2002年10月

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01 赤い羽根つけらるる待つ息とめて

あかいはねつけらるるまついきとめて

みのる: 季語:赤い羽根 毎年、街頭で女学生らの呼びかけの声を聞くと青畝先生のこの句を思い出す。俳句をまなびはじめたころ、この句に出会ってから、今までの力みが抜けたような、そんな気がしたのを覚えています。俳句に技巧は不要、素直な感動と徹底した客観写生。とてもよいお手本ですね。

みすず: 自分で名札など付ける時も、思い返してみれば息を止めていますね。付けてもらう時も、何となく相手の顔を見ないで、その手元を見ている。お互いに息を止めているのかも。何気ない仕草のヒトコマの瞬間を捉えた句ですね。つけ終わってホッとした気持ち、ちょっと面映いような気分で歩み始める様子まで伝わってきます。中七の表現も、こういう表現方法があるのかと参考になりました。

02 矢を書ける秋日の岩にチョークにて

やをかけるあきひのいわにチョークにて

03 海の日のつるべ落としや親不知

 うみのひのつるべおとしやおやしらず

みのる:親不知(おやしらず)広辞苑を引くと、

 波が荒くて、親は子を、子は親をかえりみる暇もないほどの危険な海岸をいう。
 特に、新潟県西頸城(ニシクビキ)郡青海(オウミ)町にある約五キロメートルの
  北陸道の険路にこの称がある。

と、ありますが、おそらく青畝先生は固有名詞として使われたと思います。海の日と詠まれたので、とてもスケールの大きい句になりました。生前の青畝先生にお聞きした話ですが、「つるべ落とし」という季語は、なるべく「つるべ落としの日」と、「日」まで入れて詠むようにと仰いました。この句の場合は、上五に「日」が入っているので、句意は「つるべ落としの日」と同じになるわけです。

れいこ:ありがとうございました。解説が欲しいと思っていたところでした。大きな景が見えてきました。とても勉強になりました。

みすず:昔みた「越後つついし親知らず」という映画を思い出しました。日本海の怒涛が砕け散る、断崖絶壁のような場所に細い道が続いているのです。こんな場所から見る夕日は、きっと凄絶なほどに美しいことでしょう。釣瓶おとしとあるので、それも見る見るうちに消えて行く美しさ。荘厳なものを感じます。

04 案山子翁あち見こち見や芋嵐

 かかしおうあちみこちみやいもあらし

みのる:当時、芋嵐は歳時記に載っていませんでした。先生のこの句が有名になって以降、単独でも季語として使われるようになりました。上5中7は案山子のようすを写生したものですが、下5に芋嵐をもってきたことで、あたりの風情がより鮮明に見えてきます。これは、考えてそうしたのではなく、より具体的に写生するという、日頃の訓練によって培われる感性です。

05 天高くとも風見鶏羽ばたかず

 てんたかくともかざみどりはばたかず

みのる:風見鶏が飛ばないのは当たりまえですね。でもこれはただの報告の句ではないのです。あまりの好天に風見鶏までもが飛びたつのではないか・・・作者はそう感じたのです。微風に身じろいで、いまにも飛び立つばかりの風見鶏の動きが連想できます。この句には、小主観といって、作者の感情がちょっと顔を出しています。これ以上主観が顔をだしすぎるとよくないのですが、小主観を覗かせることで、句に力強さが加わるのですね。でも、これはたゆまぬ客観写生の訓練によって自然に生み出されるテクニックです。

一尾:風見鶏を凝視していると、真青な空に吸込まれたように風見鶏が一瞬視野から消える。催眠術にかかったように。そうだよなあ、風見鶏が羽ばたく訳がないと物わかりよく納得してしまう。飛ばせたら、飛んだらと夢を描かせる楽しい句と読みました。

06 力芝むしりて牧馬肥えにけり

 ちからしばむしりてぼくばこえにけり

みのる:青畝先生は季語を上手にアレンジされるので有名。この句、われわれだと、「馬肥ゆる」という季語を意識するので、「力芝むしりて牧の馬肥ゆる」と、してしまいます。「牧馬」としたことでことばに余裕が生まれ、「肥えにけり」と、言い切ることが出ました。切れ字の効用でとても力強い表現になっていますね。芝を食む馬の元気なふるまいが、より具象化されています。

みすず:力芝が、最初はよくわかりませんでした。芝の一種かなと思ったのですが、偶然、草木花の歳時記で見つける事が出来ました。猫じゃらしをちょっとワイルドにしたような草で、試験管のブラシのような赤い花序を出し、30〜80cmになるとありました。うーん、なるほど、景がより鮮明に見えてきました。生命力豊かな雑草を、むしりとってモリモリ肥えゆく馬、生命力に溢れた句だと思いました。牧場の青い空まで見えてくるようです。

一尾:配合飼料万能の時代、馬が自然と共に生きる姿を彷佛とさせます。草をむしる馬を直接見かけることはすくないが、むしるの一語に馬の力強さを感じました。

07 秋天へ鍼射すごとく塔のあり

 しゅうてんへはりさすごとくとうのあり

みのる:今は焼失しましたが山口県のザビエル聖堂のような気がします。「尖る」というと平凡ですが、「鍼射す」が具体的ですね。

敦風:たぶん洋式の塔、ひょっとしたら教会の塔でしょうか。あるいは日本式の塔ないしオリエンタルな塔なのかも…。鋭く高くそそり立つ塔の形と輝きはあたかも秋の空を射し貫く鍼のようである。作者の立つ敷地から、塔を支える建家、そしてそびえる塔、塔に貫かれる空、という広がりのある情景を、鮮烈に印象的に詠み込んでいる。これが教会の塔、あるいは寺院や神社の塔であるのなら、言外の宗教的な感慨もあるのかも知れません。

こう:鋭角的な一句ですね。塔は秋天に向かって鍼のごとく。一点に凝縮された作者の想い。求める心の純粋さが感じられます。

よし女:このの一句はイメージしやすかったです。山口のサビエル記念聖堂か五重塔を思っていたら、山口県のサビエル聖堂のようで、山口県人として嬉しくなりました。旧聖堂は畳敷きで、パイプオルガンの演奏会やクリスマスコンサートに行った事を思い出しました。今は跡地にモダンな新聖堂が建っています。「鍼射すごとく」がとてもよくうなずけます。

08 鉾立ちし秋嶺の名を疑はず

 ほこだちししゅうれいのなをうたがはず

敦風:祇園祭の鉾が立てられる。その背景には名山たるに恥じない秀麗な秋の山々。華麗な一幅の絵を詠んだのだと思いますが、違いますでしょうか。自分で鑑賞しておいて、首をひねるのもちょっとアレですが、華麗なだけでなく、「秋嶺」には、たとえばものがなしいというような感じもあるのでしょうか。それと、「〜を疑わず」という表現。素人句会でときどき出て来るような。でも、初心者には仲々使いこなせない微妙な言い回しのような気もするんですが。やはり、山々は秋の情趣をたたえたものとして受け取るのが自然なのでしょうね。そういう気がします。これまで秋の趣きなぞを、理屈として受け取ることはして来ましたが、実感としての詩心として、みずから感じる気持ちがマダ薄いものですから、どうしても、つい。

みのる:鉾を立てたように尖っている山容を仰ぎ見て、まことにその名の通りだと諾ったのです。「鉾立山」とか「○鉾山」とかいう名前だったんでしょうね。秋嶺は日の射している部分と影になっている部分の明暗がはっきりしていて、とりわけ凛々しく見えますね。うっすらと秋色に粧いはじめめている・・そんな感じも連想できます。俳句では、鉾立つ、屏風立つ、仁王立つ、屹立、というような形容はよく使われます。

敦風:そうですか。「鉾立ちし」は山を形容する言葉なんですか。常用語を知らなかったわけですね。たまたま祇園祭の「鉾立て」という言葉を知っていたもので。でも、その解釈だと「秋嶺の名」云々とのつながりが自然ではありませんね。反省します。

みのる:敦風さん、反省は不要です。どうぞお気軽に。鉾立てて秋嶺の・・ではなく、鉾立ちし秋嶺の→鉾立ちしている秋嶺・・なので、素直に解釈すれば良いです。当然、作者の中には祇園祭の鉾立てへの連想も入っているから、鉾立ちし・・とされたのだと思います。

09 康成が称へし美林秋の空

 やすなりがたたへしびりんあきのそら

敦風:康成が称へし,と云うのは,「伊豆の踊子」の中で,主人公の学生が天城峠のあたりで見とれる山や原生林,渓谷の景色のことではないでしょうか。あの物語も季節は秋ですね。私は行ったことはありませんが,渓谷沿いに秘湯もあり、杉、桧、栂の美林が茂る中に九十九折の旧道があって、というのが観光案内の一節ですが、青畝師もここを通られ,その景色と物語への感慨を詠まれたのでしょうか。

