( せんせきのやけてしゅういをかたらざる )
よし女:残暑厳しい季節。泉石も灼けきって、触るれば火傷しそうな気配。泉石が秋のこころを語らない、と擬人法で、残暑の厳しさを述べられたのだと思います。
更紗:この句はすごいですね。石、しかも泉の石が灼けてる、としたことで、暦上は秋でも、まだ秋になりきっていない微妙な時期を言い表しています。そして、「秋意を語らざる 」と言い切ったことで、『秋』とは何たるか、読み手の想像に委ねています。
みのる:一年間を目標に進めてきました、一日一句の合評も終章に近づきました。揚句は、卒業テストのようなつもりで揚げましたが、よし女さんが、みごと「残暑の句」として鑑賞してくださったのがとても嬉しいです。もし、「灼けて(夏の季語)」と「秋意」とで、季語が重なる・・という答えならば落第です。この句で詠まれている「泉石」は、山水の風情につくられた鑑賞庭園の景石などを連想すると、具体的な情景が見えてきます。言葉を表面的に鑑賞するのではなく、具体的な情景が思い浮かぶところまで掘り下げて感じ取る訓練が大切です。この訓練によって、句を詠むときにも具体的に写生することが意識できます。
( かなだらひころぶおときくのわきかな )
よし女:金盥の転がっていく音が鮮やかに聞こえます。私も、このような音に、あそこに置いていたのを仕舞い忘れた、と、夜の風雨の中を走り出て、片付けた覚えがあります。五感の中のことに聴覚が働いた句ですね。身近な句材なのに中々気付かないものです。野分と言う緊張感の中なのに、一句として読ませていただくと何か楽しい気持ちにもなってくるのが不思議です。
とろうち:金盥のカンカラカラ・・・という甲高い音が聞こえるようです。あ、しまった! あれを出しっぱなしだった! なんてこと、よくありますよね
みのる:「金盥ころぶ音」といわれたことで、昔懐かしい生活観を感じますね。下町の長屋の雰囲気にもとれます。「台風」や「木枯らし」でも同じ雰囲気かどうかをチェックしてみると、やっぱり「野分」の雰囲気がよく似合うことがわかります。なんでもないことを詠まれたようですが、季語のもつ本質をしっかり捉えた、見事な作品だと思います。「音する」ではなく「音聞く」とされたことも、十分に言葉を吟味されていることがわかります。「音する」だと報告調になりますが、「音聞く」によって、作者自身が見えてきて一人称の句になっていますね。おそらく推敲で直されたのだと思います
( あまもりもしづごころなるよながかな )
よし女:秋の長雨。秋霖の頃の雨でしょうか。ぽとんぽとんと雨漏りの音がやけに大きく響く夜長の季節。それを読書か、選句などをしながら静かな気持ちで聞いている。そんな句意に解釈しました。昔の家は風で瓦がずれたり、漆喰が剥げたりして、雨漏りがすることもありましたね。秋時雨であれば、晩秋の寒さを感じる心が言葉になるのでしょうか。
とろうち:雨漏りも最初に発見した時は大騒ぎです。それ何か水を受け止めるものはないか、なんやかや。でも毎度のことになると、それにも慣れてしまう。ぽとんぽとんと、一定のリズムで落ちる雨音を聞きながらも、心乱されることもなく、何かに没頭している夜であるよ、とそんなふうに解釈しました。
みのる:台風のような激しい雨ではなく、しとしとと降り続く秋の長雨の感じですね。古家では雨漏りも日常時なので特に大騒ぎすることもなく、あたかも BGMのような親しさで、秋の夜長を楽しんでいるのですね。「しずごころなる」という措辞は、作者のこころの安けさとともに、夜長の静けさの中に間断となくリズムを奏でるような、そんな雰囲気の雨漏りを連想させる言葉ですね。
( ひるもよもおなじしゅうとうはつでんしょ )
よし女:秋分の頃の24時間点っている発電所を詠ったものでしょうか。 昼も夜も・・同じ秋灯・・発電所。 昼も夜も同じ・・秋灯・・発電所。 前者は昼夜消えずに同じ灯が点っていると解釈でき、後者は季節の昼夜が同じ長さとも読み取れ、秋灯がどちらにも付くようで面白いと思いました。
みのる:一寸難しかったですか?お一人だけの鑑賞でさびしいですね。最近は原子力発電所が主力ですが、ダムの水を利用した水力発電所のように思います。水力発電所は、山深い奈落のような場所にあることが多く、日が射さないので、昼も小暗い感じがあります。「昼も夜も」になっているので、時間の経過を詠まれたように思いがちですが、そうではなくて、秋の昼間に訪ねられた発電所の雰囲気が、あたかも秋灯を点した夜のような錯覚を覚えられ、その感慨を一句にされたと、ぼくは思います。句意としては、「昼も夜と同じ秋灯」ということではないでしょうか。昼も夜も変わることなく点り続けているのだろうなぁ・・という灯火への親しみが、「昼も夜も」の措辞に隠されていると見ます。「春灯」では駄目なの? という疑問もありますが、昼夜休むことなく動いている発電所内を照らしている灯には、夜長の灯のイメージが似合うと思いませんか。
( おおぞらのきはみとあひしはなのかな )
遅足:木曽駒の千畳敷に行ってきました。もう秋でした。標高3000メートルに近いお花畑には、チシマギキョウなど秋の花が咲いていました。こういうのも花野というのでしょうか? 空は澄み切って、あくまでも青く、大空のきはみという言葉にぴったり。句は必ずしも山の情景を詠んだものではないと思いますが、澄んだ空の青さと、秋の花のもつ最終の美というイメージとが響きあった美しい句だと思います。
よし女:地平線と言うべきでしょうか、少し高手の場所からの眺望でしょう。大花野に立ったときに見渡す大空の果て。天高く澄み切った青空に、手を挙げているキスゲの鮮やかな黄色。そんなイメージになります。花野には、その他高原植物が多く咲いているのでしょう。大空の「きはみ」が巧みだと感じます。私などには、なかなか出ない言葉です
