今日は今年初めての吟行句会(神戸市王子動物園)でした。
僕が事前情報を書きすぎたために皆さんとても苦吟されたようで申し訳ないことでした。日記に書いた毎日句会の選評も多少誤解を招いているようでお赦しください。
選評はいつの場合も佳句を取り上げたもので、没句をとりあげることはいたしません。また、特定の作者に偏っているのも他意はなくたまたまです。毎日句会の場合、よほど心して取り組まないと安易に頭で考えた言葉あそびの投句になりがちで、そうした傾向を放置すると修正のきかないところまで脱線する危険があるので皆さんのご理解を求めたものです。
きょうの吟行で理論や知識を詰め込むとかえって句が詠めなくなるということを実感されたと思います。とりあえずリセットして全部忘れてください。モールス符号を速習するための合調法が一定スピード以上になると読み取れないという欠陥があるのと同様に、理論から学んだ俳句は、「実感→理論に照らし合わす→ことば」というプロセスになるので多作ができません。「実感→ことば」という作句法を身につけるには、ひたすら多作し添削を受けるというのが最も良い方法なのです。
そしてそれを継続していく秘訣は、一句一句に対する執着を捨てること、没は没と割り切って決して練り直しをしないことです。練り直しに時間を費やすくらいなら一句でも多く詠むほうがいいからです。正岡子規は一万句と言いましたが、とりあえず五千句に近づくように頑張りましょう。年間千句(月平均90句)としても五年かかることになりますね。短期間で達成するほど上達スピードも加速度が上がります。
こうして忍耐して継続した結果、知らず知らずのうちに言葉では説明することはできない確かなものが身についていることにあなたは気づくはずです。
"こんな作り方でいいのだろうか?"
などと悩む必要は全くありません。悩む時間があるくらいなら一句でも多く詠む。とにかく多作が一番の良薬なのです。どうか信じてGH(みのる)と心中してみてください。やがて、心の糧となり生きる上での支えとなる本物の俳句を見いだされることを保証します。
信仰のよき戦いを戦いぬき、永遠のいのちを獲得しなさい。新約聖書テモテ Ⅰ 6.12
これは僕の愛唱聖句ですが、信仰の戦いなくして永遠の命(天国ゆきの切符)を獲得できないのと同様に、努力と継続なくして本物に出会うことはありません。
最近の毎日句会投稿作品の傾向をみていると、観念的な比喩に溺れてやや作りすぎの作品が目立ちます。そうゆう趣向が面白いと共感する人もいるので意外な高点となることもあります。
こうした傾向は、一種の流行となって蔓延し、やがて三流の月並み俳句集団に陥る危険性があります。GHのみなさんには正しい進むべき方向を目指していただきたいので、きょうはその警告の意味で少し辛口の選評をして見ました。
春眠の落ちるに任せ鼻めがね → 鼻めがね落つるに任せ春眠し
原句の場合、「春眠や」としないとメガネが落ちるのではなくて「春眠に落ちる」という意にもとれる。 また、春眠しながら鼻めがねが落ちるということになると当事者ではなく第三者の様子を写生したという感じになる。 なにか書物を読みながら睡魔に襲われている一人称の句として仕上げて欲しい。
境内の隅を浄土と蓮植うる → 蓮植うる広き寺領の一隅に
境内、浄土、蓮の組み合わせは材料が揃いすぎて憑きすぎになる。 観念的に句をまとめようとするとうっかりこうした措辞を選んでしまうので注意したい。
遠山の霞みて響く鐘一打 → 鐘一打間遠に響く朧かな
はるか遠くに霞んだ山影から鐘の音が響くというのは距離感を考えるとやや無理があり誇張表現となる。 また焦点が「霞んだ山」と「鐘の音」という二点に分かれて句が弱くなるのでどちらかに絞ることが大事。
畑打つや鳥語も載せて峡の風 → 畑打てば風が鳥語を運びくる
揚げ句も観念が働き過ぎていて無理がある。また、「や」で切ると季語が動いてしまう。 素直な写生、推敲を心がけたい。
植え替へてパンジーが主役花時計 → 模様替えされて春待つ花時計
