40才で俳句を初めて5年ほどたった頃、紫峡先生から角川学芸出版「俳句」誌の新人作家欄に推薦したので7句投稿せよとの指示がありました。 そのときに、まだ星の出ている早朝に家を出発し、夕方星空になるころまでおおよそ10時間くらい昆陽池の鴨を観察した経験があります。
鈴鹿野風呂師の鴨百句にあやかってみようという若かりしころの無謀、よき思い出です。100句の中から30句くらいに自選し、7句に絞るのは紫峡先生に見ていただきました。 昆陽池は、ぼくにとってそのような思い出のある場所なのです。
さて吟行当日、心配だった昨夜からの雨も、みなさんの予想通り見事に止みました(^_^)
スワンホールの予約手続きに行ったついでにちょっと覗いてみた二月上旬の昆陽池の雰囲気とは違って、昨日は思ったより鴨の数が少ないようでした。 昆陽の鴨は餌付けされているので渡らないと思い込んでいたのですが、そうでもないのかな・・・
9時45分全員阪急伊丹駅に集合して市バスで移動、スワンホール前のバス停で降りて昆陽池へ、まずは、給餌池をやり過ごしながら昆虫館までのふるさと小径を吟行、木隠れの落葉嵩に立つ西行法師の歌碑を見つけました。
冴る夜はよその空にぞ鴛鴦も鳴く凍りにけりな昆陽の池水 西行法師
(冷え冷えとする冬の夜、恐らく昆陽の池水も凍ったのであろう。いつもはそこにいて鳴く鴛鴦がよその方で鳴くのが聞こえる。)
西行法師は23才で出家、出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残したと記録にあります。 「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」の歌はあまりにも有名ですね。芭蕉翁の生涯もまた、西行さんの辿った道を俳諧という新しい感性をもって巡る漂白の生涯だったと言われています。 西行や芭蕉の碑に佇つとどうしてもそのような感傷が生まれますね 。
西 行 の 一 碑 に 見 ゆ 枯 野 道 みのる
下五の季語は創作です。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という芭蕉翁の句に連想がとんだので、「枯野かな」を思いつきましたが、昆陽の一碑がたつふるさと小径にちなんで「枯野道」にしました。でも、まぁ60点の句です。 「下萌え」や「春落葉」では季語が動きますし、「花の道」など桜の季語をあてると(西行さんは桜の歌人ともいわれるので)やや憑きすぎになります。
ふるさと小径の途中で合流したうつぎさんがイスノキを見つけたというので、ひょっとしてひょんの実が落ちてないか探しに行くことになりました。 イスノキの足元には落ちてなさそうだったので梢に目を移すと、なんと二つ付いているではないですか。宝物を見つけた腕白のように大興奮(^_^)
でもちょっと高くて手を伸ばした程度では届きません。 わいわいがやがや、園丁のお姉さんまで巻き込んでようやく1.5mほどの枯れ枝を見つけて無事ひょんの実を GET!
代わる代わる吹いてみるのですが、雨で湿っていたせいか音がでません。でも何とか鳴らそうと真剣なまなざし。全員、少年少女に戻ったようでした。これもまた俳句ライフの余録です。
唄 口 に あ て が ふ 朱 唇 ひ よ ん の 笛 みのる
唄口(歌口)というのは、管楽器などで吹奏のために口を付ける部分のこと。昨日ぼくは一寸違う説明をみなさんにしたかも知れません。ごめんなさい。 男のぼくが吹いている格好はひょっとこのようで滑稽ですが、女性のそれは何となく艶っぽくていい感じでしたよ(^_^)
そうこうしていると昆虫館から出てきたと思われる保育園児の一団が春泥の道をやってきました。年長組のピンク帽子の子供たちはまるでスキップでも踏むかのように元気いっぱい。俳句のおじさんおばさんたちとハイタッチを交わして過ぎていきました。
やや間隔があいて遅れてやってきたのは二、三才組のようで、これまた超かわいい。おもわず初孫亮ちゃんの姿がだぶりました。
遠 足 子 ら の し ん が り は 二 才 組 みのる
園 児 ら の 桃 色 帽 子 野 に 遊 ぶ みのる
二句目、園児らの帽子は組ごとに色とりどりだったのですが、芽木の木立の道を弾むようにゆくピンクの帽子に春を感じたので春の句に仕立てようと季語を探してあと付けしました。でも、この句いまいちと思います。
句のできばえはともかく、ここまでの流れから、「吟行は一期一会の出会い」を実感していただければ嬉しいです。
思いのほか時間を使ってしまったので、慌てて鴨の見えるところまで戻りました。
日 向 鴨 呪 文 の ご と く 嘴 う ご く みのる
陣 乱 す 浮 気 な 鴨 の を り に け り みのる
震 災 を 知 る も を る べ し 昆 陽 の 鴨 みのる
丿 乀 と 居 向 き ば ら ば ら 鴨 浮 寝 みのる
逍 遥 す 池 塘 に 鴨 の 陣 遠 し みのる
一句目、何かをぼやいているかのように嘴をガチャガチャしている鴨がいたので、日は射していなかったんですが「日向ぼこ」のイメージを連想させるために「日向鴨」と嘘をつきました。でも、これ効いてるでしょ。
三句目、鴨の寿命は二十年くらいだそうで、もし長寿なのが残っていれば、18年前の阪神淡路大震災をこの昆陽池で経験した鴨もきっといるんだろうな・・・自分自身の懐かしさとダブって三句目ができました。
四句目、丿乀(へつふつ:船などの揺れ動くさま)という措辞は、青畝先生が孑孑(ぼうふら)の句で使っておられたのを覚えていていつか使いたいという思いが引き出しにありました。ふつう鴨は陣をつくって行儀よく泳ぎますが、浮寝状態になると波の揺らぎまかせておもいおもいに浮かんでいます。とつぜん「これこれ」と引き出しの記憶と結びつきました。「丿乀」は手書きではうまく書けないので句会では出しませんでした。俳句は、「ことば」だけではなくて、書にしたときの文字の形や口に出して詠んだときの響き、リズム等々総合的な文芸だと思います。
今回のスワン句会に能勢のともえさんが初めて参加して下さって嬉しかったです。ともえさんとは二、三度能勢にお招きいただいた句会でお会いしており、「お菓子作りの名人」としてぼくの記憶にはインプットされていました。 なので、ともえさんが吟行に参加して下さると聞いたとたん、ぼくは直感で「うぐいす餅」を確信していました(^_^)
予想的中、食べるのが惜しいくらいにたおやかで美しい肌、何ともいえない色合いでしたね。この色を出すためにいろいろブレンドして苦心して作って下さったのだと思うと、涙が出そうなくらい嬉しかったです。
て の ひ ら に 愛 で て う ぐ ひ す 餅 食 ぶ る みのる
残った分をお土産にと心遣いいただいたので、家で家内と一緒にいただきました。家内は手にとって四方八方から眺めながらテクニックを盗もうと研究しているようでした。ともえさんほんとうにご馳走さまでした。感謝! また能勢に呼んで下さいね。