みのる:「合ひし」ではなく「会ひし」であることが鑑賞のポイントです。高原の花野を訪ねた作者自身が、素晴らしい秋晴れに恵まれ、まるで大空のきはみに出会ったようだという感動を詠まれたものだと思います。そのような天候に恵まれて花野自身も喜び輝き、創造主を賛美しているようだ・・というような感慨も隠されているかもしれませんね。「合ひし」ではないので、「大空の極み」と「花野の果て」とが接点のように合致している・・という意味ではないと思います。
( きんぱつのひかりをたゝへはなすすき )
よし女:すすきの穂先が太陽の光を受け、金色に輝いて揺れているのが、美しい金髪の輝きのようだという比喩なのでしょうか。秋の夕焼に輝いている、若いすすきの穂先。秋の大夕焼は、何もかも金色に染まったような錯覚を起こします
とろうち:晩秋のススキを白髪になぞらえたものはありますが、これはまだ中秋のすすきを金髪になぞらえたのですね。このころのすすきは本当にきれいです。
みのる:黄昏の陽に映えているすすきでしょうね。男のぼくは、美しい金髪の女性を連想します。とても、九十翁の作品とは思えない若々しさを感じます。私たちは、つい自らの環境(老い、不安、苦痛、苦難など)を悲観的に詠む傾向があります。けれども少なくとも自然と接するときは、少年少女、幼子のこころになって感動し、辛いことや悲しいことであっても希望的に詠むことが出来るように心がけたいですね。
「照れば金日かげれば銀すすきかな」作者は忘れましたが、こんな句があったのを思い出しました。この作品には、虚子先生のエピソードがあります。披講子が、「照れば金」「陽かげれば銀」「すすきかな」と読み上げたのを虚子先生が戒められ、「照れば金」「陽かげれば」「銀すすきかな」と詠むようにと注意されたのです。句会での披講はとても重要な役目ですから、たいてい経験のある人に託されますが、自分は初心者だから関係ないという気持ちで聞いていてはいけません。俳句は、文字(視覚)だけの文学ではなく、詠まれた響き(音律)ということも、大切な要素です。「平明でわかりやすい言葉を使え」という教えは、ことばの響きの大切さを説いているのですね。
( つゆのむしおほいなるものをまりにけり )
広辞苑→ま・る【放る】排泄(ハイセツ)する。大小便をする。ひる。参考 古語的な表現ですが広辞苑にも載っています。 俳句では、糞る(まる)、尿る(しとる)などと慣例的に使われる場合が多いですが、 こちらは、広辞苑や古語辞典には載ってなかったです。
遅足:美しいモノを鑑賞している時は、ウンコとは遠く離れた境地にいます。しかし、命とは決して、美しいばかりではない。そんな気持ちになる句です。よくよく考えれば、ウンコを穢れたモノと誰が決めたのでしょうか? 子供がウンコやオチンチンのことを指摘すると、大人は狼狽してしまいます。そんな時、この句を思い出して、一息入れて、答えを考えるといいのかも知れません。年をとると子供に戻るとか。こんな風に戻りたいな。
よし女:露の虫とあるので、叢に鳴いている虫に思いが跳びますが、露季の虫と考えると木の枝や葉に屯している虫や、野菜に付いている虫にも想像が広がります。いずれにしても、葉野菜に付いている糞で、その野菜がだめになるとか、地に落ちている糞で、この木に毛虫がついているとか判断して、消毒をしたり、殺虫剤を撒いたりします。それらの虫のまりは、体のわりによく目立つんです。「おほいなるもの」の表現によって、自然や、生きとし生ける物の旺盛さが想像できます。
みのる:露を抱いた葉っぱの上に、小さな昆虫を見つけられたのですね。露という言葉は、「露の世」などというような、はかなさを表す代名詞でもあります。この小さな虫も神様によって創造され、神様によって生かされている。そして、その短い生涯を閉じることもまた神のみこころである。眼前の事実を客観的に写生しただけの句のようですが、作者がこの小さな虫の営みを観察しながら、生命の尊厳を感じていることがよくわかりますね。
GHの提唱する客観写生は物足らない。もっと主情や心象を句に詠みこみたい。という声はよく聞こえてきます。でも、主情を直接的に詠むのではなく、客観写生によって主観を包み隠す。これが、青畝先生の説かれた客観写生の真理なのです。ぼくはこの先生の教えを心から信じているので、一人でも多くの方にそれを伝えたいと願っているのです。
( やつがたけこうげんやさいつゆのうみ )
こう:高原野菜の恩恵を一ヶ月も受けていましたのに、「露の海」とは!驚きました。見渡すばかりの高原野菜、早朝の露はまさに海のよう。トマトが色づくと猿が食べにくるんです・・と農業大学の学生さんが話してくれました。鹿・狐・狸もいるそうです。八ケ岳高原一帯の朝は、露の海の中です。素敵な句で、私の好きな一句になりました。
秀昭:小学生のころ、初夏に八ヶ岳高原でよくわらびやぜんまい、ふきなどをとりにいき、おかずの一品に加えました。いまでは、その多くが開墾されて一面のキャベツ畑に変身。早朝、露がおりてキャベツに水滴がびっしり。この水滴がやわらく、甘く、おいしくするそうです。ありがたーい露の海です。ここのキャベツの味は抜群です。愛情のこもった実にいい句だと思います。
きみこ:今日は、暦の上では白露、野の草花にも朝露をつける頃です。なのに火星の接近の影響か、残暑は厳しく、異変な気候が続いています。八ヶ岳の見渡すかぎりの、高原野菜畑は、みずみずしく露を置いていて、露の海のように見えたのでしょう。
