やまだみのる

(青畝先生の俳話 No.5)

青畝先生の作風、作家としての理念は私の究極の理想ですが、久しぶりにその著書「俳句のこころ」の一文を読み返していて、こころを新たにさせられたのでその一部を引用してみます。

(2001年12月1日)

観念に溺れるな 阿波野青畝(昭和22年9月)

雑詠を選んでいると、私は後人恐るべしの感にも打たれる一方、いつまでたっても誤った古い観念に溺れた人々の多いことを悲しまねばならない。

後人恐るべしというほうは、新しい人々がほんとうに真剣となって対象を掘り下げてゆく。

いいかげんのところで器用にとりつくろう人は多いが、こういう真剣になった人は、いいかげんではすましておかない。もっと鋭く切り込んでくる。

思いがけない視覚からも見たり、いのちのあることばを見つけたり、私が見る限度から更に飛躍してその内奥を探ったりして、その逞しい足取りに圧倒されるのである。

こういう人は見る見る伸びてゆく人である。このまま伸びてやまなかったらと思うときに恐ろしい感じがする。私など、もう何度もがいても時世に遅れるほかないような気がすると共に、こうゆう人をたのもしく末を見送りたい気がするのである。

しかし翻って一方では、相も変わらず陳腐きわまる景色を持ち回っているのに、むしろあきれてしまう。俳句という天地では、こういう天地と、最初に観念で固定化してしまう。何度俳句にまとめてみても真実に触れてこない。写生してほしいと叫んではみても、写生されない。

その人はそれでも写生してあるつもりかも知らぬが、自分を虚しくして対象に接しないから対象の真実、作家の真実、そうゆう尊さを知ることができないのである。つまり先入主観念なる色眼鏡をかけて、その色を透して対象を捉えようとしているのであるから、ほんとうに生き生きした対象が目にはいる道理がない。

私は極端に言わしてもらうなら、自分の好悪も捨ててじかに自然に飛び込んでみることだと思う。そうすると、今まで気のつかなかったことがあっちからもこっちからもぶっつかってくるだろう。おや、これは驚いたなあと心を少なからずゆさぶるにちがいない。これらを心にひびいたとおりに十七字に写し取りたいものである。

ことばの言い回しということも重要であるが、まずこの新しい驚きを捉えることが先であって、それからこの捉え方の工夫のときにことばの言い回しで的確を期す。もともとことばの言い回しだけでは俳句に成功しないことを断言してはばからない。

初心者はしばしば言い回しの面白さにひっかかってしまう。真実とか、自然の底にあるいのちとかいう最も肝心なところに意をそそがねばはなはだつまらないことと思う。

 

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