明日3月1日は、藤井寺佐藤家のひなまつり、家内は妹と一緒に広島へ行くというので独りで寂しくいこうかと・・・カメラ持って行きます。
四季別みのる俳句集をみなさんが喜んで下さって、ほっとしています。
詭弁に聞こえるかも知れないのですが、もともと作家としての野心など毛頭なく、生涯自分の句集は出さないと決めていました。 けれども、プロの指導者でもないみのるを信じて支援して下さる皆様に何か心のこもったプレゼントがしたいと祈って決断しました。句集と名がついていますが、あくまでも学びのテキストです。存分に落書きして鑑賞して下さい。
ぼくの独りよがりな思いで事を進めたために、かえってみなさんに気を遣わせる結果になりほんとうに面目なく思っています。 この句集を活用するためにも、ぜひ鑑賞文に挑戦して投稿して下さい。 すでに花茗荷さん、友人の椎さんが書いて下さっていますので参考になると思います。
鑑賞文というのは決して作品や作者を褒めちぎることではありません。 青畝師も「 俳句は沈黙の詩 」だと仰っています。言いたいことが全ていえない分、季語の働きに託して意味を広げるのです。つまり鑑賞する人の連想によって同じ一句でもそれぞれ違う世界があるということです。 だれかが先に書いているので、この句は鑑賞しても無駄・・・ということは決してないのです。
作者の思いを遙かに超えて鑑賞され、指導者から「これはとてもいい句だ」と褒められてはじめて、「そうなんだ・・」というようなことがぼく自身にも何度かありますし、みなさんも体験しておられると思います。俳句とはそういうものですね(^_^)
昨日も少しお話ししましたが、ぼくの初学時代、添削による猛特訓の他に毎月青畝先生が発表される30句を合評するという研究会があり、休まず出席しました。合評会に出席するための予習は、古語辞典を引き、広辞苑を調べ、時には日本史や歌枕解説書なども引っ張り出したりと、それはそれは大変でした。でも、そうした積み重ねによって言葉を覚え、リズムを学び、何よりも俳句の奥深さを知ることが出来ました。
鑑賞による学びはかならず皆様の作句の血となり肉となることを保証します。ぜひご協力下さい。
昨日の昆陽池吟行の作品を近詠にアップしました。日記に書いた芦屋川吟行記が好評でしたのでまた書いてみます。
子規の俳句観の最良の要約といわれる「俳諧大要」の中でも15頁から始まる修学第一期はとても有意義な内容です。 現代語訳ではないので馴染みにくいですが、他の箇所はパスしてここだけ読んでも十分元が取れるくらい珠玉の教えです(^_^)
まずは、もっとも基本的な要項から引用してみましょう。
第五 修学第一期
- 俳句をものせんと思はば思うままをものすべし。巧を求むるなかれ、拙を蔽ふなかれ、他人に恥ずかしがるなかれ。
- 俳句をものせんと思い立ちしその瞬間に半句でも一句にても、ものし置くべし、初心の者はとかく思ひつきたる趣向を十七字に綴り得ぬとて思ひ棄つるぞ多き、はなはだ損なり。十七字にならねば十五字、十六字、十八字、十九字ないし二十二、三字一向に差し支えなし。またみやびたるしゃれたる言葉知らずとて趣向を棄つるも誤れり。稚語、俗語、漢語、仏語、何にても構わず無理に一首の韻文となし置くべし。
- 初めより切字、四季の題目、仮名遣など一切なきものと心得て可なり。しかし知りたき人は漸次(せんじ)に知り置くべし。
- 俳句をものしたる時はその道の先輩に示して教えを乞ふも善し。初心の者の恥ずかしがるはかへつてわろし。なかなか初心の時の句は俗気をはなれてよろしく、少し巧になりし後はなまなか(中途半端の意)に俗に陥る事多し。
- 初心の恥ずかしがりてものし得べき句をものせぬはわろけれど、恥ずかしがる心底はどうがなして(なんとかしての意)善き句を得たしとの望みなればいと殊勝なり。この心は後々までも持ち続きたし。
正岡子規著「俳諧大要・修学第一期」より抜粋
GHの俳句入門講座よりもかなり実践的です。第一項は基本中の基本ですが案外忘れていることが多いです。第二項「とにかくなんでもメモする」という GH方式に通じます。第四項、初学時最初の壁を体験した方なら身に覚えありますね。第五項、初心忘るるべからず。
俳諧大要・修学第一期はさらにつづきます。中略して現代の私たちにも有効だと思う箇所を抜粋しましょう。
- 古俳書など読むも善し、あるいはこれを写すも善し、あるいは自ら好む所を抜粋するも善し、あるいは一の題目の下に類別するも善し。
- 古句を半分位窃み用うるとも半分だけ新しければ苦しからず。時には古句中の好材料を取り来たり自家の用に供すべし。あるいは古句の調に擬して調子の変かをも悟るべし。
- 月並風に学ぶ人は多く初めより技巧を求め婉曲(遠回しに言うさま)を主とす。宗匠また此方より導く故に終に小細工に落ちて活眼を開く時なし。初心の句は独活(うど)の大木の如きを貴ぶ。独活は庭木にもならずとて宗匠たちは無理にひねくりたる松などを好むめり。尤も箱庭の中にて俳句をものせんとならばそれにても好し。しかり、宗匠の俳句は箱庭的なり。しかし俳句界はかかる窮屈なるものに非ず。
- 初心の人古句に己の言はんと欲するあるを見て、古人すでに俳句を言ひ尽くせりやと疑ふ。これ平等を見て差別を見ざるのみ。試みに今一歩を進めよ。古人は何故にこの好題目を遺して乃公(だいこう)に附与(現代語訳は難しいが、自分を主張した・・という意味になるかな・・自信ないです)したるかと怪しむに至るべし。
正岡子規著「俳諧大要・修学第一期」より抜粋
第一項、二項、古俳書(古句)を学ぶことは善いことだと言っています。そして古句からヒントを得て上手に窃めとも(^_^)
句歴の古い方は、とくに第三項をよく読んでみて下さい。知らず知らずのうちに月並みに陥っていることが多いので、そうした呪縛を払拭して幼子のように素直で自由奔放な句を目指しましょう。
第四項目、古句を学ぶときは表面的な鑑賞だけで納得せず、もう一歩深く観察して写生の裏に隠された作者のこころを温ねよと言っています。つまり句の鑑賞というのはそれだけ重要だということ。鑑賞力が低ければそのレベル以上の句を詠むことは決して出来ません。
独りで鑑賞を学ぶことは難しいので合評はとても善い方法なのです。積極的に合評の学びに協力して下さる方がいらっしゃればいつでも再開しますよ。
修学第一期には、さらなる応用編が続きますが、また次回にしましょう。
鍬 の 刃 に 花 飛 ば す な り 犬 ふ ぐ り 青 畝
犬ふぐりを詠んだ句を調べてみると「星」「空」「日」「光」を連想した句がかなり多いです。
犬ふぐり星のまたゝく如くなり 虚子
いいかえれば、こうした連想で犬ふぐりの句を詠むとみな類想になる可能性があります。「犬ふぐり」に限らず、常識的な連想では個性的で新しみのある句は生まれにくいということですね。青畝師の揚句はいかがですか。たぶん類想句はないと思いますし、見事な写生句ですよね。説明はしていませんが、春の光が漲っているのが感じられます。