よし女:気持ちの良い八ケ岳あたりの快適な空気、むしゃむしゃ食べたくなる美味しい野菜などが浮かび、健康的で、元気が出そうなお句ですね。
みのる:実際の光景を見たことはないので、みなさんの鑑賞を拝見しながら想像しています。「霧の海」という比喩は良く使われますが、「露の海」というのは新しい感覚だと思います。「露」の語によって、瑞々しさが感じられ、「海」の措辞によって広々と展けた高原の野菜畑の様子が具体的にわかります。じつはこの作品は、すべて体言で構成されています。くどくどと説明できない俳句の世界では、簡潔な言葉で、「ずばっ!」と言い切ることが大切です。
( むしのひによみたかぶりぬみみしひご )
よし女:虫の灯の季語が、鳴いている虫、灯に集まってくる虫等に想像を広げます。句の内容から、私などは、秋灯下、夜長の灯、灯下親しとかにしてしまいそうですが、「虫の灯」に新鮮さを感じました。また、耳しひ児と「児」によって句が優しくなり、その児は必然的に読むことに懸命になるのでしょう。小さい時から耳がご不自由だった青畝師の、原風景かとも思いました。
とろうち:灯りに虫が寄ってくる。でもそれにも気づかずに、一心に読書に耽る子供。もともと耳が聞こえない子なのでしょうけれど、たとえ聞こえていたとしても、何も耳にはいらないほど、読書に集中しているのでしょうね。
みのる:奈良県高市群高取町に阿波野青畝師の生家があります。そこのお庭に小さな古びた句碑があり、揚句が彫られています。先生は、幼いころの病気が原因で難聴になられ、補聴器を手放せない生活を余儀なくされておられました。そのために、進学もあきらめられたと聞いています。
耳しい児なのに虫のなく声が聞こえるの? というような野暮な詮索をする人もいるでしょうね。でも、蛍雪(蛍の光、窓の雪明り)という故事のことばがありますから、虫の灯というのも、虫の鳴きはじめるころの秋の灯火、つまり、灯火親しむ候の意と解するのが適切と思います。句全体からうける季感は「夜学」の雰囲気ですね。鑑賞は必ずしも青畝師の境涯と断定しなくても良いのですが、健常者とのハンデキャップがあるゆえに、ひたすら勉学への熱意を燃やしている、一少年のひたむきな姿を連想すると、胸が熱くなります。
( こほろぎやチャペルのうらにあるトイレ )
遅足:ある冬の日、城を訪れたました。あまり人の来ない小さな建物の裏木戸をくぐったら、御殿椿が咲いていました。雅なものなのに、訪れる者もいない。城の裏にひっそりと咲いているのも、なかなか風情があると思いました。この句は、もっとアンバランスな面白さが強く感じられます。聖なるチャペルのトイレで、清らかな声で鳴くこおろぎ。俳諧味のある句ですね。何歳になったら、こんな句が詠めるのかな?
一尾:チャペルにトイレがあっても不思議はないし、人の集まるところですからごく当たりまえです。でもなぜかこの対比が面白い。楚と不浄とのなかを取持つこおろぎの存在が詩的雰囲気をかもし出すのでしょう。とくに気に入ったのは裏にあるとしたところです。ちょうどそれぞれが三角形の各頂点の役割を果たし、上手くバランスのとれた正三角形のような句です。
よし女:トイレも、チャペルの裏にあるトイレということで、なにやら格が上がるようですね。そのあたりでこおろぎがしきりに鳴いている、静かな夜の風景が浮かび上がります。
みのる:何の詩情も無いただの報告の句・・と思われる方もいるでしょうね。確かに紙一重の作品だとぼくも思います。でも、こうした何でもない情景に心が動くか否かが、知性と感性との分岐点だと思うのです。「ただの報告」と思った人は、知性でこの句を鑑賞した人です。でも、この句に共感を覚えた人は、きっと詩人の素質があると思います。さてチャペルの裏というのは、本堂の裏に別棟で建てられたようなトイレ、山の中にあるようなグリーンチャペルで、しかも非水洗式のような連想が働かないでしょうか。自然界には、浄不浄の区別はありません。直射日光の差さない建物裏のトイレは、蟋蟀にはとても居心地のよい場所なので、ご機嫌で鳴いている様子が連想できます。「鳴く」とは言っていませんが、おそらくまず鳴き声を聞いて、蟋蟀のいることを発見されたのです。不浄の世界を、そう感じさせないで句に詠む。これらはとても俳諧味のあることで、そうした俳風を醸しだすのは、自然に対する愛の心だというのが、青畝先生の教えでした。
( みのむしのこやつははぎのはなごろも )
きみこ:蓑虫は、普通は木とか葉で身を包んでいてぶら下がっている。なんと、この蓑虫は、萩の花で身を包んでいることよ。もう冬の用意をしている蓑虫に目をとめられた師に花衣が可愛く写ったのでしょう。
とろうち:ふつう蓑虫はとても地味な虫です。ところがこやつは萩の花衣をまとっているでないか。ええ、生意気な。何をそんなに着飾って。少し伝法口調で読みたいような、そんな句ですね。 でも蓑虫への愛情はたしかに感じます。
よし女:この句も以前目にしたことがあり、此奴の言い方が面白いなと思いました。あらためて辞書を引いて見ると、此奴は古めかしい言い方だとありました。でも、とても斬新で、新鮮な感じがします。また、蓑虫に対する作者の親しみの心も覗えます。萩の花衣を纏った蓑虫にお目に懸りたいですね。
みのる:この句もまた俳諧的滑稽のある作品ですね。一匹の蓑虫をふと見ると地に落ちた萩の花くずを蓑につけている。その情景に風情を感じられたのです。「此奴は・・」の措辞は、庭の中にはあちこちに蓑虫がいて、その中の一匹という意味だと思いますが、侘びさびを心得たやつだなぁ・・と親しみをこめている感じもありますね。もちろん蓑虫自身が意識しているわけはありませんが、このように対象物に心を通わして、俳諧的滑稽を生み出すのが、作者の感性であり、個性であるといえます。