みのる:小説「古都」に出てくる、北山の杉美林でしょうね。康成の小説は自然描写が巧みで、よく詩人たちの表現のお手本にされます。とくに、「古都」に出てくる北山の描写は有名です。まだ、お読みでない方は是非お奨めします。小説に描かれている素晴らしい北山杉美林の描写の一節を、「康成が称へし美林」という省エネ12文字だけで、連想させるのですから、じつに心憎いテクニックですね。下五に「秋の空」という季語を配して句の焦点を具象化していることに注目して欲しいです。秋の空は、高く、澄んでいますから、真っ直ぐに伸びた杉美林の美しさをいっそう際だたせてくれるのです。こんなふうに説明すると、すごくテクニックの克った作品だと思われるでしょう。そうではなく、たゆまぬ写生の訓練によって、感性が研ぎ澄まされ、自然にこうした佳句を授かるのです。

敦風:ウーン、そうですか。「古都」ですか。「伊豆の踊子」の方はちょっと描写が短くて、殆ど行数がありません。「称へし」にはなりませんね。どうも、安易な方へ流れるみたいですね、私のとらえ方は。勉強します。

10 北浜は沸けど橋上秋の風

 きたはまはわけどきょうじょうあきのかぜ

敦風:証券の町北浜は、相場の動きに人々が沸きかえっているが、かたわらの橋には秋の風が吹いている。人間の世俗の営みと、身に沁みる秋風の情趣とを対照させて興趣がある。・・と云う風に感じました。

きみこ:北浜の株の町は盛況で沸きに沸いて賑わって熱く燃えているが、一般市民には普通の秋が来て橋の上は肌寒い秋風が吹いていている。熱い北浜と橋の寒い秋風を対象にうまく読み込まれている。

みのる:この句が詠まれた時代の北浜には株の取引場があって相場師が活躍して毎日賑わっていたことでしょう。北浜は沸けど・・からは取引場の賑わいを具体的に連想して欲しいです。景気というのも四季の移り変わりに似て、いつまでも好況が続くことはなく、やがて不況がやってくれば、取引場の雰囲気も秋風然とするんでしょうね。橋上の秋風に佇みながら、ふと時の移り変わりに思いを馳せた。と言う感じだと思うので、敦風さん、きみこさん、正解です。北浜が出てくるので、大阪の町並の雰囲気が連想できますね。さらに、沸けど・・と賑やかさを配して、秋風のわびしい感じと対照させた。先生らしい心憎いテクニックです。客観写生によって、作者の主観を漂わせる。青畝先生の仰る、「客観写生で主観を包み込む」というのは、この句のような作り方のことでしょうね。

11 登高や二段跨ぎも易々と

 とうこうやにだんまたぎもやすやすと

きみこ:晴れ渡る山に登れば気持ちも内蔵もみな風船の如く軽やかになってまだまだ若々しく二段跨ぎもらくらくと登れた。頂上から見る景色が素晴らしく心のもやもやも吹き飛んでしまう。

敦風:二段跨ぎと云うと、寺か神社の石段でしょうか。それもわりあいに高く長い・・。たぶん作者お気に入りの道筋かも知れません。澄み切った秋空に誘われるように二段跨ぎで登って行く。「まだまだ若いモンには負けんぞ」・・といった晴れ晴れとした作者の心の声が、登りきった処の境内の空気の中に 聞こえるよう。「易々と」に、作者の弾んだ気持ちが現れていると思います。

光晴:季語と中七以降の措辞の力ですばらしい秋を表現しきっていますね。青い秋の空、まわりの美味しい空気そして下界に広がる豊穣の畑。それらが作者に与えたエネルギーまでも。17文字にこれだけの情景、感慨を込めるとは……。本当にすばらしい!

みのる: みなさんの鑑賞の通りだと思います。易々と・・が上手いですね。歳時記では、重陽(ちょうよう)と同じ所に載っています。ホトトギス歳時記から引用してみましょう。

 五節句の一つで陰暦9月9日にあたる。菊の節句とも呼ばれ、かつては宴を設け、
  酒に菊の花片を浮かべて飲んだりもしたが、現在ではあまり行われない。
  中国では、「登高」といって、この日、丘などの高いところへ連れ立って登り、
  菊花の酒を飲めば災いが消えるということがあった。
  これが我が国に伝わったのが「高きに登る」である。

俳諧的な味のある季語でぼくも好きですが、この季語を使うときの注意を青畝先生からお聞きした覚えがあります。それは、登山の季語に置き換えても意味が通じるような使い方は行けない。ということでした。

12 磯菊やぼうぼうと散る汐しぶき

 いそぎくや茫茫とちるしおしぶき

みのる:初凪さんの好きそうな句ですね

初凪:はい。好きな句です。磯菊は本当に海の近くでしか見られません。光を集めた様な黄色の金色に近い、でも素朴な花です。ごらんになったことのない方の為に。 ここ でご覧になれます。少し荒れた秋の海。小さな港の日溜まりに咲く磯菊。ここは、村の老人達が集まるコミュニティの場所でもあります。昨日の漁のこととか、嫁の自慢とか、お互いの体調の話まで出てきます。時と打ち合わせなくとも、大体みんな集まる時間は決まっています。今日は○○の爺さん遅いなあ、などという人もいたりして・・。ぼうぼうと散る汐しぶき が新鮮な言い方ですね。先生はどちらの海を見て作られたのでしょうね。磯菊は茨城あたりが北限と聞いたことがあります。

一尾:磯菊を紹介して頂きありがとうございます。近くの海岸にはいろいろな花がありますが、ほとんど名を知りません。この機会に植物を調べてみよう。磯菊を点と捉え、しぶきの線そして果てしなく拡がる面の大海原をイメージしました。海は大平洋そして光っていますね。

13 尼君の昔姫君薄紅葉

 あまぎみのむかしひめぎみうすもみぢ

敦風:古くは、高貴な姫君や奥方、とくに未亡人になられた方々が、落飾して尼になられることがよくあり、史書に記録されている例も少なくありません。寺院によっては、代々貴族や皇族の姫君を迎えて門跡とするところもあったとか。尼になればかつての華やかな姫君としての生活とちがって、化粧もせず、男気もないところで質素に暮らすことになるのでありましょうが、いくら地味によそおっても、もとは高貴の姫であってみれば、やはり争われない気品や美しさはおのずからにじみあらわれるものがありましょう。たとえば、千姫は大阪落城ののちに姫路の本多氏に再婚し、のち夫と死別してついに尼になった。もしかしたらこの句はこの千姫を詠ったものかも知れない。「昔姫君」の謂いがぴったり来る人だ。この句は、実際に実在した尼君の、そうした控えた中に自ずと現れるしとやかな気品、美しさという風情を、紅葉しはじめた美しい山の景に、重ね合わせながら詠んだもののように思えます。「尼君の昔姫君」と「薄紅葉」とを対照しての配置は斬新であり、快い感動をもたらしてくれるものであります。「昔姫君」には、若干の軽妙な俳味を感ずる読み方もあるかも知れないが、私はこの句に関しては、あくまで神妙にまじめに読む立場です。

みのる:嵯峨野に祇王寺という尼寺があります。今は亡き前庵主・高岡智照尼のことではないかと思います。

  明治29年奈良に生まれた智照尼(高岡たつ子)は明治41年大阪宗右衛門町にて舞妓となり、
    その後、数奇で華麗な年を重ね、昭和9年、奈良・久米寺にて出家得度。
    同11年京都大覚寺塔頭祇王寺に入庵。平成4年98歳にして示寂。

祇王子の紅葉はとても美しいです。尼君の昔姫君・・で、気品ある尼様の昔のよすがが連想できます。薄紅葉・・は実景ですが、つつましやかな雰囲気を漂わせる、みごとな季語の配置ですね。

14 みよしのの白拍子めく菌かな

 みよしののしらびょうしめくきのこかな

敦風:昨日の「尼君」の句もそうですが、今回の句も、なにか史実を踏まえての詠みなのだろうと思います。今日の句の、「みよしの」、「白拍子」と云うと、私が思いつくのは、頼朝の追及を逃れようと吉野に逃げた義経に同行し、ここで義経に別れ、のちに捕らえられて鎌倉へ送られた静御前のことを思い出します。当時の婦人のかぶった被衣ときのこの帽子の部分とは似通っている、と云えるかもしれません。きのこの様子を、静御前の風情や哀しい物語に重ね合わせて、詠もうとしたものか、と思います。ただ、白拍子が誰をさすのであっても、きのこを「白拍子めく」と詠む感性は非常に繊細であって、私のようながさつな感覚の者には、遠く計り知れない領域のように思えます。

みのる:祇王子に祀られている祇王、祇女は白拍子でした。白拍子について広辞苑をひくと、

 平安末期から鎌倉時代にかけて行われた歌舞。また、これを歌い舞う遊女。
  直垂(ヒタタレ)・立烏帽子(タテエボシ)に白鞘巻の刀を差すなどの男装で歌いながら舞い、
  伴奏には鼓、時には笛・銅〓子(ドビヨウシ)を用いた。
  後に早歌(ソウガ)・曲舞(クセマイ)などの生れる素地となる。
  また延年にも取り入れられて、室町初期まで残った。
 平家一「其比(ソノコロ)都に聞えたる白拍子の上手」