青畝師だから・・・と諦めないで、柔軟で豊かな連想力を発揮すれば私たちにも個性的な句は詠めるとぼくは思います。 そのためには、常に新しさを求めつづける意欲、姿勢を持つことが大事と思います。 僕の場合も四季別句集を編纂しながらそのことを強く感じました。納得のいかない古くさい句が多かったからです。
よく見てみたら、四季別の中に犬ふぐりの句は一句もありませんでした。上ばかり見ていて足元を見ていなかったんですね。
犬ふぐり疎水の走りそめにけり みのる
みなさんは有名なこの句を佳句だと思いますか。 正岡子規は著書「俳諧大要」に次のように記しています。
この句は人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)する句なれども俗気多くして俳句とはいふべからず。
人口に膾炙するとは、《膾(なます)と炙(あぶりにく)とが、だれの口にもうまく感じられるところから》人々の話題に上ってもてはやされ、広く知れ渡る。「人口に膾炙した名言」というふうに使われています。
芭蕉の「古池や」と並ぶほどひろく知られ、代表的な俳句として人々に親しまれているが、こんな俗な句は、とても俳句とはいえない・・・子規は通俗に落ちていた当時の俳風を排斥しようと考えてこのように批判したのだと思います。
青畝先生もこの俳諧大要はお読みになっておられたようで、ご自身の著書「自然譜」にこの作品をとりあげて意見を述べておられます。なるほどと合点したので転載してご紹介します。
加賀の千代尼に次の朝顔の作品があります。
朝 顔 や 釣 瓶 と ら れ て 貰 ひ 水
人口に膾炙される句は、「朝顔に」で、この一文字の差で良い俳句と悪い俳句とにわかれることをよく注意されたいのであります。
「朝顔や」は良い俳句である。なぜならば咲いている朝顔のさわやかさを礼讃するからです。夜あそびした村の若者のいたずらで釣瓶が無くなったので仕かたなく貰い水をしたというような意味になります。
「朝顔に」は悪い俳句である。偽物だからであります。なぜ偽物か。朝顔は蔓をもっているがわずか一夜では釣瓶の竿にからみつきません。万一からみついたとてわざわざ貰い水をする酔狂はしないでしょう。見せかけの通俗な風流心である。誠の詩を解せずに、こんな見えすいた嘘を承知で、人口にもてはやしているのです。
俳句は自然の真実を愛します。自然に即す、「松のことは松に習え」と芭蕉が言いました。偽風流を排斥して一番素直な心でむかいましょう。
阿波野青畝著「自然譜」より
青畝先生は、「自然の真実を愛し、自然に即す」というご自身の理念を、『四時随順』という四字熟語に託されました。 このことばは、結社「ひいらぎ」のけじめの大会があったときに記念として青畝先生が色紙に書いて下さったもので、ひいらぎ主宰・小路紫峡師の第二句集のタイトルにも使われています。ぼくは、この言葉を、青畝師の遺言のような気持ちで日々覚えています。
頭で考えた句を創作していると知らず知らずのうちに偽風流に陥ります。努力して吟行による素直な作風を身につけましょう。
四季別みのる俳句集の目的と活用法について説明しておきます。
今回作成した句集は、保存を目的としたものではなく、学びのためのテキストとして使って戴くために纏めたものです。 ですから、鞄やリュックに入れて携帯して戴けるように、薄く、丈夫にという仕様になっていて栞紐もつけました。 メンバーのさつきさんが軽印刷関係の会社にお勤めだということが分かりましたので、相談して実現したものです。
読めない漢字が出てきたら、辞書で調べてルビを書き込んで下さい。分からない古語や季語が出てきたら古語辞典や歳時記で調べてこれも書き込みします。使えそうな言葉や言い回しが見つかったら赤で傍線をいれて暗記して下さい。
これは、みのるが勝手に考えていることなので専門的な裏付けはなにもありませんが、俳句モードの時の脳の状態は、右脳(感性)70%、左脳(知性)30%という感じではないかと思います。仕事モードとか家事モードのときは、左脳依存度の方が高くなると考えます。
俳人に痴呆になる人が少ないのは、右脳左脳をバランスよく使うことで脳の活性化が図られるからではないかと思います。
話が脱線しました。
俳句をしていると必ず好不調の波がやってきます。好調なときはどんどん句を詠めばいいのですが、不調が長く続くときは、少し頭を切り換える必要があります。これもあくまでぼくの経験上ですが、不調になるときというのは、右脳30%、左脳70%というようなアンバランスの状態に陥っているのではないかと思うのです。つまり右脳の働きが少し弱くなっているということですね。
頭の切り替え(モードチェンジ)というのは、電子機器のスイッチのように簡単にはいかないですね。そんなときに、四季別句集とかをさらさらと読む(目を通すくらいの感じ)ことで、何となく軌道修正されることが多いです。もちろん青畝先生とか自分が尊敬できる俳人の句集とかでもいいのですが、できれば四季がきちんと区分されているもののほうがいいと思います。
四季別みのる俳句集は、そんな風に活用して欲しいと願って作りました。いっぱい書き込みをして、ぼろぼろになるまで使いこんで下さった方には、新しいものをプレゼントします(^_^)
昨日の滴翠窯吟行は難しかったようですね。ごめんなさい。
吟行で句を詠む秘訣として、「まず目に見える季語を見つけましょう」というヒントをお話ししました。 吟行になれない間は、自由に心を遊ばせる・・という習慣が身についていないので中々感興が絞れないからです。 季語を見つけることで、そこを起点として連想を膨らませて句を詠む、という方法ですね。
ところが、昨日の陶芸教室のように部屋の中で句を詠もうとすると、なかなか適当な季語が見えてきません。 そこで、「ここでは句が詠めない」とあきらめてしまうのです。
GHメンバーのみなさんは、鍛錬会なども経験されておられるので、季語から一句を組み立てるという初期の段階はもう卒業しておられます。 頑張って次の段階、つまり心を遊ばせて感興を得るという方法に挑戦してください。 心を遊ばせる訓練といっても難しいことではありません。
実例として、昨日の僕の場合を吟行記風に書いてみました。
阪急芦屋川の駅から歩きはじめて開森橋のたもとにある谷崎潤一郎の細雪碑を吟行しました。ちらちらと雪が舞う中でしたが、気の置ける親しい仲間と一緒に吟行できるのはほんとうに楽しく、幼い頃の遠足のような心の高ぶりと喜びがありますよね。
ぺちゃくちゃとお喋りしながら和気藹々、細雪碑を取り囲みながら句を詠んでいるメンバーの様子を眺めていると、なんだかとても幸せな気分が湧きあがってくるのを覚えました。
谷 崎 碑 囲 む わ れ ら に 春 の 雪 みのる
踏 青 や 句 仲 間 と い う 宝 物 みのる