( いもむしとはなばさみとのであひかな )
きみこ:山椒の木に、緑色の頭に目も眉も口もあるような柄の大きな芋虫に出会ったことがある。一瞬、寒気が背を走った。でも良く見ると、とっても綺麗にデザインされていて興味をそそられました。句にする事は出来ませんでした。
とろうち:芋虫は触るのはちょっと、ですが見ているのはわりと好きです。昔、実家にゆずの木があったころ、黒揚羽の幼虫がたくさんいて、それを家人は「ゆずぼう」と呼んでいました。なんとなく大きくなるのを楽しみにしていたんですね。掲句は花を切っているときに、とつぜん芋虫にでくわしたのですね。当然、切っていたほうはびっくりしたでしょう。このあと、芋虫はどうなったのでしょうか。不気味さゆえ放っておかれたか、憐憫ゆえ捨て置かれたか。はたまた無惨にも靴の底で踏まれてしまったか・・・。そこは想像にまかせるしかないのですが、やはり芋虫へのあたたかいまなざしが感じられる句です。
羽合:芋虫は葉を食う。花鋏は花を切る。花にとってははなはだ迷惑な両者が出合っている。その妙な取り合わせも、実は自然で、ほほ笑ましくもある。醜いといわれ人に嫌われる芋虫と花との対比も感じるところがある。
よし女:花鋏に出会ってびっくりしている芋虫。その芋虫を見て悲鳴をあげている人間。ふっとおかしみを感じるお句ですね。優しくて、奥が深く好きな一句です。
みのる:庭花を剪ろうとして鋏を差し向けたら、不意に大きな芋虫を発見して驚いたのですね。芋虫の方もたじろいで一瞬身構えたかも知れません。作者を隠して、あたかも鋏と芋虫が出会ったという写生にされました。うまいですね。
( もつれそふはぎのこころをたづねけり )
よし女:秋風に吹かれて、もつれあっている萩の花。この花は秋を代表する花で、割と身近に目にすることが出来ますね。その花に秋の趣きを見てきたよ。との句意でしょうか。…・・私なら「もつれ合う」となりそうですが、「もつれ添ふ」の表現が萩の花の特徴をよく現していると思いました。
とろうち:よし女さんのコメントを読むまで、無意識に「もつれあふ」と読んでいたようです。もつれて風に揺れる萩の花の心はどのようであろうか。私には少し難しい句です。
一尾:萩は道にはみ出し人の行き手を阻むことがちょいちょいあります。「どうしてそんなにからみ合い離れずに居るのかい。一枝ひと枝ごとも結構美しいのに」と萩に思いを寄せる一方、「それにしても萩の心は分からない」と嘆かれてもいるのでしょう。もつれにしつこさ、添ふには相手を思いやる優しさを感じます。「もつれ添ふ」は萩の風情を表現してピッタリです。
みのる:青畝先生ご健在のころのご自宅(兵庫県西宮市甲子園)は、「かつらぎ庵」と呼ばれて、多くの弟子に親しまれました。広いお庭には、たくさん萩が植えられ盛りのころはみごとだったそうです。先生は、ご自身を「萩大名」と呼んで、このお庭で数々の萩の句を読んでおられます。
揚句は必ずしも「かつらぎ庵」と限定して鑑賞する必要はありませんが、このような背景があるだけに、先生には人一倍、萩に対する愛着がおありになったと思います。盛りの萩の諸枝は、風に吹かれてさまざまな動きをします。大揺れするもの、小さくうなづくもの、ときにはのけぞるもの・・そのように互いに縺れてはほぐれる様子をご覧になりながら、心をあそばせておられるのです。この場合の、「たづねけり」は、温故知新の「温ねけり」でしょうね。
( けふのつきながいすすきをいけにけり )
きみこ:九月のお月見のときは、すすきの穂がまだ出てないときが多いが、今年は沢山出ていましたので、すすきを活ける事が出来ました。里では、庭の床机にお団子と、すすき、萩、いろんな花を壜に差し、お祭りをしました。その日、お祭りしたお団子は、誰が取って食べても、誰にもとがめられる事がないと言う風習が有りました。
とろうち:すすきは長く切って活けるものです。我が家でも、娘とおおばばさまがススキを取ってきて活けましたが、娘がジョッキンジョッキン切ってしまうので、だめだよ!と言いながらつぼに活け込みました。「長いすすき」まさにそのとおり。あとはまんまるお月様を待つばかり。わかりやすい、いい句だと思います。
よし女:お月さま、長いすすき、高く積み上げたおだんご。よく目にするお月見の絵が浮かびます。長いすすきが最もその特徴を現していて、そのままが一句になっているのが面白く思います。
みのる:今日の月長いすすきを活けにけり 理屈無用、説明不要の句ですね。月とすすきとで厳密には季重なりですが、同季の場合は比較的許容されます。但し、どちらかが主季語、他方が従の季語として明確にわかるように詠むことが大事です。「月のすすき」、「萩の月」など、合成された季語として鑑賞します。虚子の作品だと記憶しているのですが、次のような句があります。
月光に濡れたすすきを剪って、新聞に包んでもって帰ってきたのですね。
( いざよひのきのふともなくてらしけり )
よし女:昨日の十五夜の月は美しかった。しかし、それはそれとして、今日の十六夜の月もまた、格別に美しく照らしているよ。そんな句意に受け取りました。「きのうともなく」の解釈を言葉として表現すのは難しいですね。
とろうち:たぶんよし女さんのコメントのとおりだと思います。「きのふともなく」が分かるようで分からず、書き込みをためらっていました。いざよひ、という語感はとても素敵です。
光晴:きのうの満月ではないのだけれどすばらしい。と解釈しましたが理屈になるのかな。難しいですね。