一足先に春になった花時計という意図だと思うので素直に詠んだほうが良い。 パンジーでは季語が動く。中八の字余りも気にいらない。安易に妥協せず常に正調になるように心がけて欲しい。
庭園の新郎新婦に初桜 → 庭園の新郎新婦に花吹雪
現句では新郎新婦と桜との位置関係が曖昧なので季語が動く。 実際は初桜であったと思うがライスシャワーさながらに落花が降り注いでいるという風に上手に嘘をついてほしい。 こうすると季語が不動となる。
天帝へ百の杯上げ白木蓮 → 天帝へ玉杯翳す白木蓮
実際に百花を数えたわけではなく「たくさん」の意で使ったのであるが、 「百の」と言われると一木ではなく広範囲の白木蓮を写生したことになり句が弱くなってしまう。
長閑けしや牛の横断車止め → 道長閑ただいま牛の横断中
とらえどころはよいが「車止め」と説明したことで車のほうにも焦点が分かれてしまう。 道を塞いでのろのろと横切る牛たちのさまに焦点を絞ることで「長閑」の季語が生きてくる。
うぐひすにお隣さんも窓開けて → うぐひすにお隣さんの窓も開く
とらえどころも新鮮で佳句であるが下五を連用形としたためにやや間延びした感じになっているのが惜しい。 終止形とすることで切れの良い瞬間写生になる。
丸太橋ほとりに揺れる山葵かな → 丸太橋濡らして逸る山葵沢
句意はほぼ同じであるが、清冽な山葵沢の雰囲気がより具体的になるように添削した。
八方に風の意のまま雪柳 → ざんばら髪ふるごと風の雪柳
原句のままでも素直な写生句として評価できるがやや説明くさい。 もう一歩心を遊ばせて連想をひろげるようにすると添削のような具体的な写生となり強い句となる。
ついにシジュウガラがみのる庵の庭の巣箱に 巣作りを始めました。
王子動物園の園内案内図を貼っておきます。
お天気が良ければ、お昼は旧ハンター邸の前の広場がお勧めです。動物たちを観察しているとあっという間に時間が過ぎますので気をつけてくださいね。
動物を詠もうと意識しすぎると意外と難しく苦吟します。「動物園吟行=動物を詠む」というふうに考えず、柔軟に心を遊ばせましょう。たとえば、「檻の中へ落花が舞い込んだ」というような瞬間を捉えてもいいし、楽しそうな親子の昼餉シーンを写生してもいいわけです。また、「山笑う」も使えそうな季語ですね。
どちらかというと人(親子、子供、飼育員など)の動きに注意をはらっているほうが句を拾いやすいかもしれません。
GHのページは数百を超えると思うので、"あのページをもう一度読みたい" というようなときに探すのに苦労しますね。
そんな時には Topページにある検索ボックスを活用してください。
Topページ写真上のメニューリンクの左端にある Site Index をクリックします。 Site Index のメニューへジャンプしますので、そこに出てくる検索ボックスにキーワードを入れてください。 キーワードは半角スペースで区切って複数指定できます。 検索ボタンを押すと関連のあるページのリンクリストが出るので、見たいページのリンクを押して閲覧します。
実はこの検索機能はすべてのページの一番上右サイドにもあります。[Site内検索] というのがそれです。使い方は同じです。
動物園吟行でのアドバイスをもう一度読みたい…というようなときは、「動物園俳句」というキーワードを書いて検索ボタンを押すとすぐ見つかります。関連のあるページも表示してくれるので何度も検索していろんなページを参照することができます。
ぜひ活用してください。
3月24、25日と一泊で広島の母の介護見舞いに行ってきます。この間に送っていただいた添削は少し送れるかもしれません。
母は3月上旬に入院中の病院を退院しなくてはならなくなり、別の老人養護施設へ移転しました。今回は移転先の施設へお見舞いに行く予定です。 あすは、母の夕食時間に間に合うようにお昼頃神戸を出発します。翌日はまた昼食時にお見舞いに行き、そのまま神戸へ取って返すというスケジュールです。
桜の開花がテレビで報じられていたので、高速道の道中の車窓から山桜が見えるかもと期待しています。
吟行地を選ぶとき、◯◯は何度も行ったことがあるのでと避ける人がいます。