春の雪と踏青という季語は、引き出しから出してきてつけました。1句目「細雪」ではあきらかに憑きすぎです(^_^)
2句目は、心象句ですが想像ではなくて実感に基づいていることに着目して戴きたいです。心象と組み合わす季語は、具体的にイメージできるものを選ぶことがポイントです。たとえば「あたたかや」というような感覚的な季語をつけると具体的に何も見えてこないですね。
滴翠美術館での作句は、切り替えがむかしく最初はぼくも難しかったです。
心が遊ぶままにメモは増えていきましたが、季語が見つからず句会には出せませんでした。 家に帰って句帳のメモを見なおし、歳時記を繰っていて「春昼」という季語を見つけました。よしこれだ!と思ってできあがったのが次の二句です。
春 昼 の 陶 房 女 人 ば か り な る みのる
陶 房 の 人 み な 寡 黙 春 の 昼 みのる
吟行が終わってメンバーの多くは芦屋のレストランで食事をされるというので、芦屋川の駅で別れ、宏虎さん、せいじさん、わかばさんらと一緒に夙川まで戻りました。 公民館までの道行きお喋りしながら何となく川面に視線を移すと、一瞬、河原のごろごろ石が動いたように見えたので、ズームアップしてみると番鴨でした(^_^)
まだ少し時間が早いようだったので、公民館横の池の見える四阿でお弁当を頂くことにしました。綺麗に整備された池の真ん中にぽつんと青鷺が一匹、全く身じろがずにかたまっているのが見えました。二、三尾の川鵜も水面に顔を出したり潜ったりしています。お弁当を広げると雀さんたちがおこぼれちょうだいとばかり、1m近くまで寄ってきます。心の和む時間でしたよ。
水 際 石 動 く と 見 れ ば 春 の 鴨 みのる
春 愁 の 青 鷺 と な り か た ま り ぬ みのる
1句目、句会には「河原石」で出句したのですが、「水際石」のほうがより具体的なイメージになるかもと思って推敲しました。青鷺は即興では季語が見つからなかったので、引き出しから探して後で仕上げました(^_^)
句会で芦屋川の春の流れを詠まれた佳句をたくさん拝見しました。 ぼくも、「幾重にも堰落ちて水澄めりけり」という秋の句ができていたのですが、句会では選んでもらえないだろうと思って出しませんでした。
家に帰ってあらためて句帳のこの句を眺めていると、「水澄む」という季語はちょと憑きすぎで、作意が見え見えだと思って推敲しました。
幾 重 に も 堰 落 ち て 水 温 み け り みのる
佳句とはいえませんが、こっちのほうが今日の実感かなぁ~、ということで近詠にアップ。
種あかしをすると、ざっとこんなあんばいです。すいぶんいい加減だと思うでしょう。でも、これがみのる流なんです。 ことばの魔術師といわれる青畝先生くらいになると、吟行中にでも瞬時に引き出しが開いて一句が生まれるんでしょうね。
こうしたテクニックをより効率的に駆使するためには、とにかく季語を覚えることです。季語を覚えるというのは、歳時記の季語の解説を読むことではありません。先人の作品集をできるだく多く読んで、好きな句は書き写したりして暗唱できるくらいにまで覚えるのです。
こうした学びを重ねることで句を詠むリズム感が会得できます。句集を読んでいて分からない季語に遭遇したときに初めて歳時記の解説を読んで納得します。 みのるの俳句集もそのように活用して戴きたいと願って作りました。みなさんの句帳の中にも、昨日の陶芸教室でのメモがたくさん残っているはずです。ぜひ、みのる流で挑戦してみて下さい。
結社や指導者によっては当季で詠むことを厳しく指導されるむきもあるようですが、そうした作句を続けていると制約に縛られて正しく季語を使うことが出来なくなります。
みのる選の場合は、当季ではない季語を使っていただいても何の問題もありません。それよりも季語の本質を大切にして正しい季語の使い方をすることを覚えて欲しいと願います。 正岡子規は、「俳句大要」のなかで次のように書いています。
なるべくその時候の景物を詠ずること。聯想(れんそう)が深くしてものしやすし。尤(もっと)も春にゐて秋を思ひ夏にゐて冬を思ふ事も全く欠くべからず。ただ興の至るに任せて勝手たるべし。
/// 当季を題材にした方が連想を飛躍させやすいので句になりやすい。しかしながら春に秋の句を連想し、
夏に冬の句を連想したとしても全く駄目ということではない。気にせずに自由な感覚で詠めばよい。///
といっているのです。納得されたでしょうか。
多くを語れない俳句表現において、短い言葉で大きく抒情を膨らませるために先人達が育んできたのが季語なのです。 ですから、季語の説明の句をつくっても作品としての価値は低く、季語の働きによって大きく連想が膨らんでいくような新鮮な感覚の作品作りが求められるのです。
「鴨」という季語を例にとるとしましょう。昆陽池などで見られる鴨は、「渡り鳥」としての習性を失って居着いてしまっているので、鴨本来の姿ではありません。ですから「鴨」という季語の本質をよく知りそれを踏まえた上で詠まないと失敗するのです。冬に北方から渡ってきて、春になればまた引いていく。 鳥わたる・小鳥来る(秋)、鳥帰る・鳥雲に(春)という季語もすべてそうした渡り鳥の習性に基づいて生まれてきた季語です。
そのような気持ちで鴨を観察しなければ、家鴨でも鶏でも同じということになります。 渡り鳥としての鴨を前提とした場合、「春の鴨」という季語が何のために存在するのかということはもうおわかりですよね。 従って、季語の約束の下においては、「鴨うらら」というような感興はちょっと無理ということになるのです。
魚類も海や川には年中存在するわけですが、一番美味しく食されるいわゆる旬の時期を季語として扱います。昨今は、ビニールハウスや温室栽培されるので野菜類の季節感も希薄になりつつありますが、これらも自然環境の中で収穫できる旬の時期を季語とするのです。 ビニールハウスの中で詠むときにはそうだと分かるように、動物園の動物を詠むときにも檻の中だと分かるように表現する・・・という注意事項も、歳時記に掲載されている季語の本質は、あくまで自然環境下であることが約束として存在するからなのです。
百獣の王の尻尾が蝿払ふ みのる
かつて動物園で上のような句をものにし得意げでした。けれども、「あなたはアフリカへ吟行に行ってこられたのですか?」と問われると俯くしかありません。 GHでは其処まで小難しく扱うつもりはないですが、結社によっては厳しく指導されるケースもあるようです。
あまり考えすぎても句が詠めなくなるので、神経質になる必要はありません。けれどもこうした季語の学びをしっかり重ねることで作句の幅(もちろん鑑賞の幅も)を飛躍的に広くすることが出来ます。
「花」と詠めば桜を示すという俳句の約束があり、他の花を詠むときは、「何々の花」と詠まねばならないことはご存じだと思います。 「花が咲く」といわなくても、「何々の花」と詠めばすでにそれは咲いているというのも俳句の約束なので、言葉の構成によっては「咲く」は蛇足になります。 このような伝統俳句の約束があるから、わずか17文字でも無限の世界を表現し連想させることができる。ここに俳句のよろこびがあるとぼくは思います。
