遭遇した時、あたかも手柄を発見したかのようにそれを詠む人がいます。
これが間違った捉え方なのです。そのような奇異の発見が佳句だと勘違いしている人もいるので時に互選で高点になることもありますが、たいていは支離滅裂の句になりやすいです。
正しい感覚で素直に捉えるという事を常に意識して吟行すること、奇異な情景を探し歩くのではなくて、素敵な感動を見つけてそれを芸術として演出することが大切。上手に嘘をつけ…というのはそういう意味なのです。当季以外の句は詠まぬこと…というような無意味な指導に縛られて安易に季語を斡旋してはいけません。
『落葉/春落葉』『鴨/春の鴨』『炬燵/春炬燵』『扇/秋扇』『春の雲/夏の雲/秋の雲』…
例を上げればきりがありませんが、これらは全く異なる季感の季語であるという事を覚えてください。春に見たから「春の…」なのではなく、実際に見て感じた状況によってそれにふさわしい季語を選ぶというのが正しい姿勢です。季語の本質がどのように違うのかは歳時記の解説を読めば一目瞭然です。 「春に見かけたものを春の鴨という」というような単純な説明ではなくて、
※ 春の鴨 既に渡りが終わっているような春になってなお水辺に見られる<鴨・冬>。 この中には<引鴨・冬>に加われずに留まる<残る鴨・春>もあり、 またカルガモのように留鳥として日本にいる鴨もある。 <残る鴨>には残されたあわれさと<春の果>の季感が濃い。
この本質を覚えていたら、まだ陣をなしているような状況をみて「春の鴨」とは詠めないですよね。せっかくよい瞬間を切り取っているのに季語の斡旋を間違って駄句にしてしまうのはもったいないです。
まだどんよりとはしていますが、ようやく今朝は雨が上がりました。
ここ二日ほど、孫の亮君とママが同時に熱発して大変でしたが、ようやく落ち着いたようです。二人ともインフルエンザではなく普通の風邪ひきで扁桃腺をはらしたために光熱が続きましたので、ちょっと心配ですた。寒暖の差が大きいこの時期、油断するとやられます。皆様も気をつけてくださいね。
みのる庵のシジュウカラも抱卵して10日以上経過しました。そろそろ孵化してもいい頃なので、注意深く見守っています。菜種梅雨が明けてお天気が回復したら元気な鳴き声が聞こえるでしょう。
花下微笑というのは昭和15年に三省堂から刊行された青畝師の番外編句集(文庫本)のタイトルです。
そして青畝門に学んだ人たちの間では、この四字熟語はあまりにも有名で、その逸話を知らないというなら似非青畝門といっても過言ではないでしょう。
俳句を志す人なら、虚子門昭和の四Sと呼ばれた水原秋桜子、高野素十、山口誓子、阿波野青畝を知っておられるでしょう。当時の虚子とその弟子たちの関わり方については色々と文献によって知ることができますが、特に秋桜子や素十とのことについては俳句史に残るような壮絶な事実もあります。
あるとき、故人の書架に残っていた俳誌かつらぎ250号記念誌を見つけました。
「自分は師に慣れることを恐れ、常にその意識をもつて虚子先生との距離を保った。」という巻頭言を読んだ時、ぼくは青畝師の謙虚な姿勢とその人となりとを垣間見たように感じたのを覚えています。
虚子門初学の頃の青畝師は、叙情の句を好み虚子の客観写生指導に不満を抱いていました。そうした思いを手紙に書いて虚子に訴えたところ、虚子は、「あなたの将来の大成のため暫くは写生に徹して勉強なさい」と返信して諭されたのです。
そのような青畝師の態度や熱意をいつくしまれた虚子は、
聾青畝ひとり離れて花下に笑む 高浜虚子
の句を残しています。また、子供の頃から耳が遠かった青畝師に虚子は、ホトトギス同人の村上鬼城も聾にして優れた俳人になったという励ましの言葉も贈られているのです。後に虚子は、「花下微笑」という直筆の扁額を青畝師にプレゼントされ、当時のかつらぎ庵に家宝として掲げられていました。
青畝師晩年の句に、
偕老の思ひを語り花下に笑む 阿波野青畝
というのもあり、青畝先生は、常に高虚子の教えを第一と考えてその俳句生涯を全うされたのだと思います。僕自身はとても青畝門と胸を張って言えませんが、先生から教えていただいた本物の俳句の心を後なる人たちに伝えることを使命として歩み続けたいと願っています。
僕の説明不足もあり誤解を生じたかもしれないので、補足説明しておきます。
以前から、句会という形式ではなく『俳句鑑賞』というテーマで研究会を持ちたいと考えていました。そしてその研究会での内容をダイジェスト記事にまとめてホームページに公開することで有意義な学びにつながるのではないかと思っています。
具体的な内容はまだ未定なのですが、研究会メンバーに予め5~10句メールで出句していただき、研究会当日みのる選を発表します。併せて各人の作品の中から一人一句特選をみのるが選んでおきますので、それらの作品について皆で鑑賞します。ルールとして当該作品の作者は原則発言できません。
時間が許せば青畝先生の作品なども1~2句鑑賞できたらと考えています。 この研究会は、大人数で実施するには無理がありますので5~10人までの少人数で運営したいと願っています。会場確保のこともあり取り急ぎ、ひかりさんに相談させていただきました。 時間は、午後1時~4時くらいで、会場は多分梅田周辺になると思います。
詳しいことは GH定例句会の時にご相談します。
クリスマスローズはとても好きなので、みのる庵の庭にもたくさん植わっています。 温かくなってすでに峠が過ぎましたが、色あせながらもドライフラワーのような感じでまだ咲いています。
早春のお庭のまだ花気のないころに、真っ先に咲いて慰めてくれます。星野さんの詩画もまた素敵ですね。
昨日は落穂句会でいつもの吟行地、市ノ池公園の近くにある花堤を歩きました。あまりに美しいので写真もたくさん撮ったつもりだったのにメモリカードが入ってなかたことにあとで気づきがっかりでした。
一片の落花受けとむたなごころ みのる
昨日の吟行の合間に撮影した桜です。
花明かり文学館の彩窓に みのる