自然への愛情

やまだみのる

(青畝先生の俳話No.3)

自然の営みは人の心を慰め励まし、勇気を与えてくれます。草や木や小動物たちは、ことばを持ちませんが、摂理のままに生きることによって、なにが一番大切なことかをわたしたちに教えようとしているのです。

(2001年12月14日)

自然への愛情 阿波野青畝(昭和31年1月)

いかにも漫然としたことをいうが、しかたないことと思っていただきたい。われわれが俳句をつくって楽しむのは、自然に愛情を寄せないではいられないからであると思う。われわれは自然に対していつも感謝しながら生命をつないでいる。それゆえに自然を愛するのである。自然を愛するという気持ちは、自然に即するという覚悟でなくてはならない。「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ」という芭蕉のことばのように、自然のふところへわれわれ自体が融けこんで一如といわれる境地をつくらねば嘘であると思う。

われわれが自然を愛するというのは、自分の感情を自然に移入することではない。自分の持っているものを相手に受け入れさせるという行きかたは、つまり自然と人間との双方対立であって、これは西洋式の哲学系に属する。しからば東洋人として生まれたわれわれの考え方はどういうぐあいになるのか、ということを厄介だけれど考えてみようと思う。

われわれが自然に対する態度は、自然と人間との二元的にならないようにして、自然一元の覚悟をもって、われを捨てる。それは自然を愛することによってわれを生かすということであり、そうなってはじめて自然はわれわれにほんとうの喜びを感じさせてくれるのである。自然に即すところにわれわれの生活があり、われわれの俳句の喜びがある。また逆に言うこともできる。われわれの生活に即し、われわれの俳句の喜びに即すところが自然にあって、そこに融けあった一如の境地を生むわけである。一如の境地とは、もののあるがままの世界を楽しむことで、そうゆう境地に到ったときには、ちょうど別天地がぽかとひらかれたような気がして、自然の秘密をつかみ得たと悟るものである。

近ごろは西洋思想に影響されて、日本の最も誇るべき文化さえも陳腐と考えるようになり、何もかもいっさいを西洋式にぬりつぶして新しく見せかけねば承知できないありさまで、大いに混乱を来たしているように思う。変なたとえになるが、鴉は鴉の本性、鵜は鵜の本性を発揮してこそおのおのの存在価値があるというもので、鵜が鴉の真似をしては破滅に陥る。鴉が鵜になるということも、多年の修練、知恵、淘汰を積みかさねた上でなら実現するかもしれないが、一朝一夕に成功するとおもえば大怪我の因である。

われわれのわがままな考えを主として自然を愛すると、どうしても人間と自然とが対立の関係になり、そのまま進んでゆけば自己の主張を押しとおして自然を屈服させるようにもなる。人間の知識力が自然を征服して現代の文化を招来したと得意に酔っているその人間が、自己の知識力に却って脅迫される不安を自分の手で招いているといってよろしい結果をたどっている。現代の不安な社会状態に直面しているわれわれ日本人は、日本人らしく自然を愛するという情熱をもやしつづけなければならないにもかかわらず、むしろ幻惑されてしまって一時的享楽を追い、自然より遠ざかろうと努力しているかにみえる。 それでは自然とは何をさすのか。山川草木だけではない。われわれの周囲そのままが自然と見るのである。かようにありのままの世界を愛すると気分はひろびろする。

芭蕉が「風雅におけるもの造化に随ひて四時を友とす。見るところ花にあらずといふ事なし。思ふところ月にあらずといふ事なし。かたち花にあらざる時は夷狄にひとし、心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄をでて鳥獣を離れて、造化に随ひ造化に帰れ」といっているのは、造化すなわち自然に帰る覚悟を持てと唱えているのである。

花鳥諷詠の精神は、この芭蕉の風雅に従って自然を愛する、すなわち一元的に自然に没入するという真剣な愛情をもって自然を愛することであると私は解釈する。花鳥諷詠を誤解している人が多いためあえてペンをとった。

 
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