とあります。たぶん、白い梅雨茸のようなのを見つけられて、白拍子の舞う様を連想されたのしょう。厳密に言うと、原句では、みよしのの白拍子・・と言う意味になります。そうではなくて、「白拍子めく→みよしのの菌」ではないかと思うのですが、これだと説明くさい表現ですよね。文法云々ということより、詩としての音律を大切にする・・ということを学ぶべきと思います。俳句独特の言い回しには、文法的には間違い・・とされる表現は多々あります。

15 うつくしき芦火一つや暮の原

 うつくしきあしびひとつやくれのはら

とろうち:さらっと読んでいましたが、「芦火」とはなんでしょうか?芦原で火を焚いているのでしょうか。

みのる:「芦刈」という季語もあり、晩秋から冬にかけて刈り取る。刈り取られた芦は、屋根を葺いたり、葭簀や簾の材料に用いられる。「芦火」は芦の焚き火である。多くは、芦を刈る人たちが芦で焚き火をして、濡れた手足を乾かしたり暖をとったりするのである。夕帷のつつみそめた川堤から、河原で芦を刈る人の芦火の燃える美しい様を写生した。「暮の原」の措辞が非凡ですね。

16 目しひ目をしばたたき酔ふ新酒かな

 めしひめをしばたたきよふしんしゅかな

とろうち:目しひ目というのは「盲目」のことでしょうか。見えぬ目をぱちぱちさせて、つぎに「ああ・・・うまいっ・・・」と感嘆の吐息が聞こえるようですね。

敦風:目の見えない人が新酒を楽しんでいる。「目しひ目をしばたたき」という描写に、新酒を味わっている様子が凝縮されているんでしょうね。酔いも自然に・・・。目は見えなくとも、こうして生きている喜びがあるんだ、というところでしょうか。悲愴にならない人間の快い心持ちが伝わってきますね。「ああ・・・うまいっ・・・」と感嘆の吐息・・・。そうでしょうね。同感です、とろうちさん。

みのる:みなさんも鑑賞しておられるように、句意は明快です。差別用語云々の議論を呼びそうな句ですが、あえて取り上げました。青畝先生は敬虔なカソリックの信者でした。でも、あえてこの作品を残されました。反論があるかも知れませんが、ことば尻だけをとらえて、「差別用語だ!」と批判することに、ぼくはむしろ偽善を感じてしまいます。不用意に差別、差別と力む方がむしろ差別だと思うのです。ことばそのものが差別なのではなく、取り扱う内容だと思います。

17 尾頭をまはしてあそぶ蝗かな

 おがしらをまはしてあそぶいなごかな

とろうち:さぁ、これは分かりません。尾頭というのは一つの言葉でしょうか?「尾頭付き」という言葉がありますよね。うーん・・・でも分からない。あ、でも「おがしら」となってますね。頭をくるくる回しているのかな?分かりません。教えてください!

きみこ:尾と頭をと言うことは体全体をさし、秋の野は草の実が茂り食べ物が沢山あり蝗が飛び回って遊んでいる。

敦風:少し調べて見ましたら、「尾頭」の使われている句に次のようなのがありました。

尾頭の心もとなき海鼠かな  向井去来
尺取虫尾頭ぴたと併せけり  阿波野青畝

どちらも、「尾頭」というのは「尾と頭と」という意味で使われているようです。私は、ここの「尾頭をまはしてあそぶ蝗かな」の句でも、「尾頭」というのは「尾と頭と」という意味で詠われているのではないかと思います。私は田舎の出の人間ですけれど、どうも子供の頃見たイナゴの様子を思い出せませんが、ひょっとしたら、頭も尻尾もぐるぐる動かしていたかも・・・。それはまさに「あそぶいなご」と言うにふさわしく。であれば、青畝師の目はこのイナゴの動きを見逃さなかった、非常に精緻な観察と表現であるわけで・・・。秋の草原の自然の一断面を見事に切り取って描写して見せた句。・・・ということになろうかと思います。

みのる:「尾頭」を広辞苑で調べました。

 お‐かしら【尾頭】ヲ‥
 尾と頭。
 尾から頭までの長さ。

みなさんの解釈で正解です。知らない言葉に出くわしたら、かならず辞書で調べる習慣をつけましょう。想像で鑑賞しても勉強にならないからです。ところで揚句の解釈ですが、実はぼくもよくわかりません。頭を回すような所作は見たように思いますが、尾が回るというのはどうも変な気がします。そこで、尾頭→尾から頭まで・・つまり身体全体と解しました。蝗は多分真っ直ぐ前方にしかジャンプできないはずです。飛ぼうとする方向に身体全体の向きを変えて、それからジャンプする。そして着地したらまた向きを変える・・そんな所作を面白おかしく感じて、あたかも遊んでいるようだというのです。あそぶ・・というのが作者の感動であり発見です。「尾頭をまはして蝗とびにけり」では、報告的になりますね。

とろうち:やっと情景が見えてきた気がします。蝗は玄関や網戸に止まっているのを時々見かけますが、たいていじっとしているので「まわす」というのがどういうことか分かりませんでした。きっとこの蝗はあっちこっちに跳んでまわっていたんでしょうね。蝗は前にしか跳べないし、体も曲がりません。跳びたい方向にいちいち向きを変えている姿を想像すると、「尾頭」という言葉を使ったのもなるほどなぁと思えます。昨日はずーっとこの句の意味を考えてむずむずしてました。やっとつかえていたものが胃の腑に落ちたような感じです。ありがとうございました。

敦風:みのるさんやとろうちさんの鑑賞に賛成です。私の「ひょっとしたら頭も尻尾もぐるぐる動かしていたかも・・・。それはまさにあそぶ いなごと言うにふさわしく」というのは、ちょっと無理でしょうね。青畝先生はどういうご出身なのかなぁ。町の人、田舎の人?

18 豊の田の中に高千穂峡がある

 とよのたのなかにたかちほきょうがある

とろうち:小説の書き出しみたいですね。すらりと詠んでいるのに、目の前に秋の一大パノラマがひらけます。雄大かつ壮大で、今までの今日の一句の中で一番好きです。

みのる:多分これは離陸間もない飛行機の窓からの景でしょうね。高千穂峡を訪ねられ、その帰路の空路のように思います。ついさっきまで吟行していた高千穂峡をめざとく見つけた喜びが感じられます。

とろうち:飛行機の窓からですか。そうするとまた違った風景になりますね。でも思ったこと、感じたそのままがすっと句になったという、つぶやきにも似たこの句はいいですね。

敦風:そうか、「豊の田の中に」は俯瞰図なんですね。目で見た情景なんですね。だから「田の中に」・・・。理屈の上で考えて言ってるんじゃない・・・。わたしも何度か飛行機から「俯瞰」したことはありますが、いいなぁとは思っても、それが言葉になってくれることがあまりありません。感性の訓練が足りないんですね。

19 昆布巻となれりいづくの子持鮎

 こぶまきとなれりいづくのこもちあゆ

きみこ:この昆布巻には子持ち鮎が入っている。昆布巻になってしまった子持ち鮎は、どちらで泳いでいたのでしょうか。昆布は祝い事などに重宝がられる事が多く、昔からありますニシンがおいしく思います。今では鮭が入ったのもありますね。

みのる:昆布巻になった鮎から、その生息地を連想する。俳人でなければ思いつかない感慨ですね。初心者はたいてい季語の説明をしてしまいます。この作品のように、連想の世界を広げていくと、新鮮な句が生まれます。左脳(知識)を使うのではなく右脳(感性)を働かせます。

とろうち:この句を読んで最初に思ったことは「こんなことも句になるのか」ということでした。ほんとに「こんなこと」ですよね。昆布巻きの中身が子持ち鮎だったってことだけでしょう。それが句材になる。左脳から右脳に抜けるってこういうことでしょうか。私も目を光らせねば。

志乃:ちょうど昆布巻きを作ったところでした。揚句、昆布巻きの芯が子持ち鮎ということです。昆布は海のもの、子持ち鮎は山?のもの、この二つが、どういう運命で、このひとつの皿の上に載ることになったのか、昆布や鮎の壮大な物語に思いを巡らせている作者の慈しみを感じます。

敦風:とろうちさんに同感です。同じ物を見ても見る目が違う、同じ物を見ても何を思うか、どういう世界を感ずるか、思い感じたものをどう表現するか・・・。感性の深さの違いを見せ付けられるそういう句ですね。

20 月山かはた白雲か鳥渡る

 がっさんかはたしらくもかとりわたる

ちやこ:「あの山並みは」と思って見ていると「あれ雲のようでもある」。そんなことってあります。でもその手前を行く渡り鳥の姿ははっきりとしています。遠くに広がる静かな背景と手前の右から左へ、または左から右へと飛んでいく鳥たち、そんな情景が思い浮かびます。

志乃:月山は夏スキーができる山です。鳥渡るころには、もう、初雪も見られますが、私はこの句、秋まで残っている月山の残雪と受けとめたいですね。白雲としたことで、雲の厚みを感じるからです。残雪とみまがうようなのっぺりとした白雲。また、空は大抵青く、雲はたいてい白いけれども、月山にかかる「白雲」には、明るさがあります。雪が降っているときの空は鈍色(にびいろ)だもの。渡り鳥が、月山の雪ともまた晩秋の雲とも見える白さにさしかかった、その瞬間を切り取った句で、詠み手と鳥との距離、色の対比の鮮明さが、読み手にも見えてるような大きな句です。