きみこ:昔の人は、月にいろんな名前を付けて、楽しんでいたのですね。「きのうともなく」という言葉がこの句を引き締めていると思います。昨日も今日も、月の輝きに、たいして変わりなく煌々と照らしていて美しい。
みのる:御句は青畝先生の代表作のひとつで、兵庫県西脇市にある「西林寺」境内に句碑が建っています。肉眼で十五夜と十六夜とを区別するのは難しいですが、とうぜん作者は十六夜とわかっていて仰いでいるわけです。昨夜は仲間たちと、あるいは家族たちと一緒ににぎやかに望の月を愛でた。きょうは、静かにひとりで十六夜の月を仰いでいる。瞬間写生ですが、作者の主観のなかに昨夜の余韻が残っていることがわかります。
( おほいなるはりとおもへずきりのうみ )
とろうち:これは、やはり海を実際に見ないとわからない句ではないでしょうか。海全体に霧がかかって、もやっているのでしょうか。いつもならガラスのように輝いている海が、一切の光を失っている。少し高台から見下ろしている風景かなと思いました。
よし女:この句は、解釈に苦しみました。露の海の言葉があるように、目の前の景色が霧に包まれて海のようだ。ガラス越しに見ている景がそのようだ。つまり、海辺の句とは思いませんでした。とろうちさんの解釈を読ませて頂いて、なるほど、そういう解釈もあるなと思いました
光晴:やはりガラス窓越しに霧を見ているのではないでしょうか?その霧に自分が引き込まれるようで、外にいるようだと。軽井沢の借り別荘でそんな経験がありました。もちろん俳句を知る前のことですが、単に驚きました。
みのる:避暑ホテルなどの展望ロビーを連想します。天候がよければ大いなるはりの向こうには絶景が展けているのでしょう。ところが、今日はあいにく一面霧の海と化して何も見えないのです。大海原を霧が被っている・・という意ではないと思います。玻璃の存在を意識させないほどのスケールで霧の海が見えているのですね。
( とんぼのるてんちむようののはこのはし )
とろうち:どこかに置いてある段ボールの箱の角に、とんぼがすいっと来て止まった。箱の上には赤文字ででかでかと「天地無用!!」と書いてある。もちろん逆さま厳禁の意味の天地無用なのだけれども、まさに天地を自由に泳ぎ回るとんぼに「天地無用」とはミスマッチな。なんとなく、くすっと笑える俳諧味豊かな句だと思います。
よし女:とんぼ止まるでなく「とんぼ乗る」が、なかなか出てこない言葉だと思います。天地無用の函の端にとんぼが乗っている、という景色がとても面白いです。
光晴:すばらしい写生。天地無用の函がやたらと秋を増幅させます
みのる:天地無用と書かれたダンボールの箱の端っこに、一匹のとんぼが乗かっているといます。 整然と積まれたものではなく、どうやら、空のダンボール箱が不安定な形で高積みされていて、箱の角が尖がったような形になっているような気がします。とんぼは、枝先とか竿先とか尖がったところに良く停まりますよね。とんぼや蝶は、一時的にとまるときと、落ち着いてしばらく停まるときでは羽使いが異なります。ちょっととまるとだけのときは羽は水平もしくは上方へ反っています。しかし、外敵もないし、安心できると思ったら、水平から少し下方へ羽を折って休みます。そういうことも考えて、もう一度この句を鑑賞してみてください。不安定に積まれた箱と、れにピタッと停まって安定しているとんぼの姿は対照的ですね。とんぼの習性を的確に捉えているので、共感を覚えるのです。
( らくせきのとどまらざりしきりこだま )
とろうち:深い谷、断崖絶壁のような場所で、落石の音がする。谷は霧で覆われていて、どこでその音がしているのか定かではないのだけれども、岩にぶつかる石の音があたりに谺している。いつまでもいつまでも。そしてその音が消えないうちにまた、あらたな落石の音が響いてくる。 秋も晩秋に近い、そんな谷を想像しました。
光晴:落石のこだまも寂しさの募る秋を感じさせます。深い谷を想像させる谺の字を選んでいるのが心憎いですね
みのる:秋の驟雨のころは湿度も高くなるので、渓谷は霧が発生しやすいです。そして長雨で軟弱になった山肌は地盤が緩み土砂なだれをおこすのですね。霧の帷(とばり)の奥から、その落石の音が繰り返しこだまして聞こえてくる。大自然の摂理に尊厳を感じつつ、黙ってその音を聞いている作者の姿が見えます。
( かしらみぎかしらひだりとあなまどひ )
よし女:穴惑の特徴が実によく捉えられていると思います。一読してふっと笑い出しそうになり、そして、なーるほどと思いました。
一尾:ここまで蛇を観察したことはありません。一瞬驚き、追い払うように見送ってしまいますから。かしら右に、号令一下の敬礼を思い浮かべました。かま首を右に左にあたりの様子を窺う用心深い蛇の仕種は、これからしばらくお別れと挨拶のようです。
きみこ:くねくねと這い皆から嫌われている蛇にも師の愛情溢れた句。じっと観察されていて見事な写生の句ですね。
とろうち:鎌首をもたげて右を見、左を見ている蛇でしょうか。あまり蛇を実際に見る機会はありませんが、先日、庭で蛇を見ました。おお、これが穴惑いだな!とちょっと感激。
みのる:蛇が冬眠のために穴に入るころになると、俊敏な動きが出来ないのですね。やや理屈・説明がかった感じがしないでもないですが、ちょっと小首をもたげた蛇がためらっている様子がよくわかって、滑稽味があります。
( へこみたるわらやのうへのかりのそら )
よし女:藁屋は懐かしいですね。このごろ余り目にしなくなりましたが、この屋根も古くなると、ところどころが凹んできて、新藁で葺き替えなければなりません。その屋根の上の空は雁が渡って来る頃の季節なのです。雁の空と凹んだ藁屋との対比が、秋の寂しさや愁いをよく現していると思います。
