俳句上達のためには、季語の本質を覚える、語彙を豊富にする、表現テクニックを磨く等々がよく言われます。 もちろんどれも大事なことですが、GHでは、『正しい感性を養う』ことを最優先に添削指導をしています。
みのる選をする場合も同様で作品としての
歳時記に載っている載っていないで有季・無季を議論することはたいして意味のない行為であることは談話室に書いたとおりですが、 宏虎さんの名誉のためにいろいろ調べてみました。GHの記事の中にもそのことに言及したものがたくさんあります。
ぼくの持っている歳時記、季語集も全てチェックしてみました。 唯一、角川の「新版・季寄せ」に掲載がありました。
森林浴:夏の森や林の緑に浸り、涼気と新鮮な空気を楽しむこと
例句:森林浴垂れ枝がふさぐ道一つ 田中吉子
WEB検索もチェックしてみました。すると「新季語拾選・2001」という坪内稔典の記事が見つかりました。
http://sendan.kaisya.co.jp/kensaku/kigo00034.html
同じく、坪内稔典著「季語集」という記事では、分類:生活・行事の夏の季語として編纂されています。
http://www51.tok2.com/home/sendatakayuki/etcgenkou/bungei5.html
坪内稔典が解説文のなかで触れている林野庁監修の森林浴に関する詳しい記事(1982年)も見つけました。
http://sky.geocities.jp/yamanasinomori2010/sinrinyoku.html
「森林浴のメカニズムと効用」という長文の記事です。 その中に、以下のような一文があります。
ちなみに、俳句には、その季節を表す季語があるが、最近、森林浴という言葉が季語に加えられたそうで、森林浴の季語は夏とのことである。季語を登録している本にも掲載されているそうである。これは、夏の方がテルペン濃度が高いという先に紹介した結果から見ても妥当といえよう。テルペン類の空気中濃度が最も高い夏が、効果的な森林浴を楽しむ最適の季節である。
例句についても検索してみましたが、著名な作家の作品はヒットせず、ほとんどが個人ブログに発表されたものでした。
1は鳥の声が題材になっていることから「囀」が、2は鳥と風から「風光る」をそれぞれ連想するので春の趣を感じます。3と4には夏の涼しさの趣があります。 季語の本質として「森林浴は夏の涼しさを詠んだ季語」と定義してしまうと1と2の作品は採れないという選者がいらっしゃるかもしれないです。
俳句の季語は伝統によってその本質が定義され、無用な説明を加えずともその季語を使うだけで自然に雰囲気を醸し出すのです。 難しいですが「季語の有無ではなく季感の有無」といわれるのはそこに有季定型伝統俳句としての真理があるからですね。 もし1と2を春の句としてみのるが添削するとすれば次のような感じでしょうか・・・
囀れる森林浴のそこここに
風光る森林浴の道ますぐ
3と4も明確に夏の清涼感を出すならば以下のように添削することになるでしょうか・・・
せせらぎに沿ひて森林浴涼し
森林浴奥へ奥へと径涼し
いづれも写生句となるように具体的に、また安易な字余りを正調に添削している点に着目して下さい。 この説明によって宏虎さんの作品を添削して採ったみのるの意図をご理解いただけると嬉しいです。 添削はしましたが、作者の感じられた季感の生命線は変わっていないと思います。
こうして考察してみると談話室にも書いたように、「森林浴」という季語の本質が伝統俳句の歴史に置いて、若干まだ未成熟なのかもしれないですね。今後、森林浴の名句がどんどん詠まれ、どの歳時記にも掲載されるようになるといいですね。
毎日句会みのる選を発表しました。
最近のみのる選はやや厳選になっていると思います。 過去の高点句の想を真似た二番煎じの作品や平凡で月並みな感覚の作品はたとい表現は巧みであっても作者のために採らないことにしました。 表現や推敲にやや難はあっても、新鮮な感覚の作品は添削して採るようにしています。
自然の営みを擬人的に表現したり、奇抜なことばを使うことが新しさだと勘違いされている傾向も目立ちます。 もちろんピタッと嵌まった場合は佳句になることもまれにありますが、頭で考えたそれはほとんどが陳腐です。 そうした作風を修正せずに続けているとそれが癖(なんとなくそうしないと気が済まない)となって素直な感性を失っていきます。
成績の振るわない方は、作句姿勢がぶれてきていると思います。 出来るだけ添削を受けるように努力してください。地道な努力は必ず報われます。