みのる:志乃さんのふるさとは山形でしたね。的確な鑑賞お見事です。月山は、湯殿山、羽黒山とともに出羽三山と呼ばれ山岳信仰の山として有名です。月山はその主峰2,000m。春の「鳥帰る」頃は、「鳥曇り」という季語もあって、曇りがちであるが、秋の「鳥渡る」には明るさがあります。月山か・・と切り出しているので、作者には月山と判別できているように思います。遙か雪をかぶった月山が、白雲のようにも見えると感じられたのでしょう。青畝先生は「ことばの魔術師」といわれ、昭和の4S(誓子、秋桜子、素十、青畝)と言われた虚子門のなかでも、俳諧的なことばの扱い方は抜群でした。「月山の白雲めくや鳥渡る」。普通ならこの程度にしか表現できないものを、ここまでに推敲することは、とうていわたしたちには出来ませんが、青畝師の作品を研究することで、これを吸収し、真似ることは出来ると思います。

21 黄落の覇者として大公孫樹立つ

 こうらくのはしゃとしておおいちょうたつ

こう:ウーム・・と唸ってしまう。黄落の覇者・・言われてみれば、言い尽きている。大公孫樹立つ。きっぱりしていますね。し過ぎていないかなぁ・・と前、後ろと眺め廻す。ビクともしない。ウーン、やっぱり大きいわ。

ちやこ:まず大公樹がおおいちょうとは、私は初めて出会った言葉でした。さて、黄落の覇者とはどう捕らえたらいいんでしょう。鮮やかな黄色い葉っぱをわんさと落としてすっくと立つ「はだかんぼう」の大銀杏の木なのか、はたまた、どの紅葉より見事な大銀杏がその黄色い葉を一杯に付け、他の木々を寄せつけぬほどの様子なのか。どちらにしても「我ここにあり」と勝ち名乗りを揚げ他を圧倒する大銀杏の姿を感じます。

敦風:秋、木々の葉が黄色に変わって行くうちで、ひときわ偉容を誇る大公孫樹が、沢山の黄色の葉をつけてそそり立っている。「黄落の覇者として大公孫樹」を、言葉通り受け取ると、黄落するものはいろいろあるとしても、その中の第一のものつまり覇者は大公孫樹だ。最も偉容を誇っているものとしての大公孫樹が目の前に見える。・・・ということを云っているんじゃないでしょうか。で、ちやこさんのおっしゃっている、葉っぱは落ちてしまっているのか、まだ付いているのかについては、「黄落」 というのは、「落」なんだから散りつつはあっても、まだ沢山の葉っぱが木についたまま黄ばんでいく。その様子の方に目が行っている、そういう気持ちを、どちらかというと、主に詠う言葉ではないかと思うし,、ここでは特に、「立つ」という語感も、葉っぱが全部、あるいはほとんど散り落ちてしまっていては、あまりそぐわない表現ではないかと思えます。「覇者として立つ」という表現で大公孫樹の黄落を形容したのが素晴らしいと思います。私は、「覇者」というのは、ある程度大きさ的なことを言っているように感じますが、黄落のなかの黄落、つまり黄落と呼ぶにもっともふさわしいという質的な意味合いもあるのかもしれませんね。

きみこ:秋も深まると、野も山も色づき始める頃いちはやく大きな公孫樹は、黄色の鮮やかな色にと変化していく、大きく目立つて立っているので遠くからでもその木だということがよくわかる。

とろうち:「黄落」は「こうらく」と読むんですね。私はずっと「おうらく」と読んでいました。私がこの句から思い浮かべた光景は、一本だけすっくと立ったイチョウの木。周りにも色づいた木々はあるんだけれども、それらを睥睨するかのようにまっすぐ空に向かってそびえたつイチョウの木でした。イチョウって楓などのように優しげな木というよりは、雄雄しい男性的なイメージがあります。しかも銀杏ではなく公孫樹という字。楓がもみじの姫ならば、公孫樹はまさに覇者なのかもしれません。

一尾:佐江衆一の小説「黄落」の最後のページに「黄落の欅の巨木も、厳しい冬の間、めぐりくる春爛漫の季節をひっそり待っていたのだ」とあります。ひょっとすると小説家はこの句を読まれていたのでは。黄落は決して終りではなく、始まりなんですね。それを幾たびも繰返してきたのが生ける化石と云われる銀杏でしょう。そこに立つ瞬間を詠まれて、永遠の生命に思いを馳せられたのではと思いました。

みのる:公孫樹と書いて、いちょう(銀杏)と読むのは、ぼくも俳句を始めてから知りました。どちらを使うかは好みですが、「銀杏」は、「ぎんなん」とも読めるので、樹木を連想させたいときは、「公孫樹」を使うのも良いですね。さて、覇者ということばは、勝利者という意味もありますが、この句の場合は、王者のほうだと思います。森林公園あたりで詠まれたと思いますが、みごとな銀杏の大樹なのでしょうね。秋晴れの蒼天から黄葉を散らす大銀杏はまさに王者と言えます。覇者という印象が授かるまで、じっと銀杏を観察された先生のお姿が目に浮かびます。「見たままを即物的に写生するのではなく、心が動かされ具体的な感動が湧くまで、我慢して頑張る。」紫峡先生から繰り返し聞かされた教えです。

22 鵙の贄めきて軍手の刺されけり

 もずのにえめきてぐんてのさされけり

ちやこ:ごめんなさいお手上げです。どなたか助けてください。贄という言葉も今日始めて知りました。まるで鵙が捧げ持って来た贈り物のように軍手が枝に刺さってるんでしょうか?

たけし:鵙の贄かと思って近くへ寄って見たら、家人が庭仕事で使った軍手を洗って木の枝に干しているのだった。いくらなんでも軍手と鵙の贄とを見間違えるなんて、大きさも随分違うのに、わしも年をとったものだ。ちょっと深読みし過ぎかな?我が家の信州の庭では柿ノ木の枝に鵙が蛙を刺していました。11月の末に見つけて翌年の3月末になってもそのままなので、埋葬してやりました。

れいこ:たけしさん、鵙の贄を見られたことがあるなんてすごいですね。今ではなかなか見られない光景ではないでしょうか。でも、軍手が干されているのを鵙の贄と見られたとは、すごいですね。みのるさんの言われている「見たままを即物的に写生するのではなく、心が動かされ具体的な感動が湧くまで我慢して頑張る。」とは、こういうことなのだろうと思います。ただ、庭に軍手が干されていただけでは、詩になりませんものね。情景描写するだけでなく、感じるまで待てる余裕を持ちたいとおもいます。

ちやこ:鵙の速贄と言う言葉があるんですね。全く様子が分からなかった句の情景が見えて来ました。れいこさんのおっしゃるように、軍手が刺さっているたったそれだけの光景からこんな句が生まれるなんてすばらしいですね

ほとり:このページにはじめて書きます。すごいですね、毎日一句を学ぶことができるなんて。今日は鵙という漢字、野鳥図鑑サイトから鵙の姿形、はや贄という習性など一度に勉強してしまいました。近所の菜園などで、よく軍手が柵にひっかけられて天を指している光景にぶつかります。面白い句にできないかなと思っていましたが、鵙の贄と詠むなんて。生き物でないはずの軍手にまで、命が感じられてくるから不思議です。

みのる:合評が賑やかになってきて嬉しいです。「鵙の贄」は「鵙高音」とともに、季語として定着しています。状況はたけし解で正解。でも、見紛ったのではなく、枝に刺された軍手があたかも鵙の贄のようだと感じたのです。「鵙の贄めきて・・」の表現でそれがわかります。鵙は贄を忘れてしまうことも多いようで、ミイラ化したのがよく見られます。古びた軍手も取り忘れられたように乾いていて、干からびた贄にそっくり・・・そんな風に連想できますね。この句のすごいのは、軍手が刺されているのは庭木の枝だとは一言も言っておりません。でも、鑑賞する側にはそれがわかりますね。「鵙の贄」と言われたことで、知っている人には具体的に情景が浮かぶからです。吟行で句ができなくても、いろいろ見たことをしっかり記憶しておくと、それが次の吟行の時にその記憶が甦って一句を成す・・こうゆうことはよくあります。健康が守られている間にしっかり吟行に出かけ、いろんな情景を記憶に刻むことが大切です。高齢になって外出もままならないほどに足弱になっても、あまたの記憶、体験に基づいて写生句を作ることが出来ます。これはものを見ないで想像だけで作る虚構とは違うのです。

とろうち:私は軍手の刺さっているのは竹のような細い竿の先だと思っていました。細い竿先が軍手の指一本に入り込んで、その指だけがつんとしている。あとの四本はだらりとしていて、その様があたかも脚を伸ばして刺さっている贄の蛙やバッタのようだったという意味にとっていました。これもなんてことのない風景なんですけどね。うーむ、勉強になります。