とろうち:これも、実際にはお目に掛かったことのない風景なのですが、よし女さんのコメントでよく分かりました。雁の空というのは動かないのですね。
一尾:住む人なき廃屋、いずれは朽ち果ててしまう藁屋根の家。その上空をちょうど今雁が渡っていく。果てるもの新しくやってくるもの、新旧交代の時期、まさに秋です。ふと浮んだのが国定忠治の子分のひと節です。「そういや何だか嫌に寂しい気がしやすぜ。あぁ、雁が鳴いて南の空へ飛んでいかあ」
みのる:過疎で使われなくなった藁屋根が痛んで凹んだままになっているんでしょう。畑の中にぽつんとあるような古びた農具小屋かもしれないですね。どちらにしても、広々とした田園のなかにポツンと藁屋があって、その空の上を雁が棹をつくって翔んでいくのです。とても叙情的な景色ですね。近江の堅田あたりの夕景色を連想します。
( しほのごとあぶらをたらすさんまかな )
更紗:今年の秋刀魚、いただきました!今年は例年より脂が乗っていてとてもおいしいです。しかも、お値段もお手ごろで、主婦にはうれしい限りです。さて、掲句は「汐のごと」の例えがきいてます。秋刀魚、脂、汐…余分な言葉を排除することで、読み手の経験による視覚、嗅覚に訴えています。今にも脂の落ちそうな音が聞こえてきそうです。
きみこ:今年の秋刀魚は脂が乗っていて、とっても美味しいです。昔はカンテキで団扇を扇ぎながら焼きました。脂が下に落ちボオッと炎が上がりました。さんまの焼ける匂い、ジュゥジュゥと音まで聞こえてきそうな句です。
とろうち:汐というのは、鯨のように吹き上げるものを想像したので、ちょっと意外でした。一読して、とてもおいしそうな秋刀魚が目に浮かびます。みなさんと同じく、私も今年は秋刀魚をおいしく頂いています。
よし女:海から引き上げたとき、魚が汐を垂らすそのままのように、脂をたらす秋刀魚。炎をあげて焼かれている秋刀魚が浮かびます。句から匂いが漂っているようです。潮と汐の違いが、何となく解ったようで、解らないですね。
みのる:この句は、まさに「コロンブスの卵」の譬えにぴったりです。「汐のごと」の措辞がこの句の命ですが、凡人には出てこない言葉ですね。素晴らしい感性だと思います。脱帽ものですね。
( いわしぐもよりおりてきしきをおりぬ )
遅足:最初に読んだ時は、なんの印象も残りませんでした。降りるという言葉の繰り返しが、あまりよくないと思いました。三度目くらいにおやっと思いました。繰り返しに作者の気持ちが表れているように感じました。天国というか、天上世界から地上世界に降りる。そういう不思議な体験に感動し、ありのままに詠んだ句かなと思いました。空を飛ぶなんて当たり前と思っていますが、とんでもないコトですよね。
よし女:乗っている飛行機が高度を下げ、一面の鰯雲の中から降りてきた。その止った機内から地上に降り立った。「降りる」のリフレインが句の調べをリズミカルにしていると思います。長いフライトからの開放感も覗え、面白いお句ですね。
こう:面白い句ですねぇ。一面の鰯雲を降りる機、その機から降りた。まさに、天上から現実へ、そんなえもいわれぬ感覚が伝わります。これは、「鰯雲」じゃなければ駄目ですね。印象の強い佳句だと思いました。
とろうち:タラップを降りて、ふと見上げた空に一面のいわし雲。ああ、あの空から降りてきたんだ。機内から見えた雲はこの雲だったんだ。そんな気持ちになったのかなと思いました。空を飛んでいても、機内は密閉空間。そこから解放されて美しい秋の空の下に降り立つ爽快感。そんなものを感じました。
みのる:句意は明快ですが、「機」という一文字で、飛行機だと断定するのはいかがなものか・・ という論者もいるでしょうね。飛機(飛行機)とか、飛行雲(飛行機雲)とか言うのも、俳句でのみ許される用法、用語かもしれません。言葉や文字だけで正否を論じると確かにそのとおりです。テレビや新聞でも、昨今の若者言葉の是非について論じられています。変則的な言葉、文法的には誤った言葉であっても、生活の中で慣用され、市民権を得てしまうと、抵抗なく受け入れてしまうということもあります。「機上の人となる」「機上人」などは、広辞苑にも載っていますし、まさしく市民権を得た言葉です。 では俳句の場合、どこまでこのような造語、変則語が許されるのでしょうか。ぼくは、言葉のみを取り上げて論じるのではなく一句全体の表現を通して、つまり前後の言葉で「それ」と連想できれば、問題ないと考えています。あくまで、「みのる論」ですが・・・
( ねこじゃらしせいいっぱいになびきけり )
きみこ:長く延びた猫じゃやらしの穂が、涼しげな秋の風に左右、斜めになびいている。「精いっぱいに」が擬人化されていてまるで、猫じゃらし自身が動いて、生きているかのように見えてくる。
よし女:猫じゃらしって、風に吹かれるとちぎれんばかりに精一杯に靡き、本当にこのお句のような様子になりますね。それでいて、なかなか折れない腰の強さ。猫じゃらしの様子がよく活写されていると感心しました。生きている猫の生態にも通じるところがありますね。
とろうち:なんか、とても素直と言いますか、どこにも衒いのない句ですよね。こう言ってはなんですが素人の方の句みたいに感じます。でも、これが俳句の基本なんでしょう。休耕田のような広々とした場所にいっぱいにある猫じゃらしが、吹き抜ける風に倒れんばかりになびいている光景が浮かびます。
みのる:そよそよという感じではなく、時折強く吹く秋風に耐えながら、打ちふす寸前まで深々となびいている猫じゃらしの写生ですね。草に魂があるがごとくに写生されているところに、青畝先生のやさしさ、愛の心を感じます。
( みずすみてきんかくのきんさしにけり )