今週は、残念ながら互選で高点であった作品の多くを没にしました。ごめんなさい。
共通していえることは、季語の斡旋が不適切ということです。誤解のないように少し説明しておきましょう。
来週吟行を予定している「鴨」は、冬の季語であることは周知の通りです。 これに対して、「春の鴨」は、「残る鴨」ともいって渡り(引き鴨)に加われずにとどまる鴨のことですね。 ですから、「春の鴨」には残された哀れさとか孤独な感じが伴うもので、春の明るさやのどかさと鴨とを組み合わせて「春の鴨」とするのは無理があります。吟行したタイミングが春だから「春の鴨」ではないということですね。歳時記の例句をみるとよく分かると思います。
「季語」は、一句の魂のようなものなので、正しく斡旋しないと生きた命のある作品にはなりません。
十分とれるレベルまで完成された作品もたくさんありましたが、類想と思われるものや新鮮味のないものは、やむなく没にしました。 句意が具体的且つ明快で、視点や捕らえ方が新鮮である作品は、添削して採りました。
表現を上手に纏めるテクニックは、経験を積み重ねれば自然に覚えていくので焦らなくていいです。それをお手伝いするのがぼくの役目ですから。 それよりも、「個性的な感性」が滲み出るような作品作りを心がけましょう。常識的で二番煎じの句をいくら詠み溜めても宝物にはなりません。
その時々の新鮮な感動が甦ってくるような作品作りを目指すことこそが本物の俳句の喜びだとぼくは思います。
技巧も衒いも何にもない平明な表現の中に作者の素直な感動と早春の抒情が伝わってこないでしょうか。
松葉杖一歩いつぽに春愁ふ ぽんこ
苔庭に春の日射しのやわらかし 三刀
淡雪や曇り硝子の影法師 さつき
尼寺の門前に売る花菜漬 雅流
ウインクをしてをるごとき双葉あり せいじ
人波にもまれるだけよ苗木市 あさこ
家鴨池気の合ふ残り鴨のをり なつき
しゃがみ見る節分草の目覚めしと うつぎ
最近なんとなく自身の作句に行き詰まりを感じるようになったので、殻をうち破るためのきっかけを得るべくいろいろと古書を乱読しています。 青畝俳話、虚子俳話と遡っていまは子規まで戻りました(^_^)
子規の「俳諧大要」は現代語ではないのでやや読みにくいのですが文意はきわめて明快、ぼくが何頁も費やしてくどくど書いていることも、俳諧大要には実に簡単明瞭に書かれていました。なんだか恥ずかしいです。
GHのメンバーにも是非読んで欲しいと思いますが、ちょっととっつきにくい感じなので、何回かに分けてその入り口までご案内しようと思います。まずは全体像から、俳諧大要は以下のような節に分けて書かれています。
1~4までは、「俳句の定義」という感じで書かれています。
- 俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。
- 美術は比較的なり、絶対的に非ず。
- 美の標準は各個の感情に存すとせば、先天的に存在する美の標準たるものあるなし。
- 俳句と他の文学との区別はその音調の異なるところにあり。
- ・・・・・
というような調子ですので、興味がなければ読み飛ばしてもいいと思います。 俳諧大要の中でもっとも興味深いのは、5~7の修学、つまり俳句の学びようについて書かれた箇所です。
第一期は、「俳句入門者の心がけ」というニュアンスで書かれています。何度もよくかみしめて読むといいです。 修学第二期は、一応「俳人と呼ばれてはばからないレベル」ということのようで、最後の第三期はプロの領域を意味しているようにぼくは理解しました。たとい少人数が対象であっても指導者という立場のひとにとっては必須の修学かも知れません。
第二期に入るタイミングとして具体的で面白い記述があるので引用してみましょう。
- 利根ある学生俳句をものすること五千首に及ばば直ちに第二期に入るべし。普通の人にても多少の学問ある者俳句をものすること一万首以上に至らば必ず第二期に入り来らん。
- 句数五千一万の多きに至らずとも、才能ある人は数年の星霜を経る間には自然と発達していつの間にか第二期に入りをること多し。
- 第一期第二期の限界は判然たるものに非ず。しかれども俳句をものする人は初めは五里霧中に迷ふが如く、他人任せに句を作るが如き感あり。ただ句数と歳月とを積むこと多ければほぼ一句のこなしにつき、古人の句を見ても自分の句を見てもあらましの評論も出来、何となく自己中心に頼む所あるが如く感ずるに至らん。この辺より上を先ず第二期と定めん。
学問を専業とする学生なら五千句、普通の人は一万句を詠んで初めて俳人の仲間入りが出来るというなんとも愉快な表現ですが、実に的を得ているとぼくは思います。
かりに一万句として計算してみましょう。一年に1000句詠んで10年、一ヶ月約80句、頑張れば決して無理な数字ではありません。ちなみにぼくは、俳句入門後、月に200句5年間紫峡先生の添削指導を受けました。合計一万二千句、納得です(^_^)
「多作する」ことが上達の目安だという主張において、GHの理念もあながち的外れではなさそうですね。
今日はこの辺にしておきますね。
昨日から一泊で淡路島に行ってきました。
金曜日の午後1時頃に出発して明石海峡大橋を渡り、西淡三原まで飛ばして水仙郷に行きました。午前中は雨でしたが午後には止んでくれ満開の水仙郷を堪能できました。お天気が悪かったので人出も少なく貸し切りのような雰囲気でラッキーでした。
写真を撮ってきましたのでスライドショウを貼っておきますね。今年は開花が遅く2月末まで大丈夫ではないかとのことでした。 写っている島影は沼島です。
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千 万 の 金 壺 眼 水 仙 郷 みのる
平成6年4月号の「ひいらぎ」に小路紫峡先生が「添削について」書いておられるので転載します。 GHの添削指導も全く同じ姿勢なので参考になると思います。
「添削について」 小路紫峡
高濱虚子先生は一重丸、二重丸の朱印をつけて選句をされ、添削されることは殆どなかった。
阿波野青畝先生は作者の言わんとすることを補足し、別な角度の表現を添削して丸印をつけて下さった。
私は初心者を指導するとき、その作者の作品のレベルに合わせて丸印を入れることにしている。但し、考えて作った句や想像した句には丸印を入れず、作者の実感でとらえた句のみに丸印をつける。
もし表現が不十分であれば具体的な言葉を選び添削する。完成されてはいるが実感のない作り上げた句は没とする。あくまでも作者が物を見て実感でとらえる姿勢を教えることが目的である。
自由に感じる作句態度を会得すれば作者の個性が自ずと作品にあらわれてくるものである。
