シンボルツリーのアオダモの木は、すっかり葉を落として裸木になりました。 みのる庵は、35年ほど前に苦しい住宅ローンを組んで新築しました。 その後、子供たちの教育費や何やかやで、ほとんど手をつけないまま老朽化したので、 定年を機に老後を考えてバリアフリーにリフォームしました。 お庭も数年に一度の大剪定程度でしたので常緑が生茂って、さながらトトロの森のようになっていました。 目隠しにはなるのですが、冬になってもほとんどリビングに日が射しません。
そこで2年ほど前に一念発起して、落葉樹中心の雑木の庭に大改造しました。 仕事上でお付き合いのあった造園屋さんが、不要で捨てなければならない石材などを廃物利用して敷いて下さったので、 大仕事だった草引きからも開放されました。 落葉樹は、春の芽吹きと秋の紅葉が綺麗ですし、冬は葉を落とすのでリビングにもたっぷりと冬日が差し込みます。 落葉掃除が大変だと思っていたのですが、常緑樹でもどっさり春落葉しますから結局あまり変わらないです。 常緑の葉は厚みがあり嵩高いので掃除が大変ですが、落葉樹の葉は薄く軽いのでかなりの葉は風で飛んでいくようです^^)
また落葉樹はあまり蜜に茂らないので足元の草花にもほどよい半日陰になるようです。いろんな意味で合理的ですね。 ということで、造園屋さんの話では、最近は雑木の庭がはやりだそうです。 常緑で完全目隠しの庭にするとかえって防犯的にもよくないそうで、なるほどと思いました。
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PS:数人の方から近詠への感想をいただきました。感謝します。 毎月の吟行句会に参加させていただけるお陰で、少しずつ句も詠めるようになって来ました。 俳句は一人で作っていても寂しいもので、仲間がいて感動を共有できるから楽しいのです。 俳句の人間関係は、職場などのそれとは違って利害関係が伴わないので、ほんとうに心置きなく付き合いができます。 私は長い間俳句とかかわってきて、多くの人間関係を得ました。 慰め励ましあい、ともに喜び一緒に感動する。 この素晴らしい宝物をもっともっと育て増やしましょう。
スワン吟行句会に参加させていただいて1年が過ぎました。 皆さんと一緒に吟行しながら、わたし自身もよき学びをさせていただいています。 著名でもない私の指導を受け入れてくださって、みなさんが喜んで参加して下ることに心から感謝しています。 ホームページでのみなさんの成績一覧表のなかに、 みのるの作品が掲出されないことに違和を感じておられる方もあるようですが、 選者は、皆さんの作品を選ぶことに使命がありますので、その日のみのる選が私の作品なのです。 「選は創作である」といわれた高浜虚子先生のお言葉は有名ですね。
吟行句会では、メンバーの皆さんはご自身の作品作りに全精力を注がれるはずですね 。 私の場合はというと、自分の作品作りよりも句会での選のほうが大切な作業なのです。 ですから、吟行では、みなさんがどんな情景で作句されているかに注目しています。 そうすることで、より適切な添削指導ができますし、より多くの作品を選ぶことができるからです。 とはいいながら、句会で「みのる!」 と名乗る機会が少ないとちょっと恥ずかしいので、 最近はかなり必死です。 それだけ、皆さんのレベルが上がってきているということですね^^)
今日は、私のお気に入りポイント伽耶院(がやいん)をご紹介しましょう。 この時期は紅葉が美しいので、紅葉見物の人たちでかなりにぎわいますが、 それ以外は、比較的静かなところです。 周辺もあまり開発されていないので、ちょっと時間が見つかるとカメラと句帳をもって 気軽に出かけます。
私の自宅(神戸市垂水区)からだとマイカーで30分ほどですが、 大阪方面からだと中国道を経由して山陽自動車道三木東 ICから車で3分です。 電車利用だと、神戸電鉄粟生線緑が丘駅から神姫ゾーンバス8系統「グリーピア三木」行で15分、 「伽耶院口」下車徒歩10分です。 ホームページにたくさん写真が載っていますのでご覧下さい。 もし、ご希望の方があればいつでもご案内します。
昨日の京都渉成園吟行は紅葉の句を詠まれた方が多かったですが、 何人かのメンバーが枯蓮の池で佇んでおられる姿を拝見して嬉しかったです。 古都の街歩きのなかで拾われた作品もありました。 明日香吟行記の中にも書きましたが、吟行場所以外のところでもしっかりとアンテナを張っていると 案外良い句が拾えるのです。 みのるの近詠 に枯蓮の作品を発表しましたので、また感想をお聞かせ下さい。
水鏡して紛らわし枯蓮 みのる
今日のスワン句会京都吟行は19名の盛況で、 遠来のメンバーも参加してくださり、和気藹々小春日和の古都吟行を楽しみました。 ここ数年、仕事が忙しくなったため吟行から遠ざかっていましたが、ようやく昨年の10月からスワン句会に復帰させていただいて作句を再開することができました。 けれども5年余りの空白は厳しく、なかなか詩情を取り戻せなくて不調にもがいています。