同じ場所だと句が詠みにくいと考えておられるのだと思うのですが、ほんとうの吟行術が身についてくると場所や季節は関係なく句が詠めるようになります。吟行というのはいつも目新しさを求めるという事ではなく、談話室に菜々さんが書いておられるように「心をあそばせる」という感覚を習得することが大切なのです。
そのために一番良い方法は、身近なホームグラウンドとなる吟行地を決めておいて、何度も何度もそこへ通って心を遊ばせる訓練をします。それができないと同じ場所で新しい句が詠めないからです。
訓練法として、最も大事なのは絶対にウロウロしてはいけないという事です。ここという場所を決めたらその日はそこで1~2時間頑張って10~20句詠むまで移動しないという訓練をします。よい句を詠もうと意識は捨てて、ひたすら多作の訓練をすることが大事です。そして作品は全て無料添削に送ってください。
無理のある擬人法や比喩揶揄した詠み方を「心を遊ばせる」ことだと勘違いしている人もいますがいづれも頭で考えた陳腐で月並な作品になります。絶対にそうした句を詠まないと厳しく自分自身に課して悪癖を払拭しない限り、心をあそばせることはできません。
最近パソコントラブルや旅行などの時にスマホから毎日句会に参加される方も増えているようですね。
ぼく自身スマホは使ってないので自分で確認したわけではないのですが、使われた方からの報告では問題なく対応できるようです。但しその都度パスワードを入力しないといけないので…という事ですがこれは多分スマホ側の設定の問題なので解決できると思います。
毎日句会などのようなパスワードは、クッキー(Cookie)という形で保存しています。
自宅パソコンなどでは初期設定状態でクッキーが有効になっているケースが多いのですが、スマホなどの場合は、これが無効になっている可能性がありますので、詳しい方に聞いてクッキーを有効にすることでスマホからでも自動ログインができます。
Cookieの設定方法 どの携帯でも初期設定では有効になっているはずですが、 無効に設定されている場合は有効になるよう変更してください。 ■ docomo メニュー→ iモード→ iモード設定→ iモードブラウザ設定→ Cookie設定→有効 ■ au 設定は必要ありません。常に有効になっております。 ■ SoftBank メニュー(Y!ボタン)→ブラウザ設定→セキュリティ設定→ Cookie設定→有効にする ■ iPhone [設定]→[Safari]→[Cookieを受け入れる]→[常に] ■ Android ブラウザ [Menu]→([その他]→)[設定]→[Cookieを受け入れる]
俳句結社ひいらぎのホームページには毎号の主宰の短信『思うこと』が連載されていて、ぼくも GHの進むべき道が逸れないように時々チェックしています。
3月号に吟行で詠むことの大切さを述べられているので転載しておきます。
テレビ俳句と外来語について 俳句は自然の景色を眺めて、作者の感動を表現することが大切である。 或いは、過去に於いて、感動した記憶を詠むものである。 写真や絵画の景色を見て、作句することは事実の報告であって、作者の感動の表現とは言えない。 吟行して自然に触れることなく、テレビの画面を見て作句する人もあるが、これも事実の報告である。 目で見て感動したこと、身体(五感)に感じたことを俳句に詠んでほしい。 今一つ気になっていることは、外来語を十七文字に詠みこむことである(長年、使い慣れた外来語は別にして)。 俳句には格調が大切であり、日本語の調べも肝要である。 馴染のない外来語を以て表現されると、読者は理解に苦しむのである。 既に平素から使い慣れた外来語であれば許せる場合もあるだろうが、私は、俳句は日本語で詠むべきだと思う。 ひいらぎ3月号 <思うこと 連載399>転載
きょうは寒波も緩んでほっとしています。
昨日は終日、3.11のニュースでした。牛歩ながらも復興の兆しも見え始めている反面、4年という月日が経過しながらも原発被害の地域では依然として手付かずの被災地もあるというもどかしさに考えさせられました。