ぼくは、紫峡先生のこの方針によって特訓を受けましたが、何年たっても20句のうち丸印をもらえるのは多くても3句程度でした。 ときどき自分の進歩の遅々たるに情けなく思っていましたが、先生のこの文章を読んで納得しました(^_^)
ぼくの添削指導は、紫峡先生の物まねなので、基本的には先生の仰るとおりだと受け取って頂いていいと思います。
GH定例の日の吟行プランを立ててみました。
阪急芦屋川駅から北へ川沿いの道を散策して山手中学校(地図の左上)手前の橋のあたりで左に折れ美術館へ行きます。 六甲の嶺々はまだ覚めていないと思いますが、河原や水の流れからは春の雰囲気が感じとれると思います。
美術館は冬季閉館中なので見ることは出来ませんが、館内のお庭には奇妙な石人が立っていたり陶芸教室周辺には窯出しされた作品や仕上げ途上の作品が並んでいたり、陶房の雰囲気も垣間見ることが出来るかも知れません。
帰りは、住宅街の坂道を下って芦屋川の駅まで歩きます。 そのまま阪急電車でひと駅戻り、お天気がよければ夙川堤の四阿か公園でお弁当を食べたらと思いますので、適当にご持参下さい。 もし寒い場合は、公民館の中で食べましょう。
ヨドコウ迎賓館のひな祭りと滴翠美術館の両方を吟行するのは時間的に無理があるので、今回は美術館に絞りました。 雛人形展に絞って吟行されるのもよいと思います。
10:00 阪急芦屋川駅改札前集合
10:00 芦屋川に沿って少し上流まで散策
↓ 途中開森端東側の「 細雪碑・潮見桜 」に立ち寄る
10:30 滴翠美術館 吟行(お庭、陶芸教室)
↓
11:30 阪急芦屋川まで芦屋西山町の路地を歩く
↓ 電車で夙川まで移動
12:00 お天気がよければ公民館横の公園でお弁当
↓
12:30 夙川公民館(句会場)
■香里園 | 京阪本線快速急行(中之島行) 14.6km 後 | 08:51-09:05[14分] ◇京橋(大阪) 3番線発 [7分待ち] | 大阪環状線大阪方面 4.2km 後 | 09:12-09:19[7分] ◇大阪/阪急梅田 1番線着 [11分待ち] | 阪急神戸線特急(新開地行) 21.0km | 09:30-09:42[12分] ◇西宮北口 [3分待ち] | 阪急神戸線(阪急三宮行) ↓ | 09:45-09:50[5分] | ↓ ■芦屋川
■光風台(大阪) | 能勢電鉄妙見線(川西能勢口行) 10.3km 前・後 | 08:43-09:05[22分] ◇川西能勢口 [6分待ち] | 阪急宝塚線(宝塚行) 7.3km 中前 | 09:11-09:23[12分] ◇宝塚 [3分待ち] | 阪急今津線(西宮北口行) 7.7km 前 | 09:26-09:40[14分] | ↓ ◇西宮北口 [5分待ち] | 阪急神戸線(阪急三宮行) 5.4km | 09:45-09:50[5分] | ↓ ■芦屋川
■阪急三宮 | 阪急神戸線(阪急梅田行) 11.3km | 09:42-09:56[14分] ■芦屋川
芦屋川吟行のほかにも自由に吟行して下さい。
引き続き、虚子俳話録のなかから面白そうな記事を抜粋してみます。
「取捨は句としての価値によるだけ」と題しての記事。
先生曰く。 私のとる句を、あまり平凡だとか淡々だとか非難する人があるが、 私は、淡々たる句や平凡な句を好んでとるでもなく、また複雑な句をいやで捨てるでもない。 ただその句を句としての価値いかんによって取捨するのみである。 思うにこんな非難をする人たちは、その人たちが平凡と思っている句の中に、 面白い複雑な感興が奥深く織り込まれてあることを知らず、 また複雑で面白いと思っている句の中に、何一つ纏まった感興を持ち得ないということが、 まだ分かっていないからでしょう。
虚子俳話録のなかから、選者としての心がけを学ぶ点も多いです。 みのる選も胸をはってこう言い切れたらいいですね。
「初心者の句」と題しての記事。
ある句会の折に、初心の人の句がたくさん先生の選に入って喜んでいると、 先生おもむろに口を開いて、 初心の人の句は、うぶでまざり気がないからとれます。 だんだん分かってくるにつけ、平凡になって倦怠の心が起こります。 そこを突破すると、更に句境の新天地が眼前に展開してきます。 そんなことを幾度も幾度も繰り返していくうちに、自然に上手になれます。 と言われた。
みのる選の場合、大きく直してとる場合も多いです。 結社の主宰選ではほとんどそれはありません。 とるか捨てるかの二者択一です。たくさんの句を選ぶ場合に、いちいち添削していては時間がかかりすぎて効率が悪くなるからです。
大きく直してしまうとそれは「作者の作品ではなく選者の作品になってしまう」という批判も聞きます。 作品や成績を競う結社と同じような運用をすることは容易ですが、それでは GHを運用している意味がなく、あくまで初心者の学びの場としてのスタンスをくずしたくないのす。
こうした運用方針が、GHメンバーに理解され、納得して頂けているのかどうかということがいつも気になっていますが・・・。
「行の字よりも吟の字に」と題しての記事
ある日何かの句会で吟行に行った時、あちこちと歩きたがる私たちを虚子先生は戒められて、 誰でも吟行をするとき、吟行の行の字に重きをおいて、一カ所に落ち着いて物を見ずに とかく歩きたがるものですが、追々と作句の力が進んでくるにつけ、 落ち着いて物を見るようになって行の字よりも吟の字に重きをおくようになります。
これはいつもお話ししていることですね。
「よい文章や句がおのずからできる」と題して
先生曰く。 文章を書くときでも句を作るときでも、 始めから文章を書こう句を作ろうと思って景色や事柄を観ていると、 とかく見様が無理になってよい文章も句も作れません。 無邪気に観ているうちに面白いと思ったところを見つけて、 それを文章に書き句に作ると、おのずからすらすらとよい文章や句ができるものです。
理屈では理解できても実践は難しいです。僕の場合、多作の訓練によって知らないうちにそのような気持ちのコントロールを会得できたように思います。
「大成する人」と題しての記事。
先生曰く。 入選しても入選選でも、いつも同じ顔してよく句会に出てくる人は、 将来必ず大成する人です。私はこんな真摯な態度の人を心から歓迎いたします。
思わず苦笑いです(^_^)
赤星水竹居著「虚子俳話録」 という文庫本が中古で流通しています。
大半が Q&A の形になっていてとてもユニークです。 でも、GHのみなさんにどうしても読んで欲しいと思うほどの内容でもないので、面白いと思われるさわりだけを何度かに分けて書きましょう。
「正しい興味」と題しての記事
素十問う。 又一つせんべいの蝿五家宝へ 素十 この句は先生の選にもれたが、品の悪いところがいけないんですか。 先生(虚子)曰く。 品もよくないが、それよりも正しい興味でないように思われてとらなかった。
注意しないと私たちにもつい「受けねらい」でこうした句を作りがちですね。
「類句」と題しての記事