江斗奈: 十五年程前の今頃、金閣寺をゆっくりと拝観しました。その時の景色がこの句によみがえりました。「さしにけり」は金が光にまばゆく映えている様子なのですね。
よし女:女性が化粧の紅をさしたように、澄んだ水の中に金閣寺の金色がさしこんでいる様子を詠まれたのでしょうか。 静かで美しい風景ですね。
きみこ:眩いばかりの金閣寺が水面に写っていて両方で輝いて見える。「水澄みて」の季語がよく効いていて好きな句です。
とろうち:金閣に行ったのなんて修学旅行の時ですよ。いったい何年前でしょ。水面に金閣が映り輝いている光景でしょうか。それと一緒に、水面の光が金閣の金を照らしているという意味もあるのでしょうか。秋ならではの句ですね。
みのる:鏡のように澄みわたった池の面に、金閣寺の建物の影が金色に映っているのです。あたりの緑は薄もみじし始めていて、落ち着いた雰囲気を醸しています。見たまま、感じたままの写生句ですが、とても格調高く美しい句ですね。理屈の働く余地の無い、このような自然写生句にぼくは魅力を感じます。
( われもこうはづみてきりのしづまらず )
秀昭:高原の深い霧の中で、吾亦紅の赤い玉の実が撥ねて霧を乱してしまった。吾亦紅と霧と季語が二つあるが、主役は吾亦紅。吾亦紅に霧を与えることによってロマンチックなものに変身。いつもながら繊細な句。感心いたしました。
きみこ:最近、長野の戸隠の方面に行ってきました。このような、情景を見てきました。静かな朝に、野のものを揺らし過ぎる白い霧が、静かに流れ、吾亦紅は揺れていました。白と紅とのコントラストを上手に句に読まれています。
こう:高原の秋は早く、吾亦紅は八月には咲き出します。このような光景はよく目にしますが、一瞬の動きを、切り取って余韻のある句にされ驚きます。湖の多い信州の高原は、霧が多いです。吾亦紅がたくさん咲いています。霧の流れで動くのです。「霧のしづまらず」が素敵です。
よし女:秋の草花で吾亦紅は大好きなものの一つです。でも当地では簡単に目にすることができません。霧の流れによって動くことなど知りませんでした。一度見たいものですね。掲句によって美しい景が想像でき、好きな一句になりました。
とろうち:吾亦紅は庭にありますが、霧の動きで揺れ動くとは知りませんでした。「揺れる」ではなく「はづむ」という言い方ですが、右に左に、もしくは上に下にと動くのでしょうか。吾亦紅の赤い、丸い玉のような花が、霧の中でぽんぽんと鞠のようにはずむように揺れている。霧が吾亦紅を揺らしているのか、吾亦紅が霧を動かすのか。モノトーンの中の紅の色、音のない風景。美しい句ですね。
みのる:走るように流れていく霧に打たれて、吾亦紅の赤い実(花?)が揺れやまないのです。 確かに、霧の白さと吾亦紅とのコントラストの妙もあります。でも、吾亦紅はどちらかといえば茶褐色で、紅いとはいえないですね。田舎道や案内地図にも載っていないような小径の散策路に吾亦紅をみつけると、珍しい人に偶然めぐり合ったような、そんな気がします。余談ですが、ぼくの友達の俳人に次のような作品があります。
吾亦紅を見るたびにこの名句を思い出します。まさしくそんな感じなんですよね。
( きりぎしにいちわたしありかりのあき )
よし女:断崖の少しの平地が、渡し場となっている場所に、ぽつんと繋がれている一渡舟。渓間の流れを横切って往復する舟でしょうか。今の季節、水は澄んでいて、利用する人影もない雁の秋。イメージを膨らますのに、手間がかかりましたが、秋のわびしさを思いました。字面から硬い感じでしたが、「きりぎし」「わたし」と読むと軟らかくなりますね。こういうことも、俳句独特の文学性なのでしょうか。
とろうち:日本画や山水画のような風景ですね。水に浮かぶ渡し船。そのすぐわきに屹立する断崖絶壁、おそらく紅葉も始まっているでしょう。そして青い空の高みには雁の群れ。視線がぐうっと縦長に展開され、秋の澄んだ、やや冷たい空気まで感じ取ることができます。
みのる:「きりぎし」と読むのか、あるいは「だんがい」なのかは、青畝師に聞いてみないとわかりません。断崖は、「きりぎし」と同意ですが、厳密にはそうは読めないはずです。「渡舟」は「わたし」と読めますし、俳句では通常こちらの読み方をします。「渡船」ではないので、小型の手漕ぎ舟の感じですね。中国の桂林あたりの写生句かと思います。
( こひつほしふでげいとうをみてをれば )
幸太郎:湖の蒼さと鶏頭の赤がとても印象的なコントラストを与えています。鶏頭を見つめていると、忽然と彼方に湖に大きく包まれる。筆に染みる濃紅が湖に滲んでいくような、そんな衝動をかられる、まさに鮮やかな色と心理の葛藤がちらりとよぎります。
とろうち:湖筆とはなんぞや? で、しょっぱなからつっかえてしまいました。筆鶏頭というのは頭の尖った、筆の形のような鶏頭のことでしょうか?鮮やかな紅の筆のような鶏頭を見ていると、湖の青を写したような筆も欲しい。そんな感じですか?だめだ〜〜〜!! 誰か教えてほしいです。
光晴:湖筆とは何でしょうね。筆鶏頭を赤を描く筆と見れば、秋だし深い碧の湖を描く青用の筆も欲しいと感じたのではないでしょうか。
よし女:このお句は難しいですね。何回読み返しても、皆さんのコメントを読んでも、いまひとつはっきりしません。辞書を引っ張っても出ていないし、コーサーンです。
こう:はっきりと言い切れないのですが、湖筆とは大津あたりで作られる筆ではないでしょうか。私は、熊野筆を愛用していますが、旅先の土産にと、娘が買ってきてくれた、大津の筆が大変によい筆で印象に残っています。筆鶏頭を見ていて、「ああ、あの書きよい湖筆があったらなぁ」と思わず出た一句ではないかと詠みました。
