吟行経験の浅い人は、目新しい対象物を見つけようという意識が先行するので、ウロウロ移動しては目移りするばかりでなかなか句が生まれず苦吟します。
闇雲に歩きまわるのではなくて想定した季語を思い浮かべながらがゆったりとした気分で、且つ注意深くそれらの季語を探しましょう。「季語を拾う」ともいいますが、そういう心がけで散策することが大事です。
そしてこれと思う季語を見つけたら、最低でも10分、できれば30分くらい同じ所で集中するようにしましょう。
時間をかけて忍耐しているうちについと風が吹いてきて思いがけない変化に遭遇したり、また小動物が現れる、あるいはよくよく目を凝らすといままでは気づかなかったことを発見するなどということもあります。その時に一句が授かるのです。
同じ目線の高さで観察するのではなく仰いでみたり屈んでみたりと工夫して観察します。自分の足元にある季語に気づかないというケースは案外多いです。
同じ場所、同じルートで吟行したのに句会が始まると、"やられた!" と思う句に出会うことは多いですね。観察力は個性の違いとも言えますが、意識の持ち方次第で変えられるものだと思います。
もう一つ大事な秘訣は、"裏に回って観察してみる" ことです。通り一遍の表側だけ観察していたのではどうしても常識的な写生しかできません。
堂裏には思いがけないものが干されていたり置いてあったりして生活が見えてきます。碑があれば隠し彫(十字架など)がないか、由緒書きなども斜め読みしてみましょう。古堂の縁の下にはおどろくほどの蟻地獄があったりします。 見事な懸崖菊の裏のからくりを観察したり、大きな涅槃絵図の裏側を見て一句を得た人もいます。
吟行先の地元の人たちとの何気ないおしゃべりにヒントを得ることも少なくありません。会釈を交わすだけではなく気さくに挨拶しましょう。伝統を守ろうとする地の人達の気概や苦労話はとてもよい句材になります。
固有名詞を使ったり吟行地の知名度や縁起、由緒などには必要以上にこだわりすぎないほうがいいです。"ここへ行ってきましたよ" という報告の句になることが多いですし、よほど有名でなければ知らない人には伝わらないからです。
"どこそこは何度もいったから" といって一度吟行したところを敬遠する人もいます。でも、何度も何度も通ってもう詠みつくしたと思われるような状況下でも句が詠めるようになったとき、はじめてあなたの吟行力は本物だと言えます。
前回、俳句は季感が生命であることをお話しました。他の季語に置き換えても意味が通じるような季語の斡旋は、「季語が動く」といって没になります。頭で考えた季語はどうしても動きやすくなりますが、吟行で眼前の季語を捉えて詠んだ作品にはハズレが少ないです。
考えてひねって作るという悪習から脱皮して、新鮮な感覚で見て聞いて素直に詠むというプロセスに慣れることが肝要です。 次回は、「季語・季感」についてお話しましょう。
※内緒話 昔ぼくは、吟行の時、邪魔にならないように距離を保ちつつ上手な人が何を見てどう詠むのかをこっそり観察していました。 ベテランは目の付け所が違うのです。 また句会の時、上手な人がどんな作品を選んでいるのかも細かくチェックしていました。 自分の予選が選者の選とどれだけ合致しているかというチェックも自身の選句力を図るうえで有用です。 このように貪欲に学ぶという姿勢の有無が上達スピードに大きく影響します。
『吟行の秘訣』が即座に理解できてみるみる上達するというような特効薬はありません。
GHがなぜ吟行俳句をお勧めしているのかという原点から説明しなければならないので少し長くなると思いますが、何回かにわけてテーマごとに学んでいきましょう。
最も重要なことは、私達が目指しているのは俳句であって川柳ではないということです。 誤解しないで欲しいのですが、俳句が是で川柳が否というような愚論を展開するものではありません。 川柳も立派な文学としての一ジャンルだとぼくは考えています。
けれども俳句を詠んでいるつもりが川柳になってしまっているという作品が時として存在します。 選者の立場から見るとそうした作品はたとい文学的に価値のある内容であったとしても俳句としては没にせざるをえないのです。 ですから、本物の俳句を学んで楽しもうとされるあなたは、「川柳と俳句の違い」を正しく理解しておく必要があります。
"いまさらそんなこと言われなくともわかっている…"
きっとそう思われるでしょうね。
「川柳と俳句の違い」をキーワードとして Web検索するとたいていは次のような説明が見つかります。
川柳は季語を必要としませんが、俳句には季語が必須です。 俳句では「切れ字」が重要ですが、川柳では「切れ字」は重要視されません。 「切れ字」とは、句を切るために使われる「や」「かな」「けり」というものです。 切れ字に代表されるように、俳句は文語体で表現されます。 一方の川柳は、口語体で表現され、より日常会話に近い言葉で表されます。 取り上げるテーマにも違いがあります。 季語に象徴されるように、俳句では自然をテーマにするものがほとんどです。 川柳では、人間模様や社会風刺といった人事をテーマにしているものが多くなっています。 俳句は古くからある物で、川柳は最近のものというイメージがありますが、 川柳の歴史も古く、このような違いがありません。 どちらも俳諧の連歌が起源で、古くから日本人に親しまれています。
これらは概ね正解と思いますが、別に川柳に切れ字があってもいいと思いますし、口語俳句も存在します。 ぼくは俳句が川柳と異なる根本的な違いはただ一点、
「俳句には季語が必要」なのではなくて、「俳句には季感が必須」
だと考えています。
一見同じことのようですが違います。つまり、たとい季語が詠み込まれていたとしても、季感が醸しだされていなければ無季同然ですから俳句とは言えませんし、逆に季語がなくても全体で季感を共感できれば、それは立派な俳句だと言えるからです。
これが、ぼくが紫峽師から繰り返し教えていただいた俳句の基本です。 俳句として心象句や社会風刺を詠むことが駄目だということではなくて、 そうした題材を写生しつつ且つ季感を醸すように詠むことは初心者にはとても難しいことだからです。
「川柳と俳句の違い」が「吟行の秘訣」となんの関係があるの?