昨今は、メンバーの皆さんの上達も目覚しく、吟行という作句スタイルが定着してきたように思いますので、来年は、少し目先の変った吟行地を提案してみようかと考えています。 十日戎/寒造(西宮)、雛の宿、涅槃寺(中山)、牡丹寺、潮干/磯遊、バラ園(須磨離宮公園)、紫陽花寺、蛍(吉野/一泊候補)、避暑(六甲山/一泊候補)、秋の野路(能勢)、鴨(昆陽池/昆虫館もあります)、菊花展、紅葉(嵯峨野)、炭焼き、等々、季語やテーマを絞った作品作りに挑戦しても面白いのではないかと思います。 この場合、第4週水曜日という固定ではなく、変動になってしまう可能性がありますが、 どちらにしても、句会場の確保が課題になると思います。こうした視点でほかにも良い候補地があれば、皆さんからもご提案下さい。 来月のスワン句会で相談しましょう。
今日の写真は、みのる庵のブルーベリー紅葉です。
すっかり冬模様になったみのる庵のお庭なので、 タイミングが悪いのですが・・・少しずつご紹介します。 今年はお庭に何種類かのセージを植えました。 そのうちラベンダーセージとチェリーセージが今もまだ咲いています。 初夏の花が終わった7月頃に短く剪定すると秋に枝を増やしてまた沢山花が咲くようです。 今年は遠慮してあまり短くできなかったので、伸びすぎて少し行儀が悪くなりましたが、 それでも沢山花を咲かせてくれました。 秋になって、宿根の山野草の苗を沢山植えたので、来年の春以降が楽しみです。
昨日の続きです。 境内の一隅に少し傾いだ石板が立っており菩薩像が掘られていました。 古びたみ仏の顔かたちは風化してやせ細った感じでしたが、 長い年月を経たその表情は安らぎを感じさせてくれるようなとても味わい深いものでした。 同じように長い人生を生きてきた私たちも、 このみ仏のような穏やかな表情で周囲の人たちとの係りを持ちたいものだと・・・。 石仏の横に佇って境内の紅葉に心を遊ばせながら、ふとそのような感慨を覚えました。
今日は、とてもよいお天気に恵まれたので、三木市伽耶院へ紅葉を撮りに行ってきました。 カメラを持ち出すのも、かれこれ一ヶ月ぶりでしょうか。 普段平日は、ほとんど人影のないお寺なのですが、今日は紅葉見物のお客さんで溢れていました。 カメラマンも多かったです^^)
錦秋の梢さながら万華鏡 みのる
久しぶりの日記更新です。 何かと身辺の慌しさが重なって、気がつくと随分日記更新が途絶えていました。 たくさんの方からご心配のお見舞いを頂いて申し訳ありません。 カメラもほとんど持ち出していなくてアップできる作品はないのですが、 最近は少し落ち着きましたので、またぼちぼち更新したいと思います。
今日は、教会の信徒の方のお父様が亡くなられたので告別式に行ってきました。 彼女は、2002年からお仕事もやめられて、それ以来ずっと進行性核上性麻痺(PSP)という難病で寝たきりのお父様の介護に専念されてきました。 介護の日々をブログに書いておられて、私も時々拝見していたのですが、 言葉では言い尽くせないような苦難との戦いではなかったかと想像します。 私も、痴呆の父親を5年ほど介護した経験があるので、その大変さは身にしみてわかります。 私の場合もそうでしたが、彼女も苦しい介護の日々の戦いを通してキリスト教の信仰に導かれ、 その信仰に支えられて最後までお父様を看取られたのだと思います。
お父様もあまり苦しまれないで平安裡に召されたというお話を聞いてほっとしました。 長い間の介護生活だったので、表情には少しお疲れの様子が見えましたが、 ご自身は出来る限りのことを尽くされたということで、とても明るく微笑まれ弔問に伺った私も安心しました。 長年にわたって綴られた彼女の日々の介護ブログは、これで終わることになるのだと思いますが、 彼女のブログを通して同じ重荷を待たれる多くの方々が、慰め励まされたことがブログのコメントを見てよく分かりました。 彼女のブログの結びには、次のような一文が綴られていました。
父は神さまのもとへ召されて、(すでに亡くなっている)母や祖母や弟と一緒になって、幸せに笑っていると思います。 ほんとうにそう信じています。 わたしはクリスチャンになって、ほんとうによかったと思っています。
苦しい介護の日々、彼女を支えたのは、信仰の力だと知って胸が熱くなりました。 信仰があってもなくても、人間は必ずいつかは死を迎えなければなりません。 死後の世界については、いろんな思想がありますが、死から蘇った人はいないので、 本当のことは誰にも解りません。 ”死んだらお終い” と考える生き方には、生きることへの執着があり死への恐れがありますが、”たとい肉体は滅びても、魂は天国で永遠の命に生きられる” と信じる生き方は、死は永遠の命へのステップとして受け止められるので、死に直面しても、なお希望を持てるのだと思います。 彼女のブログの文章を読みながら、そんなことを思い巡らしました。
いまごろは天の花野に憩ふべし みのる