みのる:あんがい、そうかもしれません。

こう:刺されけり・・が面白いと思いました。干されけり・・では、つまらないです。その、違いが感性と訓練なんですね。

志乃:この句に詠まれた軍手物語。志乃編。作業の途中に、泥で汚れた軍手をちょっと脱いだのです、煙草を吸うとか、種をまくとか、、軍手をしていては不具合の、細かい作業をするために脱いで、なんの気もなく、ひょいとかたわらの木の枝に掛けおいたのです。そしてその軍手はそのまま忘れられて、日照りや風雨に繰り返しさらされたのです。濡れて、乾いて、縮んで、突っ張ってほろけたのです。まるで干物のように…とわたしは見ました。この、木の枝の皮に同化してしまったようなほろけた軍手の残骸?は、持主が忘れてしまったようなころになって、作者と出会って、俳句に詠まれて蘇ったのですね。探し物をするように見なくては拾えない句種ですね。すごい句ですねえ。

とろうち:確かに泥の軍手はがびがびになりますもんね。贄も真っ黒でゴムみたいになってるし。いろいろな軍手物語ができますよね。読み手によって幾百ものストーリーができる、これが俳句の醍醐味なんでしょう。

23 緋連雀一斉に翔ってもれもなし

 ひれんじゃくいっせいにたってもれもなし

たけし:大きなクロガネモチの木の真っ赤に熟れた実に群がっていた緋連雀の群れが、何に驚いたのか一斉に、一羽の洩れも無く飛び立った。30羽はいたろうに、シベリヤからはるばる渡ってくる冬鳥らしく、見事なものだ。一体となってまさに天を翔けている。どうも驚かしたのは、あのかまびすしく鳴いている二羽のひよどりらしい。実はいっぱい有るだろうに、ひよのごうつくばりにも困ったものだ。ひよがいなくなったら戻ってこいよ。

ちやこ:野鳥図鑑で緋連雀見てみました。残念ながらわたしは、見たことが無さそうです。こんな鳥が群れていたらびっくりします。私だったら何か得したような気になるかもしれません。でもあっ思った瞬間には羽音とともに一羽たりとも残らず飛び去ってしまうのでしょう。そう言うことは他の鳥でもあるかもしれないけれど、緋連雀だからより鮮烈な気がします。

ほとり:私も野鳥図鑑サイトで見ました。美しい鳥ですね。でも、この句のよさがよくわかりません、どなたか助けて下さい。景は鮮やかに見えてくるのですが、中七でなく中八となっている必然性、「もれもなし」が駄目押しのように感じてくどい気がするのと、この下五の響きがもったり重たく聞こえるのですが・・・。馬鹿丸出しの質問ですが、よろしくお願いします。

敦風:私も,ほとり さんのおっしゃるように,「一斉に立つて」の8音が 不思議です。すくなくとも,普通に読めば誰が読んでも この中8は 何となくぎこちないリズムになりそうな気がします。「一斉に翔って」と言うことによって,緋連雀の飛び立つさまを より歯切れ良く表現したものなのでしょうか。

よし女:以前、野鳥の会の方から連雀の話を聞いて一度見たいと思いながら、群に出会うチャンスがありません。動物園では緋連雀・黄連雀ともにお目に掛かってはいるのですが。講談社版日本大歳時記で調べてみました。要約します。

  北からの渡り鳥。雀より幾分大きく全体は淡い褐色、冠毛あり。尾羽の色で緋連雀と
  黄連雀の二つを判別。群生し、大変可憐な感じの小鳥。寄生木(ほや)の実を好んで
  食べる事から「ほや鳥」の異名あり。

そして、青畝先生のこのお句が例句に載っていて嬉しくなりました。雀やあとりなどでは一斉に翔ったと思っても、葉隠れに残り組みがありそうですが、緋連雀は美しく目立つ鳥なので、一斉にすべて翔ったことが一目瞭然で、その様子を「もれもなし」と表現されたのだと思います。緋連雀の生態と周囲の風景がイメージ出来て、美しい見事なお句だと思います。 蓬:緋連雀の群を枝に発見するだけでも大感動だと思います。ほう、一斉に飛び立つ習性があるのか、それを見てまたわくわく。しかしもっとよく見たかったのに、残念いち羽残らず行ってしまったのか。青畝先生はこんな単純な感慨をお持ちになったのではないでしょうが、私レベルでのこの様な心の動きも想像することのできる、素敵な句だと思いました。

ほとり:皆さんの色々な評を読ませていただいて、緋連雀がとっても身近に感じられてきました。へそ曲がりの私には、句の方はまだひっかかりを覚えますが、何ヶ月か何年かしたら素直に「いいなあ」と思えるかと希望をつないでいます。

とろうち:私も緋連雀というのは見たことがありませんで、野鳥図鑑サイトで調べました。歌舞伎系の鳥というのがなんとも。この句は額面どおりに読んでいいんですよね。一斉にたつ鳥なんて鳩か雀くらいしか見たことありませんが。歌舞伎系の鳥が一斉に立つのはさぞ壮観でしょう。

一尾:あるとき緋連雀が電線に20〜30羽、これは珍しいと写真機を取出す間もなく一斉に翔ってしまった。そこまでは同じですが、もれもなしとは感じもしなかったなあ。ここまで詠み切らないことには単なる報告か、余韻を楽しまなければと勝手に鑑賞しました。

みのる:青畝先生の代表作の一つです。黄連雀はよく見かけますが、緋連雀はぼくも見たことがありません。中八は、朗詠の仕方で字余りにはなりません。一斉に・・を四字の感じに詠むのです。緋衣が風に翻るように、一瞬のうちに群をなして飛んでいく連雀の様子が具体的です。「もれもなし」とは、言えませんねぇ〜。

志乃:どうにも気になる句で、しばらく考えていました。気になるのは、中八「一斉に翔って」。やはりわたしは、ここは八音で575の定型からはちょっとはみ出していると思うのです。しかし、無論、初心者のようにうっかりや、どうにもおさめられずにというのではなくて、むしろ、作者の、余る思いが意識的に篭められた八音なのではないかと想像します。緋連雀、、渡り鳥で、群れをなして飛ぶ賑やかな鳥です。荒川河川敷で数羽を見たことがあります。一斉にとは、かなりの数を指しましょう。団体です。それが、翔ってもれもなし、というのです。号令かかったように、ですね。行軍をイメージしてしまいました。中八は、ああひとり残らず、みんなみんな、という寂寥感、喪失感が詠まれているのではないでしょうか。雀ではなく、連雀でもなく、「緋」連雀だからこそ、目前から遠ざかったときの寂しさが煽られたのだと・・深よみかな。

24 黄鶺鴒湯女身じろげば逃げ去りし

 きせきれいゆなみじろげばにげさりし

とろうち:この鳥ならば見たことがあります。水辺によくいたりしますよね。露天風呂でしょうか。あ、きれいな鳥、と体を動かしたとたん、ぱっと飛んでいってしまった。あーあ、行っちゃったというところでしょうか。時間は朝。黄色が鮮やかです。

ちやこ:鳥が続きますね、野鳥図鑑が大活躍です。湯女ってどんな風な人なんでしょう。彼女は全然黄鶺鴒のこと興味がないのか、気が付いていなかったんでしょうね。何気なく身動きをしたのに、黄鶺鴒は過敏に反応して飛んでいってしまったという感じかな。『おっ黄鶺鴒か』と息を飲むように観察されていた先生は黄鶺鴒が飛んで行ってしまった原因が、湯女のちょっとした動きだったことも見のがして無いんですね。

ほとり:黄鶺鴒って小さくて敏捷、すっと長く伸びた尻尾(尾羽ですか)が格好いいですね。湯女、これも初めて知った言葉ですが、はんなり、まったりしたイメージと対照的。湯煙の中を黄色が飛び去った一瞬の景が本当に美しいです。

たけし: 秋、一人早めに宿に着いた。部屋に通され仲居からお茶の接待、世間話をしていると、庭の池の周りに黄鶺鴒が飛んできた。ツンツンツンツン尾を上下に振りながら石の上から苔の上と忙しく遊んでいる。手振りで仲居のしゃべりを止め、可愛いしぐさにしばらく見入った。仲居が目で“どうぞごゆっくり”といいながらかすかに腰を浮かすと、もうそれだけで、臆病な黄鶺鴒は逃げていってしまった。また帰ってこいよ。

一尾:この句、始めに目のいったのは湯女。そこで字引にお世話になりまずは安心。それでも人は誰でもよろしいのではなく、何となく湯女が曲者です。やはり温泉それも湯治場の雰囲気ですね。黄鶺鴒もよく見かけますが、背黒鶺鴒同様すばやい飛翔に感心する小鳥です。

みのる:湯女は温泉宿の仲居さんのことでしょう。ですから、この句は温泉町の宿場での一点景です。鶺鴒は水辺に遊ぶ小鳥なので、宿の庭とか町川の畔での写生でしょう。下5を「翔ちにけり」ではなく「逃げ去りぬ」とされたところが非凡ですね。これによって、作者の小動物に対する愛の気持ちが感じられます。みなさん、なかなか鑑賞が上手になってきました。作品の情景を解説をするだけでははなく、連想を働かして個性的な鑑賞を志してみて下さい。互いに刺激になって楽しいと思います。歳時記、辞書、図鑑で調べる習慣をつけることも有意義です。頑張ろう!