追記・・持っている筆を調べましたら、中国で買ってきた筆に、揚州湖筆・上品湖筆・杭州湖筆・ などとありました。青畝師の湖筆とは、唐筆のことと思われます。筆鶏頭の形から湖筆が欲しいの言葉に託した、中国への想いを詠われたのではないでしょうか。
よし女:こうさんのコメントで解るような気がしてきました。筆鶏頭は腰がなくなって、穂先が鶏頭の花のように、広がっている筆なのですね。よい勉強になりました。
みのる:書道に詳しい、きみこさんの鑑賞がほしかったですね。筆は筆の製作に用いられている毛によって違います。紫豪(兎の毛)、狼豪(イタチの毛)、羊豪(羊の毛)、鼠豪(鼠の毛)などの種類があるそうですが、浙江省湖州市の筆は中国一で湖筆と呼ばれています。
?? という言葉にぶつかった時は、優秀な検索サイト、「Google」で検索してみることをお勧めします。結構わかるものですよ。筆鶏頭を見て、湖筆にまで連想が飛躍するのには驚きです。かなりの時間をかけて対象物に心をあそばせた結果で、パッと見てパッと生れるような句ではないですね。時間をかけて対象物を見なさいというのは、対象物の変化などにも注意しながら、あれこれと思いをめぐらせて心を遊ばせるということです。
( きりにうくせんぼんすぎのにさんぼん )
幸太郎:山から見下ろすと霧が一面にかかっている様子が眼前に浮かび上がります。そしてズーム・アップして幹も枝も鮮明に杉の形が現れてくる。遠近感と立体感に溢れた景に圧倒されます。全体と部分の対比が効果的です。森を見て木を見ることを忘れていることに気がつきます。足元からよく見ることを教えられます。教条的な見方は私の主観的な思い入れのためでしょうか。
きみこ:幻想的な絵画を見ているような句です。一面の霧に大きな杉の木が頭を出していて 霧の海に浮いている様に見え、小鳥の鳴き声も聞こえてきそうです。
とろうち:千本の杉と呼ばれるほどの杉の森。けれどあまりの霧の深さに、手前の二三本しか、その姿を見ることができない。残りが霧の海の中に沈んでいるというより、霧の海からやっと二三本だけ浮いているという感じなのでしょうか。霧は動いていきますから、その向こうにあるものは、たしかに浮くとか沈むという言い方がぴったりしますね。これもモノトーンの静かな句ですね。
光晴:素晴らしい景ですね。この景はカメラでカラーで撮るとまず、つまらない写真になるでしょう。俳句か日本画の岩絵具でしか表せないと思います。この四、五日日の掲出句は日本画を見ているようです。自分の句に反映させたいと思います。
よし女:少し高手からの景でしょうか。深い霧の中で千本杉の中の二三本だけ、まるで浮いているように見えるのですね。美しいお句です。
みのる:千本杉は厳密に千本の杉があるという意味ではなく、ある程度たくさんの集団になった杉の森があるということでしょう。洛北の北山のように植林された山であることも連想できます。 その美しい杉美林が一面の霧の海に沈んでしまったのですが、その中で特に秀でた二三本の高木の天辺部分だけが、霧の中から抽んでているように見えているのです。「霧に浮く」の措辞によって、その様子が具体的に連想できますね。的確に言葉を使う。そのために推敲に推敲を重ねることが、上級者のテクニックです。
( どうろきょうなみだながすはきりしぐれ )
よし女:道路鏡が涙を流すとは面白い表現ですね。霧しぐれで、その役目を果たしにくい道路鏡も気温の上昇で少し見えるようになったのでしょう。記憶に残る一句です。
きみこ:道路鏡は、道を通るものとか景色を映すものという観念がある。それを師は泣かせてしまった。私ごとですが、鏡を見た時、何も見えない状態だったら何も感じなく、素通りしてしまったことでしょう。
とろうち:霧の中で、鏡面についた水滴がだんだん大きくなって流れ出す。それを涙にみたてたのですね。とても私には思いもつかない見立てです。
みのる:道路鏡涙ながすは霧しぐれ 道路鏡の凸面に結露した霧しずくが、涙のように流れているのです。「霧しぐれ」なので霧が雨まじりに打ちつけているのです。「霧しぐれ涙を流す道路鏡」でも意味は同じですが、報告調ですね。手厳しい言い方になりますが、この違いが納得できるレベルまで精進してほしいです。
( いちらかんつるべおとしのひをわらふ )
きみこ:秋の夕暮れは早い、太陽が沈むともう辺りは真っ暗になる。羅漢の微笑んだ顔も夕暮れと共に一日が終ろうとしている。「つるべおとしの日を笑ふ」の所上手に表現されていて、興味深い句です。
よし女:いつも同じ表情の羅漢でもこのように表現されると、生き生きしてきますね。つるべおとしの日のころは何か物寂しいものですが、羅漢の笑いによって、静けさと、その回りの雰囲気の、凄さみたいなものも感じます。
こう:一羅漢が利いています。成る程このようにして句を作るのか・・と思わされました。つるべおとしの日を笑う羅漢。お手本にしたい一句に出会い嬉しいです。
秀昭:客観写生の極致でしょうか。素晴らしい一句です。
みのる:秋の落暉(らっき)に照らされて、羅漢の顔が笑っているように見えたのです。じつに俳諧的な感性だと思います。青畝先生は、「つるべおとし」だけでは季語として希薄なので、基本的には、「つるべおとしの日」とするように諭されました。安易に「一羅漢つるべおとしに笑ひけり」としてはいけないということですね。 先生の句に、「海の日のつるべおとしや親不知」というのもあります。ことばの魔術師と呼ばれる青畝先生ですが、決して妥協を許さない真摯なことば使いは、心して継承していきたいです。
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