どちらにしても月日の過ぎゆくのは早く、あの阪神淡路大震災ですら20年が経つんですよね。GHも2000年に立ち上げていますから15年ということになり、2011年に再開した毎日句会も5年目を迎えています。昨日の復興のニュースを見ながら、ぼくもただいたずらに時間を過ごしていてはいけないなと思いました。
震災復旧の慌ただしさの中で、「結社ひいらぎ」からの離脱という選択を余儀なくされましたが、薫陶いただいた紫峡先生や青畝先生へのご恩は忘れたことはありません。そのご恩に報いるためにも初心者のかたの学びのお手伝いをし、微力であってもその使命が果たせるようにと祈り、青畝先生が教えて下さった俳句の心を後世に伝えて行きたいと願って GHを立ち上げました。
その志を全うするためにもう一度初心に帰って、悔いのない時間を過ごさなければと思います。
昨日は朝からあいにくの雨、予定していた庭手入れができないので雨読を決め込む。過日の GH吟行で中山寺へ行った時に頂いた小冊子を読み直していました。
涅槃の絵解きについて書かれた記事ですが、読むほどに興味深く写経さながらにキーボードから打ち込んで全部写しとりました。
記事に刺激を受けたので過去に中山寺で詠んだ作品を並べて見ました。
これまでは、あまり難しく考えずに表面的な写生句が多かったように思います。でも今回、絵解きの記事を読むことで絵に秘められたいろんな物語も理解することができたので、来年からはもう少し違った視点で観察できるような気がします。
僕自身はクリスチャンなので、建物や習慣、教えなど他の宗教には信仰としての興味はなく、あくまでも日本の文化の一として関わりあう程度でした。 でも、岡澤恭子さんの記事を読んで、たとい自分が信じていない他宗教であっても、畏敬と尊厳の念をもって学び、かつ理解するべきだと強く感じました。
宗教や信仰について論じるとき、どうしても排他的な気持ちや態度になりがちです。でもたとい信じる道は違ってもその道を信じて精進する行為はとても尊いことだと思うのです。
昨日の落穂吟行でちょうど遠足に来ていた園児らと出会いました。無邪気にはしゃぐ彼らを見ていると思わず心が和みます。先生も一緒だからか、なにやらメモしている僕のところに走り寄ってきて『おじちゃん、なにしてるん?』と…。
おじいちゃんと言われなかったので気をよくしていろいろと子供たちとおしゃべりしました。
先生に教えられたのか数人の子供たちがかけ出して大きな桜の木の幹に耳を当てていました。短い時間でしたが子供たちと触れ合っていると知らず知らずに自分も童心に返って行くようでした。 ふと下記のことわざが脳裏をよぎり初心にかえりました。
"負うた子に教えられて浅瀬を渡る" 背に負った子に浅いところを教えられながら川を渡る、 という意味から、賢者である、老練である、と自負する人でも、 ときには思いがけないことを初心者に教えられることもある。 また、うぬぼれていると自分の欠点にも気付かない、というたとえ。
啓蟄の蟻さんかしらこんにちは みのる
俳句をやってみようと志される方の多くは、まず適当な入門書を購入して読み始められます。
理論を学ぶことはある程度のレベルに到達するには確かに近道ですが、知識の虜になると何かを感じ取ろうとする前に頭で考えてしまうという弊害に陥りやすいです。 せっかく素直に直感的に感じ取っているのに、文字に翻訳する段階でああでもない、これはいけない…と知識で修正しようとするので感動が弱くなってしまうのです。
戦時中、通信兵育成のために即席でモールス符号を覚えさせる合調法というものが考案されました。
イ : ・ー →伊藤(イトー) ロ : ・ー・ー →路頭迷ふ(ロトーマヨー) ハ : ー・・・ →ハーモニカ
確かにモールス符号をひと通り覚えるのにはとても早く合理的なのですが、致命的な欠陥があります。