25 籾かゆし大和をとめは帯を解く

 もみかゆしやまとをとめはおびをとく

敦風:収穫の季節のころ、農作業中の若い女性が、着物の中に籾が入ったのか、カユイので着物を脱ぐ・・・。「籾かゆし」と簡潔に言い、「大和をとめ」と言い、「帯を解く」という。絵に見える。様々に読者に想像させる。なんとも風情のある情景を詠んだものだ。「大和をとめ」は 表面上は奈良地方のことを言っているのだろうけれども、作者の心は大和撫子ぜんぶに思いが至っているのかも知れない。「大和をとめは」の「は」も、何やらきっぱりとして快い。何と言っても「帯を解く」がうまいと思う。なにも難しい言葉や言い回しを使わなくても、ここまで詠めるという見本のように思えて・・・。

たけし:昭和40年代の秋の大和路での一点景、苅田での脱穀作業。エンジン付の脱穀機に中年夫婦と若い娘さん。女性2人はもんぺに姉さん被り。男性が稲束を脱穀機に入れると、排気ホースから籾ほこりが結構派手に飛ぶ。女性2人は稲束の運搬と籾の袋詰め。休憩時、エンジンが止まった静寂の中、女性2人が姉さん被りをとって襟元をはたき合っている。若い娘さんはお嫁さんだろうか、健康的な美人、笑い顔が可愛い。あらあら、もんぺの紐までほどいて中に入った籾ほこりを落としている。秋うららの大和路散策の甲斐があった。

ほとり:農村の風景とは無縁の団地に育ったので、皆さんの評をうかがって生き生きと景が見えてきたのがうれしいです。「大和をとめは帯を解く」が舌になんとも感じよく、忘れられない句になりそうです。

ちやこ:籾が着ているものの中に入ってしまって痒いと、あっけらかんと帯を解く農家の娘さんを見て、びっくりしながらも微笑ましく捕らえている感じがします。「籾かゆし」と「大和をとめは帯を解く」の意外な取り合わせが楽しいと思います。

きみこ:稲架にかけてある稲を肩に背負い稲こき機まで運んでいって背中が痒くなった。籾が入ったのでしょうか、女の人はしばらく掻いていたけれどなかなか収まりそうにないので、とうとう我慢しきれなくなったのか帯を解きだした。

みのる:奈良県の高取町というところに青畝先生の生家があります。何度か訪ねましたがとても素朴で素敵なところでした。生家には先生の句碑が建っています。

虫の灯に読みたかぶりぬ耳しひ児  阿波野青畝

大正六年の作品です。先生は、少年時代に耳を悪くされ、生涯を補聴器とつきあわれました。高取町は大和平野の東南端に位置し、東は高取山、南走して芦原峠、船倉弁天山の連峰をもって吉野郡大淀町に接し、西は曽我川の清流を境として御所市に接し、北は貝吹山を境として明日香村・橿原市に隣接します。 最近は機械化が進んで、揚句のような情景は見られなくなりました。わずか十七文字の表現から、鑑賞するひとりひとりに、それぞれ違った連想と感動を伝える。俳句は実に簡単に作れるのに奥が深い。素晴らしいですよね。と、いうことで今日は全員合格です。

26 一刀のもと香を放つ初りんご

 いっとうのもとかをはなつはつりんご

ほとり:「もう、りんごの季節だな。おいしそう。」ナイフを切り入れるや、ぱっと爽やかな香りが立つ。「ああ・・・りんごならではのこの香り、久々だなあ。」 最近、幾度りんごを切り分けたかわかりません。でも、こんな瑞々しい句なんてひとつも浮かびませんでした。「一刀のもと」の表現が見事にきまっていますね。

光晴:句を読むと言うより見た瞬間、りんごの香を感じる句ですね。子供の頃、林檎は、皮を剥かずに割って食べた記憶があります。この句もおそらくは皮も剥かずに林檎園で、半分食えや、と渡されたのでは。久しぶりに、りんご、丸かじりして見ようと思います。

よし女:「りんごかな」ではなくて「初りんご」がいいてすね。一刀のもとによって初りんごの香がいまここで匂っているようですね。平明で分かりやすく、好きな句です。

ちやこ:切るまでは、気が付かぬほどだったのに、スパっと包丁で真半分にした瞬間、その紅い実の中に閉じ込められていた甘酸っぱい香りがひろがり「ああ今年も秋が深まったなあ」と感じる。りんごに対して皮を剥くのではなく「一刀のもと」と言うのが面白いと思います。なんだか切る時の音も聞こえてくる様で、初りんごのみずみずしさが伝わってきます。

たけし:今のりんごは、ふじ、つがる、ジョナゴールドなどが全盛だけど、子供の頃の記憶は紅玉・国光・祝・インド・ゴールデンデリシャス・スターキングなど。毎年まず出回るのは紅玉、小ぶりですっぱくて、かぶるとりんご!という香り、今のふじはおいしいけど、紅玉の香りの記憶には及ぶべきも無し。また紅玉は皮むきの必要無し。ということで氏の食したりんごは紅玉に特定したいのですが・・・。次、りんごを食べるのはどこ?家の中なら包丁使うところと食べるところは大体別、よってこの情景は戸外、弁当持参ハイキング的吟行での事、一刀を使うのは志乃さん、氏はま近くで切り分けてくれるのを待っている。今年の初りんご。ところで、今時のふじを食する時、皆さんは皮を剥いてから切り分けますか?それとも切り分けてから剥きますか?。以上長野県育ちりんごの皮むき5段格のたけしでした。

とろうち:実家にいるときは皮をくるくると剥いてから切り分けていました。今は切り分けてから皮を剥きます。この句ではまず一刀、スパッと真半分に切るわけですね。その時に微かなしぶきと共に甘酸っぱい香りがふわっと鼻先にきます。分かります分かりますその感じ。私がやる時は、まな板のすとっという音がします。義母がやるときはまな板は使わず、手の上でやってしまいます。鼻への距離が近い分こちらのほうが実感かもしれませんね。

みのる:一刀の・・の措辞は、一刀両断・・ということばを想像するので、まな板かお皿の上で真二つに切られたリンゴを連想します。よし女解のとおり、下五の「初リンゴ」がこの句の命になっていると思います。表現は語彙の豊富さとかテクニックとか経験に基づくもので、先人の方が上手いのは当然です。これは、上手に真似て盗めばいいのです。面白いことば、言い回し、リズム、落ちのつけかた・・などですね。そして、この合評の学びで一番大切なことは、「動かない季語づかい」です。

  • 一刀のもと香を放つリンゴかな
  • 一刀のもと香を放つ西瓜かな
  • 一刀のもと香を放つメロンかな

やっぱり、初リンゴが不動だと思うでしょう。

27 石榴のみ破裂したりし轍かな

 ざくろのみはれつしたりしわだちかな

たけし:今時日本中津々浦々まで、農道まで舗装されちゃって、最近お眼にかかった轍は八ケ岳登山道、浅間山登山道、スキー場の雪道ぐらい。という事で、轍を詠っている今日の1句は昭和30年代の作と推察します。轍はあまり深くなるとハンドルを取られる事があるので、ドライバーは出来るだけ轍を避けて運転します。交通量が多かったり、歩行者がいるとそんな事言ってられないけど。情景は秋の朝、夜通し吹いた強風が収まった寺道の散歩、木の実拾いの狙いあり。石榴や他の木の実が塀越しの木から道に落ちて轍のなかに転がっている。どれも車に轢かれてないけど、石榴だけは熟れてはじけて、車に轢かれて破裂したよう。車もあまり通らない道の、のどかな秋を詠ったもの、ではないでしょうか。

ほとり:ぱっくりと口を開いてルビー色の実を覗かせている石榴。「破裂」としたことで、強い勢いを感じます。「石榴のみ」ということは、他にも色々な実や何かが轍には落ちていたのでしょう。走り去って行った車と、転がっているものの強い力を秘めている石榴の取り合わせが妙ってところでしょうか。まだこの句のよさを心からわかってはいないと告白します。

よし女:一読してイメージが浮かばず、難しい句だと思っていました。破裂したり・・しの「し」を上の語の強調と解釈して、少し間を置いて、轍かなとなると、解るような気もします。たけしさんの解説がヒントでした。石榴のみは、石榴の実でしょうか?