応募句の中に類句がたくさんある。その場合には双方とも落選になる。 先生、類句でもよい句はその中のよいのを一つ生かしておいてはいかがです、と誰かが言うと、 先生曰く 類句の出るような句は、べつに残したいと思う程の句はありません。
なかなか手厳しいですな(^_^)
「月並というは」と題しての記事
ある日発行所の句評会で、いつもの通り弁当を食いながらの雑談の中に、誰かが、 先生、月並というのは陳腐ということですか。 と虚子先生に訪ねると、 先生は、 そうですね、まあ陳腐ということもありますが、それよりもむしろ「嫌味のある句」といった方が近いでしょうね。
「嫌味のある句」ってどういうのでしょうか。「独りよがり」に近いものかも知れないですね。
「新と陳腐」と題しての記事
ある日玉藻句会の折に、 柴漬の上を流るる芥かな 耿陽 漣浪の柴漬に来て分かれけり 椎花 双方とも当日の高点句であったが、芥の句は先生の選に入って、漣浪(さざなみ)の方は入らなかった。 先生曰く 芥の句は芥が柴漬の上を流れるというところに新しい着想があるが、漣浪の句は綺麗だが、柴漬に触れて水が二つに分かれるという着想が陳腐だ。
柴漬(ふしづけ)は、柴を束ねて水に沈め、中に入った魚を捕らえる方法、つまり簗のようなもの。柴葉漬け(しばづけ)とはちがいます(^_^)
どちらにしても、上記の違いわかりますか? 微妙ですよね。
簡単にまとめて見ましたので参考にして下さい。
各方面からの乗り換え案内を載せておきます。 能勢方面からは、十三経由の方が10分ほど早いですが、通勤ラッシュになるので宝塚経由のものも載せておきました。
■香里園 | 京阪本線準急(淀屋橋行) 14.6km 後 | 08:41-08:57[16分] ◇京橋(大阪) 3番線発 [6分待ち] | 大阪環状線大阪方面 4.2km 後 | 09:03-09:09[6分] ◇大阪/阪急梅田 1番線着 [11分待ち] | 阪急神戸線通勤特急(新開地行) 10.2km 中央 | 09:20-09:29[9分] ◇阪急塚口 1番線着・3番線発 [7分待ち] | 阪急伊丹線(伊丹行) 3.1km | 09:36-09:42[6分] | ↓ ■伊丹(阪急) ■光風台(大阪) | 能勢電鉄妙見線(川西能勢口行) 10.3km 前〜後 | 08:32-08:54[22分] ◇川西能勢口 [6分待ち] | 阪急宝塚線急行(阪急梅田行) 14.8km 前・やや後 | 09:00-09:19[19分] ◇十三 4番線着・1番線発 [4分待ち] | 阪急神戸線通勤特急(新開地行) 7.8km 中央 | 09:23-09:29[6分] ◇阪急塚口 1番線着・3番線発 [7分待ち] | 阪急伊丹線(伊丹行) 3.1km | 09:36-09:42[6分] | ↓ ■伊丹(阪急) ■光風台(大阪) | 能勢電鉄妙見線妙見急行(川西能勢口行) 10.3km 前・後 | 08:22-08:41[19分] ◇川西能勢口 [11分待ち] | 阪急宝塚線(宝塚行) 7.3km 中前 | 08:52-09:04[12分] ◇宝塚 [3分待ち] | 阪急今津線(西宮北口行) 7.7km 前 | 09:07-09:21[14分] | ↓ ◇西宮北口 [4分待ち] | 阪急神戸線通勤特急(阪急梅田行) 5.4km 前〜中 | 09:25-09:29[4分] | ↓ ◇阪急塚口 2番線着・3番線発 [7分待ち] | 阪急伊丹線(伊丹行) 3.1km | 09:36-09:42[6分] | ↓ ■伊丹(阪急) ■阪急三宮 | 阪急神戸線通勤特急(阪急梅田行) 22.1km 前〜中 | 09:09-09:29[20分] ◇阪急塚口 2番線着・3番線発 [7分待ち] | 阪急伊丹線(伊丹行) 3.1km | 09:36-09:42[6分] | ↓ ■伊丹(阪急) 市バス 阪急伊丹→スワンホール前 ④番のりば 17系統 西野武庫川センター前行(裁判所前経由) 9:06 9:56 10:13 スワンホール前→阪急伊丹 15:52 16:12 16:57
今月末の昆陽池吟行に思いを馳せていて、ふと野風呂師のことを思い出しました。
「鴨百句」で有名な彼の名前をご存じの方はいらっしゃるでしょうか。 じつはぼくもそれほど知っているわけではないのですが、青畝先生からお話を聞きました。
平明な作風を身につけるには、この野風呂師が良きお手本となるというような内容であったと思います。 四時随順に野風呂師の情報を貼りましたが、なかなかユニークで興味のある経歴の持ち主です。 情報の中に「なるほど」とうなづく一節がありました。
"野風呂は多作で知られ「連射放」と呼ばれた。それによってやがて平淡な事実諷詠の句が野風呂の特徴となる。"
GHが推奨している多作の原点はこのあたりかも知れません。
野 風 呂 師 に 負 け じ と 鴨 を 観 察 す みのる
初孫の亮ちゃんとパパとがインフルエンザでダウン。
二人とも熱は下がって落ち着いてきましたが、亮ちゃんは保育園に預けられないので、今日一日老々保育にって行ってきました。 幸い家内とぼくは予防接種をしているので香港 A型系は多分大丈夫でしょう。
夕方帰宅して届いていた添削稿三通を拝見、投函してきました。 指定の用紙に書いて郵送して頂く添削作業は、5~10分で終わりますので、基本的に届いたその日に投函するようにしています。
TOPページをリニューアルしてから添削依頼が増えました。 感謝です。願わくばメンバーからの添削依頼も増えて欲しいのですが・・・
印刷所から完璧な校正稿が届きました。
メンバーの皆様のご協力がなければここまでには詰められなかったと思います。こころから感謝します。
自分自身で完璧だと思って印刷所に送ったデータでしたが、細かいところでミスが見つかりました。 Typo ではなくて、元データから PDF に変換する課程でのプログラムのバグです。 素人では気づかないところも見つけて頂いて修正して下さった印刷所の技術スタッフにも感謝します。
一行に一句ずつ書き連ねた元データを読み込んで PDFに変換するのですが、 このときに自動的に均等表示になるような処理もしています。 ところが元データを修正したり移動したりという操作をしている間に、うっかりエディタでは気がつかなかった半角スペースが入ってしまい、これが均等処理の時にいたずらしていたのです。
今回のこれらの作業を進めてみて多くのことを学びました。GHで書きためた多くの文章データも出来るだけ PDFで組版して手作り書籍に出来るようにしていきたいと願っています。
俳句集は遅くとも2月中には届くと思いますので、GHのみなさんにプレゼントします。 この句集は、常時鞄の中に携帯してすり切れるまで読んで頂くことを目的に、さつきさんと相談して製本の体裁も検討しました。ある程度文字も大きくしたかったので、A5サイズですが厚みは薄く、また軽い仕様になっていますので、自在に書き込みして勉強用のテキストとして使って頂けたら嬉しいです。