合調法で記憶した頭脳は『・ー』という音を聞くと『・ー → 伊藤 → イ』というふうに一度合調語に翻訳してからイだと認識します。 熟達した通信兵は一分間に120文字程度のスピードで読み取ることができますが、合調法で教育された通信兵は一分間に60文字が限度だと言われます。 翻訳というプロセスが入るために直感を働かせてスピードアップすることができないからです。
モールス符号の正しい訓練法は、音を聞いて直感的に理解する (『・ー = イ』と覚える) ことで、単調ですが繰り返し音を聞いて脳に覚えさせるしか方法はないのです。 また一度合調法が身についてしまうとその癖を修正するのは至難だと言われます。
ここまで説明すれば賢明な読者ははたと気づかれたのではないでしょうか。理論や知識が先行した学びは上達の妨げになります。 俳句は理論や知識でこね回して作るものではなく感性で詠むものでそれを研ぎ澄ますためには実践あるのみなのです。ひたすら多作に徹して直感的に詠む訓練を重ねるのが結局は一番近道なのです。
誤解があるといけないので最後に一言。決して理論や知識が無用だとは言いません。
この作品のどこがいけないのかと問われれば答えることはできます。 けれどもそれが納得できたからといって実作ですぐに役に立つかというと決してそうではなく、逆にトラウマになる可能性が高いのです。 焦らずとも本当に必要な知識は多作の修練の過程を通して自然に覚えていきます。 体験を通して得たものは借り物ではないので作句の妨げにはなりません。
僕は、全くの無知な状態からおおよそ五年間、紫峡先生の添削で学びました。平均毎月二百句(年間約二千四百句)のペースでしたので一万二千句位になる計算ですね。この間先生からは、Howto論などの教えは一切なく、ただひたすら添削稿を送っては返信を待つという繰り返しだけでした。毎回二十句ほど送っては一、二句○印がついて返信されてくるだけ。
ときにはひとつも○がつかずに、『不調』とひとことのみ。何度もなんども凹みました。けれども振り返ってみて、俳句人としての今の自分を培ってくれたのは、紫峡先生から学んだマンツーマンの添削の学び以外には何もないのです。
添削の学びの成果は数ヶ月という短期日では全く見えて来ません。一〜二年という地道な努力の積み重ねによって初めておぼろげに見えてきます。しかも継続しなければ意味がなく、少しでも足踏みしたり休んでしまうとまたふりだしに戻ります。多少ペースが変わっても構いませんがとにかく継続することが大切なのです。
最近、GHのホームページをご覧になって添削を希望される方が多くなりました。感謝です。
でもせっかくご縁ができても継続して頑張ってくださる方はごく稀です。そうした中でここ二年、全く変わらないペースで継続努力されている方がお二人いらっしゃいます。 ご本人がどこまで実感されているかどうかはわかりませんが、はっきりと成果が見え始めています。
俳句上達法については諸説諸論があると思いますが、それを理解したらみるみる上達するというような秘伝はありません。僕は自分が信じて体験してきたこの手法が一番近道だと考え、また私を育てて下さった青畝先生、紫峡先生への恩返しだと思って無料添削を続けています。
添削の学びについてはあれこれ難しく考えることは全く必要ありません。果たしてこれでいいのだろうかなどと悩む必要もありません。正岡子規が著書『俳諧大要』でのべた5千句、一万句達成を目指してひたすら多作多捨に徹して学ばれることで、成果は自然についてくるものだと信じています。
我が家のノロ感染騒動もようやく落ち着きました。 家族の中で一番後手を踏んだ僕でしたが、ようやくコーヒーが飲めるまでに回復しやれやれです。 孫の亮くんの毎日のお迎えも3月からは放免になりました。
体調はいまいちながら広島への往復のドライブはとても快適でした。 往路は晴天、復路は雨天でしたが一ヶ月前までは眠ったような山々がほっこりとし始めていていち早く春を告げているように感じて癒されました。 いよいよ春たけなわ、本格的な吟行シーズンの始まりですね。
広島では品女さんにお会いしてきました。GHのメンバーで鑑賞したデーターをお渡しするためですが、とても喜んでくださって良かったです。 落ち着いたら、また続編の鑑賞をいたしましょう。