とろうち:同じく難しいと思いました。近所にからたちの木があり、落ちた実はじきに車に轢かれてつぶれてしまいます。なのになぜ石榴だけが割れているって、なぜ?で、思うのに、きっとこの道は車など滅多に通らない道なのでしょう。山道、轍の上に団栗などが落ちている。その中で石榴だけがぱっくりと口を開けていた。自然に割れたのか轢かれてつぶれたのかは分からないけれど、石榴の実の痛々しいほどの鮮やかな赤が「破裂」という強い語を使わせたという気がします。まるで石榴が命あるもののように思えるのは、実の赤が血や内臓のように感じてしまうのです。穿ちすぎでしょうか。

敦風:なるほど、たけしさんの鑑賞を参考にすると、時系列的には、轍ができた。木の実が轍の中に落ちた。それら木の実のうち、石榴だけがはじけた。それを作者が見た。と云うことですか。 そして、「車もあまり通らない道の、のどかな秋を詠ったものではないでしょうか」という鑑賞。 これなら「石榴のみ」と言っていることのつじつまも合うし、分かったような気がしますね。 目に見えるもの、作者の詠んだ景そのものによって、作者と同じように感動できるようになりたいものです。

れいこ:とろうちさんのコメントを読んでなるほどと思いました。そうかもしれないなあと。でも正直、よくわかりません。

みのる:ちょっと難解な句ですね。ごめんなさい。この句の何処がよいのか、実はぼくもよくわかりません。そんなに頻繁に車の通らない山道だと想像できます。4輪が通ると言うより、小型の農作業車の轍かも知れません。石榴のみ・・という表現で、他の木の実もたくさん散らばって落ちているようすがわかりますね。このへんの写生はテクニックとして学べます。さて、ぼくは車にしかれた石榴ではなくて、落ちて割れたんだと思います。他の木の実は割れていない。石榴のみ・・なのです。車がしいたのであれば、他のも破裂するでしょうし、当たり前ですよね。そんなに名句とは思えないけど・・(青畝先生ごめんなさい)省略の効いた写生術は学ぶところがあります。

28 にぶき刃も鶴の子柿は剥き易し

 にぶきはもつるのこがきはむきやすし

たけし:鶴の子柿は熟しても身が固いんだと思います。固ければ少々のなまくら包丁でも皮むきし易い。初めて干し柿作りに挑戦して、鶴の子柿の身の固さに驚いた感動をそのまま詠った句ではないでしょうか。鶴の子柿のネット情報

  楕円形の小粒の渋柿、青い実の状態では柿渋の原料、熟して干し柿の原料。京都、奈良
  に多いが、全国的にはマイナーな生産量。宇治田原町では特産の古老柿の原料に鶴の子
  柿を使う。刈入れの済んだ田んぼでの天火干し風景は晩秋の風物詩。

れいこ:昨日の句に続いて、これもまた私にはよくわかりません。文章のように思えて。どなたか適切なコメントをお願いします.。今までの句も、みなさんのコメントが付くたびにああそうかと納得し、読みが深められてきました。毎日とても勉強になっています。このコーナーを作ってくださったみのるさんに感謝しています。

ほとり:鶴の子柿を見たことがないので、私もこの句が全くわかりません。たけしさんの評を読ませて頂いて、そうかと思いましたが、しょっちゅう切れない包丁を使っている自分としては、柔らかい実の方が包丁いらずの気もするし。れいこさんと一緒に「ヘルプ!」と叫びたいです。

とろうち:鶴の子柿は私も知りません。雑誌で見たような覚えはあるんですが。渋柿とのことですが、私もよく干し柿をしたので想像するに、渋柿は固いんですよね実が。それと柿はりんごなんかに比べると遙かに皮をむきやすい。実際皮むきの練習は柿でしたものです。で、「にぶき刃も・・・剥き易し」なんではないかと。渋柿を剥く時は渋がつくので下に新聞紙を敷いたり、ひょっとしてこの句だと外でむいてるのかもしれません。包丁も研いだぴかぴかのものではなく、小さめの万能包丁とか。ちょっと切れ味はイマイチだけど、柿をむくならこれで十分だよ。ほらくるくるくるくる・・・なんて素朴なものを想像しましたが、さて?

敦風:死んだおばあちゃんが作っていた干し柿は、あれは鶴の子柿だったのかナァ。それとも・・・。 柔らかいと剥きやすいのか、固いと剥きやすいのか、おばあちゃんに聞いとくんだった・・・。

みのる:みなさん悪戦苦闘ですね。昨日に続き、ぼくもよくわからないんです。どなたか博識な方が教えてくれないかと・・揚句の鶴の子柿は、干し柿にするために農家の人が大量に、手際よく向いておられる情景のように思います。干し柿にするときは、熟したものを皮むきすると思うけれど、そんなに軟らかくなってからではないですよね。たぶん普通の柿と変わらないと思います。で、たぶんその形のことを言われたのではないでしょうか。お饅頭形ではなくて、おむすび形なので剥きやすい・・自信ありません。11月用の句を選んでいます。なるべく解りやすいのを。

敦風:むきやすい形・・・。うーん、これは説得力あるなァ。

とろうち:山梨の甲州百目柿も大型のおむすび型です。一人が包丁でへたのまわりをくるりと剥き、別の人がピーラーでシャッシャッと剥くのがてっとりばやいです。ちなみに柿は固いほうが剥きやすいな、熟しちゃったのよりは。

志乃:この「にぶき刃」ではトマトの皮は剥けないわ。鶴の子柿とは、きっと、掌にほどよくおさまる堅さで、流線型の美しい形をしているのですね。そこへいくと、平種無し柿などは、四角くて曲線が小さくてむきにくいです。

29 くちづけとおもひ吸はるる熟柿かな

 くちづけとおもひすはるるじゅくしかな

たけし:熟柿を小皿に載せ、身くずれしないようにそーっと皮を剥いで、口を近づけて吸い取る。思い出すだけで口につばが溜まります。食べているのは妙齢のご婦人、「キッスしてるみたい!」なんて軽口しながらかぶりついています。とのおもいは、食べる人の側から、吸はるる、は熟柿側からみた言葉でしょうか?師は「吸はるる熟柿」をうらやましく思っています。

志乃:わかった。鶴の子柿は堅いんだわ。

ほとり:自分だったら単純に「くちづけのごとく」としてしまったと思います。「とおもひ」なんて逆立ちしたって出てこない表現です。こういう言い方で俳句をつくることもできるんですね。しかし、なんという悩ましさ。

敦風:私なら、そもそも「くちづけ」などということに想い到らないでしょうね。青畝師がご自分でそういう風に想われたのならこれはスゴイ発想と描写だし、もし、食べている人、たけしさんの鑑賞では妙齢の婦人ですが「キッスしてるみたい!」と言ったのなら、大変いいことを詩人の前で言ったことになると私は思います。それから「と、おもひ」は「食べている人が」であり、そして「吸はるる」は「柿が」であるというのは、もっともかも知れませんが、どちらも「柿が」だとしたら、更に面白いような気もします。でも、それだと、ちょっと、思い入れが大きすぎて、 行き過ぎた擬人法的だということになってしまうンでしょうか。実は私は、最初にこの句を読んだときは、「とおもひ」も「吸はるる」も「柿が」だと思ったんですよ。意味的な解釈の議論を別にすれば、文章上は、そうとる方が自然のようにも思えます。)

とろうち:私は今でも「思っている」のは柿であり「吸はれて」いるのも柿だと思っております。さて、食べているのは男性か、はたまた女性か?私は熟柿を食べる時はまるごとかぶりつくので「くちづけ」なんてことばは逆立ちしたってでてきやしません。だいたい最初に歯で食い破っちゃうし。幸せな熟柿でありますね。大和をとめの句といいこの句といい艶っぽいですねぇ。もうちょっと歳を重ねれば、こんなふうに詠めるかしら。

蓬:私も柿が思って吸われている、という意味かと思いました。熟柿のへたのところを持って、尖ったところから吸っていると、あまり綺麗な景色ではないけれど、柿にしてみればくちづけと思っているかも知れぬ。と、先生は柿を吸いながら感じられた、というのは如何でしょう。柿の気持ちになれるのは、詩人の特権でしょうか。

敦風:おやおや、私はおそるおそる言ってみたのに、とろうちさんも、蓬さんも、きっぱりと、 「思ふ」のも「吸はれる」のも「柿が」だと、おっしゃるのには実は少々驚いています。青畝先生は、どっちの積りで詠まれたんだろうなァ。

みのる:熟柿に吸いつきながら、まるで口づけのようだと思った。という軽い解釈で良いかと思います。柿を吸っているのも、口づけと思ったのも作者本人。柿の気持ちは登場してないと思います。でも、文法的に言うとやや無理がありますね。ひねって解釈したり、難しく考えないで、ごく素直に鑑賞する・・。というテーマでしたので、ひっかかりそうな難しい句が続きました。 ごめんなさい。何か裏がある・・・?というふうに句を鑑賞してはいけません。そういうふうに考えないと理解できない句を作ることもいけません。それは左脳俳句の世界です。俳句に限らず、詩は心に感じたことをことばにする・・ことなので作るのではなく、詠むのです。これを会得できないと、理論や知識に長けていても、本物の俳句は詠めません。合評の目的はそこにあります。 良い句を正しく鑑賞する訓練をすれば、必ず素敵な句が授かります。頑張りましょうね。さて、難解な句は一休みして、明日からは句意明快なのを選んでみました。だんだん楽しくなりますよ。

30 ドレッシング混らぬ朝の寒さかな

 ドレッシングまざらぬあさのさむさかな

初凪:これなら、私も感想が書けそうです。寒い時は私は、サラダをよくしますが。青畝先生は奥様のつぶやきを聞いたのでしょうか? 寒いが故にいつもの様に行かない厨事、家事たくさんありますね。ヒントを頂いた様な気がします。

ちやこ:ドレッシングが混ざらないなんてことで、朝の寒さを表現するなんてびっくりしました、でも言い得て妙。朝食にドレッシングを使うと言うことは、そしていつになく混ざらないということは、先生、毎朝洋食の朝御飯すなわちパン食でらしたのでしょうか。