単独吟行の作品を発表して、メンバーからの共感の有無を確かめるのが毎日句会の目的なので、 句帳に残っている作品を推敲して投句されるのはいいですが、希薄となった古い記憶を頼りに作句されるのはお勧めできません。 どうしても理屈傾向の作品になること、類想になりやすいことなどがその理由です。
意図的ではないと思いますが高点句の二番煎じのような作品を詠むことも感心しません。 そのためには、誰がどんな作品を投句したかということに関心を示してしっかり復習したいですね。 自分の作品の結果にしか目が向かないというのは要注意です。
みのる選の裏話は、Tumblr・四時随順に書くことにしました。
四季別俳句集をまとめるにあたって、メンバーのみなさんに随分サポートして頂いて感謝しています。
恥ずかしい話ですが、ぼく自身もこんなに真剣に自分の作品と向き合ったのは久しぶりで、思わず添削しそうになるのもありました(^_^)
わかばさんやうつぎさんとのメールのやりとりの中で、歴史的仮名遣い・とくに拗音・促音の扱いについて話題になりました。結社から離れて、仮名遣いのことについて厳しく言われる環境でなくなったためか、ぼく自身あいまいなところもあったと反省しています。
当然ながら青畝先生の句集はすべて大文字でした。ただし最近の著名な作家の句集には歴史的仮名遣いでありながら、拗音は小文字表現をされている句集もありました。作者によってそれぞれ考えが異なるのはやむを得ないと思いますが、けじめは大事かと思います。
どちらにしても、四季別俳句集は、旧仮名遣いのルールに従うことにしました。
四季別句集の中で該当するのは上記の程度でした。 Tumblr・四時随順にリンクした以下のページの解説が興味深いです。
上記の記事の中で、現在も歴史的仮名遣いで文章を書かれるという作家、丸谷才一さんの「わたしの表記法」の一部が紹介されています。
「促音・拗音は小さくしない。例。あつさり。キヤツキヤツ。 ただしカタカナの外来語の場合は促音・拗音を小さくする。例。ヨーロッパ。カチューシャ。」
カナカナの外来語に関しては、ぼくもこれに倣うことにしました。ただ先に揚げた中の「しょぼしょぼ」は、擬声語であって仮名遣いとは別物ではないのかなという思いもあって、ちょっと悩みましたが、結局「しよぼしよぼ」にしています。
こんごメンバーのみなさんがご自身の作品を整理されるときの参考として、この問題を取り上げました。 ただし、決して現代仮名使いや口語俳句を否定するものではありませんので、誤解のないように。
今日届くと思っていた校正原稿がまだ印刷所から届かないので月曜日まで待とうと思いますが、かなり大幅な修正をしたので自分で組版を修正しました。 ここまで仕上げておけば、印刷所ではページバランスの調整程度で済むと思います。
今回、みなさんに校正のご協力を頂いて本当に助かりました。 修正した箇所のリストも一緒にアップしていますので、できればもう一度見て頂いて feedback をいただけると嬉しいです。
メンバーの個人句集の手作りをサポートするための Project も進めています。 みのるの四季別俳句集は、テキストファイルにまとめるだけで、あとはプログラムで自動的に印刷用の組版(PDFファイル)が可能です。 同様にご自分の作品をテキストファイルに整理して下さるだけで、簡単に PDFに仕上がります。テキストファイルは何度修正されても構いません。
私は、お預かりしたテキストファイルをプログラムで処理するだけなので1分もかからずに PDFができあがります。 テキストファイルは、メモ帳などを使って作成すると簡単です。 ワードなどで整理されていても、保存をするときにテキストフォーマットを選べばテキストファイルで出力できます。 難しければ相談して下さい。
50〜100部という規模で作成されるのなら印刷所へ依頼するのが簡単ですが、10部程度で良いのなら手作りでいいと思います。 メンバーのさつきさんは印刷所に勤めておられて、趣味の手作り製本もされておられます。もしメンバーのみなさんの希望があれば、さつきさんに協力して頂いて、手作りのマニュアルページを作ってもいいかなと思っています。
標題の四字熟語は、阿波野青畝先生の造語だと思います。
もう20年以上も前のことになりますが、結社「ひいらぎ」の記念大会の記念品として青畝師直筆の色紙を入れたフレームを参加者にお渡しすることになり、当時のかつらぎ庵へお願いに行きました。そのときに先生が書いて下さった四文字です。 ひいらぎ主宰・小路紫峡先生は、ご自身の第二句集のタイトルにも使われています。
ネットで検索してみましたが、四字熟語としてはまだ世間的な市民権は獲得していないようで、広辞苑でも出てきません。 しかし、四時・随順と二つにわけると意味が出てきます。
四字熟語として解釈する場合、受け止めかたによっていろんな意味にとれますね。 自らの人生を賭して俳諧のために、弟子のために尽くされた青畝先生の人生訓のようにも思えます。 虚子-青畝と受け継がれた伝統俳句の精神は、まさしく四時随順のこころなんだとぼくは思います。
ホトトギス同人の千原叡子さん(小路紫峡先生と知己の間柄で脳外科のドクターでもあった今はなき千原草之先生の奥様)の句に次のようなのがあります。
明 易 や 四 時 随 順 の 百 余 年 叡 子
高浜虚子先生の直接指導を受けられた叡子さんの句ですから、百余年は、虚子先生が築かれ牽引されてきた結社ホトトギスの伝統を指していることは明白です。そして「明易や」の季語には、光陰矢のごとしといわれる月日の経緯、ホトギスの伝統を振り返った感慨がこめられていると解しました。
このように鑑賞していくと、日本語の言葉、特に季語というのは実に味があり奥が深いですね。
さて、主題とは余り関係ないのですが、「四時随順」というタイトルのミニブログを書き始めています。
Twitter / Facebook と同じような SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で Tumblr(タンブラー)と呼ばれるものです。 親しい仲間同士が共通する話題で互いの発信した情報を共有する・・・という感じのものですが、僕の場合は、全く別の目的で WEBメモのような感じに使おうとしています。
デスクトップ付箋といってちょっとした覚え書きメモを書いて、本物の付箋のような感じで PCのデスクトップに貼っておくという感じものもがありましたね。ま、それの WEB版みたいなもので、つぶやきメモを投稿しておくだけでメモブログのような形として残るだけものもです。
写真を貼ったり、WEBページのリンクを貼ったりというのが、右クリックだけで出来てしまうと言う便利ツールです。 今のところは、作業メモ代わりなので、GHの日常管理の裏側でみのるが何をしてるか・・・というのが分かる程度です。