という声が聞こえてきそうですね。 吟行の秘訣は、正しい季感を身につける(季語の本質を知る)ことと、吟行中いかに季感を意識して心を遊ばせるかという点にあります。 その点について、また次のテーマで考えてみましょう。
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今日は、1995年1月17日、午前5時46分に発生した阪神淡路大震災の20年忌、 早起きして家内と二人で黙祷しました。
この日は、被災地のわたしたちにとっていつまでも忘れられない日です。
着膨れて夜半の余震に怯えけり やまだみのる
いつまでも余震がおさまらず夜もぐっすり眠れない不安な毎日でした。
避難所の焚き火に彼を探しけり 小路紫峡
当時、ひいらぎの誌友で編集員でもあった Kさんは、六甲に住んでおられ、家屋は全壊でした。 紫峡師も阪急六甲駅のお近くでしたが守られました。安否がわからなかった Kさんを探すために、 あちこちの避難所を巡られたそうです。
その後、出来るだけ当時の思い出を後世に伝えるために作品を残そうという動きがあり、 鷹羽狩行氏が阪神淡路大震災忌を省略して阪神忌を季語にしたいと提唱しておられます。 『震災忌』や『広島忌』などが季語になっているのを踏まえた提案であったと思うのですが、 地名に忌を付けただけでは意味を成さず 「阪神震災忌」 とすべきだとの異論もあり 明確に季語と認知されている訳ではなさそうです。
阪神忌天幕の灯は野外ミサ 小路紫峡
飴のごと曲りし鉄路阪神忌 やまだみのる
吟行で詠むという俳句スタイルは、俳句を生涯の伴侶として楽しむための基本姿勢であるとぼくは考えます。 歳時記を繰りながら頭で想像して構築するという作句法は得てしてことばあそびに陥り易く、虚構の作品には命がないと思うからです。
初めて俳句をはじめようとする初心者には、とりあえず見たままを写生しなさいと教えられる。俳句の原点としてとても大事なことですが、あくまで心がけであって、ルールではないので必要以上にこだわると俳句が窮屈になります。
写生俳句は一幅の絵画をことばで描くという概念なので、人物写生でその情景を具体的に連想する(させる)ためには、「いつ、誰が、何処で、何を…」という要素が必要になります。
ところが俳句には17文字という制約があるので全部はいいきれない。そこで季語の助けを得たり、鑑賞する人の連想に委ねることでそれを補う。そこが俳句の奥の深さであり面白さの所以です。
さて本題にはいりましょう。例えばある幼子のふるまいに興感を覚えて一句を得たときに、「よその子、わが子、孫、男の子、女の子」等々説明しだすときりがない。幼子の愛らしい所作を伝えたいとき、その子が何処の誰であってもよく、その説明に要する字数でもっと他のことを補うほうがいいからです。
大人を写生するときも同じことがいえます。俳句では主人公の「情」というような曖昧ながらほんわかと癒される感動を伝えたいので、主人公と詠み人が別人格だと感動が弱くなる。他人事として詠むとどうしても川柳ぽくなり易い。『できるだけ一人称で詠め』という趣旨は、そのあたりのことを指すのである。
一人称で詠むと主人公の説明は一切はぶける。説明がなければ、それは作者自身であるとして鑑賞できるからである。紫峡先生が特選に採ってくださった拙作に次のようなのがある。
春憂しと妻のわたしにいはれても みのる
むかし家内と一緒に吟行句会に参加したときのことばのやりとりをそのまま句に詠んだものである。正しく写生するならば、
春憂しといひしを妻に疎まるる
というような作品になる。もちろんこれでも一句としての体裁は保てていると思うし、夫婦関係を滑稽に写生した作品として合格点はもらえるかもしれない。この二句を比較して、みなさんはどう感じられますか。
後者では、夫妻の姿が鮮明に見えていますが、前者の場合は、夫は画角から隠されて妻の存在だけがクローズアップされています。ちよっと極端な例ですが、『一人称で詠む』とどう違うのかということを納得していただけたかと思います。
ようやくお正月気分も終りですね。十日戎にはけられたでしょうか?
ところで15日は、神社や小学校などでとんど焚き行事が行なわれます。 インターネットで検索されると案外身近なとことでイベントが開催されているのでぜひ吟行にでかけてください。
飽食の世の餅燋るとんどかな 紫峡
紫峡先生のこの句は神社での風景を詠まれたものです。
吉書揚げひらひら春の字がとんで 青畝
青畝先生の作品は小学校などでの風景を写生されたものと思います。
昨今は、観光名物として巨大なとんど祭が行われる地域も増えているようですね。
GH添削教室門下生の白坂さん(鹿児島県在住)から、赤十字社主催の俳句コンテストで最優秀賞を受賞されたとの嬉しいニュースが届きました。35万句を越える応募の中から選ばれたそうで、とても素晴しいですね。審査委員長は、黛まどかさん。
献血を終えて祭の中にゐる 白坂昭典
みなさま、あけましておめでとうございます。
今年も GHをよろしくお願いいたします。