敦風:ちやこさんの「ドレッシングが混ざらないなんてことで朝の寒さを表現するなんてびっくりしました、でも言い得て妙」に同感。こういうのを男の人が詠んでいるのがまた面白いですね。

蓬:句観賞というものは難しいものですね。短歌でも俳句でも意味がわからないから共感できないものが沢山あって、大雑把な私には難しい世界だと思っています。めげずに今日も・・。この句そのままの気持ちは何度も経験したような、そして一瞬で忘れてしまったような、その一瞬をおろそかにせずに捕まえていくことを教えていただいた句です。

たけし:英語のドレス(dress)から派生し、料理を飾り味を調えるという意味を持つドレッシングは、脇役ながら素材の味をぐんと引き立ててくれる、そんな存在に私はなりたい!。それにしてもドレッシングが混じりにくい温度って何度でしょう。10℃?15℃?そんな寒い家に私は住みたくない!ひょっとして、外気直結の食品庫から持ってきたドレッシングの状態を言ってるのかしら?。そう、私も夫婦2人だけの朝を連想します。

とろうち:朝から手作りのドレッシングをシャカシャカしているっていうのは、とてもゆったりとした朝食の風景ではありませんか。たしかに、あまり小さい子がいるような雰囲気ではありませんね。「あらあら、今朝はドレッシングがうまくいかないわ。やっぱり寒くなったのねぇ」「ん?そうか?まぁいいじゃないか。冬が近いってことだよ」「そうね。」なーんて感じかしら。私だったら「なんだよーちっとも混ざらんじゃないかーおのれぇぇぇ・・・シャカシャカシャカ・・・・」「朝から何をやってんだよー。急がなきゃ間にあわんじゃん」「そーはいうてもなぁ。こいつがなぁぁぁ」「・・・も、いい・・・」という具合になりそう。

ほとり:こんな若々しい印象の句を読まれるなんて、青畝先生にはしばしば裏切られます。油はある程度の暖かさがあってこそ溶けますから、なるほどこういうことがあるのでしょうね。ご自宅での朝食のようでもあり、句会で地方へ行かれたときのホテルの朝食のようでもあります。実に新鮮な句で大好きです。

みのる:今日の句は好評のようで青畝先生もお喜びでしょう。さて、「寒さ」は冬の季語。ここでは、「朝の寒さ」となっているので、これは、「朝寒」という晩秋の季語を踏まえた表現であることを見逃さないで欲しい。冬の寒さでドレッシングが混ざらないのはあたりまえ。そうではなくて、毎日の習慣の朝食の時に、ふと秋の深まりを感じた小さな驚き。客観写生に包み込まれた作者の主観を感じて欲しいのです。朝寒と言う季語を歳時記で調べてみると、この句の深さが更に理解できます。これが季語の働きなのです。朝食という説明は何処にもありませんが、食卓の上のトーストが見え、珈琲の香りが漂ってきますね。平明な表現の中に練達された省略の妙があることを学びましょう。 *昨日の説明について少し補足しておきます。俳句の鑑賞について、「必要以上に穿った裏読みをしてはいけない」と戒めているのであって、より深く鑑賞することは大切なことなのです。くれぐれも誤解のないように・・・また、恥ずかしいと思ってはいけません。最初はだれでも合格点は取れないのです。間違いを案じて ROMしているより、勇気を出して鑑賞し結果を復習するほうが、遙かに、血になり肉になります。こうもとれる、ああもとれる・・でも、違うかも知れない・・。こうゆう曖昧な鑑賞法では決して上達しません。結果を恐れず、自分はこう思う・・と、明快に意見を述べることが大切ですね。

31 身にぞ入む等身大のピエタかな

 みにぞしむとうしんだいのピエタかな

ほとり:青畝先生は実際にイタリアに行って、ミケランジェロのピエタ像の前に立たれたのだろうと思います。十字架から降ろされ、母マリアの膝の上に抱かれているイエス・キリストの亡骸。痛ましくて悲しい。神は人となってこの世に現れ、人類をその罪から救い出すために命を投げ出された。人間には想像もつかない神の愛の神秘を、クリスチャンでなくても、この作品を見た人は感じ取る、感じさせられる。「身にぞ入む」「等身大の」という簡潔な表現で、作品のもつ迫力と、それと対峙した先生の受けた感動が見事にとらえられていて素晴らしいです。

とろうち:ピエタと言えば真っ先に思い浮かべるのは、やはりミケランジェロのバチカンのピエタです。青畝氏はこの像をどう思われたのでしょうか。私はこの像に関してはほとりさんとは違う感慨を持ちます。神の愛ではなく、母親の愛情を感じるのです。自分の手を離れ、キリストとして自分の手の届かない世界に行ってしまった息子。そして苦難の人生を終え膝の上に横たわる我が子に対して「もう何も心配しなくていいの。お母さんがしっかりと抱いていてあげるから、安心しておやすみなさい」と言っているように思えてならないのです。膝の上にいるのはキリストではなく、我が子イエスであると・・・そんなふうに思ってこの句を読みました。

敦風:「ピエタ(pieta)」というのはイタリア語で、「悲哀」「嘆き」というような意味らしいですね。 「慈愛」だと書いてある本もあれば、「敬謙な哀悼」だと書いてある本もあります。「ピエタ像」は日本語では、たとえば「嘆きの聖母」「悲しみの聖母」という風に言われるようですね。これらは分かり易い翻訳でしょう。ただし、「ピエタ」と言うのは、ただ泣いて悲しむこと、 というよりは、もっと深い心の有り様を言っているようですね。ついでに言うと、「ピエタ」は、英語の pity と同根の言葉ですが、現在の英語の pityの方は、少し意味がずれているかも知れません。英語国民がピエタ像を pityと呼ぶのかどうか、ちょっと興味があります。句の鑑賞については、私はほとりさんやとろうちさんとほぼ同じです。青畝師は、当然宗教的な感慨も持たれたでしょうし、像の中にマリアの母としての姿をも見られたでしょう。私はそう感じます。私は、青畝師の心を表しているのは、「等身大の」という言葉だと思います。これは、見た目の大きさが等身大だと言っていますが、同時に(マリアが)生身の人間と同じ、という気持ちを言ったものではないでしょうか。宗教的な思いを持ちつつも、なおかつ生身の人間としての母親の愛情の姿を像の中に見る、そういう心情だと思います。ういう意味で、「等身大の」は絶妙の表現だとおもうのです。 「身にぞ入む等身大のピエタかな」。読者の方もまさに身に入む、そういう句なんだと思います。 最近、私は単純素朴に、母の愛は神の愛に近い、と思うようになりました。子を愛する母親の心は無私の愛ですから。

ほとり:とろうちさんや敦風さんの評を見て、確かにピエタはあの聖母マリア抜きに語ることはできないなと思いました。そして「等身大」とはこの場合、本当にすごい言葉ですね。二千年も前の出来事が今、ここに変わらずあるように感じます。

たけし:自分のお腹を痛めた子供に先立たれた母マリアの嘆き、喪失感、寂寥感、ピエタ像の前でそういうことを感じている師がいます。身にぞ入むという季語と最後のかな、からの鑑賞です。

みのる:青畝先生はカソリックの信者でした。ぼくはプロテスタントなので、よくわかりませんが、カソリックは聖母マリアも信仰の対象だと言うことです。みなさんが感じておられるように、「等身大の」という措辞がこの句の命ですね。・・・かな。というのは、・・・であることよ。・・・だなあ。というように文末にあって感動を表す詠嘆の用語ですね。広辞苑でピエタを検索すると、

 ピエタ【 PietCタリア】(「敬虔な心」「慈悲心」の意) 
 聖母マリアがキリストの死体を膝に抱いて嘆いている姿を表す絵画または彫刻。
  嘆きの聖母像。

とあります。ピエタ像は、ミケランジェロが4体造っていますが、バチカン サン・ピエトロ寺院のものが特に有名です。

ps 昨日のドレッシングの句のことですが、ドレッシングを造っているのではなくてピエトロのようなプラスチックの容器に入ったのがありますよね。サラダにかけるとき、酢と油が混じるようによく振るでしょう。そのときの感じを詠まれたと思います。

次郎:ミケランジェロは像のサイズ決定に際し、神の子であると共に聖母マリアの子でもあるキリストの人の子としての側面と、聖母マリアの人の母親としての悲しみを表現するため、ことさら生身の人間と同じサイズを選択したのだと思います。もし、あの像が今の2倍の大きさや半分だったらどうだろう。この句の作者はミケランジェロの狙いにきちんと反応していて流石と思います。私はといえば、マリア様の若く清らかな面影にばかり気を取られていた不信人者で、思ったより大きな像ではないなとは感じたものの「等身大」という発見からは程遠かった。

嘉一:みのるさんの導きでピエタ像をみました。私もプロテスタント教会に属していますのでマリアについての理解は聖母というイメージはありません。等身大の母子ですね。特に人の子イエスに感じ入ります。信仰の原点を見る思いです。

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 青畝俳句研究(10月)ワードファイル